明日香探訪(07.02.06)②古宮土壇~甘樫丘東麓遺跡・・・ 

■古宮土壇 
古宮土壇は、73年の調査で掘立柱建物跡や池、石敷きなどが発見された事などから、つい最近まで小墾田宮跡だとされていたところです。が、1987年に雷丘東方遺跡から「小治田」と書かれた土器などが発見され、こちらの方が小墾田宮跡ではないかという説が強くなっています。
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巻11-2644
小治田の板田の橋の壊れなば桁より行かむな恋ひそ我妹
巻13-3260  
小治田の年魚道(あゆち)の水を間なくぞ人は汲むといふ時じくぞ
人は飲むといふ汲む人の間なきがごと飲む人の時じきがごと
我妹子に我が恋ふらくはやむ時もなし
※小墾田宮(おわりだノみや)跡
推古天皇が39歳の時、592年12月8日「豊浦宮」で即位し、翌年4月10日聖徳太子を皇太子にされて、603年10月4日「豊浦宮」からここ「小墾田宮」へ移られ、628年3月7日75歳で崩御されるまで25年間過ごされた「宮跡」です。

■甘樫丘東麓遺跡(蘇我入鹿邸とみられる遺跡に大規模な石垣)
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天皇をしのぐ権勢を振るい、大化改新(645年)で倒されたとされる蘇我入鹿(そがのいるか)(?~645)の邸宅跡とみられる奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおか・とうろく)遺跡で、飛鳥時代の石垣(7世紀前半)や掘っ立て柱建物跡7棟(7世紀)などが新たに見つかったと、奈良文化財研究所が1日、発表した。入鹿は644年に甘樫丘に邸宅を構えたとされており、同研究所は、今回の石垣は邸宅の見栄えを狙ったものとみている。従来の遺構と考え合わせると、甘樫丘は蘇我氏の一大拠点だった可能性が一段と高まった。
●岡寺より明日香を見る
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明日香探訪(07.02.06)②古宮土壇~甘樫丘東麓遺跡・・・ _a0016431_14141417.jpg●東麓遺跡横の石仏
日本書紀によると、644年、入鹿の邸宅が丘の谷間に、父の蝦夷(えみし)(?~645)邸が丘の上に並ぶように建てられた。翌年の大化改新で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らが入鹿を飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で殺害、蝦夷が両邸宅に火を放って自害したとされる。
ー2007年02月01日朝日新聞ーより抜粋

★★壬申(みづのえさる)の年の乱(みだれ)、平定(たひ)らぎし以後(のち)の歌二首
巻19-4260 
皇(おほきみ)は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
右の一首は、大将軍(おほきいくさのきみ)贈右大臣(おひてたまへるみぎのおほまへつきみ)大伴の卿の作みたまふ。
巻19-4261 
大王は神にしませば水鳥の多集(すだ)く水沼(みぬま)を都と成しつ
作者未詳右の件の二首は、〔天平勝宝四年〕二月の二日に聞きて、茲(ここ)に載(あ)ぐ。
by barakan1 | 2007-02-11 14:23 | 旅日記
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