葛城市(当麻~尺土~新庄)~御所市探訪③(06.08.22)⑥茅原・熊野神社~吉祥草寺 ~笠堂・・・

■馬橋の地蔵尊(吉祥草寺への石標) 
土佐街道に面し、石碑の左側の道を東に行くと吉祥草寺です
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■熊野神社  奈良県御所市茅原287
●鳥居・拝殿             ●本殿
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祭神
伊邪那美命、速玉男命、大事忍男神
由緒
役行者生誕(634年)の地とされている吉祥草寺の鎮守として勧請された熊野権現である。
壺坂寺参詣の道ー土佐街道とも言うーに面して鎮座

■茅原山・吉祥草寺    奈良県御所市茅原
宗派本山修験宗
御本尊五大力尊
開基役行者:神変大菩薩
創建舒明天皇御代
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吉祥草寺は修験道の開祖、役行者が飛鳥時代の634年(舒明天皇6年)に生誕した寺として知られる。寺伝によれば、本山は舒明天皇の発願により創建され、その後、南北朝時代の1349年(貞和5年)高師直の兵火にかかり焼失した。
本堂とそれとつながる祖師堂(行者堂)は応永年間(1394~1428年)に再建されている。この本堂は老朽化が進み、現在建て替え中で、覆いが被さりその姿を見ることが出来ない。
●本堂(工事中)             ●祖師堂(行者堂)
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葛城市(当麻~尺土~新庄)~御所市探訪③(06.08.22)⑥茅原・熊野神社~吉祥草寺 ~笠堂・・・_a0016431_1223389.jpg●観音堂
吉祥草寺最大の祭りは「大とんど(左義長)法要」で、1978年(昭和53年)国の無形民族文化財に指定されている。この祭りは、役行者が冤罪により伊豆に流され、701年(大宝元年)に無事帰還した折、茅原の里人がこれを喜び、大きな松明を焚いて祝ったのが始まりとされ、古い行事を今に伝えている。

□役小角 
634年に大和国葛木上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。生誕の地とされる所には、吉祥草寺が建立されている。17才の時に元興寺で学ぶ。このとき、孔雀明王の呪法を学んだと言われる。その後、葛城山(金剛山)で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を受け取り、修験道の基礎を築いた。
●行者・産湯の井戸            ●行者・腰掛石
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【伝説】葛城山と金峰山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとしたり、二十代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという、また讒言により、捕らえられ伊豆島に流された時は、昼だけ伊豆におり、夜には空を飛び富士山に行って修行した等々の伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。

699年に謀反の疑いをかけられ、伊豆大島へ流刑となり、701年に疑いが晴れて茅原に帰る。
706年6月7日に68歳で箕面の天井ヶ岳にて入寂したと言われる。

後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、「役行者」と呼ばれるようになった。寛政11年(1799年)には、光格天皇より「神変大菩薩」の諡を賜わった。
●吉祥草寺山門の仁王像
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天河神社や大峯山龍泉寺など殆どの修験道の霊場は、役行者を開祖としていたり、修行の地としていたりするなど、必ずと言っていいほど、結び付けられている。(Wikipedia)より
■茅原・笠堂
昔、大暴風雨で田植えが出来なかった時、役行者がここを通り自ら田の中に入って田植えをした。すると不思議にも雨風はやんだ、その時行者の笠をぬいだ所に地蔵尊を安置したのが今の笠堂だという。
●笠堂(奥に吉祥草寺山門が見える)
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また戦国時代に笠堂の修復があった。その出来あがりの日に世話人が供物を村衆に分った。その時一人の見慣れぬ巡礼者が交じっていた。それはあとで明智光秀の娘であったと分かった。
by barakan1 | 2006-08-30 12:48 | 旅日記
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