竹ノ内街道・河内飛鳥探訪(08.10.12)⑥孝徳天皇陵・・・

■ 孝徳(こうとく)天皇陵
竹内街道沿いにある直径約30mの円墳。自然の丘を利用して築造されたもので鶯陵(うぐいすのみささぎ)と美しい名で呼ばれる。清少納言が『枕草子』の中で讃えた“うぐひすのみささぎ”はこのご陵のことといわれる。
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御陵: 大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ:大阪府南河内郡太子町)
諡名: 天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)
異名: 軽皇子(かるのみこ)
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父:  茅渟王(ちぬおう:敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の子)
母:  吉備姫王(きびひめ:欽明天皇の孫)
皇后: 間人皇女(はしひとひめ:舒明天皇の娘)
皇妃: 阿倍小足媛(あべのおたらしひめ:阿倍倉梯麻呂の娘)、蘇我乳娘(そがのちのい
     らつめ:蘇我倉山田石川麻呂の娘)
皇子女:有間皇子・・・母は阿倍小足媛
宮居: 飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや:奈良県高市郡明日香村)、
     難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや:大阪市東区法円坂町)
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◆◆第36代 孝徳(こうとく)天皇
舒明天皇が崩御して、皇后がその後を継ぎ皇極天皇となる。有力な後継者であった山背大兄皇子は、蘇我入鹿の手にかかり、一族全員皆殺しにあってしまう。中大兄皇子が、自分の身にも危険を感じたとしても不思議ではない。蘇我入鹿を倒さなければ次は自分だと思ったのは想像に難くない。
権勢を誇る蘇我入鹿の存在を、こころよく思わない人物がもう一人いた。蘇我氏に滅ばされた物部氏に従っていた中臣鎌子(なかとみのかまこ:後、藤原鎌足)である。鎌子は中大兄皇子と結託し、蘇我倉山田石川麻呂をも仲間に引き入れ、蘇我入鹿を滅ぼす。世に「大化の改新」(乙巳の変:いっしのへん)と呼ばれるクーデターである。(後に石川麻呂は謀反の疑いをかけられ殺されてしまう)
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皇極天皇は、この事件の責任をとる形で退位、即座に息子の中大兄皇子に即位を促した。だが、中大兄皇子は即位せず、実際には皇極帝の同母弟で中大兄皇子の叔父である軽皇子(かるのみこ)が孝徳天皇として即位した。はじめ軽皇子は、舒明天皇の長子古人大兄皇子(ふるひとのおおえみこ)がふさわしいと辞退するが、古人大兄皇子は仏門にはいるからと皇位継承を辞退して、その申し入れをするやいなや、太刀を抜き髪と髭を切り落とし、たちまち僧形となった。そこでやむなく軽皇子が即位したとある。
即位した孝徳天皇は、難波へ遷都し長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)に都を構える。現在大阪市にある難波宮跡の「前期難波の宮跡」と呼ばれる部分がこの宮跡ではないかと考えられている。
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孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に任じた。中臣鎌足には大錦(だいきん)の冠位を授け内臣(うちつおみ)とした。天皇は、東国の国司らを集め戸籍を作り田畑の調査を命じたり、有名な「大化の詔(みことのり)を発したりしたが、しかし結局この天皇は、所詮中大兄皇子・中臣鎌子らの傀儡でしかなく、最後には中大兄皇子と仲違いの末、一人長柄豊碕宮に取り残され、中大兄皇子らは飛鳥へ引き上げてしまう。
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中大兄皇子の独走に怒った天皇は、恨みを抱いて皇位を捨て山碕離宮に隠遁しようとしたが、離宮の完成を見ることなく長柄豊碕宮に没した。陵は、竹内街道に面した小高い丘の端にある。 ー邪馬台国大研究よりー
by barakan1 | 2008-10-26 12:26 | 旅日記
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