曽爾村~御杖村~美杉村探訪(07.04.12)⑩-1北畠神社・・・

■北畠氏
●北畠神社社叢と左後方、霧山城跡
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南北朝時代、北畠親房(ちかふさ)は後醍醐天皇の絶大な信任を得て南朝の中核として活躍した。親房の三男、顕能(あきよし)が初代伊勢国司となり、天然の要害の地と言える多気の里に興国3年(1342)霧山城を築いて本拠地とした。その城下町は「小京都」とも言われ、伊勢の山間地に文化の華を咲かせた。各地の国司が戦国大名に滅ぼされる中で、伊勢の北畠氏は、天然の要害の地の利に守られ、約240年間にわたって伊勢国司として君臨した。

■北畠神社由緒(別格官幣社) 三重県津市美杉町上多気1148
●南鳥居(参道入口)     ●東鳥居(境内入口)
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祭神  従一位
右大臣・准后  北畠顕能(あきよし)公 
配祀  北畠親房公(父)    北畠顕家公(兄)
例祭日  十月十三日
●神社拝殿
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建武中興の偉業は半ばにして破れ、後醍醐天皇は三種の神器 を奉じて吉野山に仮の皇居を設けられた。時に延元元年(1336) 十二月。以降五十七年間を世に南北朝時代と言う。
北畠親房は学徳衆に優れ、天皇の信任篤く、常に側近に在ったが動 乱に際して自ら陣頭に指揮をとり、足利勢に対決した。大楠公以下諸忠 臣相次いで戦没し、長子の陸奥守鎮守府将軍顕家も亦、延元三年五月 弱冠二十一才で阿倍野(大阪市)の露と消えた。
●本殿   ●中門               ●拝殿
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神皇正統記は親房が常陸國の戦陣において筆を執ったもので、国体 の本義を明らかにして、南朝の正統を天下に宣言し、後世に大きな影 響を与えた史書である。

□顕能は興国三年(1342)に戦略上の拠点として、この地に霧山城を築き 伊勢国司に任ぜられた。この位置が当時の居館の跡である。館は多気 御所又は北畠御所と呼ばれていた。その生涯五十八年のうち、実に四十五年の歳月は南朝護持のため に捧げられたのである。大小の合戦六十数回、二度までも京都を奪 還した功績は偉大である。南朝方の大御所として、後醍醐、後村上、長慶の 三帝に仕えて忠誠をつくした。弘和三年(一三八三)七月廿八日多気に没す。 以後九代二百数十年に亘って、伊勢国司は一志・飯南・度会・志摩の 南勢五郡と紀伊、伊賀、大和に及ぶ領域に善政を布いたが天正四年 (1576)十一月、天下制覇を狙う織田信長の謀略により、具教は 三瀬の館(多気郡)に於て殺され、北畠氏は滅亡した。
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寛永二十年に一族の末裔鈴木孫兵衛家次この地に小祠を設けて北 畠八幡宮と呼び村人の尊崇を受けつつ幕末に至った。昭和三年十一月 天皇御即位の大礼の日に別格官幣社に列せられたが終戦とともに廃せられた。
●中門                     ●本殿
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霧山城跡標高五六〇米、遥かに吉野連峰を望む。
昭和十一年国の「史跡」に指定せらる。(美杉村所有・管理)
-境内案内板より-

●花将軍・北畠顯家像と北畠顕能の歌碑
曽爾村~御杖村~美杉村探訪(07.04.12)⑩-1北畠神社・・・_a0016431_1942247.jpg★北畠顕家夫人
なき人のかたみの野への草枕夢もむかしの袖のしら露
顕家は親房の子で南朝の武将。21歳で戦死。顕家の討ち死にした場所で詠んだとされる歌。

★北畠顕能(あきよし)の歌碑
いかにして 伊勢の浜萩吹く風の治まりにきと 四方に知らせむ
by barakan1 | 2007-04-27 19:51 | 旅日記
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