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四天王寺 聖霊会舞楽大法要(2013-04-22)見学・・・

四天王寺 聖霊会舞楽大法要 (天王寺楽所・雅亮会)
舞楽は、
左方(さほう)の舞=唐楽(とうがく、中国大陸系に由来)、
右方(うほう)の舞=高麗楽(こまがく、朝鮮半島系に由来)
に分類され、左舞(さまい)は装束に赤や紫系統、右舞(うまい)は緑や黄色系統を使う。
●舞台四隅を飾る赤くて丸いのは「曼珠沙華」で、そのところどころに白く見えるのは鳥の形をしたものです。
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お堂からみて向かって左が左方、右が右方となり、舞人たちはそれぞれの方向から舞台に登ります。演奏する楽人たちの楽舎も二つに分かれています。

□聖霊会舞楽大法要 次第□
道行(みちゆき)
楽人,衆僧等,出仕者全員が左方と右方の2列に分かれて,伶人の奏する楽の音に合わせて石舞台に向かいます.
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惣礼伽陀(そうらいかだ)
法要に先立ち,聖徳太子始め諸仏を礼拝する声明を唱えます.
衆僧入堂(しゅうそうにゅうどう)
衆僧がお堂に入ります.
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■舞楽「振鉾」(えんぶ)  左右両舞
御祓いの舞とも云われ,舞楽の最初に舞われ国家安泰,雅音成就を祈ります.周の武王が天地の神々に戦勝を祈った様をかたどったのが起源といわれています.
舞人は襲装束といういでたちで,まず金色の鉾を持った赤袍の左方舞人が舞台に上り,初節を.次いで銀色の鉾を持った緑袍の右舞人が舞台に上り,中節をそれぞれ乱声に合わせて舞い,最後に二人が鉾を振り合わせ後節を舞います.
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■舞楽「蘇利古」(そりこ)  右舞(高麗楽)壱越調
「竈祭舞」ともいいます.応神天皇の代に,酒造りを専門としていた百済の須須許理が伝えたと云われています.
舞人は襲装束,両肩袒に白楚という木の枝を持ち,長方形の布に抽象的な人面を描いた蔵面(ぞうめん)をつけ,老懸のついた巻纓.の冠をつけて舞います.番舞は「壱鼓」
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■舞楽「甘州」(かんしゅう)  左舞(唐楽)平調平舞
中国の甘州という国で,竹を切る時この曲を演奏すると,金翅鳥の鳴き声に聞こえるので蛇や毒虫が,人に害を与えない.とか,唐時代の玄宗が青城山に行った時,官女の衣が風になびく様を見て,舞にしたとも云われています.
襲装束に鳥甲をつけて舞います.番舞は「仁和楽」「林歌」など.
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伝具(でんぐ)  お供え所から,堂内のご宝前に,お供え物を手渡しで送る儀式です.
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■舞楽「菩薩」(ぼさつ)  左舞(唐楽)壱越調
林邑八楽の一つで婆羅門僧正と仏哲がインドから伝えたものですが,伎楽の一つではなかったかともいわれています.曲は破のみ残っていますが,舞は失われてしまいました.
四天王寺.の聖霊会舞楽では,菩薩の面をつけた二人の舞人が,舞台上を二回輪を作って舞う大輪小輪という作法を行います.
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■舞楽「獅子」(しし)
獅子の舞は,明らかに伎楽の舞です.舞は失われてしまっていますが,四天王寺にのみ伝わる「獅子」の曲に合わせて,菩薩の舞と同じように大輪小輪の作法を行います.近年は,古記録に基づいて四方拝の所作も取り入れています..
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■舞楽「迦陵頻」(かりょうびん)  左舞(唐楽)壱越調童舞
林邑八楽の一つとして,僧仏哲によって伝えられたといわれています.
インドの祇園精舎に供養の日に,迦陵頻迦という霊鳥が飛来して,さえずり飛びかう様を見て,妙音天女が舞曲にして,阿難尊者に伝えたという伝説があります.
子どもの舞人が,背に極彩色の鳥の羽をつけ,紅梅を挿した天冠をかぶり,手に銅拍子を持って舞台上を飛び回ります.番舞は「胡蝶」
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■舞楽「胡蝶」(こちょう)  右舞(高麗楽)壱越調童舞 
延喜六年(906),宇多上皇が童相撲を御覧の時に,藤原忠房が曲を,敦実親王が舞を作ったと云われています.
舞人の装束は,蝶の刺繍が施された萌葱色の袍を着け,背には蝶の羽を,山吹の花を挿した天冠,右手に山吹の花を持ち四人で舞います.蝶が花を求めて飛びかう様を描いているようです.番舞は「迦陵頻」です.
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※※四天王寺の「聖霊会舞楽大法要」を見学しました。(四天王寺さんは私の毎日の散歩コースです)。
13時からということで少し早く行ったが、もう一杯の見物人で、道行が始まっていました。大法要ということで1,2時間で終わるものと思っていましたら・・・。聞くと5時間位あるそうです。半分の2時間半でギブアップしました。残り(あと1~1.5時間)は来年にまた見に来ようと思います。3時間立ちっぱなしでホント!!疲れました!!
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by barakan1 | 2013-04-27 15:52 | 散策によせて

八尾市探訪ー心合寺山(しおんじやま)古墳~都夫久美神社~玉祖神社(2013-04-20)④・・・終

■玉祖(タマオヤ)神社(再訪) 式内社  櫛明玉命  大阪府八尾市神立5丁目
●神社正面(西より東)を見る (神鶏の像と鶏舎が新しく作られていた)
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祭神 櫛明玉命(クシアカルタマ)
社頭にある案内板(八尾市教育委員会)には「式内社で玉祖明神とか、高安明神ともいう。高安11カ村の氏神で、和銅3年(710)周防国から分霊を勧請したもので、祭神は櫛明玉命(クシアカルタマ)である。この地に玉造部の人々が住んでいたので、その祖神を祀ったものであろう」とある。
●正面参道より、西(大阪平野を見る)と参道脇神木
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クシアカルタマ命とは、玉祖命(タマオヤ)・天明玉命(アメノアカルタマ)・玉屋命(タマノヤ)・豊玉命(トヨタマ)・羽明玉命(ハアカルタマ)など多くの異名をもつ神で、記紀神話・天岩屋戸段では、アマテラスを岩戸から出現させるために御幣に掛けた玉(三種の神器の一)を製作した神として、天孫降臨段では、天孫・ホノニニギの天降りに従った五伴緒(イツトモノオ)の一として出てくる。(古事記では玉祖神、その他の名は日本書紀)
●神鶏(長鳴鶏)
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※祭祀氏族・玉作部とは、
新撰姓氏禄に「右京神別(天神) 忌玉作 高魂命孫天明玉命之後也 天孫・ホノニニギ命の葦原中国への降臨の時、五氏神部として皇孫に従って天降った。是時玉璧を造って神弊と為した。故に玉祖連と号し、亦玉作連ともいう」。
●境内拝殿
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(意訳)「右京神別(天神) 玉祖宿禰 高牟須比乃命十三世孫大荒木命之後也」「河内国神別(天神) 玉祖宿禰 天高魂神十三世孫建荒木命之後也」
とある氏族で、いずれも玉作りに携わる伴部(トモノミヤツコ)という。
※大阪市内に玉造の地名があるように、古来、河内・摂津の地には玉作りを業とする氏族が多く居住していたといわれ、当社西方から古代管玉の半製品など玉作関連の遺物が出土していることから、その製造にかかわった玉造の一族が、その祖神を祀ったものであろうという。
●本殿と拝殿からの様子
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※創建由緒
社頭の案内にいう、「和銅3年周防国から分霊を勧請したもの・・・」とは、“河内国高安郡玉祖大明神縁起”や“恩智大明神縁起(写本-延宝4年・1676)”にいう、
「元明天皇・和銅3年、周防国一の宮の玉祖神社(現山口県防府市)の神(玉祖命)がやってきて摂津・住吉浦に上陸したとき、住吉明神から、恩智の神が広大な領地を持っているので、鎮座の地を分けてもらうようにと勧められた。それに従ったところ、恩智神は、自分が領していた高安郡七郷のうち、六郷をさいて玉祖神に与えた」(大意)との伝承を指す。
●境内末社群
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ただ古代の高安郡は、倭名類聚鈔(937)では4郷とあるのに、縁起で七郷とするのはおかしいこと、縁起にいうように、七郷のうち六郷を領する高安郡の代表的神社であれば、恩智神社と同じ名神大社であってもおかしくないのに、小社であることなど、不自然な記述が多いことから、当社が高安郡の総氏神的存在になった中世の頃、その権威を高めるために、当社の創建を周防国の玉祖神社、摂津国の住吉大社、河内国の恩智神社と結びつけ、且つ神社の創建を、当時としては一番古い和銅3年として、創作されたものではないかという。(式内社調査報告・1979)
当社創建は、和銅3年周防国からの勧請というより、何時の頃かは不詳ながら(10世紀初頭以前とはいえる)、古くから当地に住んでいた玉造一族がその祖神を祀った、というのが順当であろう。
◎末社群
●水神社       ●菅原神社-稲荷神社-八幡神社    ●山口神社
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●蛭子神-吉野権現-住吉神社-恩智神社-八王子社  ●天神社  ●津山神社
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左の相殿5社は、いずれも創建縁起にかかわる神で、天長5年(828・平安前期)に勧 請されたという。
「戸原のトップページ」より抜粋引用       玉祖神社は再訪です。(2006-02)
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by barakan1 | 2013-04-25 16:48 | 旅日記

八尾市探訪ー心合寺山(しおんじやま)古墳~都夫久美神社~玉祖神社(2013-04-20)③・・・

都夫久美(ツブクミ)神社  大阪府八尾市水越8丁目
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祭神 宇摩氏摩治命
社頭に掲げる案内(八尾市教育委員会)には、「古代の大豪族物部氏の祖神・ウマシマジを祭神とする。ツブクミという社名は、物部氏の一族積組連に由来する」とある。
●境内社号標と碑
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※積組連(ツブクミ ムラジ)とは、
新撰姓氏禄(815)に、「河内国神別(天神)積組造 饒速日神子干摩志摩治命之後也」とあるように、八尾の辺りを本拠地とした物部氏に連なる氏族といわれ、その積組連が祖神・ウマシマジを祀った社と推測されるが、詳細不明。
ただ、祭神不詳とする史料もあり(神社覈録-1870)、また、明治5年(1872)以降、軻遇突智命(カグツチ)と大歳神を合祀して3座を祀るともいう(大阪府誌・1903)が、今はウマシマジ一座のみとなっている。
◆創建由緒
当社の創建年代は不明だが、神階授与の記録もなく、創建後の経緯も不明。古い伝統をもつと推測される神社だが、物部氏本宗の衰亡後は積組連の勢力も振るわず、当社も衰微していったらしい。
●社殿
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中世から近世にかけて、近くの玉祖神社(タマオヤ)が勢力を広げて高安の地全域の氏神へと化していくなか、最も近くにあった当社もその勢力下に組み入れられ、玉祖神社・三所大明神の一として“香森大明神(女神 中ノ森とも云ふ)”の名で祀られていたという(玉祖大明神縁起--三所大明神:玉祖大明神・香森大明神・鴨森大明神(鴨神社)をいう)。
この香森大明神とは、当社が高安郡水越村中ノ森(中社-ナカノモリとも記す)にあったことから、字名・中ノ森に香森の佳字を当てたものだろう。
「戸原のトップページ」より抜粋引用
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by barakan1 | 2013-04-24 12:32 | 旅日記

八尾市探訪ー心合寺山(しおんじやま)古墳~都夫久美神社~玉祖神社(2013-04-20)②・・・

史跡 心合寺山古墳(しおんじやまこふん)
●学習館と案内図
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心合寺山古墳しおんじやまこふんは、五世紀前半につくられた中河内最大の前方後円墳で、当時この地域一帯を治めた豪族の墓と考えられます。墳丘長は約160mあり、史跡指定範囲の総面積は約30,000平方メートルです。
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墳丘は三段築成で、くびれ部西部に「造り出し」があり、平坦面には円筒埴輪や朝顔形埴輪などが立て並べられ、斜面には葺石が葺かれていました。埋葬施設は、後円部に三つの「粘土槨」、前方部の「方形壇」の下に木簡がありました。後円部の「粘土槨」のひとつである西槨から、甲冑、き鳳鏡、刀剣類などの副葬品が出土しています。
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周辺には、西の山古墳や花岡山古墳など古墳時代前期から中期にかけての古墳が造営されており、心合寺山古墳しおんじやまこふんを含むこれらを総称して「楽音寺・大竹古墳群」と呼んでいます。
平成十七年四月  八尾市教育委員会
◆後円部(墳頂)
●はにわの広場より後円部を見る
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後円部は、古墳の主とも言える王が眠っている大切な場所です。
東西約7.5m、南北約11mの隅丸長方形の大きな「墓壙ほこう」とよばれる穴の中に、東西にならんだ長さの異なる「粘土槨」という三つの埋葬施設が見つかりました。真ん中の粘土槨を「中央槨」(長さ約7.7m)、左側を「西槨」(長さ約7.3m)、右側を「東槨」(長さ約6m)と呼んでいます。
●前方部より後円部を見る
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西槨におさめられていた組合式木棺から、短甲や冑、き鳳鏡、針、勾玉や管玉、竪櫛、三葉環頭太刀をはじめとする刀剣類などの副葬品が出土しています。
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墳頂では、家や蓋(きぬがさ)などの形象埴輪の破片が出土しており、本来は埋葬施設の上にいろいろな埴輪がならべられていたと思われます。ここでは、墓壙と三つの粘土槨の位置を表示しています。
八尾市教育委員会
◆前方部(墳頂)
●後円部より前方部を見る
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前方部は、後円部へつづく通路として意味をもっていました。
前方部に、「方形壇」という東西5.8m、南北8.8mの長方形の壇があったことがわかっています。壇のしたには、埋葬施設があり、人物を埋葬した後、まつりの場としていたようです。
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前方部の墳頂には埴輪が立てならべられて、後円部まで続いていました。埴輪列の外側には、壷形埴輪をのせた大きな円筒埴輪が配置されていました。
●もけいの広場より前方部を見る
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ここでは、方形壇の斜面に葺かれていた葺石の一部と埴輪列を復元しています。円筒埴輪や朝顔形埴輪の並べ方は、古墳が作られた当時を再現しています。
八尾市教育委員会
◆くびれ部
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くびれ部とは、前方後円墳の後円部と前方部のつなぎめ付近を指します。ここでは葺石の一番下に置く基底石が、後円部側の途中で内側に入り、その下に小振りの石が葺かれていました。このような得意な葺き方は、中段だけでなく東側上段でもみつかり、西側上段で反転して復元しています。
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後円部の円と前方部の方形のつなぎめは、図面上では簡単に描けますが古墳時代の土木技術では、設計どおりに盛り土を行うことが難しかったため、最後に葺石で形を整えた痕跡ではないかと考えられています。
八尾市教育委員会
◆造り出し
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造り出しは、墳丘から張り出した方形状の土壇で、埴輪を使っておまつりを行う場所であったと考えられています。心合寺山古墳しおんじやまこふんでは、大きさが東西約6.3m、南北5.6m以上、高さ1.2m以上の造り出しが西側でみつかりました。上面に埴輪は残っていませんでしたが、周辺からは鶏形埴輪や家形埴輪片などが見つかっており、これらの埴輪が張り出しで使われていたようです。
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また造り出しと後円部の間の谷部から「水の祭祀場を表した埴輪」が見つかりました。埴輪は塀を表した囲み部と祭殿と考えられる家部からなっており、床には水を導く樋管を表現しています。これは地域を治めていた王が行っていた水を用いたまつりの場を表現したものと考えられます。
八尾市教育委員会
●古墳全景
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※※桐の木は5世紀前半ごろに造られた全長160mの前方後円墳の後円部(丸い部分)に2本立ち並び、高さは約15mにも及びます。枝先から花長5~6センチの面長な形の薄紫の花を咲かせ、訪れる人の目を楽しませています。
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今年は開花が早く訪問時は」一番いい(満開)時期でした。
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by barakan1 | 2013-04-23 13:46 | 旅日記

八尾市(心合寺山(しおんじやま)古墳~都夫久美神社~玉祖神社探訪(2013-04-20)①・・・

心合寺山(しおんじやま)古墳を見学に行って来ました。(久しぶりです・・・)
ついでに都夫久美神社~玉祖神社を回って来ました。9時半出発~14:30帰着。(35㌔の行程)
◆初めて桐の木の花を見ました。
藤の花のような色合いでしたが、コチラは花自体が大きくて結構迫力がありました。
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●心合寺山古墳に咲く、桐の花。(地元では結構有名なようです。駐車場管理のオバサンが、今日は桐花見学ですかと聞かれました。私はそのことを知りませんでしたので、いいえ、古墳の見学ですと答えると・・・。今桐の花が満開で綺麗ですよ!!と。ホント!綺麗な、桐の花でした。
●行程地図

by barakan1 | 2013-04-21 18:14 | 旅日記