2008年 05月 04日 ( 1 )

美作・備前国社寺探訪(08.04.20)⑩石上布都魂神社-1・・・

石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)  岡山県赤磐市石上1448
●神社への道、天納集落周辺
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岡山県東部 吉井川と旭川にはさまれた山また山の真ん中に物部氏と関係の深い「石上布都魂神社」がある。 スサノオノミコトが退治したヤマタノオロチの中から出てきた草薙ノ剣が奉納されたところという。
●参道入口付近
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物部氏の根拠地 大和布留の石上神宮の元宮といわれる。(4月に探訪したところです)
※今回の探訪で一番訪ねたかった神社です。
●一の鳥居・参道   
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●石上布都魂神社  式内社 備前国一之宮
御祭神
素盞嗚尊
布都御魂  『吉備温故秘録』江戸後期
十握劒   『神社明細帳』明治初年
●境内への石段・手水舎
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岡山県の北、旭川に沿う御津町金川(JR 津山線金川駅から約9km、岡山空港から約15km)より北東赤磐市石上の大松山中腹に鎮座する。山頂には小祠を置き本宮と呼びその背後の岩場地帯は磐座信仰の遺蹟として禁足地である。

★当社は「延喜式」神名帳、備前国赤坂郡六座のうちの「石上布都之魂神社」にあたり、備前国総社神名帳百二十八社の中正二位と記され御神徳の高い神社である。現在御祭神は素盞嗚命であるが、江戸時代後期、寛政年間に岡山藩土大沢惟貞が編纂の「吉備温故秘録」では「布都御魂」明治初年編の「神社明細帳」「延喜式内神社・国史見在之神社」では「十握劒」を祭神と記している。御祭神名の変更は、明治六年郷社列格の際と思われる。
●拝殿(境内)全景
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いずれにしても素盞嗚命の大蛇退治の神話に起因する。日本書記一書に「其の蛇を断りし劒をぱ、號けて蛇之麁正(おろちのあらまさ)と曰ふ。此は今石上に在す」また一書に「素盞嗚尊、蛇の韓鋤(からさひ)の劒を以て、頭を斬り腹を斬る、(中略)其の素盞嗚尊の、蛇を断りたまへる劒は、今吉備の神部の許に在り。」さらに一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿断(あまのははぎり)の劒を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と記す。
総合すると素盞嗚尊が大蛇を切った劒は「蛇の韓鋤の劒」「天蝿断の劒」あるいは「蛇の麁正の劒」で、吉備の神部のところ、石上にあることになる。「韓鋤の劒」は韓から伝来した刀の意・「天蝿断の劒」は蛇を切った劒、すなわち韻霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を祀ったのが布都魂神社である。
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「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀の神代巻・旧事記・神社啓蒙旧事紀・天孫本紀、古語拾遺・言金抄などから「私に曰、此数書を以て参考ふるに、上古素盞嗚尊、蛇を断の剣は当社(注石上布都魂神社)に在事明かなり、其後、崇神天皇の御宇、大和国山辺郡石上村へ移し奉るとあれ共、当社を廃されしとは見へず、又延喜神名帳にも大和国と当国に布都魂神社載せられたるは、当国石上神社を大和国に勧請して地名も石上といひしならん、さすれぱ、当国の石上本社なることも分明なりし」とす。寛文九年(一六六九年)時の備前藩主池田綱政が山頂にあった小祠を造営復興し、延宝二年(一六七四年)には神道衰之古事を知る人の少なきを歎き広沢元胤に命じ社記を作らせ(一巻)、社領二十石を奉納した。その後累代の藩主(綱政 →継政→宗政→治政→斉政→斉敏→慶政→茂政→章政)崇敬懈りなく廃藩の時に至る。この間の藩主交替時には必ず折紙が奉納された。
●拝殿・拝殿内部
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神剣(蛇の麁正・別名蛇の韓鋤・蝿断劒)は大和(奈良県天理市)の石上神宮にお移ししたということは石上神宮にもこのことが記されている。「布都斯魂大神 素盞嗚尊の以って八岐大蛇を斬り給ひし十握劒の威霊を称奉る御名なり。日本書紀神代巻一書に、其断蛇劒、号曰蛇之麁正在石上宮也と見之、古語拾遺に、素盞嗚神、自天而降到於出雲国簸之川上、以天十握劒(其名天羽々斬、今在石上神宮古来大蛇謂之羽々、言斬蛇也)斬八岐大蛇とありて、もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る。(抜粋・大正十五年発行官弊大社石上神宮御由緒記)
●本殿
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かくして神剣奉遷の後石上神宮においても神剣所在は明らかでなかったが、明治七年水戸の人菅政友が古典に石上神宮(当時布留神宮)社内の禁足地に韻霊の神剣埋蔵されていることを知り教部省の許を得て発掘し神剣と勾玉を発見した。明治天皇にお見せし再び布留神宮の御霊(これを布都斯魂之大神と呼ぶ)を祀ることとなった。その時この剣を模して造ることを月山貞一に命ぜられ宮内省に納められた。その影造の剣が本神社に寄進された。明冶初年神社調によって郷社となり、明治三十九年神饌弊帛料供進神社に指定される。明治四十三年火災によって貴重な棟礼等ことごとく消失、大正四年現在の位置に社殿を改築した。昭和二十年県社の資格ありと認められた。幻の県社である。平成五年現拝殿を建立する。この神社は近郷では「神社様(じんじゃさま)」と敬称し、疫病災(えやみ)を断つということ、安産、農耕、養蚕の守り神、子授かりの神として篤く信仰されている。近年一宮の朱印を求める参拝者多くなる。
ー「参拝のしおり」より抜粋ー
by barakan1 | 2008-05-04 14:17 | 旅日記