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三穂の岩屋~御崎神社(2013-06-03)万葉故地⑨・・・

三穂の岩屋
煙樹ヶ浜から県道24号線を西へ、アメリカ村の直前、逢母(おいぼ)バス停の手前を左折し集落の中の道を100M程進むと、左折して赤い布を巻かれた杭が打ってある小道を林の中へと進む。林を抜けて海岸へ下り、大きな石がごろごろした海辺を右へ進むと、右手上方に海に向かって大きく口をあけた洞窟が見えてくる。
◆今回のハイライト、三度目の挑戦になる三穂の岩屋の見学です。
煙樹ヶ浜から県道24号線を西へ、アメリカ村の直前、逢母(おいぼ)バス停の手前を左折し集落の中の道を100M程進み車を駐車して、前回村人に聞き見つけておいた、海岸へ下りる古い、今にも消えて無くなりそうな(目印に赤い布を巻かれた杭が打ってある)小道を林の中へと進み、、海岸へ出る・・・。
●海岸への古い道                      ●海岸への出口付近
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●海岸へ出たところ                        ●小道からの出口
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それからが大変でした大きな石や岩が転がっている海岸を右側(西)方へ穴らしきものが見えるのを目標に歩きました。久しぶりに登山をした気分です。足をかける石を探しながら飛び石を歩くように、10分~15分歩いたでしょうか・・・。
a0016431_1416594.jpg穴に到着して中へ入ってみると、ネットで見たような穴と全く違います。天井は低いし、下には海が入り込んで波がバシャバシャ打ち付けています。ここまで来るまでで全エネルギーを使ったような状態で、改めて探す気力もなく、今回はまた発見できなかったが次回来ようと来た道を引き返しました。


半分ほど引き返してフト左側を見ると、何と!!大きな穴があるではありませんか!!
紛れもなく、ネットで見た岩屋です。何故??こんなに大きなものが目に入らなかったのだろう・・・・。細い山道より海岸へ出た時に見つけた穴が岩屋に違いないと思い込んだが為に、足元と海の方の岩ばかり気にしていて、見過ごしたのだろう!写真を撮り、大満足であの心臓破りの小道を登り、汗だくで車にたどり着きました。※岩屋の奥のもう一つの部屋が有るそうですが・・・、とても一人では入る気がせずパスしました。ここも結構ゾクゾク来ましたね!

博通法師、紀伊国に行き、三穂の岩屋を見て作る歌三首
●三穂の岩屋全景
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万葉歌 博通法師
巻03-0307
はだすすき久米の若子(わくご)がいましける三穂の石屋(いはや)は 見れど飽かぬかも
※久米の若君がおられたという三穂の洞窟はいくら見ても見飽きないかも
巻03-0308
常盤(ときは)なす石屋(いはや)は今もありけれど住みける人そ常なかりける
※大きな岩のように永遠に変わらない姿で「三穂の岩屋」は今もあるけれど、久米の若君はもうこの世にはいない。
巻03-0309
石室(いはや)戸(どに立てる松の樹汝を見れば昔の人を相見るごとし
※三穂の岩室に生えている松の木よ、あなたを見ていると久米の若子に逢っているようだ。
以下の二首は「和銅四年辛亥、河辺宮人、姫島の松原に美人(おとめ)の 屍を見てかなしびて作れる歌四首」の中の二首
巻03-0434
風速(かざはや)の美保の浦廻の白つつじ見れどもさぶし無き人思へば
※烈しく風が吹きすさむ美保の湾の白いつつじを見ていてももう此処にはいない久米の若子のことを思うと私の心は少しも晴れない。
巻03-435
みつみつし久米の若子(わくご)が い触れけむ 磯の草根(くさね)の 枯れまく惜しくも
※勇ましく凛々しかった久米の若子が手に触れたであろう磯の草木の枯れるのが惜しい
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◆美浜町には、顕宗・仁賢天皇の父が、久米若子であるという次のような伝承が残っているそうです。
安康天皇は履中天皇の第一皇子市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)にその位を譲ろうとした。しかし、安康天皇の弟で、市辺押盤皇子の従兄弟にあたる大泊瀬皇子(後の雄略天皇)が近江国、来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの、滋賀県蒲生郡蒲生町)に市辺押盤皇子を狩りに誘い出し、猪と見誤ったふりをして暗殺してしまい、自分が天皇の位についた。
●海岸へ出たところ付近の荒磯風景
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 市辺押磐皇子の子である久米若子は、雄略天皇の迫害から逃れるため、母と臣下を伴い、丹波国に身を隠し、ここで億計(おけ)、弘計(をけ)の二人の皇子をもうけた。久米若子は心の動揺を癒すため神術習得のため愛し子、億計、弘計を臣下に託し、放浪の旅に出て消息を絶った。その後、二人の皇子は播磨国の志染(しじみ)の岩屋に隠れ住みついた。やがて成人した二人の皇子は、伊予来目部小楯(いよのくめべのおたて)によって見つけ出され、顕宗天皇(弟、弘計、23代天皇)、仁賢天皇(兄、億計、24代天皇)として即位する。それにつけても思い出されるのは幼くして別れた父、久米若子のことであった。
 臣下を諸国に遣わし探し求めた。苦心の末、三穂の岩屋におられるという情報を得て使者を遣わしたところ、既に若子の姿はなく、松が生繁り、庵の後の草の根は枯れはて、岩に砕ける波しぶきに交じって白い磯つつじが風に揺らいでいるばかりであったという。
●岩屋中より荒磯を見る
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by barakan1 | 2013-05-31 16:09 | 万葉故地

日の岬~三尾(2013-05-23)万葉故地⑧・・・

●美浜町観光マップ
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■煙樹ヶ浜
煙樹ヶ浜から県道24号を西へ上ってゆくと三尾の村落を過ぎ、海岸線を通る167号のドン付きが日の岬である。
●煙樹ヶ浜よりの展望(西)
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●煙樹ヶ浜よりの展望(東)
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三穂の浦
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三尾は、遠く万葉の時代から多くの歌に詠れ、三穂の石室、風早の三穂の浦の歌、七首があり、下記の歌は、潮流が早く、北西の風が強い時、岬の先端が浪立つ様子が手に取るように判る歌として有名です。
歌碑は日の岬に至る県道そばの大きな岩に黒御影石に刻まれはめ込まれてています。
万葉歌碑のある大岩のむこうに見えるのが蜑取(あまとり)島、別名海猫島。
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巻7-1228
詠人不詳
風早の 三穂の浦みを 漕ぐ舟の 舟人騒く 波立つらしも  
日の岬
日の岬の頂上付近から、北方の海岸を眺めると、手前は馳出の鼻小浦崎、一番奥に白崎が見える。
●日の岬より西を見る
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●日の岬より東を見る
東を見ると三穂の浦、煙樹ヶ浜が見える。
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●三保の浦を見る
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by barakan1 | 2013-05-31 16:07 | 万葉故地

得生寺~糸我王子社(2013-05-23)万葉故地⑦・・・

雲雀山得生寺   和歌山県有田市糸我町中番229
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ここ雲雀山得生寺は、中将姫が継母の暗殺から逃げ延びた場所であり、逃げ延びた旧跡はここと日張山青蓮寺の2箇所に伝承している。
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得生寺は右大臣藤原豊成の娘の中将姫が継母の暗殺から逃げ延びた旧蹟である。得生寺の由来を語る伝承では、家臣の名は伊藤春時になっている。春時夫婦は13歳の中将姫を当地まで連れ出し雲雀山で殺害しようとしたが、姫の徳に打たれて殺すことができなかった。そこで、春時夫婦は剃髪してそれぞれ名を得生と妙生尼に改め、姫を守ることにし、当地に庵を結び安養院と号した。それがこの寺の始まりとされている。その後、承平(931~7)の頃山号を雲雀山得生寺と改め、享徳(1452~4)の頃に浄土宗の寺になったという。中将姫が3年間隠れ棲んだとされる雲雀山は、峰が2つに分かれている。得生寺から見て、左の峰には中将姫本廟の祠が建ち、近くに春時の墓がある。
●開山堂                   ●本堂
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(ちなみに、菟田野(うたの)青蓮寺に残る伝承では、姫の殺害を命じられながら、姫の心優しさを知っていた家臣の松井嘉藤太が、姫を菟田野の日張(ひばり)山へ連れて行き、そこに隠れ住まわせたとなっており、異なる伝承となっている)
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万葉集
巻7-1212  
作者不詳
足代(あて)過ぎて糸鹿(いとが)の山の桜花散らずあらなむ帰り来るまで

今の得生寺本堂は、寛永5年4月の建立である。中将姫をおまつりしている開山堂は正平6年(今から660年前)の建立である。有田川の清流に近く、熊野古道に沿うて建立され、境内には万葉の歌碑一里塚(県指定)等あり、能の雲雀山。歌舞伎の中将姫古跡の松。浄瑠璃のひばり山姫捨松。などで有名である。
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「中将姫会式」は中将姫の大往生の様子を再現した行事で二十五菩薩練供養とも言い、中將姫の命日にちなんで毎年5月13日、14日に行われる。

稲荷大神社  有田市糸我町中番329 
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祭神 倉稻魂神
◆神社の由緒書きから
 第27代安閑天皇(西暦531-535)の2年乙卯の春。 引きつづく凶作を憂えた郷民は、高山に登り集って供御を捧げ、神を祭って豊作を祷ること数日に及んだ。 このとき『われは倉稲魂神にして天下の蒼生(民草)の作りなす種々の穀物は皆われの司る所なれば、その五穀の登らざる禍を祓い清めむとなれば、今教え示さんことを守るべし』とのご神託が下った。 郷民は大詔(おおみことのり)を畏まって承り、神の教えのままに励んだ処、霊験現れて百の妖災忽に除き、年穀よく稔って豊饒の本にかえった。 翌年、宣化天皇(第28代)の元年丙辰の秋、郷民は高山の半腹に社を創って大神を祠り、稲葉根社と称した。
 第36代孝徳天皇(645-654)の白雉3年壬子の春、参詣に便なるよう社を麓に移し奉って稲生社と改めた。 時移って大神、紀伊國糸鹿に降臨されたあとの元明天皇(第43代・707-715)の和銅年間に、再び山城國三ツの峯(伏見)に降臨された。 この由を聞召された帝は、山城國鎮座の地を紀伊郡と名付けられた。 本朝最初の称号は、大神は伏見よりも170余年先に糸鹿の郷に降臨された、との伝承を裏付けている。
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熊野地のいと高山のこなたなる、宇気の女神の森の木々に、御饗盛りなす雪野おもしろ。古歌にある宇気の女神は申すまでもなく倉稲魂神であらせられ、熊野地のいと高山は糸高山。後世たの字が省かれ、転訛して糸鹿山に改まった。
時代はさらに降って鳥羽天皇(第74代・1107-1123)の御宇、白河院熊野御幸の砌この辺に駐輦し、平忠盛をして奉幣せしめられたのも、神徳崇敬が故である。 またこの折のことであろうか平家物語(巻六)及び源平盛衰記に、「白河の院熊野へ御幸なる。 紀伊の國糸が坂という所に神輿を掻き据えさせ、暫時御休息ありけり。 其の時忠盛、薮に幾等もありける零餘子を袖に盛り入れ、御前に参り畏まって妹が子は這ふほどにこそ成りにけり(私の娘は這うほどに成りました)と申されたりければ、院はやがて御心得あって、忠盛とりて養育にせよとぞ下の句を附けさせ座しける」とある。 境内に立つ「御幣の岡」と馬場先に立つ「白川法皇みくるまをよせさせたまひし旧跡」。
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まだ苔むさぬこの二碑石は後世の再建か、近代の創建かは定かではないが、上記の伝承を裏付けている。 当社は舊くから除盗難、除火難、農漁繁栄、海上安全等の神符を出しているが、この御符を所持するとき、「その感応なしと云うことなし」熊野古道に沿う糸我王子社(廃社)は、当社の摂社(本社と末社の中間に位し、本社に対し縁故の深い神の祠社)であり、また往昔、鎮守さまとして糸鹿荘内の村々に祠られていた数多の神々は、いま社域に奉遷して合祠申し上げてある。

糸我王子社阯
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稲荷大神社より熊野古道を少しばかり南に登ると「糸我王子社」があり、更に登ると糸我王子社阯と糸我峠への登り口に出る。
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●糸我峠
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by barakan1 | 2013-05-31 16:04 | 万葉故地

蕪坂塔下王子社阯(2013-05-23)万葉故地・熊野古道⑥・・・

●拝の峠より蕪坂塔下王子社へ
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(小畑)万葉歌碑より、(拝の峠)案内板の先の鉄塔を右にみて下って行くと急に開けて休憩所がある。また道沿いに小祠がある。蕪坂搭下王子跡と云われている。
「蕪坂塔下王子」
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「蕪坂塔下(かぶらざかとうげ)王子」跡の案内板によれば、熊野御幸の盛んな頃、蕪坂には峠と南麗の二か所に王子社がありました。藤原定家の日記では、峠の王子社は「カフラサカノタウ下王子」と記されており、藤原頼資(よりすけ)の日記では「蕪坂王子」と記されています。南麗の王子社は「山口王子」或いは「宮原王子」です。
ところが『紀伊続風土記』では峠に蕪坂王子・塔下王子の二社があったと記しています。これは藤原定家の日記を読み間違いしたものと思われています。
『紀伊国名所図会』で、「蕪坂王子社、蕪坂の上にあり」と載せられているのが当王子社のことです。と説明されています。
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※蕪坂は、下津町沓掛から宮原町道村へ越す坂で、熊野参詣道のうちでも古くから陸路交通の要路であったようです。なお、蕪坂王子社は明治41年に山口王子社と共に宮原神社に合祀されたそうです。
『紀伊国名所図会』には、 「鏑矢もて鹿を射ちし坂なれば蕪坂と名付しにや、峠に茶店あり」と鏑が蕪に変わったものと記されています。
万葉集
巻09-1678 
紀の国の昔弓雄(さつを)の響矢(かぶら)もち鹿(か)取り靡けし坂の上(へ)にそある
●太刀の宮付近熊野古道より、宮原方向を展望する
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by barakan1 | 2013-05-31 16:00 | 旅日記

蕪坂・拝の峠(2013-05-23)万葉故地⑤・・・

拝の峠(はいのと)・蕪坂
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長保寺を後に、次のポイントである拝ノ峠(はいのと)蕪坂をめざす。
165号線は長保寺から急に狭くなり、曲がりくねった坂道は舗装はされているが2・3mの幅で、対向車が来ないようにと、祈るような気持ちで運転する。急勾配の山肌は蜜柑の木で埋め尽くされ流石ミカン処である。
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九十九折りの道で写真撮影のため停まり、今、上ってきた坂道を振り返ると、急な斜面に、民家とミカン畑が共存している。先ほど見学した長保寺も見える。
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暫く走リ道が平らになり始めた頃、、四差路に出る。(沓掛・有田・黒田)の交差点である。これを右に(有田)方向に走る。
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この尾根道は比較的平で、暫く行くと、熊野古道・市坪・蕪坂、道路標識のある三叉路に出る。この辺りがが拝ノ峠(はいのと)なのだろう。(その頂上は分かり難いが・・・)この三叉路を右(有田・蕪坂)方向に進む。
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道は一層狭くなり、車一台がギリギリ通れる道幅である。ソロソロ注意深く進み、蕪坂王子の指示板を過ぎて直ぐに道幅が広くなり、三体の地蔵が現れた。その先に万葉歌碑と看板が現れた。ここが拝の峠らしい。
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蕪坂王子までの尾根道の、開けたところ(小畑)に、万葉歌碑がある。
巻07-1214
詠人不詳
安太(あて)へゆく小為手(おすて)の山の真木の葉も久しく見ねばこけむしにけり

拝の峠から蕪坂塔下王子社まで尾根道のような山腹道路が続く。下津港を臨む道筋に案内板が立っていた。
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案内板によると、拝の峠は神武天皇ご東征の折り、八咫烏に先導されたので、この名があるという。
万葉集には『木の国の昔 弓雄の鳴矢もち鹿獲りなべし坂の上にある』
とあるのを紀伊国名所図会で 『鏑矢もて鹿を射ちし坂なれば蕪坂と名付しにや、峠に茶屋あり』と鏑が蕪に変ったものと解説している。
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紀伊名所図絵によると、「小畑村(現下津町小畑)に才所という所があり、その峠は有田郡との境になっている。さいで坂が縮まったのであろう」とあり、真木とは優れた木、この歌では杉の大木と見るのがふさわしい。
一首の意味は、「有田地方へいくさいで山の杉は久しく見ない間に苔むしていた」ということである。
※対向車が来たらどうしょうもない山道で、何とか走破出来たのはラッキーでした。
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by barakan1 | 2013-05-31 15:57 | 万葉故地

下津町 長保寺(2013-05-23)神社探訪④・・・

慶徳山 長保寺    和歌山県海草郡下津町上
●正面入口付近
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●長保寺案内図
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□歴史
慶徳山長保寺は一条天皇の勅願により長保2年(1000年)に創建されたといわれ、開基は書写山円教寺を開いた性空と伝えられている。
創建当時は現在の場所からかなり離れたところにあったが、鎌倉時代末期に現在の場所に移り、伽藍も整備されたようである。
戦国時代になると衰退していたが、寛文6年(1666年)に初代の紀州藩主徳川頼宣が長保寺を菩提寺と決めて以来、紀州徳川家の廟所となり栄えた。
●大門
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大門には仁王像が安置されているがこれは弘安9年(1286年)に堪慶によって刻まれたと伝えられている。
●参道石段
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●本堂
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「本堂」は延慶4年(1311年)の建立といわれている。本堂内には本尊釈迦如来坐像が安置されている。本尊は鎌倉時代の作といわれ、正徳4年(1714年)藩主が吉宗の時に修理されているという。
●多宝塔
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「多宝塔」は鎌倉時代末期、正平11年(1357年)の建立で、ここには長保寺で最も古い仏像である大日如来が祀られている。
「本堂」、「多宝塔」、「大門」とつの建造物がそろって国宝に指定されているのは法隆寺と長保寺だけである。
●紀州徳川家墓所(初代徳川頼宣墓)
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「本堂」の北側から東側にかけて山の斜面に歴代の紀州藩主及びその夫人の墓所が江戸時代に造営された。将軍になった5代藩主吉宗と13代藩主慶福の2人を除いて28基の墓碑が1万坪の広大な土地に設けられており、すべてを回り参拝すると1時間以上の時間を要するほど規模が大きい。
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※※私が訪問した時、本堂から訪れる人に媚びることなく悠々と読経の声が響いていた。
静寂の中威厳を保持した風格のある寺である。(何か!別世界に来た趣であった)
by barakan1 | 2013-05-31 15:39

下津町 粟嶋神社(2013-05-23)万葉歌碑③・・・

粟嶋神社    海南市下津町方1101
●神社全景
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祭神  少毘古那神
●神社由緒書き
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摂社
八幡神社「應神天皇」 、蛭子神社「事代主神」 、百拝神社「祭神不詳」 、浜ノ宮神社「天照皇大神」
戎神社「事代主命」 、浜戎神社「事代主命」 、牛神社「祭神不詳」 、道祖神社「猿田彦命」 、
厳島神社「市杵嶋姫命」 、辨天神社「市杵嶋姫命」 、八坂神社「祇園天神」 、傳神社「祭神不詳」
稲荷神社「倉稻魂神」 、金刀毘羅神社「崇徳天皇」
●元々は参道入口の、その名も宮川に架かっていたのだが、河川改修工事に伴い撤去移設。寛政九年1797年(今からざっと200年以上前)に架けられた太鼓橋である。
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由緒
社伝によると、当社は、景行天皇二年八月、二十一人の民人が少彦名命降臨の地粟 嶋におまつりしたのが始まりであるという。当時粟嶋は島であり、その崎硯浦の森に 宮居を営み、奉仕した民人二十一人が方(かた)村を開いたとされる。今も、その遠 い子孫が、宮座として、神社に奉仕している。
以来、神社は次第に栄えた。浜中荘領家が京都仁和寺に送った古文書は、文永年間 (1264-1275)、当社が浜中荘領主からの寄進地をもち、現在地宮ノ谷へ遷 座されて荘厳を極めていた事実を明らかにしている。
●舞殿               ●本殿への参道石階段          ●本殿前手水
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海路の安全を守るという御神徳は、中世以来、深い信仰を集めた。正平十二年(1358)、征西宮懐良親王が西海に赴く道すがら、海難を克服できたのは、侍臣渡辺 某が粟嶋さまの御加護をお祈りしたからだとして、豊後に分祠をおまつりしたと伝え られる。 当神社の御神威は、豊饒や海路の安全を祈る人々によって広く語りつがれている。
また、万葉の昔から、縁結びの神として有名。
また医薬、ムスビの神として女性の信仰ことにあつく、千羽鶴や女の肌身につける品などが多数奉納される。
●参道石階段               ●淡嶋山龍泉寺
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集落を野南側、宮川にそった森である。 境内に旧別当寺院である淡嶋山龍泉寺があり、明治の神仏分離を免れた神仏習合時代の名残をとどめている。旧村社。
●拝殿                            ●本殿
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平成祭礼データから
社伝によると、当社は、景行天皇二年八月、二十一人の民人が少彦名命降臨の地粟嶋におまつりしたのが始まりであるという。当時粟嶋は島であり、その崎硯浦の森に宮居を営み、奉仕した民人二十一人が方(かた)村を開いたとされる。今も、その遠い子孫が、宮座として、神社に奉仕している。
 以来、神社は次第に栄えた。浜中荘領家が京都仁和寺に送った古文書は、文永年間(一二六四-一二七五)、当社が浜中荘領主からの寄進地をもち、現在地宮ノ谷へ遷座されて荘厳を極めていた事実を明らかにしている。
●・浜ノ宮神社 、蛭子神社、本殿            ●本殿、八幡神社、百拝神社
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海路の安全を守るという御神徳は、中世以来、深い信仰を集めた。正平十二年(一三五八)、征西宮懐良親王が西海に赴く道すがら、海難を克服できたのは、侍臣渡辺某が粟嶋さまの御加護をお祈りしたからだとして、豊後に分祠をおまつりしたと伝えられる。
●金刀毘羅神社、八坂神社)・傳神社、稲荷神社          ●戎神社、道祖神社、厳島神社
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当神社の御神威は、豊饒や海路の安全を祈る人々によって広く語りつがれている。また、万葉の昔から、縁結びの神として有名。 以上    ー神南備にようこそーより抜粋
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◆境内万葉歌碑
作者不詳
巻07-1216 
潮満たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が門(と)渡る海未通女ども
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by barakan1 | 2013-05-30 17:10

下津町大崎(神の小浜)(2013-05-08)万葉故地②・・・

下津町大崎(神の小浜)
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天平11年(739) 3月28日、従四位下左大弁だった石上乙麻呂が、土佐に配流されるという事件がおきた。乙麻呂は、左大臣石上麻呂の3男という名門の出で、すでに丹波守も経て、若年(30才)ながら太政官の中に位置を占め、才能もあり、性格も温和で、風貌も秀でていた。
理由は、未亡人との恋! 未亡人は、久米若売(わかめ)。2年前に夫をなくして、目下服喪中。若売の前夫は、藤原宇合で、参議、式部卿兼太宰帥、正三位という有名人。宇合との間に、 7才の百川がいる身で、下総に配流になった。若売は、天平12年 6月19日に赦免となり、乙麻呂は、天平13年 9月 8日に赦免・召還となった。
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石上乙麿(いそのかみのおとまろ)の卿の、土佐の国に配(はなた)えし時の歌三首、また短歌
万葉集
巻06-1019
石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は 手弱女(たわやめ)の 惑(さど)ひによりて 馬じもの 縄取り付け 獣(しし)じもの 弓矢囲(かく)みて 大王(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 天ざかる 夷辺(ひなへ)に罷(まか)る 古衣(ふるころも) 真土の山ゆ 帰り来ぬかも
巻06-1020、(巻06-1021)
大王の 命畏み さし並の 国に出でます はしきやし 我が背の君を
かけまくも 忌々(ゆゆ)し畏し 住吉(すみのえ)の 現人神(あらひとかみ) 船の舳(へ)に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々 依りたまはむ 磯の崎々 荒き波 風に遇はせず 障(つつ)みなく み病あらず 速(すむや)けく 帰したまはね もとの国辺に

     右の二首は、石上の卿の妻(め)がよめる。
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巻06-1022 
父君に 吾(あれ)は愛子(まなご)ぞ 母刀自(おもとじ)に 吾(あれ)は愛子ぞ 参上(まゐのぼ)り 八十氏人(やそうぢひと)の 手向する 畏(かしこ)の坂に 幣(ぬさ)奉(まつ)り 吾(あれ)はぞ退(まか)る 遠き土佐道を
反し歌一首
巻06-1023 
大崎の神の小浜(をはま)は狭けども百船人(ももふなひと)も過ぐと言はなくに
     右の二首は、石上の卿のよめる。       
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◇天平11年(739)3月、石上乙麻呂が 藤原宇合(うまかい)の未亡人久米若売(わかめ)との恋愛事件で土佐に流されるとき、
●ここ大崎の神の小浜から船出した。
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◆下津町大崎・つり公園入口に、歌碑が立つ。
万葉集
詠人不詳
巻12-3072
大崎の荒磯の渡(わたり)延ふ葛(くず)の行方もなくや恋ひ渡りなむ
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『古義名処考』によると「紀伊国の船、大方この港につく。今も土佐の船の往来に常に泊まる所なり。古も土佐にかよふには、かならず此の大崎を通りしならむ」と記されている。(「下津町万葉歌碑めぐり」より) 現在,道路が整備され大崎に行くには便利になりましたが今から 40 年頃前まで陸の孤島といわれ、通勤や通学のための連絡船(ぽんぽん船)が大崎港から下津港に就航していましたそうです。

◆※平城京から土佐へ流される時、どのようなコースをたどったのでしょうか。藤原京の側を通り、紀ノ川へ出、真土山を通過し、藤白の御坂を超え、橋本から西へ下ったのか?有田の方へ回り込み大崎へ入ったのか?知りませんが・・・。いずれにせよ大変な旅であったろうことは想像出来ます。(車で山越えをするのにも大変な苦労が入りましたから・・)
●こんな山道を歩いて行ったのでしょう!
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※※神の小浜も近代化の波に飲まれています。写真では出来るだけカットしていますが、コンビナートの石油タンクが彼方此方にあります。こんな所までと寂しくなりますが、これも現代の宿命というやつでしょうか!
★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2013-05-29 15:21 | 旅日記

海南・有田・御坊市探訪(2013-05-08、22)①コース概要・・・

コース概要(2013-05-08、22)
下津町大崎(港)~粟嶋神社~長保寺~県道165号小畑~蕪坂・拝の峠~蕪坂王子社~得生寺~糸我王子社~日御碕~美浜町三尾~御崎神社~三穂の岩屋
●蕪坂・拝の峠から見た、長保寺~下津港の景色
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二日間の探訪記録をまとめてアップしています。今後も追加してゆくつもりです。
■コース地図

by barakan1 | 2013-05-27 17:01 | 旅日記

日御碕沖イサギ釣り(2013-05-23)・・・

日御碕沖イサギ釣り
日御碕沖ポイント(トフ)
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今年二回目の釣行となりますが、前回が期待したほど釣れなかったので、満を持しての釣行です。
午前3時、●●港へ、3:30港発~4時ポイント着。まだ辺りは真っ暗で、日御碕の灯台の光がよく見えます。4:45、碇も入り、実釣開始。船頭より2色(40M)より始めて!のアナウンス。さぁ!!と気合を入入!!。
×▲■??しかし、何回投入しようが、コマセを撒こうが、ウンともスンとも反応がありません。周りも同じです。1時間経ち、2時間経ち。周りはポツリ、ポツリと揚がり始めました。私には一向に当たりがありません。3時間くらい経った所で、棚を思い切って5ヒロ(48M)程下げてみました。すると・・・ヤット来ました当たりが・・・、それからは私にもポツポツと当たり出しました(45Mあたりにシッカリと先乗者が結んだマークの結び目がありました)。そして潮が動き始めた9時頃から一投入毎の入れ食いとなりましたが、時既に遅く、10:30沖上がり。結局釣果は27~32㌢を25匹の貧果に終わりました。(正味1時間半の釣果です)トホホ
乗船者の皆も、こんなに釣れないのは初めてだ・・・という人が多かったです。
◇反省、潮が動かなかったということもありますが・・・。(動き出すと今度は速すぎた)
 ・釣れもしないのに、船頭指示棚を固守し過ぎたこと!!
 ・釣れない時は、棚を幅広く探れ(上へ、下へ)・・・(最初は上へ上へと探っていました)
 ★釣れない時は広く棚を探れ(上へ下へ)という、セオリーを実行できなかった結果です。
それと乗船中に足を滑らせて転ける人が2人いました。打ち所が悪ければ大怪我をしてしまいます。私も歳なので気をつけなければと思いました。
by barakan1 | 2013-05-26 14:28 | 釣行日記