天理市~大和郡山市探訪①(06.12.25)②飽波(あくなみ)神社(旧飽波宮跡)・・・

■飽波神社(旧飽波宮跡)  奈良県生駒郡安堵町東安堵1379
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祭神 素盞嗚命
境内末社;住吉社、水分社、神明社、春日社
●拝殿
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「飽波(あくなみ、安久波)神社」は、上宮遺跡、および、広峰神社と共にここを聖徳太子の「飽波宮跡」とも伝えて、767年(神護景雲元年)4月26日稱徳天皇が行幸され、江戸時代以降は、安堵庄総社、東西両安堵の氏神で、本殿は、春日造、檜皮葺、県有形文化財です。
●境内
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なお、境内末社として、住吉、水分、神明、春日社等も鎮座し、県有形民俗文化として、雨乞いの「南無手(ナモデ)踊り」の衣装等、その関係資料115点を保存しています。
●拝殿・本殿
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安堵町の飽波神社(旧飽波宮跡)は聖徳太子が宮に滞在中、夢で東方に五色の雲がたなびき、霊剣が現れるのを見、素戔嗚命(すさのおのみこと)が牛頭天王(ごずてんのう)となって顕現したと思い、飽波宮に祠を作ったのが始まりだと伝えています。現在の飽波神社は1,000年ごろ広峰神社から移転されたものです。
※(安堵町の広峰神社は垣内名を飽波といい、元々の飽波神社の跡で、太子の宮跡の伝説を持っています。)

天理市~大和郡山市探訪①(06.12.25)②飽波(あくなみ)神社(旧飽波宮跡)・・・_a0016431_10554846.jpg●伝聖徳太子旧蹟「御幸石」
なお、「飽波神社」の前の道は、聖徳太子が従者の調子丸を連れて、愛馬の黒駒に乗って斑鳩宮から飛鳥の「小墾田宮跡」へ通われた太子道で、境内の南側に太子がお座りになった「御幸(みゆき)石」があり、本殿の裏に、太子ゆかりの影向石(ようごうせき)もあり、社前に寛永十二年(1635年)の石灯籠も建っていますが、また、太子がある時、この辺りを黒駒に跨ってお通りになった時、突然突風が吹き、雨が降り出し、水が満々と道に溢れましたが、何処からともなく何万羽の雀が飛来して、太子の前で舞ったので、太子がその様を見て大層喜ばれ、その後、当神社では今でも、雀を使いとして保護するようになりました。ー奈良観光より抜粋ー
by barakan1 | 2006-12-31 11:00 | 旅日記
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