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和歌山市~海南市探訪(2012-01-09)⑨野上八幡宮・・・終

野上八幡宮   和歌山県海草郡紀美野町小畑623
●神社正面全景
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祭神
品田和氣命
配神 息長帶姫命、玉依姫命
●一の鳥居より神門を見る
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由緒 神社の御由緒から
当八幡宮の縁由は古く、神功皇后が三韓より御帰還なさる途中三年間の頓宮の跡と いわれる。
●拝殿
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その後欽明天皇の時代(千四百余年前)に、応神天皇の霊を勧請し、この地に八幡 宮が創立された。
●境内から社殿を
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ついで永延元年(九八七)に山城国石清水八幡宮の別宮となり、放生会その他神事一切石清水八幡宮に準じて行うべしとし、熟田二百十町を以て神領とし、神官その他役職が定められた。
●境内から社殿を(拝殿・本殿・若宮)
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中世は神領を中心に荘園統治が行われた。 その後幾多の兵乱をまぬがれたが、天文十年(一五四一)根来の衆徒が襲来、社殿・堂舎を初め文書に至るまで焼失し、神事や祭礼は皆廃絶したが、
●拝殿・本殿
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十六年を経て本殿・若宮社の再建に着手し、天正元年(一五七三)に完成をみた。 徳川時代になると、徳川頼宣公がたびたび社参し、鳥居、灯篭・絵馬等を奉納して いる。
●境内社    高良神社      恵美須社・祇園社        若宮社
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昭和三十二年から三か年にわたり、解体修理が行われた。  本殿・拝殿・武内神社・若宮・高良神社・刀剣(銘真長)は国重要文化財、絵馬殿は県指定文化財。 
●本殿後方にある境内社群(左右よりみる)
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ー神社の御由緒から ー
by barakan1 | 2012-01-20 15:36 | 旅日記

和歌山市~海南市探訪(2012-01-09)⑧千種(ちぐさ)神社・・・

千種(ちぐさ)神社(通称あしがみさん)  海南市重根1125
●老楠               ●神社正面(西より東を見る)
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祭神 草野姫命
配祀 熊野速玉神 天照皇大神 八王子神 猿田彦神 須佐之男神 大山須美神 市杵嶋姫神   
境内社
祇園神社 秋葉神社 恵美須神社 
●全景(西南より見る)
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  由緒
小高い丘の上に鎮座している質素な感じの古い神社。神社名を記して掲げられている額は竈山神社の宮司の手になるものである。名草姫を惨殺した仲間の五瀬の命を祀る神社の宮司である。恩讐を越えて弔っているのであろうか。
御神木の檜はすごい。二本の足を天に向かって立てている。木の股であるY字型は神座であり、神聖まものとされ豊饒の象徴でもある。
●正面鳥居と奥拝殿
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古くは百草神社と称した。旧記に「百草明神は人皇第三十六代孝徳天皇大化三丁未年雨ノ森といふ所へ御鎮座、右末社七社有」とある。ー神南備にようこそーより抜粋

紀伊續風土記 巻之十八 名草郡 重根郷 伏山村から
○百草大明神社     境内 東西三十間 南北二十八間
 本社四社
 瑞 籬  拝 殿  鳥 居   観音堂
 鐘 楼  穀屋神宮寺 真言宗古義 京勧修寺末
●拝殿と狛犬
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田津原伏山大谷三箇村の産土神成り 祀神詳ならす 村民は本地佛を称して北より数えて観音阿弥陀不動文殊と呼へり 百草は地名と見ゆ 応永(1394~)永正(1504~)なとの文書に百草ノ森の名見えたり 播川禅林寺蔵 当社旧は乾の方三町許田中字を森といぐ地にありしといふ
●神木と本殿
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▲▼河内湖の日下で長髄彦に破れた神武軍はその後、紀ノ川下流域“名草邑(なくさむら)に着き、名草(なぐさ)戸(と)畔(べ)という女賊を誅した”と日本書紀では簡単に記されています。名草戸畔の人物像や、戦いの様子を伝える記録はどの書物にも見られません。今の、紀三井寺、布引あたりは、当時は海であったはずですから、名草邑というのは多分名草山の東に広がっていたのではと思われます。
●本殿
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戸畔について、部族の女王としましたが、邪馬台国の卑弥呼に代表されるように、祭祀を司る巫女的な女性が、部族を統治する制度が、古代の社会では一般的だったのでしょう。従ってナグサトベというのは、特定の個人名でなく、名草村村長といった意味のもので、何代にもわたって存在した中の一人と思います。和歌山市や海南市には、名草姫を祭神とする神社がいくつかありますが、(中言神社、内原神社、名草神社等)神武東征の時のナグサトベとのつながりは不明です。
●境内社 恵美須神社                 祇園神社
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また名草山の南東部に当たる、海南市小野田の宇賀部神社、同市阪井の杉尾神社、同市重根の千種神社はそれぞれ地元の人たちから、“おこべさん”(こうべ=頭の神様、受験生の親に人気) “おはらさん”(お腹痛けりゃ杉尾のお宮) “あしがみさん”(神前に履物を供え、足腰の無病を祈る)と呼ばれ、親しまれていますが、地域の伝承では、神武軍に敗れ、殺されたナグサトベの体が、頭、胴、足と切断されて葬られた地に造られたのがこれらの神社であると云われています。
「きのくに散策ー神武東征記きのくに編」ーより抜粋
※宇賀部神社、杉尾神社が山の中腹にあり、山の中という印象に比べ、ここ千種神社は小高い丘の上にある感じです。それでも昔は遮るものがなく、遠くまでよく見渡せたでしょう。社叢がもっと深ければ前二社のような印象を得たのでしょうが、少し質素な感じを受けました。境内には十日戎のため氏子さん達が集まって準備をされていました。この地方はエビスの信仰が特に盛んなところなのでしょうか?
名草戸畔の伝承に係る神社三社をこれで訪問しました。(^^)
by barakan1 | 2012-01-18 14:30 | 旅日記

和歌山市~海南市探訪(2012-01-09)⑦杉尾神社(通称おはらさん)・・・

杉尾神社(通称おはらさん)  海南市阪井1858
●神社遠景
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祭神 大山祇神、誉田別命
摂社
七社神社 住吉神社 皇大神社 蔵皇神社 金比羅神社 祇園社
厳島神社 秋葉神社 弁財天神社 稲荷神社 天神社
●一の鳥居~境内石段
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由諸  『平成祭礼データCD』神社本庁
当杉尾神社の御鎮座は巽村大字阪井字玉輪山、人皇第四十五代聖武天皇御字神元亀甲子年十二月勧請されたと伝えられている。しかしながら、杉尾神社という名称がどのようにして付けられたかは不明である。また、いつの時代からか、「おはらさん」としても人々に崇敬されるようになった。
●境内拝殿前
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伝承によると、和歌の浦のどの浦か定かではないが、大きな龍が流れつき、どのような場所に葬るか占ったところ、「その浦より巽の方角にまつれ」と言われ、腹部を当神社におまつりになったという。このころから、おはらさんとして崇拝され始めたのであろう。
●拝殿
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当社の八幡宮については、元亀年中に仁和寺号、厳島御宝、御奈良院御樽子の二品仁助親王により修造されたのか、その時の棟礼が残っている。
また、奇しくも、赤穂浅野家とも関係があるらしく、浅野家による検地があったという。  ー神南備にようこそーより抜粋
▲▼名草戸畔(なぐさのとべ)は、
●社殿(拝殿・本殿)
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日本書紀での名で、地元では名草姫とも。また名草戸畔とは特定の人物ではなく、「名草の長」という地位を表す言葉であるという。名草邑(現在の和歌山市名草山周辺)の統治者で、東征で進軍してきたイワレヒコ(神武天皇)との戦いで戦死した。名草戸畔の死後は、代わって紀氏が紀伊を治めた。自らの家系で、名草戸畔を遠縁に位置づけることで、正当性を主張した。これは日本書紀が名草邑に着き、そこで名草戸畔という名の者を誅殺したと書いてあるのが唯一の記述である。
●拝殿内部
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地元の伝承では、和歌山市から、海南市に抜ける潮見峠という小さな峠があり、その西側にクモ池という池あり、この周辺が神武軍との戦場になったとされる。名草戸畔はここで殺され、頭、胴、足が切り離された。地元の住民により、頭は宇賀部(うがべ)神社(別名おこべさん)、胴は杉尾神社(別名おはらさん)、足は千種神社(別名あしがみさん)に埋葬された。和歌山市のいくつかの神社は名草姫命と名草彦命を祀っており、その本社は吉原の中言(なかごと)神社である。
紀伊續風土記 巻之十八 名草郡 多田郷 坂井村から
●摂社群
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○産土神社  境内 東西二町 南北五十間
 末社二社
   祀神  杉尾明神 八幡宮  両社 各三尺五寸 四尺
   廰   御供所   寶 蔵   鳥 居
   末社五社
   住吉明神社 本社の左にあり   蔵王権現  本社の坤にあり
   宇賀魂神   大己貴命   猿田彦神  大年神
   奇稲田姫命  事代主命   市杵島姫命  七神合殿 本社の右にあり
   祇園 妙見 社 本社の艮山上にあり  蔵王権現 本社の坤にあり
   天照大神宮 本社の巽にあり
●祇園社                       ●稲荷社
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村の北ノ山にあり 一村の氏神にして社殿美麗なり 勧請の年月詳ならす 古記録ありて神拝献備の事を略記せり 奥に建久二年(1191)に書せしを永禄十一年(1568)に写しかえたるよし書せり
別 当   神 宮 寺
社地の巽にあり 旧は真言宗古義なりしに寛延四年(1751)真言新義に転派し黒岩村寶光寺の末となる 護摩堂あり
by barakan1 | 2012-01-17 15:46 | 旅日記

和歌山市~海南市探訪(2012-01-09)⑦宇賀部(うかべ)神社・・・

宇賀部(うかべ)神社 (通称 おこべさん)  和歌山県海南市小野田917
●神社全景
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祭神  宇賀部大神(軻遇突智命)、荒八王子命、誉田別命
境内社 大神宮 天神社
末社  祇園神社 弁財天神社秋葉神社 多賀神社 山王神社 稲荷神社 
●社頭案内板
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由 緒
古記録は戦国時代の兵火で焼失して、由緒を尋ねる確たる典拠がない。しかし鎌倉期よりの神職、小野田家所蔵の文書によれば、「山城国、愛宕神社を勧請す」とあり、古来、祭神3柱の中央祀神たる「宇賀部大神」を「迦具突智神」とする説に符号する。 また一説には、神武天皇ご東征のみぎり、皇軍に随順することを肯じなかった名草戸畔の首級を祀るともいわれ往古より頭の守護神として、「おこべさん」の愛称で広く親しまれてきた。
●鳥居~参道石段~手水舎
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荒八王子命は、もと現在地の東方100㍍に、若宮八幡神社は南方約400㍍、高倉山の中腹に鎮座していたが宝暦4年(1754)、本殿新築に際して、この地に合祀された。ー宇賀部神社HPーより
●拝殿
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紀伊續風土記 巻之十八 名草郡 多田郷 小野田村から
○産土神社
      荒八王子大明神
 祀 神 宇賀部雨大明神  合殿  二間一間半
      若 宮 八 幡
 拝 殿   御供所   鳥 居   玉 垣
 末社天満宮
●中門・瑞垣・本殿(左から) 
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東村の北にあり 一村の氏神にて社殿壮麗なり 中央祀神詳ならす 元亀年中(1570~)の棟札に宇賀部雨大明神とあり社伝に宇賀部は宇賀ノ御霊ノ神を祀り 荒八王子は軻遇突知ノ命を祀るといふ 或説に雨は両の誤にて宇賀部の神と荒八王子の神と両大明神の義といへり 
●右から)
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若宮八幡の社は昔村の南高倉山の北の麓にありて上ノ宮と称し当社を下ノ宮と称しけるに百余年前上ノ宮八幡宮を此の地に移して三神合殿に祀るといへり 因りて八幡の古宮の地を今も上ノ宮山といふなり 宮付の山すへて三箇所あり 当社の宮作及び境内の形状尋常 村落の産土神とも見えす必古官知の神にして後世其の神名を失ひしなるへし 今称ふる所社家の説他に考ふる所なれとも姑くこれに従ふて疑を存すといふ 当社旧は神宮寺ありしに享保年中(1716~)官命ありて除かる
●本殿
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        神 主    小 野 田 氏
其の家系詳ならざれも寛治二年(1088)の譲状に神主貞吉と見えて旧家なり 宝治二年(1248)応永五年(1398)同三十年正平二十二年(1367)寛正四年正長二年等の田券文保二年(1318)の座論等の古文書を蔵す 文書部に載す

▼▲宇賀部神社にまつわる伝説はありますか?ー宇賀部神社HPーより抜粋
一説に、当神社は神武天皇ご東征当時、紀北を支配し、紀三井寺の北の名草山あたりを本拠地としていた名草戸畔(なぐさとべ)の首級を祀るといわれています。
 私たちの先祖は、首長名草戸畔を立てて、お互いに力を合わせて平和に暮らしていました。そこへ神武天皇の軍勢が攻め入り、村人たちは挙って対抗しました。船尾から潮見峠を越えたちょうどクモ池のあたりが、神武軍との戦いの場となったともされ、形勢不利になって高倉山に退却し、戦いむなしくそこで惨殺され、頭部、腹部、脚部に切り裂かれたとされています。
 わが先祖たちは、嘆き悲しみ、三つに切り裂かれた名草戸畔のむくろを三つの所に懇ろに埋葬し、現代に至るまで、いつき祀ってきました。それが、頭部を祀った当社(通称 おこべさん)、そして、その南約2㎞の阪井の高倉山の南麓にある、腹部を祀った杉尾神社(通称 おはらさん)、その南西約1.5㎞の重根にある、脚部を祀った千種神社(通称 あしがみさん・ももくささん)です。
●神社遠景
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しかし、現在ともなれば、それが姿、形を変えた伝承として伝わっており、『海南・海草物語』(海南・海草地方広域観光協議会発行)では、名草戸畔は大蛇に変わっています。「紀ノ川の河口に一匹の大蛇が流れついた。玉をくわえ、腹部には金色に光る輪があり、足もあった。これぞまさしく神の化身と、人々はこの大蛇を頭部、腹部、足の三体に分けた。頭部を宇賀部神社に、腹部を杉尾神社に、足を千種神社にそれぞれお祀りしたそうだ。」
地元では、皇軍に敵対したとのことから名草戸畔の名を隠して、大蛇として祀ってきたともいわれています。
※△今回探訪の目的の名草姫にまつわる三神社に来ました。予想に違わず歴史を感じさせる雰囲気でした。満足です。唯、道中の道の狭さには往生しましたが・・。
by barakan1 | 2012-01-16 16:32 | 旅日記

和歌山市~海南市探訪(2012-01-09)⑥旦来(あっそ)八幡神社・・・

旦来(あっそ)八幡神社  海南市1219
●一の鳥居・参道石階段
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祭神  譽田別尊 配 足仲彦尊、氣長足姫命
摂社  姫神社、住吉神社、須佐神社、厳島神社、稲荷神社、恵美須神社、影向神社
●境内拝殿前
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由緒
南北朝争乱の正平八年(一三五三)、根来寺伝法院の堂衆が乱入し、剣・弓・矢・御筆の法華経等の宝物、細川・小俟・石堂ら諸大名から贈られた土地寄進状、その他神主の私物に至るまで、いっさいを奪われた(畠山尾張守「紛失且来八幡宮色々神物等事」)。 このために鎮座年代も不詳であるが、古くは、広大な神領と四十もの末社を擁す近郷随一の大社として、代々の武将や領主たちの深い信仰を集め、ひときわ威光を放っていたという。
●神門・瑞垣             ●摂社姫神社
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その昔、神功皇后が応神天皇を抱き奉り、朝鮮から帰国されたときのこと、里人たちは仮殿を造って皇后をお迎えし、当地への御永住を懇願した。 皇后はいたく感動なさり、「あした(且)来よう。」と約束なされた。 これが「且来」という地名説話である。ー神南備にようこそーより抜粋
●摂社 厳島神社  須佐神社  住吉神社        ●神門・瑞垣
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※且来八幡神社の本殿は建立年を証明する資料は無いが、三間社流造り檜皮葺きで形の整った彫刻等ほぼ建立当時の部材や形態が保たれており、桃山時代の様式を示す貴重な遺構で、極彩色の本殿は周囲の木立の緑に映えて壮麗華美であり、県の文化財に指定されている。
●神社本殿
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※山の中ですが、十日戎を明日に控え、氏子の皆様がお参りの準備をされ、音楽も流れ賑やかな雰囲気でした。境内はのぼりや幕で覆われて正面から拝殿の写真は撮れませんでした。美しい神社でした。★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2012-01-15 13:06 | 旅日記

和歌山市~海南市探訪(2012-01-09)⑤武内神社・武内宿禰産湯の井・・・

武内神社・武内宿禰産湯(たけうちのすくねうぶゆ)の井
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武内神社(安原八幡神社の奥宮)  和歌山市松原83番地
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祭神  武内宿彌
由緒   隣りに武内宿彌誕生井がある。 この当たりで生まれたとされる。紀氏の傍系であったが、本流が途絶えたこともあって本家になった。 数代の天皇に二百年以上仕えたとされているが、子々孫々同じ名前を名乗る事は、商家、役者等にもある。
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日本書記には武内宿彌を祖とする氏族として波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏をあげている。天皇家以外の大臣の系譜が詳細に記されているのは珍しいとされている。 権力中枢における紀氏の大きい力を証明するものとの説もあるが、それよりも武内宿彌が限りなく大王に近い存在であったと理解しておく方が正しいと思われる。
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武内宿彌を祖とする各氏族と同じ地名が福岡県の中央部の甘木市の周辺と大和(紀氏は肥前基肄郡と紀伊)に分布している。集団での氏族移動のあったことを示唆している。
●誕生地碑          ●瑞垣               ●本殿
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ー神南備にようこそーより抜粋
武内宿禰産湯(たけうちのすくねうぶゆ)の井   ー境内案内板よりー
武内宿禰は「古事記」によると、第八代孝元天皇と紀伊国の日前宮を祀る紀伊国造第六代うじ彦の娘山下影媛とのあいだに生まれたという。なお、「日本書紀」では、第十二代景行天皇が皇族の屋主忍男武雄心命を紀伊国に派遣した際、命と宇治彦の娘・影媛との間に生まれたともいう。その後、武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳の各天皇に仕え、特に神功皇后の朝鮮半島遠征を補佐したと伝えられる。また、彼は蘇我・葛城・巨勢などの古代豪族の祖先として祀られている。
●産湯を汲んだとされる井戸(今では長寿の水として親しまれています)
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歴代の天皇に仕えるほどの長命を保ち、国家に忠誠を筑紫、子孫が繁栄したという点で、古くから理想的な人物として讃えられてきた。そのため、戦前発行の紙幣には武内宿禰がしばしば図案として用いられた。その母は紀伊国の名族紀氏一族の娘で彼は紀伊国で誕生したと言われている。このため、江戸時代に彼の誕生した故地が求められ、享保十六年(1731)にこの井戸が、第七十一代紀伊国造俊範によって、彼の産湯を用いた井戸であると考証された。その後、武内宿禰の事績にあやかろうとするため、紀州徳川家に子女が生まれたときにはこの井戸の水が産湯として用いられた。
by barakan1 | 2012-01-14 14:15 | 旅日記

和歌山市~海南市探訪(2012-01-09)④(安原)八幡神社・・・

安原八幡神社  和歌山市相坂671
●神社正面鳥居・参道
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祭神
誉田別尊、気息長足姫尊、武内宿禰
摂社
瑞穂神社・稲荷神社・織染神社・高羅神社
奥宮として武内宿禰誕生の井戸側に武内神社が建てられている。
●割拝殿
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由緒 平成祭礼データから
神功皇后三韓より御凱旋の際、忍熊王の難をさけ、難波から紀水門(安原付近)に御 到着、御子誉田別命(応神天皇)を武内宿称に護らせ、皇后みづからは更に日高郡衣奈まで迂回をして、再び安原の津田浦(小学校付近)に御上陸、頓宮を造られ御滞在なされた跡が当社である。
●瑞垣・本殿
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御鎮座年代不詳であるが、欽明天皇の御宇、諸国の神功皇后御経歴の地に八幡造営の詔命があったから、当社の創建もこの時と推憶される。しかし社伝由来記に「応和元年(九六一)如月初卯未明、神託ありて宇佐より天降る」と記されているが、紀伊続、紀伊国名所図絵の編者らは、それが社殿再建なり、壮麗さを備えた中興の年ではないかとして、欽明天皇説をとっているも、裏付け資料なく(天正兵火焼失)由来記をもって創祀としている。
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なお皇后当地での御滞在は御子誉田別命の御身辺に心を配られたためであり、此の地 は武内宿称生誕の地で、一族が阿備柏原(市内松原字柏原、当社南東一粁、宿称誕生之井あり)に居を構えて勢力をほこっており、安心して皇子を託すことが出来たからである。
●本殿
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やがて忍熊王の乱、武内宿称により平定されるや、皇后百僚を従えて紀の川筋を都へと還幸された、その後道中御休息、御宿泊の地、海南市旦来、名賀郡貴志川町等々各地に八幡宮が御造営されたが、当社は紀伊国御路次中ふり出し第一の八幡宮で紀伊国名所図絵も「当社は日本最初の御旧跡なり、当時皇后の御船紀水門に泊し給い、後日高に還幸し給うと雖も、皇子を留め置かせ給う所は則ちこの安原郷なり」と記している。寛文記によると、社領三十六町あり、社殿壮麗で長床、鐘楼、神宮寺、僧坊六あったが、天正の兵火で焼失、その後再建されたが往時の姿におよばず、今日に至っている。
●摂社群  瑞穂神社       稲荷神社          織染神社         高羅神社
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例祭には古式に従い江南地区下ノ宮御旅所まで神輿の渡御あり。また春祭(御創立日、四月初卯)には当社に伝わる「さと神楽」が講によって奉納される。 ー神南備にようこそーより抜粋
by barakan1 | 2012-01-13 15:35 | 旅日記

和歌山市~海南市探訪(2012-01-09)③(吉原)中言(なかごと)神社・・・

(吉原)中言(なかごと)神社   和歌山市吉原
●神社正面
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祭神
名草彦命、名草姫命
境内社 天満社、八王子社                      紀伊国名所図絵から
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由緒
紀洲図絵に吉原の里中言大明神として、壮大な神殿の絵が残っている。名草姫を祀る本社であった。 神武東征紀で賊として殺された名草戸畔を祀っているからこそ、これほどの神殿に祀られたものであろう。ー神南備にようこそーより抜粋



紀伊續風土記 巻之十八 名草郡 五箇荘 吉原村から
中言大明神社   境内東西三十間 南北十八間餘 禁殺生
         本 社 一間三尺 二間 二扉 拜殿 
         御供所廰  瑞籬  鳥居
 末社       天満宮 方三尺  八王子社 方三尺
         本國神名帳従四位上名草彦神名草姫神
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村の申の方山裙にあり 祀神名草彦天ノ道根ノ命五世の裔なり 姓氏録和泉国ノ神別大村ノ直紀ノ直ノ同祖 名草彦男枳彌都彌[キミツミ]ノ命之後也又高野大名草彦之後也と見えたり 名草姫國造家舊記に中言社ノ祭文あり其文に曰兩神者國神而男女兩神也名草郡殊此名草宮地之主鎮護庵也故奉號名草姫命名草彦命也[フタカミハクニツカミニテメヲフタハシラナリナクキノコホリコトニコノナクサ田ミヤトコノヲウシハキマモリマスカミナリこのユエマツルナツケテナクサヒメノミコトナクサヒコノミコト]とあり日前宮應永六年(1399年)神事記曰正月十七日名草姫西ノ社御祭とあれば其頃は兩社ありて祀りしなり 其祭禮に沙門入道を忌むこと又日前宮舊記に見ゆ 當社は二神を齋ひ祀るの初とす所々に中言社と稱するは皆當社を遷し祠れるなり  
●境内・拝殿
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中言と稱するは中は中臣の中と同しく言は即事なり名草ノ國造として神と君との御中を執持て事を執行ふ職なれは中言と稱せしなるへし 當社舊一荘の産土神なり 今黒江冬野朝日三葛皆當社を勧請して村中に祭る因りて吉原廣原の氏神の如くなれり 國造家寛永記に舊社領百二十石とあり寛文記に舊は神輿渡御あり 天正の兵亂に社領没収せらると見ゆ 祭禮六月十二日九月八日なり 神主林氏 応永十五年(1408年)寄進状明応三年(1494年)坐配定の文書を蔵む 文安二年(1445年)為利ノ文書寳徳二年(1450年)識久安文書康正元年(1455年)三宅蔵人ノ文書元亀元年(1570年)ノ文書以上四通寫あり
●拝殿・狛犬
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名草戸畔(なぐさのとべ)は、
日本書紀での名で、地元では名草姫とも。また名草戸畔とは特定の人物ではなく、「名草の長」という地位を表す言葉であるという。名草邑(現在の和歌山市名草山周辺)の統治者で、東征で進軍してきたイワレヒコ(神武天皇)との戦いで戦死した。名草戸畔の死後は、代わって紀氏が紀伊を治めた。自らの家系で、名草戸畔を遠縁に位置づけることで、正当性を主張した。これは日本書紀が名草邑に着き、そこで名草戸畔という名の者を誅殺したと書いてあるのが唯一の記述である。
●本殿
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地元の伝承では、和歌山市から、海南市に抜ける潮見峠という小さな峠があり、その西側にクモ池という池あり、この周辺が神武軍との戦場になったとされる。名草戸畔はここで殺され、頭、胴、足が切り離された。地元の住民により、頭は宇賀部(うがべ)神社(別名おこべさん)、胴は杉尾神社(別名おはらさん)、足は千種神社(別名あしがみさん)に埋葬された。和歌山市のいくつかの神社は名草姫命と名草彦命を祀っており、その本社は吉原の中言(なかごと)神社である。
●八王子神社                ●本社                 ●天満神社
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この記録は記紀には見られない。数少ない滅ぼされた側の伝承である。大和の葛城に一言主神社があり、クモ石というのがあった。これもイワレヒコ軍に滅ばされた一族ではないだろうか。記紀にはナガスネヒコとの戦いで、イワレヒコの兄五瀬の命は脛に矢傷を受け山城(やまき)で没する。五瀬命を紀の国の竈山(かまやま)に葬ったとする。イワレヒコ軍は、ナガスネヒコとの戦いを避け紀伊半島を迂回するため、南に転戦する。ここで名草戸畔との戦いがあったのだろう。ー名草戸畔の故地を訪ねるーより抜粋

※※今季の探訪は「神武東征紀で「賊」として殺された名草戸畔を祀っている中言神社をメインとした探訪である。
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名草戸畔はこの辺りを支配していて(卑弥呼のような存在?)、殺された後も神社に祀られて、今日まで言い伝えられてきたところを見ると、結構慕われていたのではないか。いずれにせよ、いまこの辺りにその数14?を数えるという。
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※近所の奥さんが話しかけてこられ、色々神社のことを教えて頂きました。有難うございました。
by barakan1 | 2012-01-12 15:04 | 旅日記

和歌山市~海南市探訪(2012-01-09)②静火神社・・・

静火(しずひ)神社   名神大  和歌山市和田字前山855  
●天霧山(薬師山)全景
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祭神  火結神   
由緒  式内名神大社である。かっては竈山神社 より格式は高かったとの説がある。 伊達神社 、 志磨神社 と共に紀州三所神と呼ばれ、従って五十猛命、大屋都比売命、都麻都比売命の三神を祀る三神一連の神社との説もあった。 それよりも「木の国」の神らしく、鎮火の神として山火事から森を護る謂れがあったものと考えるのが自然である。
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かっては現地の東の田の中にあったが、13世紀後半に廃絶していた。1724年現社地に復興、その後、竈山神社境内に遷され、再度現地に祀られた。今は竈山神社の摂社である。
●神社全景
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この神は「田」の中に祀るのが本来との事で、先代の竈山神社の宮司さんは「早く下へ降ろしたい。」と言っておられたそうである。 神社は例え小さくてもボロボロでも、「静火神」を祀っているのであって、基本的に大神社の中の摂社や境内社であるべきではない。地元の人々の崇敬の念次第だが、できれば由緒あるこの神社は独立社として、後世に伝えてほしい。
●神社鳥居と祠
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お姿  天霧山(薬師山)頂上の森に訪れる人も少なくひっそりと鎮まっている。
●田福寺横の落葉に埋もれた道
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東側の田福寺からすぐであるが、現在は道が消えかかっており辿れない。(私は落ち葉まみれになりながら、強行突破しましたが・・・)。以前は松林であったようだが虫害で伐採され、現在は荒れた竹林になっています。
東側の道沿いより登り口があります。
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入り口付近に道祖神のようなものと、少し上に燈籠があります。    
ー神南備にようこそーより抜粋
※2006年に訪問した時は、田福寺の西側の竹藪の中を探しまわって見つけられませんでした。今回はネットで位置もバッチリ確認してきましたが・・・、横にあるはずの道が落葉に隠れ見つけにくかったのと、通れそうにないのに、大変焦りました!! が落葉ダルマになりながら強行突破しました。そしたら神社は寺の直ぐ隣の感じで見つけることが出来ました。ヤレヤレです(^O^) 帰りは本来の東からの道で山を下りました。チョウ~!ラクチンでした。★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2012-01-11 13:00 | 旅日記

和歌山市~海南市探訪(2012-01-09)①コース概要と竈山神社・竈山墓・・・

和歌山市~海南市探訪コース
8時半、天王寺自宅出発~竈山神社~彦五瀬命墓(古墳)~静火神社~吉原中言神社~安原八幡神社~武内神社(武内宿禰誕生井戸)~且来(あっそ)八幡神社~宇賀部神社(頭の宮)~杉尾神社(おはらさん)~野上八幡神社~千種神社(あしがみさん)~15時帰阪へ~自宅着17時半。走行距離180㌔
※吉原中言神社でUターン時、車をぶつけてしまいました。初めての事です(;_:)泣き
近所の奥サンには色々神社の話を聞かせて頂き有難うございました。
コース地図

竈山神社&竈山墓
竈山神社
神武天皇の長兄である彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)が祀られています。
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竈山墓&雄叫び橋
彦五瀬命の墓(これは古墳です)。神武東征に同行した彦五瀬命は、大阪での戦闘で大ケガをしてこの地で亡くなり陵墓が築かれたのです。亡くなる時に「賊に傷つけられて死ぬとは」と「雄叫び」んだそうで、それにちなんで神社前の県道に架かる橋は「雄叫び橋」と名づけられています。
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by barakan1 | 2012-01-10 11:20 | 旅日記