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紫香楽宮跡と蒲生野探訪(13.03.07)⑩阿賀神社(通称:太郎坊宮)・・・終

阿賀神社(通称:太郎坊宮) 滋賀県東近江市小脇町2247番地
●一の鳥居付近から見た神社&赤神山
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御祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
    【まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと】
    (天照皇大神の第一皇子神・天孫瓊瓊杵尊【てんそんににぎのみこと】の御父神
御神徳 勝運授福
●祈祷殿前展望台からの眺望
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太郎坊阿賀神社由緒記 (境内石碑)
当社は今から約千四百年前の創祀と伝えられている。鎮座地の赤神山(太郎坊山)は岩石が露出し、見るからに神秘的な神宿る霊山であると信じられてきた。天地万物を崇め、自然の恵みに感謝をする神道の教えの中で最も典型的なのがこの神体山信仰・磐座信仰であり、今も山上には奥ツ磐座、山麓には辺ツ磐座としての祭祀場が存在している。
●神社案内図
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人々の信仰が深く広くなるにつれ、このお山で修行をする修験者が多く現れ、その姿は太郎坊天狗として今に伝えられている。一般に当社を太郎坊さんと称する様に、天狗は御祭神の守護神となっている。
●祈祷殿
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聖徳太子も当大神の霊験が顕著である事を聞こし召し、国家の安泰と万人の幸福を祈願した。また伝教大師も当社に参籠し、灼としたご神徳に感銘し、五十有余の社坊を建立して守護された。さらにあまたの人々の信仰により、山肌に次々と社殿が創建され、社頭の益々充実してきたと思われる。こうして神道を基とした天台山嶽仏教と修験道が相交わる独特の信仰形態が確立され、庶民信仰の場として多くの参拝者を迎えるに至っている。
●本殿への参道(表坂)
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本殿前には夫婦岩と称される高さ数十メートルの二つの巨岩がある。言い伝えでは大神の神力により、巾約八十センチ長さ十二メートルにわたり、真二つに押し開かれたとされている。「この岩の間を通って参拝する者は、即座に病苦を除き諸願が成就するが、悪心ある者は岩に挟まれる。」ともいわれ、子供には悪戯をしたり嘘をついたら岩に挟まれると教え、戒めの場ともなっている。
●長楽殿・拝殿・龍神舎
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この祭神は天照皇大神の第一皇子神であらせられる。最初に天降りの命を下された程の寵愛を受け、いつも脇に抱えて大切にされた子であるという事から、当地名が小脇と名付けられたと言われている。
●二見稲荷社 稲荷社 十二神社
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ご神名から知られる様に、「吾れ勝ち負ける事が無い。なお勝つ事の速い事、日の昇るが如し。」で、殊に勝運の神として霊験あらたかであり、男子屈強の荘厳たる神を祀る現世利益・神験即現のお社である。
●「勝運石」(=夫婦岩)
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※「勝運石」(=夫婦岩)の由来 (境内看板)
昔から石に神霊がこもるという磐境信仰は我が国民信仰中顕著なるものがあり「勝運授福」御神徳あらたかな当太郎坊八神の祭神も神聖な巨岩の磐境信仰に源を発している。
我が国歌の中にも「サザレ石の磐となりて苔のむすまで」と歌われているように石には何か生命があると考えられ石は死物ではなく成長するものと信じられている。
この「勝運石」は当宮御祭神の御神徳である勝運即家運隆昌・商売繁昌・願望成就・諸難抜除・交通安全等の御神霊が秘められた神霊石であります。
  各位              社務所
●本殿                                 勝運石
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社名の阿賀はご神名の吾勝から付けられ、「特に喜び多く目出度き神を祀るお社」という意味である。赤神山の赤の同様に目出度き色である事から、「喜び多く目出度き神の座す山」という意味である。
●本殿展望台よりの眺望(船岡山方面)
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当初は太郎坊山そのものが神体山として祀られていた。神仏習合で山麓の成願寺によって祀られ、修験道色を強めるに至る。「太郎坊」という山名も修験道からきた名称と考えられる。太郎坊とは天狗の名で、京都鞍馬の次郎坊の兄にあたるという。太郎坊は「十丈許の妙石」(=夫婦岩)に住んでいたと伝えられる。(日本の神々5・白水社)
●裏坂を下る、一願成就社
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「神体山」(学生社)の著者景山春樹氏は、太郎坊宮の奥ツ磐座に対して、野口町の「阿賀神社」(太郎坊宮から西南約2kmにある、太郎坊宮と同名の神社。)が辺ツ磐座の祭祀場ではないかと推理されている。
●太郎坊宮・阿賀神社由緒記
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※感じとしては、生駒の聖天さんのような感じの神社でした。特に大きな磐座や、きつい勾配の階段が心に残りました。最後の訪問地で、疲れで少し頭がボ~としていたこともあり細かな印象は残念ながら覚えていません。今回の訪問はこれで終了です。
by barakan1 | 2013-03-24 16:02 | 旅日記

紫香楽宮跡と蒲生野探訪(13.03.07)⑨蒲生野・・・

蒲生野遊猟
●船岡山より西を見る
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このあたり一帯は蒲生野といわれています。
雪野山、瓶割山、鏡山が遠くに見える蒲生野には万葉時代、むらさきが咲き競い他の薬草も豊富にあったといわれています。
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◆天智天皇7年(668)5月5日、朝廷はこの蒲生野で薬草を摘み鹿などを追う狩猟を催しました。この美術陶板はその遊猟の姿を想像して描かれたものです。    
平成3年(1991)10月  八日市市
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船岡山
西側の巨石の横から船岡山へ登っていくと巨石の万葉歌碑が立っている。
万葉集
巻01-0020 
額田王
あかねさす紫野むらさきの行き標野しめの行き野守のもりは見ずや君か袖振る
紫野の中を行き、標野の中を行って、野守は見ているではありませんか、あなたが袖を振るのを。
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巻01-0021 
大海人皇子
紫草むらさきのにほへる妹いもを憎くあらば人妻ゆえにわれ恋ひめやも
紫草のように 美しいあなたを憎いと思ったら、人妻であるのに、私はかくも恋しく思うだろうか。
◆この歌は、天智天皇7年、蒲生野遊猟の時にかわされ、万葉集巻1に納められた有名な歌です。雜歌の部の所収されていることから宴席での戯れ歌かと思われます。
●船岡山歌碑と太郎坊(赤神山)を見る
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当時の皇太子は天智天皇の子の大友皇子であるとする説もありますが、日本書紀には皇大弟とあるため、多くは大海人皇子との間に十市皇女は大友皇子の妻となっています。
船岡山西側より舟岡山を見る
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蒲生野がどこかについては定かではありませんが、安土町内野、八日市市野口町.三津屋町.市辺町に「蒲生野」「蒲生野口」「小蒲生野」などの小字名が残ることから、この地域を見下ろす丘陵地であるこの船岡山に万葉歌碑が建立されました。  昭和46年5月20日 八日市市文化財指定  八日市市教育委員会
●太郎坊展望台より東側(蒲生野)を見る
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※待望の蒲生野です。想像していたよりズ~と開けています。予想はしていましたが・・・。でも、太郎坊からの蒲生野は、昔々この平野(野)で繰り広げられた遊猟時の相聞歌を思い出させ、十分想いを満たしてくれました。
by barakan1 | 2013-03-23 16:36 | 旅日記

紫香楽宮跡と蒲生野探訪(13.03.07)⑧阿賀神社(野口町)・・・ 

阿賀神社   滋賀県東近江市野口町1(旧八日市市)
●一の鳥居(前 八風街道)
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祭神
天忍穗耳命
●参道中程より全景
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由緒
神社の周辺は古くから蒲生野と呼ばれていた。
渡来人の開拓した地で、「狛の長者」の伝承地となっている。神体山である船岡山も狛の長者の屋敷にあった大庭の築山で、長者の家でよく食べた鮒の骨などが積もった山なので鮒の岡が船岡になったとの後世の作り話が出来るほどであった。 ー神南備にようこそーより抜粋
●境内全景(左磐座・本殿・古宮:拝殿) 後方船岡山
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◇野口町の氏神 阿賀さんの伝説 
阿賀神社の本殿の祀られている右側の古宮さんは、今日でも遠くからこの古宮さんへわざわざご霊験を敬い参詣する人がある。現在お旅所となっている位置にあった。今は落雷で枯れたので伐採されたがそれまでは地元では「おうみの木」とよばれていた。太い二本の幹が抱き合うようにして大きな枝を垂れていた。
逢身という名の由来ではないかと推測される。
●本殿と神社縁起
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その昔、八風街道に面していたこの社の前を通りかかった旅人が、「なんと見窄らしい宮やなあ」と呟やきながら通り過ぎようとした途端、大きな松ノ木が横たわり、旅人の行く手を塞いだ。
旅人はついうっかりと侮辱した、浅ましいさもしい心から出た言葉を真剣に詫びたところ、松ノ木は元通りの姿にかえり往来を許したという。
この事からきっと神の使いは天狗だと信じられたようで後世の人達は、祭神を天狗のように高い鼻の猿田彦命と考えたのではないか。と推察するのである。
●古宮(本殿右横)
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神社庁には、野口の阿賀神社の祭神は「あめのおしおのミコト」とされているが境内に記述したものと異なる理由は本殿への移転によって社が変わったときからで、関係先への届けに齟齬があったものと思われる。
ー市辺町づくり協議会ー抜粋
※古宮は其の由緒を知らなかったが、磐座に囲まれ、奥に鎮座している姿を見た時に、なんだが重い感じで脚が祠まで行けませんでした。神威パワーだったのでしょうか!!
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by barakan1 | 2013-03-20 13:05 | 旅日記

紫香楽宮跡と蒲生野探訪(13.03.07)⑦若宮神社~磐坂市辺押磐皇子墓・・・

若宮神社    滋賀県東近江市市辺町1896
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御祭神
天照皇大神
〔配祀神〕素盞鳴尊 瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 少彦名命
●境内社殿
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御由緒
創祀年代不詳。永禄七年神祇管領より若宮大明神の称号を受け、明治九年若宮神社と改称。 明治十四年村社に列し、同四十一年神饌幣帛料供進指定となる。宮座講がある。
●拝殿・本殿
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磐坂市辺押磐皇子墓(履中天皇皇子)  滋賀県八日市市辺町
大泊瀬皇子(雄略天皇)に殺された市辺押磐皇子と帳内佐伯部売輪(とねりさえきべのうるわ)の墓として管理されています。
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磐坂市辺押磐皇子( いわさかいちのべのおしわのみこ )
『当地に所在する古墳二基は、明治八(1875)年教部省によって市辺押磐皇子(磐坂皇子)・帳内佐伯部売輪(とねりさえきべのうるわ/仲子・なかちこ)の墓に治定され、現在は宮内庁書陵部の管理下にある。
東側の古墳は墳丘の直径15メートル・高さ3.5メートル、西側は直径6.5メートル・高さ1.9メートルを測り、ともに横穴式石室を有する円墳で、古墳時代後期に築造されたと推定される。
●陵墓前案内板
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日本書紀によると、安康天皇三(455)年に天皇が暗殺された後に有力皇子たちの抗争が続き、允恭天皇の子大泊瀬皇子は履中天皇の子市辺押磐皇子を近江来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)に誘い出して殺害し即位する(雄略天皇)、市辺押磐皇子の二遺児億計(おけ/兄)・弘計(をけ/弟)は雄略天皇の追及を逃れて播磨に潜伏するが、やがて都にのぼり顕宗(けんぞう/弟)・仁賢(にんけん/兄)天皇となる、顕宗天皇のとき、狭々城山君倭岱(ささきやまのきみやまとぶくろ)の妹置目(おきめ)の記憶により市辺押磐皇子及び帳内佐伯部売輪(とねりさえきべのうるわ)の遺骨が発見され、この蚊屋野の地に二つの墓が築かれたという。
●墳丘
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これらの記事から、この二つの古墳が磐坂市辺押磐皇子及び帳内佐伯部売輪の墓と安められた。』★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2013-03-18 14:31 | 旅日記

紫香楽宮跡と蒲生野探訪(13.03.07)⑥紫香楽宮跡・・・

紫香楽宮/信楽宮(しがらきのみや)
奈良時代、聖武天皇が近江国甲賀郡(滋賀県甲賀市)に営んだ離宮。後に甲賀宮(こうかのみや)とも称され、都となった。
●宮町遺跡付近地図
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「古代史の中でも不可解なものの一つなのは、この紫香楽宮にまつわる遷都です。平城京、恭仁京、難波京、紫香楽宮、平城京と5年間に4度も遷都が行われたのです」
●地図A地点より紫香楽宮跡方向(北東)を見る
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◇740年、前出の藤原宇合(うまかい)の子藤原広嗣が九州で挙兵した。朝廷での権力が藤原氏から橘氏に代わり、吉備真備や玄昉がもてはやされた事に対する不満からだったといわれています。
反乱は9月3日に始まり10月23日に広嗣が処刑され終息したのですが、ここで聖武天皇の不可解な行動が起きたのです。
◇740年10月下旬、広嗣の乱の終息の情報が平城京に伝わっていないときに、何故か伊勢、桑名、大垣、関ヶ原、大津、恭仁京へと行幸し、ついには恭仁京に遷都してしまう。
◇742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸した。これが紫香楽宮である。
◇翌743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願した。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められた。
◇744年(天平16年)、信楽宮から甲賀宮へ宮名の変化が徐々にあらわれ、11月には甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられた。
◇745年(天平17年)1月には新京と呼ばれ、宮門に大楯と槍が立てられ、甲賀宮が都とされた。しかし人臣の賛同を得られず、また天災など不幸なことが相次ぎ、同年5月に平城京へ戻ることになった。このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は、「奈良の大仏」東大寺盧舎那仏像として完成されることになった。
●紫香楽宮跡
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●案内看板
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◆紫香楽の地は、当時の感覚においては余りに山奥である事から、ここを都としたことを巡っては諸説があり、恭仁京周辺に根拠を持つ橘氏に対抗して藤原仲麻呂ら藤原氏に関与したとする説や天皇が自らの仏教信仰の拠点を求めて良弁・行基などの僧侶の助言を受けて選定したとする説などがある。
●地図B地点より紫香楽宮跡方向(南西)を見る
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◆宮跡 かつては甲賀郡信楽町(現・甲賀市)黄瀬・牧地区の遺跡(1926年「紫香楽宮跡」として国の史跡に指定)が紫香楽宮跡と考えられていたが、北約1kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡が検出され、税納入を示す木簡が大量に出土したことなどから、宮町遺跡が宮跡と考えられるようになり、黄瀬・牧地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡であるという説が有力である。2005年には宮町遺跡を含む19.3ヘクタールが史跡「紫香楽宮跡」に追加指定されている。現在でも、「宮町」「勅旨」「内裏野」などの地名が残り、往事の宮城の名残を残している。
◆この辺りを詠んだ万葉歌がないのが残念ですが。
十二年庚辰冬十月、太宰少弐(おほみこともちのすなきすけ)藤原朝臣廣嗣が反謀(みかどかたぶ)けむとして軍(いくさ)を発(おこ)せるに、伊勢国に幸(いでま)せる時、河口の行宮(かりみや)にて内舎人(うちとねり)大伴宿禰家持がよめる歌一首
巻06-1029
河口(かはくち)の野辺に廬りて夜の歴(ふ)れば妹が手本し思ほゆるかも
天皇御製歌一首(聖武天皇)
万葉集
巻06-1030
妹に恋ひ吾がの松原見渡せば潮干の潟に鶴たづ鳴き渡る
【補記】一つ前の歌が家持の天平十二年伊勢国河口行宮での作なので、この歌も同年の行幸の時の作か。「吾の松原」は万葉集の左注によれば伊勢国三重郡にあった松原。今の四日市市辺りかという。ー千人万首よりー
※※宮町の盆地の面積もそう広大ではなく、奥まったような感じで、なぜ天皇がここに宮を作ったのか私には分かりません。昔の面影を残す故、これからも、悠久の歴史を伝え続けることでしょう!
by barakan1 | 2013-03-16 13:53 | 旅日記

紫香楽宮跡と蒲生野探訪(13.03.07)⑤新宮神社遺跡・・・

新宮神社遺跡
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◇地図・地勢
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◇(甲賀寺跡)の北東約600メートルには2000年(平成12年) - 2002年(平成14年)にかけて、新名神高速道路建設に関連して発掘された鍛冶屋敷遺跡がある。この遺跡は銅鋳造関連遺跡で、紫香楽宮跡にも近い。
宮町遺跡と甲賀寺跡の中間地点に位置する「新宮神社遺跡」では、役所跡とともに「朱雀路」と推定される幅12mの道路や幅員8.6mの橋跡の遺構が発見されました。
このことから、今まで想定されていた以上に紫香楽宮の造営計画が大規模で、宮都としての機能が整えられていたことが明らかになりました。
◇神社付近
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by barakan1 | 2013-03-14 14:07 | 旅日記

紫香楽宮跡と蒲生野探訪(13.03.07)④ 紫香楽宮跡(甲賀寺跡)・・・

紫香楽宮跡(甲賀寺跡)  滋賀県甲賀市信楽町牧   「ウィキペディア」より
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聖武天皇が天平17年(745年)に遷都した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡に比定され、1926年(大正15年)に史跡として約33000平方メートルが指定された。
◇中門阯
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しかし、その後の発掘調査の進展により、当遺跡の北2キロメートルにある甲賀市信楽町宮町の宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡とみなされるようになり、
◇金堂阯
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黄瀬・牧にある遺跡は東大寺に先駆けて紫香楽宮で大仏建立を行った甲賀寺の跡、または近江国国分寺の跡である可能性が高くなった。
◇鐘楼阯
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◇塔院阯
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◇門阯
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黄瀬・牧の遺跡は、300あまりの礎石が残るなど遺構の保全状態は良好であり、礎石の配列から東大寺の伽藍配置と同様の建物配置を持つ寺院跡とみられる。
(案内板)
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◇講堂阯
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当遺跡から出土した軒丸瓦が種類、軒平瓦2種類のうち、創建期とされる瓦は、恭仁宮大極殿造営に際して新調された瓦をモチーフとした単弁十七葉蓮華文の軒丸瓦と均整唐草文の軒平瓦が、
◇経堂阯
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◇僧房(北より)
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恭仁宮廃都後に建立された山城国分寺の塔跡と同笵瓦であることが確認されていることから、寺院跡であることは疑いない。
※礎石は比較的シッカリと残っています。それにしても、こんなところにと言ったら失礼であるが、こんな立派なものをよく作ったもんだ。ここに最初の「大仏」を作ろうとしていたというのも驚きだ!!聖武天皇というのは、何かよくわからないいところがあるのかな?    ★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2013-03-13 17:31 | 旅日記

紫香楽宮跡と蒲生野探訪(13.03.07)③新宮神社(紫香楽一の宮)・・・

新宮神社(紫香楽一の宮)    滋賀県甲賀市信楽町長野1151-1
●神社前(信楽口)              ●神社正面
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祭神:素盞鳴命・稲田姫命・大山津見神
●社号標・鳥居                 ●参道~舞殿
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●新宮神社由緒書
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◆新宮神社は奈良時代の霊亀元年(715)9月に創建されました。
それ以来、信楽の町大地長野、神山、江田、小川の「産土神(氏神)」として広く人々から尊び崇められた社号を「新宮大明神」と呼ばれていました。
●境内全景(向かって左より)
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これまでに近衛関白家を始め、近江の守護佐々貴氏等に篤く信仰され、代々当社に境内神領などの寄進がありました。南北朝の戦(1336年)11月に現在の本殿が再建されました。
●舞殿と狛犬(信楽焼)
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明治9年(1876)11月「村社」に、大正2年(1913)4月「神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)」に指定、大正4年(1915)5月、長野字西出と字川東の二箇所に「山神社」として「大山津見神」を祀られていたのを、当社に合祀されました。
●拝殿&本殿
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大正13年(1924)には「郷社」に昇格。現代は「紫香楽一乃宮」として篤く崇敬されております。
●境内社(巳社 神武社 ご神木社 大国社)
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by barakan1 | 2013-03-11 16:51 | 旅日記

紫香楽宮跡と蒲生野探訪(13.03.07)②陶器神社(愛宕神社)探訪

陶器神社(又は愛宕神社)滋賀県甲賀市信楽町長野
●神社境内(本殿に向かい左より    ★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
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祭神:火之加具土神(ひのかぐつちのかみー火の神)
   埴山姫紙(はにやまひめのかみー土の神)→愛宕神社 秋葉神社
   天日槍(あまのひぼこのかみ)→陶器神社
●神社境内(本殿に向かい右より
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『愛宕山頂に祭祀する愛宕神社(あたごじんじゃ)が、千二百年の伝統を誇る信楽焼の生産と不可分の関係にあり、それは、毎年七月に山頂の愛宕神社あたごじんじゃに松明を奉納する荘厳にして古式懐しい神事が古くより行われており、また東京の有名な芝愛宕神社あたごじんじゃは、徳川家康が慶長八年に幕命によって、この信楽の愛宕神社あたごじんじゃの分霊を江戸に移し参らせたものであることと多くの歴史学者の肯定している点であります。
●表参道境内直前の急勾配の石段    ●鳥居    ●本殿
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陶郷の中心点というべき愛宕山頂の陶器神社(とうきじんじゃ)は、その御祭神を火の守護神「愛宕権現」と土を司り給う「加具土師」及び焼き物を始とする当地方文化の祖「天日鉾命」を祭祀し、遠く我々の祖先より祀り継がれて来た。正しく我が陶器産業守護の神社であります。
陶器神社とうきじんじゃ奉賛会』
●本殿(正面より)
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●本殿前信楽焼の狛犬
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●表参道入口
◆カーナビの指示のまま走ったので、本来の表参道ではなく、裏参道からの参拝となった。これが結果幸いしたようだ(表参道は大変急な階段が続く道で登るだけでヘトヘトになるところでした。裏参道側は楽な代わりに、神社らしい雰囲気を味わうこともなく、イキナリの神社境内ということでチョット????ですが・・・。でも、楽な分だけよしとしよう)
by barakan1 | 2013-03-10 15:10 | 旅日記

紫香楽宮跡と蒲生野探訪(13.03.07)①コース案内と安積親王(あさかのみこ)墓と和束天満宮

■■昨年は体調もすぐれず、探訪の気力もなく過ごしてしまいました。このままではいけないと思い直し探訪を再会することにしました・・・。何時まで続くか ??ですが頑張ってみます
①コース案内
6:30自宅発~上狛47㌔(8:00)~天神社付近で目眩、休息を兼ね参拝)~陶器神社80㌔(9:30)~新宮神社82㌔(10:20)~紫香楽宮跡90㌔(11:30)~新宮神社遺跡~宮尾遺跡(本当の紫香楽宮跡)~岩尾神社94㌔(12:00)~若宮神社~磐坂市辺押磐皇子御墓~阿賀神社(船岡山)122㌔(14:00)~太郎坊(阿賀神社本社)125㌔(15:00)~名神経由、自宅、距離240㌔(17:30)着。

安積親王(あさかのみこ)墓と和束天満宮
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万葉集
市原王
巻06-1042 
一つ松幾代か経ぬる吹く風の声(おと)の清きは年深みかも
大伴宿禰家持    
巻06-1043 
玉きはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとそ思(も)ふ     
大伴宿禰家持
巻03-0477 
足引の山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が王かも

和束天満宮
今日は紫香楽宮跡と蒲生野の探訪がメインなので、以前尋ねた安積親王(あさかのみこ)墓と和束天満宮はパスするつもりであったが何故が立ち寄ってしまった。それはまるで先を急ぐ私を引き止めるように天満宮に近づいた時、目眩がクラクラとし、運転が危険な状態に陥って仕舞ったのです。
これも神のお導きか!と車を止め、天満宮に立ち寄り、お参りしたわけである!!。
以前探訪しているので、勝手知ったる神社で真っ直ぐに本社に行きお参りをする。
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御祭神:
本社菅原道真(すがわらのみちざね)
独特の横長の彩色豊かな社殿建築が目を引く。室町時代の一間社流(いっけんしゃながれ)の建築として、全国でも例を見ないという。貞和4年(1348年)の建築で国の重要文化財。
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境内は朱塗りの橋を挟んで府道の南北に広がる。末社や脇社など10社が鎮座しており、京都府の登録有形文化財も多い
■コース地図

by barakan1 | 2013-03-09 18:26 | 旅日記