東大阪市(石切剣箭神社~日下あたり)探訪(08.05.02)⑧日下(くさか)江あたり・・・

日下(くさか)江
石切駅から北へ歩くと、左側に大阪平野から六甲山まで見渡せる場所に出ます。すぐ側まで住宅に埋まっていますが、右から左へ生駒の裾がなだらかな傾斜地を構成していますが、そのあたりは昔は海でした。そしてこのあたりを日下(くさか)、日下江と呼ばれたところです。
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また日下は「ひのもと」と読み、日本ということばに由来する地名だそうです。
その日下というところは昔大阪湾の一部であったり、湿地帯であったことから鯨の骨がでたり、貝塚があったりします。

★★雄略天皇との婚姻説話
引田部赤猪子
御諸(みもろ)に 築(つ)くや玉垣 築き余し 誰(た)にかも依らむ 神の宮人(古事記)
【通釈】三輪山の神社に、土で築きますよ、美しい垣を。すっかり築き終えて、土が余ってしまいます。そんなふうに無用に残ってしまった私は、誰に身を寄せればよいのでしょう。途方に暮れている、神社の巫女みたいな私は。
日下江(くさかえ)の 入江の蓮(はちす) 花蓮 身の盛り人 羨(とも)しきろかも(古事記)
【通釈】日下江の入江には、蓮が生えていて、美しい花を咲かせるそうです。その蓮の花のように、盛りの年齢にある人が、うらやましくてなりませんわ。
※引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)
引田部は大神(おおみわ)朝臣の支族。三輪川(初瀬川の下流)のほとりに住んでいた。
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雄略天皇
御諸(みもろ)の 厳白樫(いつかし)がもと 白樫(かし)がもと ゆゆしきかも 白樫原童女(かしはらをとめ)(古事記)
【通釈】三輪山の神聖な樫の木の下、白樫の木の下は、侵してはならない場所。それみたいに、触れるのも憚られるよ、橿原の乙女は。
引田(ひけた)の 若栗栖原(わかくるすばら) 若くへに 率(ゐ)寝てましもの 老いにけるかも(古事記)
【通釈】引田の地に、若い栗林があるだろ。あれみたいに、若い時に一緒に寝たかったのに、お前は年老いてしまったなあ。
【由来】あるとき雄略天皇は泊瀬の三輪川に遊び、川のほとりで洗濯をしている美しい少女に遇った。誰の子かと問うと、答えて言うことには、「引田部の赤猪子と申します」。天皇は少女に命じて、「おまえは夫を持つな。そのうち私が召そう」。そう言い残し、宮に帰って行った。赤猪子が天皇のお召しを待つうち、八十年が過ぎた。「私はもう痩せしぼんでしまって、もはやお召しの希望もなくなった。しかしお待ちしていた心を示さずには、気が済まない」。そう思った赤猪子は、たくさんの引出物を伴の者に持たせ、宮中に参上した。天皇は昔言った言葉を忘れていたので、赤猪子に向かい、「おまえはどこの老女だ。なにゆえやって来た」と問うた。赤猪子は答えて、「この年のこの月、陛下よりご命令をこうむり、お約束をお待ちして八十年経ってしまいました。もはや年老いてお召しの希望もなくなりましたが、せめて志だけでもと…」と奏上した。天皇はたいそう驚き、「すっかり忘れていた。なのにおまえは志を守って盛りの年を過ごしてしまった。なんということだ」と言って、気持はこの女を娶(めと)ろうと思ったが、さすがにひどく年老いた姿に憚って、代りに歌を与えることにした(雄略天皇の「御諸の…」と「引田の…」の歌参照)。赤猪子はこれを聞いて涙を流し、赤染めの袖を濡らした。そして二つの歌を詠んで返した。天皇は老女に多くのものを与えて帰した。 ―千人万首よりー
by barakan1 | 2008-05-15 21:50 | 旅日記
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