飛鳥(祝戸・稲淵・坂田)を探訪(06.01.29)②マラ石~都塚古墳~くつな石~坂田寺跡・・・終

■マラ石 明日香村大字 祝戸
明日香村にある謎の石像物の一つ。
男性器を模したもので本来は真すぐに立っていたともいわれている。地元では、飛鳥川をはさんだ対岸の丘陵を「フグリ山」と呼び「マラ石」と一対のものと考える説もある。子孫繁栄や農耕信仰に関係した遺物と考えることもできよう。案内板より
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■都塚古墳  高市郡明日香村坂田
●都塚古墳より西を見る
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古墳の形:方墳  年代:6世紀末
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石舞台から稲渕に歩いていく途中、細川谷にある一辺28mの方墳で、このころの古墳としてはめずらしく石舞台同様、風水思想をとり入れず開口部が南を向いていません。
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主体部は長さ12.2mで南西に開口しています。横穴式石室で玄室の長さは5.3m、幅2.5mあり両袖式に幅2mの羨道をつけてあります。玄室には凝灰岩の刳抜式家形石棺が置かれていました。遺物は玄室内で刀子、鉄ぞく、小札、須恵器片が、羨道からは留金具、須恵器が出土したそうです。ーいにしへの倭よりー

■くつな石  くつな=蛇(旧名 くちなわ)    明日香村阪田
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明日香を代表する石舞台から南を向くと、古代史にうたわれている南淵山が、さながら石舞台の屏風のように連なっている。その麓に阪田という集落がある。この阪田の奥に、「くつな石」という、村人が「神の宿る石」として崇めている石がある。

●くつな石への道から西方を見る
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飛鳥(祝戸・稲淵・坂田)を探訪(06.01.29)②マラ石~都塚古墳~くつな石~坂田寺跡・・・終_a0016431_15415637.jpgこの石の由来については、その昔、ある山に巨大な石があったそうな。これに目をつけた石屋がこの石を切り出そうとして、鑿(ノミ)で"コーン"と一打・・・・。すると、不思議に石の割れ目から赤い血が流れ出し、傷ついた白い蛇が現れた。それを見た石屋はびっくり仰天。「これは大変。」と驚き恐れ、鑿(ノミ)や道具も捨てて逃げ帰ったそうな。しかし、その夜から高熱にうなされ、とうとう亡くなってしもうたそうな。このことを聞いた村人達は、これは「くつな(蛇)」の祟りと恐れ、それ以来、神の宿る石として祀っている。地元では昔から七月二十一日を「弁天さんの夏祭」といって、お神酒をはじめ、種々の品々を神前に供え、般若心経を唱えてお祀りをした、今は簡素化されて七月二十一日の祝日をあてて、老人会が主催してお祭りしている。
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また「くつな石」は、雨乞いの神としても知られている。昔はよくここで雨乞いの祈祷がおこなわれ、霊験あらたかだったそうだ。地元では、この地を弁天さんと称し、くつな石を弁天さんの愛称で呼んでいるが、「くつな石」と「弁天さん」の関係は定かではない。
ーあすか昔ものがたり 飛鳥京観光協会より

■坂田寺跡   高市郡明日香村阪田
阪田にあり丘陵北面の傾斜地に位置し、持統天皇の時には、大官大寺、飛鳥寺、川原寺、豊浦寺とともに飛鳥五大寺の一つであった。現在は、医王山薬田院金剛寺(浄土宗知恩院末)があり、後をひきついでいるといわれているが、そこには古い寺跡もなく古瓦の出土もなくおそらく現在の位置とは異なっていると考えられる。
●医王山薬田院金剛寺
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飛鳥(祝戸・稲淵・坂田)を探訪(06.01.29)②マラ石~都塚古墳~くつな石~坂田寺跡・・・終_a0016431_166360.jpg日本書紀によると、継体天皇十六年(五二二年)来朝した司馬達等が坂田原に草堂を結び仏像を安置礼拝した場所に、その子多須奈が用命天皇二年(五八七年)天皇の病気平癒を祈願して自ら出家し丈六仏像を造顕し寺を建てたとあり、推古天皇十四年(六〇六年)には、その子鞍作鳥が堂の戸をこわすことなく飛鳥大仏を金堂内に納めた功などによって賜った水田を持って金剛寺を造ったとあるが、造営の位置等は明らかでない。豊浦寺とならび代表的な尼寺として隆盛を誇っていたようで、奈良時代天平勝宝元年(七四九年)には、信勝尼が東大寺に大仏の東脇侍観音菩薩像を寄進している。
弓削皇子に献れる歌一首
巻9-1709 
御食(みけ)向ふ南淵山(みなふちやま)の巌(いはほ)には降りしはだれか消え残りたる
     右、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出ヅ。
●坂田寺跡
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しかし、寺勢はその後次第に衰え、堂宇も荒廃し礎石は多く持ち去られ、現在では唯わずかに字名を残すのみとなっている。ー明日香村観光ガイドー
by barakan1 | 2006-01-31 16:13 | 旅日記
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