■藤原武智麻呂墓への道
●榮山寺登り口
藤原武智麻呂は奈良時代前期の貴族で、藤原南家(なんけ)の祖です。彼は没後、平城京北方の佐保山で火葬されましたが、子の仲麻呂が榮山寺裏山の当地に改葬したものと思われます。『延喜式』の「後阿陀墓」に当たる。国史跡。
●展望台より五条・橋本方面(西)を見る
●藤原 武智麻呂(ふじわら の むちまろ)墓遠景
●墓登り口
天武天皇9年(680年) - 天平9年7月25日(737年8月29日)は、飛鳥時代~奈良時代の政治家。藤原不比等の長男。藤原南家の祖。
●藤原 武智麻呂墓
父の死後、中納言となり藤原一族の中心的存在となる。聖武天皇のもとでは右大臣を務める。737年、天然痘で倒れ余命いくばくもないということで左大臣に昇進する。弟の房前に比べると政治的活動は乏しいと言われているが、大学頭だった時代に大学制度の設立につくすなど文教行政面での活躍は特筆すべきものがある。彼自身も深い教養の持ち主であり、聖武天皇の皇太子時代には家庭教師役に選ばれたりもしている。ウィキペディア
□藤原家家系
藤原鎌足━┳ 定 慧
(中臣) ┣ 不比等 ━━┳武智麻呂[藤原南家祖]━仲麻呂(恵美押勝)
┣ 耳面刀自 ┣房 前[藤原北家祖]━┳ 永手
┃ ┗ 真楯 ━内麻呂
┣ 氷上媛 ┣宇 合[藤原式家祖]━┳ 広嗣
┃ (天武帝女御) ┣麻 呂[藤原京家祖] ┣ 清成 ━種継
┗ 五百重媛 ┣宮 子 (文武帝后) ┗ 百川
(天武帝女御 ┣長峨子 (長屋王妾)
┣光明子 (聖武帝后)
┗多比野 (橘諸兄室)