紀の川市探訪④(07.10.12)⑦美福門院の墓・・・

■■美福門院の墓
●柘榴川堤防より(南→北)
名手下丹生神社より126号線~24号線~424号線を経て美福門院墓に至る、424号線を南下しながら走ると柘榴川の手前、左手に大きな楠木の姿が見えるのですぐに分かる。
紀の川市探訪④(07.10.12)⑦美福門院の墓・・・_a0016431_16491433.jpg
鎌足以来の名門、藤原主流の長実の子として生まれ、のち烏羽天皇の妃、近衛天皇の母となった藤原得子-美福門院(1117~1160年)閑居の地とされる安楽川荘(現桃山町最上)。
その一角に小さな祠がある。門院の遣骨を葬った地といい、大きな楠の根本に、小さな祠があり中に大きな五輪塔がある。
●小さな祠と五輪塔
紀の川市探訪④(07.10.12)⑦美福門院の墓・・・_a0016431_16513040.jpg
祠のわきに倒れそうに傾いたコンクリートづくりの五重塔がり、その下に、遺骨が納められているという。そして傍らに白い柱の碑があった。その表に「奉為美福門院菩提也」と書かれてあった。ー紀州民話の旅よりー

●■云うまでもなく美福門院は、摂関政治から武家政治へのきっかけを与えた保元の乱の重要なキーパーソンである。
保元の乱は,保元元年(1156)7月11日に後白河天皇の命を受けた平清盛・源義朝らが崇徳上皇の命を受けて事を起こそうとしていた源為義・源為朝・平忠正らを討伐した事件であるが,その深層をさぐれば,鳥羽上皇と崇徳上皇の確執,さらには,鳥羽上皇と白河法皇の確執となろうか?・・。そこに鳥羽上皇の后・美福門院が絡んでお決まりの権力闘争が激化するとい物語だ。
紀の川市探訪④(07.10.12)⑦美福門院の墓・・・_a0016431_1651573.jpg
最終的には鳥羽上皇の崩御を持って歯止めを失ったエネルギーは藤原家の内部崩壊も取り込み,さらには新興勢力の武士団を引き込んだことで,これまでにない血を分けた戦へと導かれていったのである
その余生も僅かに,京を去って4年後の永暦元(1160)年11月23日,「美福門院崩御シ尊骸ヲ荒河庄ノ大明山福王寺境内ニ於テ送葬シ奉ル 是平日ヨリ野山御信仰ノ故,御遺旨ニ任セル也」(「高野春秋」)
紀の川市探訪④(07.10.12)⑦美福門院の墓・・・_a0016431_16542530.jpg
★西行法師家集
「美福門院の御骨高野蓮臺院へわたされ給ひけるを見たてまつりて」
今日や君 おほふ五つの 雲はれて こころの月を みがきいづらむ
ーwww.road.jp/~smatsu/History/Wakayama-R424.htmーより抜粋
by barakan1 | 2007-10-21 17:06 | 旅日記
<< 紀の川市探訪④(07.10.1... 紀の川市探訪④(07.10.1... >>