太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・

■三宅道(太子道)の万葉歌
巻13-3295
うちひさつ 三宅の原ゆ 直土(ひたつち)に 足踏みつらね
夏草を 腰になづみ 如何なるや 人の子ゆゑそ
通はすも吾子(あご) うべなうべな 母は知らず
うべなうべな 父は知らず 蜷(みな)の腸(わた) か黒き髪に
真木綿(まゆふ)もち あざさ結ひ垂り 大和の 黄楊(つげ)の小櫛を
抑へ刺す 敷妙の子は それそ吾(あ)が妻
反し歌巻13-3296
父母に知らせぬ子ゆゑ三宅道の夏野の草をなづみ来(け)るかも
●三宅道(みやけじ)
太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・_a0016431_10291952.jpg

この長歌と反歌は父母とその息子の問答となっていて、息子がこの夏の暑い中を嫌がらずに通う女性がどのような児であるのか!?と問うのに対して、息子は黒髪に木綿の緒で、あさざの花を結い、黄楊の櫛をさした児が私のつまですよと答えているのである。
★千数百年前、この三宅道をセッセと恋人のところへ通う男がいた訳だ!!今も昔も恋いの熱情に変わりはない。

■太子道
奈良盆地に敷かれた条里に添った道が今も正確に東西・南北に走っている中、それと約20度傾いた道が1本見られます。飛鳥時代、聖徳太子が飛鳥から斑鳩に通った「太子道」と伝えられている道で、条里制が敷かれる前に通されたためにこのような方角になったのでしょう。太子は毎日、愛馬の黒駒に乗ってこの道を通り、屏風の地で休憩を取ったと言い伝えられ、その時地元の人たちは屏風を立て回して太子をもてなしたため屏風の名がこの地に付けられたとされています。ー三宅町散策マップーより
●伴道(ともどう)杵築神社の前
太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・_a0016431_10321093.jpg


■伴堂(ともどう)杵築神社
●太子道より                  ●鳥居(正面より)
太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・_a0016431_1038418.jpg

拝殿に掲げてある「おかげ踊り」絵馬が民俗学的に重要らしい。
●鳥居                      ●拝殿
太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・_a0016431_10404941.jpg


■忍性菩薩生誕の地
建保5年(1217年)7月16日、大和国屏風の里(現在の三宅町屏風)に生まれた良観房忍性は真言律宗の高僧で、西大寺を拠点に活動し、後に関東地方に赴いて鎌倉を中心に布教に力を尽くしましたが、何よりも癲者や盲者をはじめとする病者、非人や罪人として差別されている人、さらに貧しい人々のための救済活動の実践に身を捧げた人としてわれわれの心に強く残る中世の「救済の人」です。
西大寺に住まいした忍性は奈良市の奈良坂に、我が国に残る最古の救癲施設である「北山十八間戸」を建設しました。このころ奈良坂に住まう癲者が重傷で市中に物乞いに出ることも出来なかったため、忍性はこの人を負って早朝市中に行き、夕刻に連れて帰って生活が成り立つようにし、これを数年間休まずに続けたと伝えられています。ー三宅町散策マップーより
太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・_a0016431_1043120.jpg

★そう言えば、先日探訪した生駒谷の竹林寺にお墓がありましたね!?

■屏風杵築神社
聖徳太子接待の「太子接待絵馬」がある。
●太子道より                ●境内への石橋
太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・_a0016431_1046854.jpg

●拝殿
太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・_a0016431_1047329.jpg

●本殿
太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・_a0016431_10544493.jpg

●屏風の清水
聖徳太子が弓をとり、ここを掘られたら清水が湧き出したといわれている。今は写真のようになっており、水はない。
太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・_a0016431_10582522.jpg


■屏風白山神社
法隆寺に通ずる道路と川を挟んで屏風杵築神社と相対する位置にある。本殿は高い石柱をめぐらした柵の中に南面している。またこの境内に表面扁平な大きい石が半分ほど地下に埋もれたのがある。これが伝説にいう聖徳太子が法隆寺から橘寺への道中、ここでお食事をとり、やすまれたと伝えられる「腰掛石」である。また、愛馬黒駒をつなぎとめたといわれる「駒つなぎの柳」もある。-三宅町散策マップー
●太子道より全景(小さな公園位の広さです)
太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・_a0016431_10503587.jpg

●駒つなぎの柳               ●腰掛石
太子道を行く(三宅道~広瀬)の古墳・古寺社探訪(05.07.13)③伴堂・屏風杵築神社、白山神社・・・_a0016431_10531546.jpg

★あくまで伝承であるが、地元の人達が聖徳太子を敬い慕い、これらを守ってきたということ自体が大きな歴史であるといえるのではないだろうか!!
by barakan1 | 2005-07-15 11:15 | 旅日記
<< 太子道を行く(三宅道~広瀬)④... 太子道を行く(三宅道~広瀬)の... >>