天理市・櫟本(北山之辺の道含む)(06.09.14)探訪⑤和爾下神社神社~柿本人麻呂歌塚~柿本寺跡・・・

■和爾下神社(わにした) 式内社 上治道天王神社 天理市和爾町2490
●一の鳥居
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鳥居の直ぐ側に万葉歌碑があります。
長忌寸意吉麻呂
管16-3824 
さす鍋に湯沸かせ子ども櫟津(いちひつ)の桧橋(ひはし)より来む狐(きつ)に浴(あ)むさむ
右の一首は、伝云(いひつて)けらく、ある時衆(ひとびと)集ひて宴飲(うたげ)す。
     時に夜ふけて狐の声聞こゆ。すなはち衆諸(ひとびと)奥麿を誘(いざな)
     ひけらく、此の饌具雑器(くさぐさのうつはもの)、狐の声、河橋等の物に
     関(か)けて、歌よめといへり。即ち声に応(こた)へて此の歌を作
     めり。
●二の鳥居
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祭神
素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命
明治四年の櫟本の祠官の報告では天足彦押人命。彦姥津名、彦国葺命
●拝殿・境内
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a0016431_14292529.jpg由緒
『延喜式』神名帳の大和国添上郡に、「和爾坐赤坂比古神社」と「和爾下神社二座」が記載されている。 和爾下神社は天理市櫟本町宮山と大和郡山市横田に鎮座している。
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二つの和爾下神社は、東西線上に走る竜田道(治道)沿いに2.5kmほどの距離で鎮座している。 櫟本町の神社を上治道天王、横田町の神社を下治道天王という。

国指定重文の本殿、三間社流造・向拝付・檜皮葺 桃山期の建立。
ー神南備にようこそーより
●「影媛あわれ」の説明板がある。
石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さえ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣き沾(そぼ)ち行くも 影媛あわれ
『日本書紀:武烈天皇即位前紀』にある。影媛は平群鮪の恋人、媛に横恋慕した太子(後の武烈天皇)により、大伴金村の軍により乃楽山で殺された。これを悲しみ、布留から乃楽山へ行き、弔いをした。この櫟本の地は山辺の道と都祁山道との衢にあたり、政治、軍事、文化の要衝であった。

■高瀬川(神社横を流れる)
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神護景雲3年(769年)、東大寺領であった櫟庄へ水を引くために、高瀬側の水路をいまの和邇下神社の参道に沿った線に移し、道も新しく真っ直ぐに造られたので、この森を「治道の森」といい、宮を「治道社」と読んだという。

■柿本人麻呂の歌塚  天理市櫟本町小字宮山
(歌聖・柿本人麻呂の遺髪を葬ったとされる塚)
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和邇下神社の参道脇にゲートボール場があり、その奥に大きな木が茂る一画がある。樹木に囲まれて、歌聖・柿本人麻呂(カキノモトノヒトマロ)の歌塚が建っている。
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任地の石見(いわみ)の国で死んだ人麻呂の遺髪を、後の妻である依羅娘女(ヨサミノオトメ)が持ち帰ってここに葬ったという。現在の碑は享保17年(1732)に建てられたもので、表面の文字は第111代後西天皇(在位1654 ~ 1663)の皇女・宝鏡尼の筆によると伝える。

■治道山柿本寺(しほんじ)跡
櫟本町の和爾下神社の境内には柿本寺跡があり、その跡からは奈良時代の古瓦が出土、円型礎石四基が現在も散在している。
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柿本寺は、櫟本町の和爾下神社の神宮寺であろう。
(天理市櫟本町は、柿本人麻呂の生地であると伝えられ、奈良時代に創建された柿本氏の氏寺「治道山柿本寺」はこの地に建っていた。)
※参道のギリギリまで人家が詰まっていますが、二の鳥居付近からは、ガラっと雰囲気が変わります。深い樹木に覆われ静かな佇まいを見せてくれます。手入れもよくされています。
by barakan1 | 2006-09-18 15:09 | 旅日記
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