長生きも芸のうち日記:万葉故地
2015-02-04T18:14:21+09:00
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天王寺公園
Excite Blog
明日香探訪(2015-01-24)⑥明日香村埋蔵文化財展示室見学・・・終
http://barakan1.exblog.jp/20846020/
2015-02-04T18:13:18+09:00
2015-02-04T18:14:21+09:00
2015-02-04T18:14:21+09:00
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万葉故地
(甘樫丘北東100m 「あすか夢の楽市」すぐ隣)
明日香村による発掘の数々を紹介する展示室。小さな展示室だが、出土品は飛鳥の息吹をいまに伝えるものばかり。
また旧飛鳥小学校の木造校舎を利用しており、レトロな味わいのある建物も魅力的。主な展示品は明日香村内出土遺物、キトラ古墳石室模型の展示のほか、文化財課による最新の発掘情報や成果など。 すぐ南には水落遺跡がある。ー明日香ナビーより
●持統天皇行幸風景『再現) 上山好康氏撮影
◆利用時間: 午前9時から午後5時まで
◆休日: 年末年始
◆入場料 : 無料
★(*^_^*)写真クリック 大きくなります 今回はこれで終了です。]]>
明日香探訪(2015-01-24)⑤飛鳥坐(あすかにいます)神社・・・
http://barakan1.exblog.jp/20841913/
2015-02-03T20:15:00+09:00
2015-02-03T20:21:08+09:00
2015-02-03T20:16:02+09:00
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万葉故地
御祭神
事代主神 高皇産靈神 飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂) 大物主神
●神社正面・鳥居と飛鳥井
境内 摂社 式内社
摂社 飛鳥山口神社 大山津見乃神 久久乃知之神 猿田比古神
●力石・マラ石
◆◆国のまほろば大和の国に古代より皇室の守護神と して鎮まります当神社の主神、事代主神は恵美須神 の御名で世に広く知られております。大国主神の第 一子で父神とともに力を合わせ、この国土を拓き民 の衣、食、住は勿論、その他万物の生きるための基 礎作りをされた大神であります。
●万葉歌碑
雑歌(くさぐさのうた)
巻13-3222
三諸(みもろ)は 人の守(も)る山 本辺(もとへ)は 馬酔木(あしび)花咲き
末辺(すゑへ)は 椿花咲く うらぐはし山そ 泣く子守る山
巻13-3229
斎串(いくし)立て神酒(みわ)据ゑまつる神主(かむぬし)の髻華(うず)の山影見ればともしも
壬申(みづのえさる)の年の乱(みだれ)、平定(たひ)らぎし以後(のち)の歌
巻19-4260
皇(おほきみ)は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
右の一首は、大将軍(おほきいくさのきみ)贈右大臣(おひてたまへるみぎのおほまへつきみ) 大伴の卿の作みたまふ。
古典によりますと、神代の昔皇祖天照大神が皇国 の基を定めようとされ、大国主神のもとに国土を天 の神に奉るよう御使を遣わされました。大国主神は その事を事代主神に相談され、そのすすめによって 国土を捧げられました。そうして大国主神は、わが 子事代主神を数多くの神々の先頭に立たせ皇祖に仕 えさせたならぱ、皇祖の国づくりに逆らう神は無い であろうと、皇室の近き守護神として事代主神とそ の娘神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈留美神)の神 霊を奉斎なされたのが当神社の創建であって、実に 神代から続いている大社であります。
●神社拝殿
前述のごとく、この飛鳥の地に永く郡のあったことと神代に当社がこの地に創建されたとする伝承とは決 して偶然ではなく、すでに神代の昔から大和の国は将来都と定めるべき美地なることを父神の大国主神は予 知されていたのであります。以来事代主神、飛鳥神奈備三日女神を始め四柱の神々は協力して皇室の守護を はじめ、日本人に生活のあるべき道を教え、農業、工業、商業など、産業振輿の神として、その由緒の顕著 なことは多くの古書に記述されているところであります。特に子宝、緑結ぴ、厄除、治病、製薬、交通安全、 商売繁昌、家内安全、夫婦和合等、専ら国利民福の増進を図られ、その御神徳は著しいものであります。
●境内各社
●参道石段より雷丘を望む
当社は、天武天皇朱鳥元年七月に天皇の御病気の平癒を祈る奉幣があったことにも示されるように、皇室 の近き守り神として奉祀され、天長六年に神託により神奈備山より現今の鳥形山へ遷祀されました。延喜式 によれば名神大社に列し、祈年、月次、相嘗、新嘗、祈雨等の奉幣に預かり、祈年祭には特に馬一匹を加え られました。正平元年八月後村上天皇より金五十枚を賜わり中ノ社が再建されております。このように朝廷 でも一般でも広く尊崇せられたことが察せられます。
●境内各社
降って寛永十七年(一六四○)に植村家政が高取城主として封ぜられると、当社がその城の鬼門にあたる ため、特に深く信仰されました。元緑頃には境内に末社五十余社が存したが、享保十年(一七二五)に本社、 末社ともに火災に会い、社殿の大部分が焼失したので、安永十年(一七八一)城主植村出羽守家利が再建し、 天明元年(一七八一)正遷宮が行なわれました。これが現存の社殿であります。このように古代から数々の 変遷を経て今に至っています。
●境内各社
※相嘗祭……朝廷の特別に尊崇された大社に新米を奉られる祭である。名神社三、一三二座中僅に七一座に 限られている。
-由緒書きより-
★2004年の飛鳥坐神社
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明日香探訪(2015-01-24)④大原神社~藤原夫人の墓・・・
http://barakan1.exblog.jp/20836389/
2015-02-02T15:56:22+09:00
2015-02-02T15:56:03+09:00
2015-02-02T15:56:03+09:00
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万葉故地
藤原夫人の墓前より、藤原氏の拠点、大原の里を見る。後方は多武峰である。
小原の交差点と万葉文化館の間に立っている万葉歌碑
万葉集 巻04-0513 志貴皇子
大原の このいち柴(しば)の いつしかと 我(あ)が思ふ妹に 今夜(こよひ)逢えるかも
※大原のこの茂りに茂ったいち柴ではないが、いつ逢えるか何とか早くと思いつづけていたあなたに、今夜という今夜はとうとう逢うことができました。
巻11-2587
大原の 古りにし里に 妹を置きて 我れ寐ねかねつ 夢に見えこそ
■大原神社 奈良県高市郡明日香村小原134
祭神 品陀別命、大織冠鎌足
由緒
藤原鎌足は、「大織冠伝」(760年頃成立)によると、推古天皇二十二年 614年)、大倭国高市郡の人として、藤原の第(邸宅)に生まれたと記されている。藤原は、現在のここ明日香村小原の地である。
鎌足は、中大兄皇子(後の天智天皇)を助けて、「大化の改新」を推進する偉業を成し遂げた。669年、臨終の床で、天智天皇から、最高位の「大織冠」の冠位を与えられ、その後、千年以上も続く藤原氏の祖となった。(社頭掲示)
お姿 神社すぐ右手の田圃には、明治初年まで、「藤原寺」(鎌足誕生堂)が建っていて、江戸時代後期に、国学者の本居宣長も訪れている。飛鳥坐神社より通じるこの道は、ここから東へ上がること約4kmの山頂にある、鎌足を祀る「談山神社」への表参道である。
ここ大原神社の奧の竹田川のほとりには、「藤原鎌足産湯の井戸」、左手の森には、鎌足の母「大伴夫人」の墓がある。
また当神社の正面左手には、天武天皇と鎌足の娘の藤原夫人との間に交わされた、万葉集の歌二首を刻んだ石碑がある。(社頭掲示)
天皇の藤原夫人(ふじはらのきさき)に賜へる御歌(おほみうた)一首
巻02-0103
我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後(のち)
※わがこの里に雪が降ったぞ。そなたが住む大原の古ぼけた里に降るのは、ずっとのちのことだろう。
藤原夫人の和へ奉れる歌一首
巻02-0104
我が岡のおかみに乞ひて降らしめし雪の砕けしそこに散りけむ
※私が住むこの岡の水神に言いつけて降らせた雪の、そのかけらがそちらの里に散ったのでございましょう。
◆「藤原鎌足産井の井戸」跡
大原神社の裏手を流れる竹田川のほとりにあるのですが、以前は竹藪があったのですが、今は切り払われて、スッポンポン。ましてや冬で当たりを草で隠すべくもなく、何だかうら寂しい状態になっていました。
■藤原鎌足の母「大伴夫人の墓」の墓
●夫人の墓 ●墓より見る大原神社と大原の里
大原神社のすぐ近くにある「大伴夫人の墓・小原の里」。解説文にはこうあります。「藤原鎌足の母、大伴夫人の墓と伝える。墓は東西約11m、南北約12m、高さ約2.4mの円墳である。また、この辺りは蘇我入鹿を殺し、大化の改新を断行した、中大兄皇子の副審であった中臣鎌子連、すなわち後の藤原鎌足の誕生地とも伝えられている。」-神奈備にようこそ-より
★2007年訪問時の大原神社と墓
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明日香探訪(2015-01-24)③酒船石・・・
http://barakan1.exblog.jp/20823177/
2015-01-30T12:20:25+09:00
2015-01-30T12:20:53+09:00
2015-01-30T12:20:53+09:00
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万葉故地
小高い丘の上にある花崗岩の石造物。
主軸はほぼ東西で、現存の長さ約5.5メートル、幅(南北)約2.3メートル、厚さ約1メートルであるが、北と南の一部が欠けている。上面に皿状のいくつかのくぼみとそれを結ぶ溝が刻まれている[1]。酒を造る道具、あるいは薬などを造るための道具とも言われ諸説あるが定かではない[2]。近くに水を引いたと見られる土管や石の樋も見つかっていることから庭園の施設とも言われている。
後世江戸時代に高取城を築城するため石垣用の石材として利用しようとしたと思われる石割用の石鑿の跡が見られ、上面の造形が欠損している。
1927年(昭和2年)4月8日、国の史跡に指定された。
★(*^_^*)写真クリック 大きくなります
※2004年訪問時画像]]>
明日香探訪(2015-01-24)②治田(はるた)神社・・・
http://barakan1.exblog.jp/20809985/
2015-01-27T14:17:09+09:00
2015-01-27T14:17:37+09:00
2015-01-27T14:17:37+09:00
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万葉故地
御祭神 品陀別天皇 素盞嗚尊 大物主神
◆『岡寺』の向いにある。近年まで「八幡」だった神社で、鳥居は岡寺参道の下にある。
多分、多くの人は、岡寺の鳥居だと思っているはず。
●説明板
現社地は、岡寺の伽藍跡。明治十二年までは、岡寺講堂の礎石が並んでいたという。
岡寺の移築後に、鎮座した。古社地がどこであったかは不明。一説には、明日香村豊浦付近にあったという。
●神社参道
式内社・治田神社に比定されている神社だが、八幡宮とも称していたようで、明治になって治田神社の戻したという。ー玄松子の記憶よりー
●神社境内
◆◆由緒 『五郡神社記』に、「古語拾遺」をひいた社名起源説話がある。
治田神社一座、在逝回郷小墾田村 今云豊浦村 社家者 小治田臣 説曰、治田神社一座、大地主神 大己貴命之異名也 旧記曰、往昔神代大地主神、治墾開田地令植稲田、是故称大地主神、奉申墾田 此云波留多 神矣 (以下省略)
明日香村豊浦の小墾田に神社を建立、小治田神社と称したと云うが、該当社は不明。
近世には八幡神社と称し、岡寺門前に鎮座することにより崇敬も厚かった。社頭掲示には岡寺の鎮守社とも説明がある。 高市郡の延喜式内社 。ー神奈備にようこそ-よりー
●本殿
※★(*^_^*)写真クリック 大きくなります]]>
明日香探訪(2015-01-24)①都塚古墳・・・
http://barakan1.exblog.jp/20806678/
2015-01-26T19:20:50+09:00
2015-01-26T19:21:26+09:00
2015-01-26T19:21:26+09:00
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万葉故地
何年ぶりでしょうか? 見尽くした気がして、ここ暫くは離れていました。
半年ほどの前の新聞に、都塚古墳のことが載っていたのを思い出し久し振りに出掛けました。
今日は自宅から高速を利用して行ってみました。何と1時間弱(約50㌔)で石舞台に到着しました。多武峰からの道が開通したためか以前に比べ、ダンプの往来が多くなっているような気がしました・・・。
冬真っ只中ということもあり、色彩には掛けますが、いつも通りゆったりと時間が流れています。
弓削皇子に献れる歌一首
巻9-1709
御食(みけ)向ふ南淵山(みなふちやま)の巌(いはほ)には降りしはだれか消え残りたる
右、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出ヅ。
舎人皇子に献れる歌二首
柿本人麻呂
巻9-1704
ふさ手折(たを)り多武(たむ)の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒ける
◆本日のコース
自宅から車(10時)~都塚古墳~治田神社~酒船石~大原神社~大伴夫人の墓~飛鳥坐神社~明日香村埋蔵文化財展示室~自宅へ(15時着)
■都塚古墳「古代飛鳥の歴史解く発見」 石舞台もピラミッド状? ー産経新聞よりー
(奈良県高市郡明日香村阪田)
13日、国内で例のない階段ピラミッド状の巨大方墳と判明した奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳。被葬者は、古代朝廷の実力者・蘇我馬子(そがのうまこ)の父、稲目(いなめ)である可能性が高い。稲目は歴史上では馬子ほどメジャーではないが、天皇家との姻戚関係を確立、蘇我氏の隆盛の基盤をつくった人物だ。今回の調査によって、馬子の墓とされ、上部構造が不明だった石舞台古墳(7世紀前半)についても、同じ形だった可能性が出てきた。
飛鳥時代初期(6世紀後半)の都塚古墳は、馬子の墓との説が強い石舞台古墳の南東約400メートルに位置。近くからは蘇我氏の邸宅跡とされる大型建物跡も見つかっており、周辺は蘇我氏の拠点とされる。日本書紀によれば、6世紀当時は、稲目(570年没)が実力者として活躍し、その後馬子、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と3代続く権勢の基礎を築いた。
関西大などは、蘇我氏の有力者の墓と推定。泉森皎(こう)・元橿原考古学研究所副所長(考古学)は「馬子以前の6世紀後半に蘇我氏の根拠地といえる場所に、大規模な墓をつくることができるのは稲目しかいない。古代飛鳥の歴史を解明する上で、大きな意味を持つ発見だ」と話している。
日本書紀によると、稲目は宣化元(536)年、天皇を補佐する大臣に就任。欽明天皇に再任され、吉備(現在の岡山県)に天皇の直轄領の屯倉(みやけ)を選定するなど、欽明政治を支えた。
その中で、稲目は堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)の2人の娘を欽明の妃に送り込む。2人が生んだ子供(皇子と皇女)は計18人で、その中から用明(ようめい)、崇峻(すしゅん)、推古(すいこ)の3天皇が誕生。天皇家との姻戚関係はその後馬子-蝦夷-入鹿と、計4代続く古代朝廷での蘇我氏の権力を揺るぎないものにした。
2014.8.14 ー産経新聞よりー
■コース地図
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雑賀(さひか)の浦探訪 (2014-04-22)
http://barakan1.exblog.jp/19714006/
2014-04-24T15:21:33+09:00
2014-04-24T15:21:51+09:00
2014-04-24T15:21:51+09:00
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万葉故地
番所(ばんどこ)庭園は、「※番所の鼻」というところにあります。
●番所庭園より南を見る
江戸時代、紀州藩は見張りのため「遠見番所」を設けました。紀州藩は海岸線が長いので、十数ヶ所に番所がありました。ここは和歌山城に最も近い番所として、特に重要な所でした。
●番所庭園より西を見る
その後、遠見番所は鷹の巣山頂(今の雑賀崎灯台のある場所)へ移転したので、ここは「元番所」とも呼ばれました。1853年のペリーの来航を機に、「元番所お台場」が、ここに構築されました。お台場には大砲が据え付けられました。
●番所庭園より北(雑賀の浦)を見る
台場は、元番所以外に、加太から下津町までの海岸線に計41か所築かれました。(その中で唯一、ほぼ完全にその形を残すのが、番所庭園の近くにある「カゴバ台場」遺跡です)※和歌山では海岸より突き出し岬のようになったところを{○○の鼻」と呼ぶようです。
■万葉ゆかりの地
●万葉歌案内板
万葉時代神亀(七二四年)十月に、聖武天皇が大和の都から、お供の公家・宮廷人達と、和歌の浦に行幸されました折、藤原卿がここ番所庭園の北側に広がる海「雑賀の浦」の漁火を見て、詠まれたと言われています。
万葉集
巻07-1194 藤原卿
紀の国の 雑賀(さひか)の浦(うら)に 出(い)で見れば海女(あま)の燈火(ともしび) 波の間(ま)ゆ見ゆ
●万葉歌碑
昭和五二年に、宇治田省三和歌山市長は、犬養 孝大阪大学名誉教授に依頼して、市域を詠んだ万葉歌十首と、その故地十箇所の現地を選んで頂き、そこにその歌板と歌碑を建立されました。犬養先生が、その中の一つに選ばれた「雑賀の浦」の歌板と歌碑は、当園内に今も大切に管理されています。
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有間皇子結松を見て偲ぶ歌(2013-06-12)万葉故地探訪⑩・・・おまけ
http://barakan1.exblog.jp/18058024/
2013-07-08T13:39:48+09:00
2013-07-08T13:39:49+09:00
2013-07-08T13:39:49+09:00
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万葉故地
■有間皇子結松を見て偲ぶ歌
●長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が、結び松を見て哀咽(かなし)みよめる歌二首
巻02-0143
磐代の岸の松が枝結びけむ人は還りてまた見けむかも
巻02-0144
磐代の野中に立てる結び松心も解けず古(いにしへ)思ほゆ
●柿本朝臣人麿ノ歌集ニ云ク、大宝元年辛丑、紀伊国
ニ幸セル時、結ビ松ヲ見テ作レル歌一首
巻02-0146
後見むと君が結べる磐代の小松が末(うれ)をまた見けむかも
●山上臣憶良が追ひて和(なぞら)ふる歌一首
巻02-0145
鳥翔成 あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ
あの方は天空をかけめぐり、存命のままこの岩代の地の結び松はご覧になったのだろうが、そのことを我々は気づかないでいるが、松はきっと知っているだろう。
※・・・鳥翔成・・・「カケルナス」「アマガケリ」「ツバサナス」等、その訓みについては、諸説あり。
◇※天智天皇(中大兄皇子)時代にはばかられていた有間皇子への同情は、壬申の乱(672)以降、表立って上のような歌が詠まれるようになる。当時は皇子の結び松と伝える松があったのだろう。]]>
有間皇子結松の記念碑(2013-06-12)万葉故地探訪⑨・・・終
http://barakan1.exblog.jp/18028763/
2013-07-02T13:10:00+09:00
2013-07-05T15:06:52+09:00
2013-07-02T13:11:00+09:00
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万葉故地
●案内板 ●結松の記念碑 ●結松
和歌山県指定文化財
史跡 岩代の結松
斉明天皇4年(658)10月天皇と皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は紀の湯(白浜湯崎温泉)に行幸された。孝徳天皇の遺児有間皇子は留守官蘇我赤兄の口車に乗せられ、謀反のかどで捕らえられ天皇のもとに護送された。その途中紀の湯を眼前に望み当地の松の枝を結び自分の命の平安無事を祈って歌を詠まれた。
●岩代の海岸
有間皇子自ら痛みて松が枝を結ぶ歌
磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む
家にあらば?に盛る飯を草枕旅にしあらば椎の葉に盛る
有間皇子は紀の湯で中大兄皇子の尋問に対して「天と赤兄と知る我全知らず」と答えられたが、帰路11月11日、藤白坂において19歳の若さで絞殺された。
昭和34年12月
和歌山県教育委員会
南部町教育委員会
◆◆有間皇子自ら痛みて松が枝を結ぶ歌
巻02-0141
岩代(いはしろ)の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む
岩代の浜松の枝を引き結んで、幸いに無事であったら、また帰って来て見ることであろう。
巻02-0142
家にあれば 笥(け)に盛る飯ひを 草まくら 旅にしあれば 椎の葉に盛る
家にあれば器に盛るべき飯を、(草まくら)旅の中にあるので、椎の葉に盛ることよ。
※歌に惹かれて、長く、憧れていた有間皇子結松にはからずも訪ねるとこが出来ました。南の洋上に台風3号が北上中という事で、ここら辺りの海上も、波が高くなっている状態でした若者がサーフィンをしていました)。国道42号線際ということで、ゆっくり見学も出来ず、記念碑あたりの写真と、海岸線の美しさを記念にと急勾配の道を登り降りしたお陰で胸がゼイゼイものでした。]]>
野島(2013-06-03)万葉故地探訪⑧・・・
http://barakan1.exblog.jp/18028748/
2013-07-02T13:06:00+09:00
2013-07-04T15:44:22+09:00
2013-07-02T13:07:28+09:00
barakan1
万葉故地
中皇命の紀の温泉に徃いませる時の御歌(三首)ー658年ー
巻01-0010
君が代も我が代も知るや磐代(いはしろ)の岡の草根をいざ結びてな
【通釈】あなたの命も私の命も、あたり一帯を支配する霊地である磐代の岡の心のままですよ。その岡に生えている草を、さあ、結びましょうよ。そして命の無事をお祈りしましょう。
巻01-0011
我が背子は仮廬(かりほ)作らす草(かや)なくば小松が下(した)の草(かや)を刈らさね
通釈】あなたは野宿のための仮小屋を作っておられます。適当な萱がなければ、ほらこの小松の下の萱をお刈りなさいな。
●壁川崎の海岸。遠くに海南火力発電所が見える。
巻01-0012
我が欲(ほ)りし野島(のしま)は見せつ底深き阿胡根(あこね)の浦の玉ぞ拾(ひり)はぬ
【通釈】私が見たいと思っていた野島は見せていただきました。けれど、水深が深い阿胡根の浦の真珠はまだ拾っていません。
●壁川崎。野島の西之芝地区。
※中皇命とは、通説では
間人皇女(はしひとのひめみこ。舒明と皇極の娘、孝徳の妃)、あるいは、
斉明天皇(舒明の死後は皇極、孝徳の死後の重祚)に擬せられています
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白崎~温羅の崎(2013-06-23)万葉故地④・・・
http://barakan1.exblog.jp/18003861/
2013-06-27T15:03:00+09:00
2013-07-09T21:41:42+09:00
2013-06-27T15:02:59+09:00
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万葉故地
●小引の港より
衣奈八幡神社より県道24号線を、戸津井から小引へと美しい海岸線を眺めなら南に下ると、白崎青少年の家の展望台に到着する。ここで雄大な海岸美を展望することが出来る。
●白崎青少年の家前展望台より
(ここで思いがけずに、野生のタヌキの子供にあった。人を恐れることもなく、ついその先に座って、じ~~とコチラを見ている。多分、観光客からエサを貰っていて、私からエサを貰えると思ったのであろうか!!。)
ここより少し行くと白崎である。白崎海岸県立自然公園の看板とバンガローらしきものが見えてくる(少々つや消しではあるが・・・)
●白崎海岸、白崎海岸県立自然公園
大宝元年辛丑の冬の十月に、太上天皇・大行天皇、紀伊の国に幸す時の歌
巻9-1668
白崎は 幸くあり待て 大船に 真楫しじ貫き またかへり見む
白崎は航海の無事を祈って待っていてほしい。大きな船に真楫(まかじ)を付けて行くのだから、無事に帰って来たらまたこの白崎を見よう。
●白崎海岸
県道に戻り、海沿いをさらに進むと巨大な岩門の立巌岩(たてごいわ)がそそり立つ
このあたりから見る白崎はすばらしい。海に突き出した石灰石の岬が幻想的である。立巌岩の少し先に万葉歌碑がある。
●立巌岩(たてごいわ)
●万葉歌碑
■「湯羅の崎」を詠んだ万葉歌、三首詠まれている。
巻 7-1220
妹がため 玉を拾ふと 紀伊の国の 湯羅の岬に この日暮しつ
あなたのために真珠の玉を拾おうと、思い紀の国の由良の岬に夕暮れまでいました
大宝元年辛丑の冬の十月に、太上天皇・大行天皇、紀伊の国に幸す時の歌
巻 7-1671
湯羅の崎 潮干にけらし 白神の 磯の浦廻うらみを あへて漕ぐなり
由良の崎は潮が引いただろうか、白神の磯の浦を船が難渋して漕いでいる
巻 9-1670
朝開き 漕ぎ出て我は 湯羅の崎 釣する海人あまを 見て帰り来む
朝明けに漕ぎ出たわたしは、由良の岬で釣りをする人を見て帰って来た
※湯羅の崎
歌枕で言う「湯羅の崎」は今で言う「神谷崎」であるらしい。もっとも今の神谷崎付近は工場が海岸地帯をうずめていて、当然昔の面影の欠片もない。従って少しでも昔の風景が思い描けるように、その隣り由良湾の出口に当たる下山鼻を参考に掲げてみた。
この岬は、先端には烟島という先の尖った岩礁もくっついているが、そのさらに先の500メートルほど沖合には、鹿尾菜島(ひじきしま)という「山」の字のように見える小島を伴っている。]]>
施無畏寺(せむいじ)(2013-06-03)万葉故地⑦・・・
http://barakan1.exblog.jp/17968012/
2013-06-19T15:50:00+09:00
2013-06-19T15:53:40+09:00
2013-06-19T15:50:50+09:00
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万葉故地
●施無畏寺山門
和歌山県有田郡湯浅町栖原(すはら)にある真言宗御室派の寺院。補陀洛山と号す。明恵上人を開山とする。
●山門前より湯浅湾を見る
寺は白上峰(しらがみみね)の中腹にあるが,この白上峰は1195年(建久6)のころ明恵が草庵を結んで修練を積んだ由緒のある地で,上人と同族で上人に深く帰依した湯浅景基が1231年(寛喜3)に一宇を建立して観世音菩薩像を安置し,当時栂尾の高山寺にあった上人を招いて落慶供養を営んだ。
●案内板
当時の境内,北は白上峰の北麓,東は井谷東峰,南は南栖原の大道を限り,西は田・栖原の海岸を含んでの周32町の内を殺生禁断の聖地と定めた。
●開山堂 ●本堂 ●鐘楼 ●鎮守社
※明恵(みょうえ) 1173~1232(承安3~貞永1) 鎌倉前期の華厳宗の僧。
■施無畏寺入口万葉歌碑
●寺参道入口よりみる湯浅湾
詠人不詳
巻09-1671
ゆらのさき しほひにけらし しらかみの いそのうらみを あへてこぐなり
●案内石碑
大宝元年(701)持統天皇が二回目の牟婁(白浜)温泉への行幸の途の詩(家人不詳)糸我峠(有田市)から尾根を伝って栖原海岸へのコースを辿る。海辺から船に乗り込んだ天皇の従者が口ずさんだもので、
「由良の崎は潮が引いたらしい。白神の磯を船出した船人が掛け声をかけながら力一杯船を漕ぎ、その櫓の音とが一つになって響いてくる」と言う意味であろうか。長閑な風景の中にもあらあらしさとを感じさせるうたである。
「白神の磯」は中腹に施無畏寺が佇む白上山の山裾にあり、ここから望む湯浅湾には手前に「毛無島」「刈藻島}やや遠くに「タカ島」が浮かんでいる。そして、由良の崎は更に南の彼方に霞んでいる。
当時は「大宝律令」という国家の基本法典が制定され、政治の仕組みが確立し、国家発展の礎が定まりつつあった時代である。
今、ここに新しいじだいへの飛躍と繁栄を祈りつつ歌碑を建立するものである。
平成14年11月吉日 有田ライオンズクラブ
※ココ等あたりから見る海辺は大小の島々と海岸線が重なり美しい景色です。眺めていると本当に長生きできそうです。 ★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。]]>
下津町粟嶋神社本宮阯(2013-06-03)万葉故地②・・・
http://barakan1.exblog.jp/17945935/
2013-06-14T12:18:13+09:00
2013-06-14T12:18:06+09:00
2013-06-14T12:18:06+09:00
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万葉故地
当時粟嶋は島であり、その潟(方)硯浦の森に宮居を営み祭祀していましたが、ここは風浪が激しく社を維持するのが難しかったので、文永年間(1264~1275)、浜中荘領主からの寄進により、現在地宮ノ谷へ遷座され、今も、当時の民人の遠い子孫が、宮座として、神社に奉仕しているそうです。 ーウィキペディアーより
粟嶋神社は海の神で全国から安全の祈祷を受けに船が集まった。この社はまた「生みの神」で、安産を願い海を渡って祈願に行く若い女性が後を絶たなかった。この歌からは参拝者や見物客で大賑わいであった様子が伺える。しかし、今は海岸線も後退し、「方」や「汀」に当時の地形の証言が得られるだけで、葦の生い茂る川面からはその頃の情景は想像することすらできない。
元宮の跡は粟嶋神社から300m程下流です。現在は中洲状の場所に跡碑が建てられていました。
◆境内万葉歌碑
作者不詳
巻07-1216
潮満たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が門(と)渡る海未通女ども
※潮が満ちて来ればどうするのだろうか海の神がいる島に渡る海人娘子らは
◆「幣使隈(へいしのくま)」
社伝によれば、景行天皇2年に少毘古那神が硯浦に漂着し、21戸の村民がこれを近くの森に鎮祭したのに創まるという。当初の鎮座地は海中にあり、干潮時に干潟を伝って参詣したと伝え、後に神功皇后が三韓征伐の折に産気づき、凱旋するまで出産がないようにと当神社に勅使を派遣して祈願することとした際にも、勅使が風浪のために渡島できず、遠くから奉幣せざるをえなかったという。ここを「幣使隈(へいしのくま)」という古蹟です
※2013-05-23④探訪機で訪ねておりますが、本宮跡をチェックし忘れたので、今回探訪しました。]]>
三穂の岩屋~御崎神社(2013-06-03)万葉故地⑨・・・
http://barakan1.exblog.jp/17876056/
2013-05-31T16:09:00+09:00
2013-06-08T14:34:06+09:00
2013-05-31T16:08:46+09:00
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万葉故地
煙樹ヶ浜から県道24号線を西へ、アメリカ村の直前、逢母(おいぼ)バス停の手前を左折し集落の中の道を100M程進むと、左折して赤い布を巻かれた杭が打ってある小道を林の中へと進む。林を抜けて海岸へ下り、大きな石がごろごろした海辺を右へ進むと、右手上方に海に向かって大きく口をあけた洞窟が見えてくる。
◆今回のハイライト、三度目の挑戦になる三穂の岩屋の見学です。
煙樹ヶ浜から県道24号線を西へ、アメリカ村の直前、逢母(おいぼ)バス停の手前を左折し集落の中の道を100M程進み車を駐車して、前回村人に聞き見つけておいた、海岸へ下りる古い、今にも消えて無くなりそうな(目印に赤い布を巻かれた杭が打ってある)小道を林の中へと進み、、海岸へ出る・・・。
●海岸への古い道 ●海岸への出口付近
●海岸へ出たところ ●小道からの出口
それからが大変でした大きな石や岩が転がっている海岸を右側(西)方へ穴らしきものが見えるのを目標に歩きました。久しぶりに登山をした気分です。足をかける石を探しながら飛び石を歩くように、10分~15分歩いたでしょうか・・・。
穴に到着して中へ入ってみると、ネットで見たような穴と全く違います。天井は低いし、下には海が入り込んで波がバシャバシャ打ち付けています。ここまで来るまでで全エネルギーを使ったような状態で、改めて探す気力もなく、今回はまた発見できなかったが次回来ようと来た道を引き返しました。
半分ほど引き返してフト左側を見ると、何と!!大きな穴があるではありませんか!!
紛れもなく、ネットで見た岩屋です。何故??こんなに大きなものが目に入らなかったのだろう・・・・。細い山道より海岸へ出た時に見つけた穴が岩屋に違いないと思い込んだが為に、足元と海の方の岩ばかり気にしていて、見過ごしたのだろう!写真を撮り、大満足であの心臓破りの小道を登り、汗だくで車にたどり着きました。※岩屋の奥のもう一つの部屋が有るそうですが・・・、とても一人では入る気がせずパスしました。ここも結構ゾクゾク来ましたね!
博通法師、紀伊国に行き、三穂の岩屋を見て作る歌三首
●三穂の岩屋全景
万葉歌 博通法師
巻03-0307
はだすすき久米の若子(わくご)がいましける三穂の石屋(いはや)は 見れど飽かぬかも
※久米の若君がおられたという三穂の洞窟はいくら見ても見飽きないかも
巻03-0308
常盤(ときは)なす石屋(いはや)は今もありけれど住みける人そ常なかりける
※大きな岩のように永遠に変わらない姿で「三穂の岩屋」は今もあるけれど、久米の若君はもうこの世にはいない。
巻03-0309
石室(いはや)戸(どに立てる松の樹汝を見れば昔の人を相見るごとし
※三穂の岩室に生えている松の木よ、あなたを見ていると久米の若子に逢っているようだ。
以下の二首は「和銅四年辛亥、河辺宮人、姫島の松原に美人(おとめ)の 屍を見てかなしびて作れる歌四首」の中の二首
巻03-0434
風速(かざはや)の美保の浦廻の白つつじ見れどもさぶし無き人思へば
※烈しく風が吹きすさむ美保の湾の白いつつじを見ていてももう此処にはいない久米の若子のことを思うと私の心は少しも晴れない。
巻03-435
みつみつし久米の若子(わくご)が い触れけむ 磯の草根(くさね)の 枯れまく惜しくも
※勇ましく凛々しかった久米の若子が手に触れたであろう磯の草木の枯れるのが惜しい
◆美浜町には、顕宗・仁賢天皇の父が、久米若子であるという次のような伝承が残っているそうです。
安康天皇は履中天皇の第一皇子市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)にその位を譲ろうとした。しかし、安康天皇の弟で、市辺押盤皇子の従兄弟にあたる大泊瀬皇子(後の雄略天皇)が近江国、来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの、滋賀県蒲生郡蒲生町)に市辺押盤皇子を狩りに誘い出し、猪と見誤ったふりをして暗殺してしまい、自分が天皇の位についた。
●海岸へ出たところ付近の荒磯風景
市辺押磐皇子の子である久米若子は、雄略天皇の迫害から逃れるため、母と臣下を伴い、丹波国に身を隠し、ここで億計(おけ)、弘計(をけ)の二人の皇子をもうけた。久米若子は心の動揺を癒すため神術習得のため愛し子、億計、弘計を臣下に託し、放浪の旅に出て消息を絶った。その後、二人の皇子は播磨国の志染(しじみ)の岩屋に隠れ住みついた。やがて成人した二人の皇子は、伊予来目部小楯(いよのくめべのおたて)によって見つけ出され、顕宗天皇(弟、弘計、23代天皇)、仁賢天皇(兄、億計、24代天皇)として即位する。それにつけても思い出されるのは幼くして別れた父、久米若子のことであった。
臣下を諸国に遣わし探し求めた。苦心の末、三穂の岩屋におられるという情報を得て使者を遣わしたところ、既に若子の姿はなく、松が生繁り、庵の後の草の根は枯れはて、岩に砕ける波しぶきに交じって白い磯つつじが風に揺らいでいるばかりであったという。
●岩屋中より荒磯を見る
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日の岬~三尾(2013-05-23)万葉故地⑧・・・
http://barakan1.exblog.jp/17876049/
2013-05-31T16:07:00+09:00
2013-06-07T15:29:54+09:00
2013-05-31T16:07:30+09:00
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万葉故地
■煙樹ヶ浜
煙樹ヶ浜から県道24号を西へ上ってゆくと三尾の村落を過ぎ、海岸線を通る167号のドン付きが日の岬である。
●煙樹ヶ浜よりの展望(西)
●煙樹ヶ浜よりの展望(東)
■三穂の浦
三尾は、遠く万葉の時代から多くの歌に詠れ、三穂の石室、風早の三穂の浦の歌、七首があり、下記の歌は、潮流が早く、北西の風が強い時、岬の先端が浪立つ様子が手に取るように判る歌として有名です。
歌碑は日の岬に至る県道そばの大きな岩に黒御影石に刻まれはめ込まれてています。
万葉歌碑のある大岩のむこうに見えるのが蜑取(あまとり)島、別名海猫島。
巻7-1228
詠人不詳
風早の 三穂の浦みを 漕ぐ舟の 舟人騒く 波立つらしも
■日の岬
日の岬の頂上付近から、北方の海岸を眺めると、手前は馳出の鼻小浦崎、一番奥に白崎が見える。
●日の岬より西を見る
●日の岬より東を見る
東を見ると三穂の浦、煙樹ヶ浜が見える。
●三保の浦を見る
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