紫香楽宮跡と蒲生野探訪(13.03.07)⑥紫香楽宮跡・・・

紫香楽宮/信楽宮(しがらきのみや)
奈良時代、聖武天皇が近江国甲賀郡(滋賀県甲賀市)に営んだ離宮。後に甲賀宮(こうかのみや)とも称され、都となった。
●宮町遺跡付近地図
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「古代史の中でも不可解なものの一つなのは、この紫香楽宮にまつわる遷都です。平城京、恭仁京、難波京、紫香楽宮、平城京と5年間に4度も遷都が行われたのです」
●地図A地点より紫香楽宮跡方向(北東)を見る
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◇740年、前出の藤原宇合(うまかい)の子藤原広嗣が九州で挙兵した。朝廷での権力が藤原氏から橘氏に代わり、吉備真備や玄昉がもてはやされた事に対する不満からだったといわれています。
反乱は9月3日に始まり10月23日に広嗣が処刑され終息したのですが、ここで聖武天皇の不可解な行動が起きたのです。
◇740年10月下旬、広嗣の乱の終息の情報が平城京に伝わっていないときに、何故か伊勢、桑名、大垣、関ヶ原、大津、恭仁京へと行幸し、ついには恭仁京に遷都してしまう。
◇742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸した。これが紫香楽宮である。
◇翌743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願した。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められた。
◇744年(天平16年)、信楽宮から甲賀宮へ宮名の変化が徐々にあらわれ、11月には甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられた。
◇745年(天平17年)1月には新京と呼ばれ、宮門に大楯と槍が立てられ、甲賀宮が都とされた。しかし人臣の賛同を得られず、また天災など不幸なことが相次ぎ、同年5月に平城京へ戻ることになった。このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は、「奈良の大仏」東大寺盧舎那仏像として完成されることになった。
●紫香楽宮跡
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●案内看板
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◆紫香楽の地は、当時の感覚においては余りに山奥である事から、ここを都としたことを巡っては諸説があり、恭仁京周辺に根拠を持つ橘氏に対抗して藤原仲麻呂ら藤原氏に関与したとする説や天皇が自らの仏教信仰の拠点を求めて良弁・行基などの僧侶の助言を受けて選定したとする説などがある。
●地図B地点より紫香楽宮跡方向(南西)を見る
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◆宮跡 かつては甲賀郡信楽町(現・甲賀市)黄瀬・牧地区の遺跡(1926年「紫香楽宮跡」として国の史跡に指定)が紫香楽宮跡と考えられていたが、北約1kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡が検出され、税納入を示す木簡が大量に出土したことなどから、宮町遺跡が宮跡と考えられるようになり、黄瀬・牧地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡であるという説が有力である。2005年には宮町遺跡を含む19.3ヘクタールが史跡「紫香楽宮跡」に追加指定されている。現在でも、「宮町」「勅旨」「内裏野」などの地名が残り、往事の宮城の名残を残している。
◆この辺りを詠んだ万葉歌がないのが残念ですが。
十二年庚辰冬十月、太宰少弐(おほみこともちのすなきすけ)藤原朝臣廣嗣が反謀(みかどかたぶ)けむとして軍(いくさ)を発(おこ)せるに、伊勢国に幸(いでま)せる時、河口の行宮(かりみや)にて内舎人(うちとねり)大伴宿禰家持がよめる歌一首
巻06-1029
河口(かはくち)の野辺に廬りて夜の歴(ふ)れば妹が手本し思ほゆるかも
天皇御製歌一首(聖武天皇)
万葉集
巻06-1030
妹に恋ひ吾がの松原見渡せば潮干の潟に鶴たづ鳴き渡る
【補記】一つ前の歌が家持の天平十二年伊勢国河口行宮での作なので、この歌も同年の行幸の時の作か。「吾の松原」は万葉集の左注によれば伊勢国三重郡にあった松原。今の四日市市辺りかという。ー千人万首よりー
※※宮町の盆地の面積もそう広大ではなく、奥まったような感じで、なぜ天皇がここに宮を作ったのか私には分かりません。昔の面影を残す故、これからも、悠久の歴史を伝え続けることでしょう!
by barakan1 | 2013-03-16 13:53 | 旅日記
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