巨勢道の古墳・古社・寺探訪 ④巨勢寺塔跡~正福寺~阿吽寺・・・

■巨勢山遠望
●万葉集 巻7-1097
我が背子をこち巨勢山と人は言へど君も来まさず山の名にあらし
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■巨勢寺塔跡
JRと近鉄前に挟まれた極小さな畑の中に、現在小さな大日堂が建っている(かっての巨勢寺の中心)。その近くに塔心柱の礎石が元の位置のまま残されている。約1.3m角の大きさのこの礎石の表面は特異な構造をしている。 石の表面に直径88cm深さ12cmの円柱の穴があり、さらにその中央に直径13cm深さ6cmの舎利納孔がうがってある。舎利納孔の周りには、同心円状に三重の溝が切ってあり、 これらの溝を結ぶ排水溝が掘られている。
●大日堂を後方より見る           ●正面より
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●大日堂                   ●塔心礎
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■冬野山正福寺(しょうふくじ) 巨勢寺の子院 
古瀬(こせ)の集落に浄土真宗「正福寺(江戸時代迄は勝福寺)」があり、同寺に、かっての五重塔を描いた「巨勢寺」の伽藍図「和州葛上郡古瀬邑玉椿山図」が保管されています。山号は巨勢寺門前の冬野春野の庭名から名付けられたものだそうです。
万葉集 春日蔵首老(かすがノくらびとおゆ)の歌  巻1-56
河上(かわノうへ)のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は  
春日蔵首老は、元「弁基」と云う僧侶で、飛鳥時代の701年に遷俗しています。(弁基とは、確か以前掲載した壷坂寺の開基僧ではなかったかな!?)
●山門
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●本堂
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■玉椿山阿吽寺(あおんじ)
ー平安時代に巨勢川が氾濫して、里人が避難に窮したとき、一人の法師が来て里人を救済した。そこで、 里人はこの法師をあがめて玉椿精舎に請い住まわせた。玉椿精舎とは巨勢寺のことで、巨勢寺の一子院が法師の名に因んで阿吽寺と呼ばれるようになった。貞治元年の火災 で寺の建物が全焼し、それ以来荒廃したままになっていた。江戸時代のはじめに一度再建され、高野山真言宗の末寺になった。しかしその後も衰退を重ね明治の初めごろ には、無住のまま放置され廃寺となった。明治13年になって、信仰心の厚い地元の人々が仮堂を建て、正福寺に預けてあった仏像を迎えた。ー案内板より抜粋ー
●巨勢山裾に引っ付くようにある阿吽寺
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この辺り一帯は、巨勢山で、境内の片隅に故犬養孝先生が揮毫(きごう)の万葉歌碑があります。この歌は、701年(大宝元年)秋9月、女帝の持統天皇が紀伊国へ御幸の際、巨勢寺に立ち寄られた時、坂門人足(さかとノひとたり)が詠った歌です。 巻1-54
巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ思(しの)ばな巨勢の春野を 
●門           ●本堂          ●本堂への階段
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a0016431_183536.jpg■能登瀬川(曽我川)と巨勢道
万葉集 波多朝臣小足 巻3-314
さざれ波磯越道(いそこしぢ)なる能登瀬川音のさやけき激(たぎ)つ瀬のごと
   よみ人知らず  巻13-3257
直(ただ)に来(こ)ずこゆ巨勢道(こせぢ)から石橋(いしばし)踏みなづみぞ我(あ)が来(こ)し恋(こ)ひてすべなみ

★やっと、つらつら 椿の里へ来ることが出来ました。・・・が、巨勢山の隣の山を切り出しており、あまりの山容のの変化に愕然としました。天平時代そのままとは言いませんが、古きよき時代の美しいものが消えて行くのは寂しいものです!!
・古に椿咲きたる巨勢の山きょう来て見れば土けぶり立つ
・巨勢山も遠くになりぬつらつらと椿も見えず権現の塚
by barakan1 | 2005-05-13 17:24 | 旅日記
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