<   2015年 01月 ( 3 )   > この月の画像一覧

明日香探訪(2015-01-24)③酒船石・・・

酒船石 Wikipediaー
小高い丘の上にある花崗岩の石造物。
a0016431_12115112.jpg
主軸はほぼ東西で、現存の長さ約5.5メートル、幅(南北)約2.3メートル、厚さ約1メートルであるが、北と南の一部が欠けている。上面に皿状のいくつかのくぼみとそれを結ぶ溝が刻まれている[1]。酒を造る道具、あるいは薬などを造るための道具とも言われ諸説あるが定かではない[2]。近くに水を引いたと見られる土管や石の樋も見つかっていることから庭園の施設とも言われている。
a0016431_12132340.jpg
後世江戸時代に高取城を築城するため石垣用の石材として利用しようとしたと思われる石割用の石鑿の跡が見られ、上面の造形が欠損している。
a0016431_12125032.jpg
1927年(昭和2年)4月8日、国の史跡に指定された。  
★(*^_^*)写真クリック 大きくなります
2004年訪問時画像
by barakan1 | 2015-01-30 12:20 | 万葉故地

明日香探訪(2015-01-24)②治田(はるた)神社・・・

治田(はるた)神社  式内社   奈良県高市郡明日香村大字岡字治田964
御祭神  品陀別天皇 素盞嗚尊 大物主神
a0016431_13482247.jpg
『岡寺』の向いにある。近年まで「八幡」だった神社で、鳥居は岡寺参道の下にある。
多分、多くの人は、岡寺の鳥居だと思っているはず。
●説明板
a0016431_1349513.jpg
現社地は、岡寺の伽藍跡。明治十二年までは、岡寺講堂の礎石が並んでいたという。
岡寺の移築後に、鎮座した。古社地がどこであったかは不明。一説には、明日香村豊浦付近にあったという。
●神社参道
a0016431_13512857.jpg
式内社・治田神社に比定されている神社だが、八幡宮とも称していたようで、明治になって治田神社の戻したという。ー玄松子の記憶よりー
●神社境内
a0016431_14125839.jpg

◆◆由緒  『五郡神社記』に、「古語拾遺」をひいた社名起源説話がある。
治田神社一座、在逝回郷小墾田村 今云豊浦村 社家者 小治田臣 説曰、治田神社一座、大地主神 大己貴命之異名也 旧記曰、往昔神代大地主神、治墾開田地令植稲田、是故称大地主神、奉申墾田 此云波留多 神矣 (以下省略)
明日香村豊浦の小墾田に神社を建立、小治田神社と称したと云うが、該当社は不明。
近世には八幡神社と称し、岡寺門前に鎮座することにより崇敬も厚かった。社頭掲示には岡寺の鎮守社とも説明がある。 高市郡の延喜式内社 。ー神奈備にようこそ-よりー
●本殿
a0016431_1465425.jpg
※★(*^_^*)写真クリック 大きくなります
by barakan1 | 2015-01-27 14:17 | 万葉故地

明日香探訪(2015-01-24)①都塚古墳・・・

明日香探訪です。
何年ぶりでしょうか? 見尽くした気がして、ここ暫くは離れていました。
半年ほどの前の新聞に、都塚古墳のことが載っていたのを思い出し久し振りに出掛けました。
今日は自宅から高速を利用して行ってみました。何と1時間弱(約50㌔)で石舞台に到着しました。多武峰からの道が開通したためか以前に比べ、ダンプの往来が多くなっているような気がしました・・・。
冬真っ只中ということもあり、色彩には掛けますが、いつも通りゆったりと時間が流れています。
a0016431_18544444.jpg

弓削皇子に献れる歌一首
巻9-1709 
御食(みけ)向ふ南淵山(みなふちやま)の巌(いはほ)には降りしはだれか消え残りたる
     右、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出ヅ。
舎人皇子に献れる歌二首
柿本人麻呂
巻9-1704 
ふさ手折(たを)り多武(たむ)の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒ける
◆本日のコース
自宅から車(10時)~都塚古墳~治田神社~酒船石~大原神社~大伴夫人の墓~飛鳥坐神社~明日香村埋蔵文化財展示室~自宅へ(15時着)

都塚古墳「古代飛鳥の歴史解く発見」 石舞台もピラミッド状?   ー産経新聞よりー
(奈良県高市郡明日香村阪田)
a0016431_18572917.jpg
13日、国内で例のない階段ピラミッド状の巨大方墳と判明した奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳。被葬者は、古代朝廷の実力者・蘇我馬子(そがのうまこ)の父、稲目(いなめ)である可能性が高い。稲目は歴史上では馬子ほどメジャーではないが、天皇家との姻戚関係を確立、蘇我氏の隆盛の基盤をつくった人物だ。今回の調査によって、馬子の墓とされ、上部構造が不明だった石舞台古墳(7世紀前半)についても、同じ形だった可能性が出てきた。
a0016431_190670.jpg
飛鳥時代初期(6世紀後半)の都塚古墳は、馬子の墓との説が強い石舞台古墳の南東約400メートルに位置。近くからは蘇我氏の邸宅跡とされる大型建物跡も見つかっており、周辺は蘇我氏の拠点とされる。日本書紀によれば、6世紀当時は、稲目(570年没)が実力者として活躍し、その後馬子、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と3代続く権勢の基礎を築いた。
a0016431_1902050.jpg
関西大などは、蘇我氏の有力者の墓と推定。泉森皎(こう)・元橿原考古学研究所副所長(考古学)は「馬子以前の6世紀後半に蘇我氏の根拠地といえる場所に、大規模な墓をつくることができるのは稲目しかいない。古代飛鳥の歴史を解明する上で、大きな意味を持つ発見だ」と話している。
a0016431_1901011.jpg
日本書紀によると、稲目は宣化元(536)年、天皇を補佐する大臣に就任。欽明天皇に再任され、吉備(現在の岡山県)に天皇の直轄領の屯倉(みやけ)を選定するなど、欽明政治を支えた。
 その中で、稲目は堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)の2人の娘を欽明の妃に送り込む。2人が生んだ子供(皇子と皇女)は計18人で、その中から用明(ようめい)、崇峻(すしゅん)、推古(すいこ)の3天皇が誕生。天皇家との姻戚関係はその後馬子-蝦夷-入鹿と、計4代続く古代朝廷での蘇我氏の権力を揺るぎないものにした。
2014.8.14  ー産経新聞よりー

■コース地図


by barakan1 | 2015-01-26 19:20 | 万葉故地