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塩屋王子神社(2013-06-23)神社探訪⑦・・・

塩屋王子神社 (美人王子)  御坊市塩屋町北塩屋1146
●神社正面          ●社号表
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●境内の塩屋王子神社の説明碑文
塩屋の歴史は古く、天田古墳群、中村遺跡、東大人遺跡、尾ノ崎遺跡など旧石器時代から中世にかけての遺跡があります。 古くから製塩が行われていたようで多くの製塩土器が出土しており、平城京跡から出土した木簡に、日高地方から潮を送ったという記録も発見されています。
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また、『続日本紀』の」大宝三年(703)五月条には、日高郡の調として銀を献上することを命じたことが書かれています。 当時、我が国で銀の採掘できる場所は対馬以外になく、航海技術など相当進んだ、諸々の技術者が日高地方に住んでいたと思われます。伝説では権現磯に熊野権現が上陸し、切目、神倉、飛鳥、速玉の各神社を経て熊野大社に遷座されたとの言い伝えもあり、当時塩屋には有力な豪族が住み、その氏神が塩屋王子ではなかったかと推察します。
●神社境内
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十世紀以降、熊野信仰が興隆してくると、在地の諸社を王子社に仕立てていきました。塩屋王子(現 塩屋王子神社)は、熊野九十九王子のなかで特に古く古く格式の高いものとされ、最初に出来た七王子(藤白、塩屋、切目、磐代、滝尻、近露、発心門の七社)の中の一社でした。 熊野御幸路においては、山また山を越え塩屋に入り田辺に至るまで海岸に沿える道は甚だ楽しい眺めであったようで、天仁二年(1109)の「中右記」に「塩屋王子に至って奉幣、上野坂の上に於いて祓、次昼養巳刻、次に伊南里を過ぐ、次?王子に奉幣、次切部水辺に至って祓、次王子社に参って奉幣、世に分陪支王子と号す、日入るの間切部庄下人小屋に宿す、今日或は海浜を行き、或は野径を歴、眺望極まり無く遊興多端也」とあり、建仁元年(1201)の『後鳥羽院熊野御幸記』には、「山を超して塩屋王子に参る、この辺り又勝地祓あり、次に昼宿に入りて小食す」とあります。 正治二年(1200)後鳥羽上皇三度目の熊野御幸の時、切目宿にて
海辺晩望」の題で「漁り火の光にかはる煙かな 灘の塩屋の夕暮れの空」と藤原家隆郷が詠んでいます。
●社殿(拝殿、本殿)
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氏子は、もとは山田荘九か村(名屋、北塩屋、天田、猪野々、森岡、南谷、明神川、立石、南塩屋)で塩屋王子神社と武塔天神社(現、須佐神社)の二重氏子でした。【名屋は元和(1615~1624)以降分離】明治六年(1873)北塩屋・天田・猪野々が分離して塩屋王子神社の氏子となり、昭和四十年代に湊が加わり現在にいたっています。
●本殿(左右より)
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塩屋王子神社の大きな特徴は次のとおりです。
・現在、大日霊貴命(天照大神)、天津児屋根神(春日神社祭神)などが祀られている。
・社門が二つ巴である。
・祭礼の御神儀に四神が描かれている。鉾や毛槍(雉の羽根)がある。
・天皇家と同じ日の重陽の節句(旧暦九月九月)に祭礼がおこなわれてきた。
 (現在は十月 第三日曜日)
・古来より美人王子と謂われている。
・社域が現在の十倍と広かった。
・境内のなぎの木、イスの木、ヤマモモの木などの老樹がある。
 ◇塩屋王子神社 和歌山県教育委員会 御坊市教育委員会
●末社
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※【美人王子】
祭神が天照大神の美人像であるからという説、白河法皇が熊野詣の際に歌会を催し詠まれた「千載集」や「新古今和歌集」による海を一望できる景勝地であるとの説がある。また現在でも安産祈願、無病息災、永遠の美を祈願する人まで、「美人王子」として幅広く女性からの信仰を集めている。
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◆後鳥羽上皇の行在所跡

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by barakan1 | 2013-06-28 19:18 | 神社仏閣探訪

岩内1号墳(2013-06-23)古墳⑥・・・

岩内1号墳   御坊市岩内845-1
●案内板
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岩内1号墳は、7世紀中頃以降に造営された県内でも数少ない終末期古墳の一つである。発掘調査の結果、木棺に塗られた漆の破片や銀線蛭巻太刀(ギンセンヒルマキノタチ)、六花形の鉄製棺飾金具などが発見され、版築(粘土を突き固める)という技法で墳丘の盛土が造営されていることがわかった。
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岩内1号墳の造りや副葬品は飛鳥の貴人を思わせる格式高い内容で被葬者の有力な候補者として有間皇子があげられている。
有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
万葉集巻02-0141
磐代の浜松が枝えを引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む
万葉集巻02-0142)
家にあれば笥(け)に盛る飯ひを草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
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藤白坂で斬首された皇子の側近、塩屋連[制※]魚(シオヤノムラジノコノシロ)はこの地域の出身で、塩屋連の一族が皇子の身分にふさわしい墓を造ったのではないかといわれている。
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ー和歌山観光情報ーより
有馬皇子の墓(椿の地蔵ー藤白坂)
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by barakan1 | 2013-06-28 19:16 | 旅日記

松原王子神社(2013-06-23)神社探訪⑤・・・

松原王子神社    和歌山県日高郡美浜町吉原771
●神社正面と社号標
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祭神:[主祭神]伊弉諾命,伊弉冊命,月読神,大日霊女貴神,倉稲魂神
   :[合祀]武甕槌神,経津主神,天児屋根神,比売神
境内社:蛭子神社 御霊神社 大海神社
●二の鳥居と狛犬
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由来
延宝六(一六七八)年の『日高鑑』吉原浦の条に「宮戎社内壱社王子、壱社御霊宮」と記されている。これが当社の最も古い記録である。その他の由緒について詳細は分からない。
しかし、御祭神及び王子社という名称から推して、又、王子神社の南東の大和紡績和歌山工場の土地から、平安時代の経塚が発見されていることからも、熊野九十九王子社の一つではないかと考えられる。
●神社境内・拝殿                  ●拝殿内部
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当地は熊野詣の人々が海路比井港に上陸して陸路を熊野に行く場合の要衝の地であったとも考えられる。
社殿は享保三(一七一八)年再建され、昭和十一年改修と同時に社務所が新築されている。
●社殿(左右から)
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ー社叢ー その内容から推して、植物社会の変遷の標本を示すものとして注目されている。
『美浜町史』には「松原王子神社の社叢」という一節があり、次のように記されている。
数百年にわたって人工を加えず保護した日高地方でも稀に見る天然林である。
クロマツ、ヤマモモの大木の少ないこと。クスノキ、イスノキ、ツバキ、ヤブニッケイなどよく育ち大木となっている。森林の変遷をよく見ることのできる社叢として、文化の開けた日高平野の中心部で保存されていることは貴重である。
●本殿(左右から)
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ーオボリ石ー 境内社殿西に蠻岩質の石が二つある。
何れも上から見て一尺に二尺位、高さも一尺位であるが一尺以上も地中に埋まって居るとのことである。昔からこの石に向かって投石すればおぼるとて里人は投石は愚か手を触れることすら恐れたといい、又昔落雷があったとき、この社の祭神がこの石で雷を圧伏したのだといはれる伝説の石である。
●境内社
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『和歌山県文化財調査報告書 六』 =和歌山神社庁HP-
by barakan1 | 2013-06-27 15:04 | 神社仏閣探訪

白崎~温羅の崎(2013-06-23)万葉故地④・・・

■由良町には、万葉故地が二か所ある。、地図で神谷崎と書かれている「由良の崎=湯羅の崎」とその北側に当たる、「白崎」である。
●小引の港より
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衣奈八幡神社より県道24号線を、戸津井から小引へと美しい海岸線を眺めなら南に下ると、白崎青少年の家の展望台に到着する。ここで雄大な海岸美を展望することが出来る。
●白崎青少年の家前展望台より
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a0016431_194269.jpg(ここで思いがけずに、野生のタヌキの子供にあった。人を恐れることもなく、ついその先に座って、じ~~とコチラを見ている。多分、観光客からエサを貰っていて、私からエサを貰えると思ったのであろうか!!。)
ここより少し行くと白崎である。白崎海岸県立自然公園の看板とバンガローらしきものが見えてくる(少々つや消しではあるが・・・)

●白崎海岸、白崎海岸県立自然公園
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大宝元年辛丑の冬の十月に、太上天皇・大行天皇、紀伊の国に幸す時の歌
巻9-1668
白崎は 幸くあり待て 大船に 真楫しじ貫き またかへり見む  
白崎は航海の無事を祈って待っていてほしい。大きな船に真楫(まかじ)を付けて行くのだから、無事に帰って来たらまたこの白崎を見よう。
●白崎海岸
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県道に戻り、海沿いをさらに進むと巨大な岩門の立巌岩(たてごいわ)がそそり立つ
このあたりから見る白崎はすばらしい。海に突き出した石灰石の岬が幻想的である。立巌岩の少し先に万葉歌碑がある。
●立巌岩(たてごいわ)
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●万葉歌碑
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「湯羅の崎」を詠んだ万葉歌、三首詠まれている。
巻 7-1220
妹がため 玉を拾ふと 紀伊の国の 湯羅の岬に この日暮しつ 
あなたのために真珠の玉を拾おうと、思い紀の国の由良の岬に夕暮れまでいました
大宝元年辛丑の冬の十月に、太上天皇・大行天皇、紀伊の国に幸す時の歌
巻 7-1671
湯羅の崎 潮干にけらし 白神の 磯の浦廻うらみを あへて漕ぐなり 
由良の崎は潮が引いただろうか、白神の磯の浦を船が難渋して漕いでいる
巻 9-1670
朝開き 漕ぎ出て我は 湯羅の崎 釣する海人あまを 見て帰り来む 
朝明けに漕ぎ出たわたしは、由良の岬で釣りをする人を見て帰って来た
※湯羅の崎
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歌枕で言う「湯羅の崎」は今で言う「神谷崎」であるらしい。もっとも今の神谷崎付近は工場が海岸地帯をうずめていて、当然昔の面影の欠片もない。従って少しでも昔の風景が思い描けるように、その隣り由良湾の出口に当たる下山鼻を参考に掲げてみた。
この岬は、先端には烟島という先の尖った岩礁もくっついているが、そのさらに先の500メートルほど沖合には、鹿尾菜島(ひじきしま)という「山」の字のように見える小島を伴っている。
by barakan1 | 2013-06-27 15:03 | 万葉故地

衣奈八幡神社(2013-06-23)神社探訪③・・・

衣奈八幡神社   和歌山県日高郡由良町衣奈669
●正面入口(一の鳥居)
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(主祭神)誉田別命 息長足姫命 比売大神 
(配祀神)天児屋根命 国常立尊  仲哀天皇 大山津見神 事代主神  大将軍神 
      菅原道真公 崇徳帝   倉稲魂神 天照皇大神 市杵嶋姫神
(境内社)若宮八幡神社 武内宿禰神社 天満天神社 住吉社 子安社 牛王社 松殿社      弁財天社      金刀比羅社 石清水社  西宮社 山神社 稲荷社
●手水舎              ●割り拝殿              ●拝殿
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由来
当神社は、八幡三座を主祭神とし、古の海部郡衣奈荘(旧衣奈村、白崎村)の氏神であり、貞観二(八六〇)年に創建された、南海道で最も古い八幡宮の一つである。
鎮座の由来は、『衣奈八幡宮縁起絵巻』によれば、誉田別命、紀の水門(現在の大引浦)に上らせ給いし時、土豪岩守(上山氏の祖)これを迎え、大御酒、和布を奉る、命大に嘉し給いて岩守に「登美」の姓を賜いこの地を領せしむ。

a0016431_1924730.jpg岩守これより命を衣奈の地に導き行宮を設けたり。(この行宮の跡が鎮座地である)
(大引)の地名はこの時奉る大御酒より起れり(衣奈)の地名は、命の「胞衣(えな)」を埋めし故なりと… 社殿の傍に瑞石あり(胞衣塚)と云う、安産の守石として信仰されている。




●正面向かって右側より、拝殿・本殿   ・境内社
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以後、室町・戦国時代には湯川氏の祈願所として崇敬篤く、氏子も又進取の気を持ち、紀伊水道の要衝を扼して海上に活躍、岩守の子孫も衣奈荘下司職・八幡宮神職として威を振いし為、社運隆昌(本殿・拝殿・末社十七社始め楼門・中門・舞台・僧座・中座等が建ち並び本坊極楽寺始め六坊を有し、神主十二人、神子三人、社僧二十人が仕えた。)を見たが、天正十三年兵火に罹りて、社殿悉く焼失、其の後、徳川頼宣公紀伊国主として入国するや当社も再建されたが、旧観を復するに至らなかった。
●正面向かって左より、拝殿・本殿     ・境内社
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その後、歴代藩主の尊崇篤く、例祭には名代を遺わし、臨時の祈願には、郡内では当社を祈願所とした。
明治に至り、神宮寺が廃せられ、四十三年に氏子区域内の小社二十二社を本殿に合祀した。(例祭)祭礼に当り、下司上山氏七度半の使をうけ、二四家の座衆と共に出社し、斎行する。神賑行事は、誠に優美で、神事「神の相撲」を始め、衣奈(打ち囃し、稚子踊り)小引、戸津井(童子相撲)三尾川(餅搗踊)神谷(稚子踊)大引(打ち囃し)神谷(稚子踊り)吹井(唐船)などが奉納され、「えなまつり」として名高い。  ー神社庁HPよりー ★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
※丁度天気が悪くなり、薄暗くなって、写真もあまり良く映りません。また、境内も古びた感じで、気の高い空気が充満しているようで、なにか落ち着きませんでした。
by barakan1 | 2013-06-27 15:00 | 神社仏閣探訪

興国寺(2013-06-23)仏閣探訪②・・・

興国寺   和歌山県日高郡由良町門前801
●総門
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鷲峰山(じゅぶざん) 興国寺  (臨済宗妙心寺派)
本尊釈迦如来
紀伊之国十三仏霊場第8番
●案内板より
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■興国寺の由来 (興国寺と法燈国師(ほうとうこくし)
紀勢本線の紀伊由良駅で下車すると、北西一キロ山手側に臨済宗、妙心寺派寺興国寺がある。かつて白隠禅師に「紀に興国寺あり」といわしめ、宗風一世を風靡し、「関南第一禅林」として世に知られた名刹である。
●参道~山門
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鷲峰山興国寺は安貞元年(1227)に創建されたが、当時は西方寺と称し、藤原願性(景倫)が開基である。
天正13年(1585)織田信長の兵火によって往昔の伽藍は焼失してしまった。現在の建物は、慶長6年(1601)時の紀州藩主であった浅野幸長公により再建されたものである。
●山門より法堂を見る
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開山法燈国師は、名を覚心、号を心地といい、承元元年(1207)信州松本において生誕された。十九才で出家、南都東大寺で具足戒を受けられ、次で高野山にのぼり伝法院の覚仏阿闍梨について密教を学ばれた。
●法堂(正面より)
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その後、同じく高野山のの行勇禅師に禅法を受けられた。そして、三十六才で当時京都深草に住せられていた道元禅師に参じ、四十三才(1249)に宋(現在の中国)に渡り、各地の禅刹を歴参して遂に、無門慧開禅師の法を嗣いで四十八(1254)の時、帰朝され、高野山金剛三昧院に住持された。
●境内法堂、開山堂他
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五十二才(1258)鎌倉三代将軍、源実朝の家臣で由良荘の地頭でもあった藤原願性(景倫)に懇請されて興国寺(当時は西方寺)開山となられたものである。
国師は、亀山、後宇多、後伏見、後醍醐と歴代天皇の尊信も厚く、師の遷化されるや、亀山法皇は「法燈禅師」号を、また後醍醐天皇は「法燈円明国師」の勅諡と、のち興国寺の寺号を追贈された。
又宋より帰朝のさい「無門関」(禅宗では大切な書物)をわが国に初めてもたらされた。
●境内堂宇
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■尺八  また国師は自ら尺八を会得され、さらに尺八の名手四居士を伴い帰朝された。国師によって禅と結ばれた尺八がやがて普化宗となり全国にひろまる。それ故に興国寺は虚無僧の本山でもある。
■味噌・醤油  国師は径山寺(きんざんじ)味噌の醸造方法も宋で習得される。これは、後工夫をされて湯浅地方で製造されるようになった。味噌、醤油、いずれも国師によって我が国に伝えられたのである。
■天狗堂
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豊臣秀吉の紀州征伐で堂宇が焼失。再建への支援を求めて寺の僧たちが各地に散った際、旅の途中で出会った天狗たちがその真剣さに応えて一夜にして再建したとの言い伝えが残る。
伝説にちなんだ大天狗は、真剣であればどんな願いもかなえてくれるという。
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by barakan1 | 2013-06-27 14:58 | 神社仏閣探訪

和歌山(由良町・美浜町・御坊市)探訪4(2013-06-23)①コース概要・・・

和歌山(由良町・美浜町・御坊市)探訪4 (2013-06-23)
●コース概要
白崎青少年の家前で見たタヌキの子供a0016431_13272280.jpg




10;15自宅発~興国寺~衣奈八幡神社~白崎~松原王子社~岩内1号墳~塩屋王子社~仮眠所着17:30。160㌔走行距離。





■探訪地図

by barakan1 | 2013-06-26 13:46 | 旅日記

広(ひろ)八幡神社(2013-06-03)神社探訪⑧・・・終

広八幡神社   和歌山県有田郡広川町上中野206
●一の鳥居
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祭  神:誉田別命 気長足姫命 足仲津彦命 菅原道真
ーご由緒書よりー
●楼門~舞殿
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「広八幡神社は、もと八幡宮と称し、広荘の産土神社として有名である。本殿には、誉田別命・気長足姫命・足仲津彦を祀り、若宮社には大鷦鶺命を、高良社には武内宿弥、天神社には菅原道真公を祀っている。
●舞殿                   拝殿                 本殿
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紀伊続風土記には欽明天皇の頃の創建にかかるとい伝えられ、天正十三年(1585)豊臣氏の兵火にかかり、神庫や防舎などが焼失し、一時衰退したが、慶長五年(1600)浅野幸長が藩主になると神領十意志を寄附され、元和五年(1619)には紀州徳川家が入封してより歴代藩主もこれを襲用するとともに篤い保護を加え、次第に興隆した。
●本殿
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●天神社             ●高良社・本殿           ●若宮
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明治の神仏分離までは両部の神で現在の社殿の外に末社・多宝塔(現在広島市三滝寺にあって県の文化財指定)・鐘楼(同町上中野にある法蔵寺にあり国の重要文化財)・西門(同町広 安楽寺にあり)・神楽所・観音堂などが建ち並んでいたが、漸次取り払われてしまった。」
●神社境内
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※色鮮やかで、美しい社殿です。また楼門は重文で風格を感じさせます。ここでも廃仏毀釈の影響が・・・・。 神社横に「稲むらの火」で有名な濱口儀兵衛(梧陵)翁の墓があります。(写真うまく取れませんでした)
by barakan1 | 2013-06-21 21:04 | 神社仏閣探訪

施無畏寺(せむいじ)(2013-06-03)万葉故地⑦・・・

施無畏寺(せむいじ) 和歌山県有田郡湯浅町栖原1465
●施無畏寺山門
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和歌山県有田郡湯浅町栖原(すはら)にある真言宗御室派の寺院。補陀洛山と号す。明恵上人を開山とする。
●山門前より湯浅湾を見る
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寺は白上峰(しらがみみね)の中腹にあるが,この白上峰は1195年(建久6)のころ明恵が草庵を結んで修練を積んだ由緒のある地で,上人と同族で上人に深く帰依した湯浅景基が1231年(寛喜3)に一宇を建立して観世音菩薩像を安置し,当時栂尾の高山寺にあった上人を招いて落慶供養を営んだ。
●案内板
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当時の境内,北は白上峰の北麓,東は井谷東峰,南は南栖原の大道を限り,西は田・栖原の海岸を含んでの周32町の内を殺生禁断の聖地と定めた。 
●開山堂                   ●本堂                  
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●鐘楼                       ●鎮守社
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※明恵(みょうえ) 1173~1232(承安3~貞永1) 鎌倉前期の華厳宗の僧。

施無畏寺入口万葉歌碑
●寺参道入口よりみる湯浅湾
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詠人不詳
巻09-1671
ゆらのさき しほひにけらし しらかみの いそのうらみを あへてこぐなり
●案内石碑
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大宝元年(701)持統天皇が二回目の牟婁(白浜)温泉への行幸の途の詩(家人不詳)糸我峠(有田市)から尾根を伝って栖原海岸へのコースを辿る。海辺から船に乗り込んだ天皇の従者が口ずさんだもので、
「由良の崎は潮が引いたらしい。白神の磯を船出した船人が掛け声をかけながら力一杯船を漕ぎ、その櫓の音とが一つになって響いてくる」と言う意味であろうか。長閑な風景の中にもあらあらしさとを感じさせるうたである。
「白神の磯」は中腹に施無畏寺が佇む白上山の山裾にあり、ここから望む湯浅湾には手前に「毛無島」「刈藻島}やや遠くに「タカ島」が浮かんでいる。そして、由良の崎は更に南の彼方に霞んでいる。
当時は「大宝律令」という国家の基本法典が制定され、政治の仕組みが確立し、国家発展の礎が定まりつつあった時代である。
今、ここに新しいじだいへの飛躍と繁栄を祈りつつ歌碑を建立するものである。
平成14年11月吉日   有田ライオンズクラブ
※ココ等あたりから見る海辺は大小の島々と海岸線が重なり美しい景色です。眺めていると本当に長生きできそうです。  ★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2013-06-19 15:50 | 万葉故地

国津(くにつ)神社(2013-06-03)神社探訪⑤・・・

国津(くにつ)神社  和歌山県有田郡湯浅町田3
●社頭看板                ●参道階段
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祭神
大己貴命、少名彦命、大穴牟遅命
配祀神 少名彦命、天照大神、伊弉册命、速玉之男命、奇御気野命、事解男命
境内社 恵美須社、妙見社、住吉社、他
飛地神 幸神社、逆川神社、秋葉社
●手水舎
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由緒
「素戔嗚命・大己貴命・建御名方命等が澳津島に至り、その後、小浜の大蛇島に移り、大己貴命は宇気(壁の口)の巖窟に鎮座したまう。」との伝説がある。
元正天皇御宇「吾この地にいること久し。吾に一宇を創建せよ」との神託があり、祭祀された。
●拝殿・本殿
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村上天皇御宇三輪大神が「紀伊の浜辺に大己貴命鎮座せり。」との神託があり、訪ねた所、「吾この地にいること久し。一宇を創建し奉祀せよ。」とあった。
その後、小浜の巖窟(物原)から遷祀し、さらに宇賀の森の現在地に遷座したのである。 熊野王子社の逆川王子を合祀しているとされる。
●神社付近より紀伊水道を見る
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ー神南備にようこそーより引用  ★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2013-06-18 14:50