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橿原市~明日香村(磐余池堤跡~額田王墓)探訪(2011-12-17)⑤亀石~天武・持統天皇陵・・・終

亀石~天武・持統天皇陵
●亀石
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天武・持統天皇陵
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天皇(持統)のみよみませる御製歌(おほみうた)
巻01-0028 
春過ぎて夏来るらし白布(しろたへ)の衣乾したり天の香具山
●植山城跡よこから天武・持統天皇陵を見る
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天皇の蒲生野(かまふぬ)に遊猟(みかり)したまへる時、
額田王のよみたまへる歌
巻01-0020 
茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる
皇太子(ひつぎのみこ)の答へたまへる御歌 (明日香宮ニ御宇シシ天皇=天武)
巻01-0021 
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾(あれ)恋ひめやも

※◇前④ページ、ー「万葉集入門  明日香へ行こう」ーより引用、
歌碑の裏には。ここに額田王が葬られたとされる由縁が刻まれています。
解説を読むと、どうやら額田王の孫の葛野王が持統天皇の崩御後に額田王のお墓をこの場所に西向きにつくり、額田王のお墓を他の場所からわざわざ移したのだそうです。
持統天皇といえば、額田王のかつての夫だった天武天皇(大海人皇子)の妻で、天武天皇とおなじ墓稜に葬られた人物…。その持統天皇が亡くなって天武天皇とおなじお墓に葬られたときに、そのお墓のすぐ側にあるこの場所(植山古墳)に額田王のお墓を孫の葛野王が天武・持統稜の方向に向く形でつくった。
なんだかさりげなく書かれていますが、恋のライバルだった持統天皇と額田王の関係が見てとれて面白いですね。
by barakan1 | 2011-12-22 13:38 | 旅日記

橿原市~明日香村(磐余池堤跡~額田王墓)探訪(2011-12-17)④額田王の墓・・・

額田王の墓(野口植山城跡)) 奈良県明日香村野口
●天武天皇陵方向からみた野口植山城跡
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万葉集の女性歌人の中でもとりわけ有名な人物が額田王(ぬかたのおおきみ)です。
三輪山の歌や大海人皇子との相聞歌など、この額田王の歌に心魅かれた方も少なくないかと思います。
その額田王が葬られた場所は明らかにはなっていませんが、明日香村の野口にある植山古墳(野口植山城跡)こそがそのお墓ではないかとの伝説が村に伝わっています。
●亀石より植山城跡を見る
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明日香村野口にある植山古墳。明日香中央公民館の南にある明日香小学校の西隣に位置しています。
また、亀石のちょうど南でもあるので、場所的には分かりやすいかと思います。
古墳の西にある民家の敷地内から登れば楽に登れますが、古墳を訪ねる人が敷地内を通る許可を一々もらいに伺うのもそこのお宅のご迷惑になるといけないので、
●小学校横登り口より~額田王墓へいたる道(道痕がない所があります)
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今回は東側から登る方法を紹介しておきます。植山古墳の東側にこのような狭い道があるのでここを入って行き…このような場所に出たら、適当に登れそうな場所を探して登りましょう。
いや、正直こちらからのルートは、道と呼べるような道もないのでどこを進めばいいのか分かりませんが、とりあえず適当に高い場所を目指して進みます^^;
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この古墳は一時期、城として使われていたことがあり、途中に空掘などが存在するのでおっこちて怪我をしないように気をつけましょう。竹の葉などが積もっていて空堀に気付かない場合もあるので、もしこの古墳に登られるときはとくに気をつけてください。(大変なようですが、登り始めると10~15分で歌碑に辿りつけます)
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途中で西側の民家から繋がる少し歩きやすい山道に出るので、そこまで来たら東の頂上を目指します。
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東の頂上には額田王の歌碑が立っています。
◆額田王の和(こた)へ奉れる歌一首
巻01-0112 
古に恋ふらむ鳥は時鳥(ほととぎす)けだしや鳴きしわが念へるごと
※この歌の前に弓削皇子が額田王に歌を送っています。その返歌が上記の歌です。
吉野(よしぬ)の宮に幸(いでま)せる時、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王に贈りたまへる御歌一首
巻01-0111 
古(いにしへ)に恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の御井の上より鳴き渡りゆく
●額田王万葉歌碑
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歌碑の裏にはここに額田王が葬られたとされる由縁が刻まれています。
解説を読むと、どうやら額田王の孫の葛野王が持統天皇の崩御後に額田王のお墓をこの場所に西向きにつくり、額田王のお墓を他の場所からわざわざ移したのだそうです。
持統天皇といえば、額田王のかつての夫だった天武天皇(大海人皇子)の妻で、天武天皇とおなじ墓稜に葬られた人物…。その持統天皇が亡くなって天武天皇とおなじお墓に葬られたときに、そのお墓のすぐ側にあるこの場所に額田王のお墓を孫の葛野王が天武・持統稜の方向に向く形でつくった。
なんだかさりげなく書かれていますが、恋のライバルだった持統天皇と額田王の関係が見てとれて面白いですね。
●万葉歌碑裏側から見る
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ちなみに奈良県桜井市の忍坂の舒明天皇陵の側には額田王の姉(一説によると伯母とも)の鏡王女(かがみのおおきみ)のお墓があり、近くの有名な石位寺の石仏は額田王が鏡王女の菩提を弔う為に拝んだ念持仏だともいわれています。
また、忍坂近くの粟原寺を創建したとされる比売朝臣額田なる人物は、藤原氏に臣籍降嫁した額田王だとの説もあるので、額田王は最初に鏡王女の墓の側であるこのあたりに埋葬され、後にここから、植山古墳に移葬された可能性もありますね。
ー「万葉集入門  明日香へ行こう」ーより引用
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以前テレビで「額田王墓」の番組を流していて、後で調べると「歴史秘話ヒストリア」という番組であったようだ。それに「額田王墓」でインターネットで検索をかけると。いかに掲載するような記事に出くわした。明日香にはよく行くので次の機会にはどうしても訪ねたいと思っていたところ、今回の「磐余池」の見学会の記事が乗ったのでコレ幸いと二つとも訪ねたいと考え、今回の探訪となった。
※伝説が本当なら本当にロマンチックでいい話ですね!(^^♪・・・
歌碑は最近作られたようでまだ苔も着かず、白っぽい花崗岩で作られていました。
by barakan1 | 2011-12-21 16:46 | 旅日記

橿原市~明日香村(磐余池堤跡~額田王墓)探訪(2011-12-17)③談山神社~細川谷~気都和既神社・・・

談山神社~多武峰峠より明日香~細川谷~気都和既神社
談山神社 藤原釜足を祀る神社
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◆内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原の卿(まへつきみ)の、鏡女王を娉(つまど)ひたまふ時、鏡女王の内大臣に贈りたまへる歌一首
巻2-0093 
玉くしげ帰るを安み明けてゆかば君が名はあれど吾(あ)が名し惜しも
内大臣藤原の卿(藤原釜足)の、鏡女王に報贈(こたへ)たまへる歌一首
巻01-0094 
玉くしげ三室(みむろ)の山のさな葛(かづら)さ寝ずは遂に有りかつまじし
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●多武峰峠より明日香方面を見る
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細川谷
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◆柿本人痲呂歌集
巻9-1704 
ふさ手折り多武(たむ)の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒ける
気都和既神社
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※上記ポイントは何度が訪問しているため、通過する。
※ポイント名をクリックしてください。 詳しい説明(前回探訪記)が出ます。
by barakan1 | 2011-12-19 17:14 | 旅日記

橿原市~明日香村(磐余池堤跡~額田王墓)探訪(2011-12-17)②磐余池堤跡・・・

書紀の「磐余池」か!  6世紀の堤跡、「最古のダム」 
●御厨子観音から東(稚桜神社)方向を見る
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古墳時代に聖徳太子の父、用明天皇(在位585~587年)らが宮殿を構えた大和王権の重要地域・磐余にあたる奈良県橿原市東池尻町で、日本書紀や万葉集に登場しながら所在地が不明だった「磐余池」の一部とみられる6世紀の堤跡が見つかり、市教育委員会が15日、発表した。
●堤跡より御厨子観音方向を見る(磐余池跡)
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谷筋の水を堤でせき止める国内最古の「ダム式ため池」が一帯に広がっていたことが判明。
●池・堤復元図(配布資料より)
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堤の上では6世紀後半の大型建物跡も確認。日本書紀が、池のほとりで暮らしたとする用明天皇の「池辺双槻宮」の可能性を指摘する研究者もいる。実体が分からなかった古墳時代の「首都」の様子を解明する手掛かりとなりそうだ。 ー共同通信ー
●堤跡発掘現場
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●現地配布資料より
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●堤跡発掘現場
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磐余池をめぐる物語
大津皇子の死
686年(朱鳥元年)9月9日の天武天皇崩御から1ケ月足らずの10月2日大津皇子は謀反の罪で捕えられ翌日の10月3日死を命じられ亡くなります。24歳でした。妻の山辺皇女も共に亡くなりました。
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大津皇子の死を被(たまわ)りし時、磐余(いはれ)の池の陂(つつみ)にて涕(なみだ)を流してみよみませる御歌一首
巻03-0416 
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
●堤跡発掘現場
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大津の皇子は捕らわれる前に死を予感したのでしょうか、ひそかに伊勢にいる姉の大来(おおく)皇女を訪ねました。大来皇女が斎宮になり(13歳)弟大津皇子(11歳)と別れてから13年ぶりの再会でした。
●堤北側より見る
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大津皇子の、伊勢の神宮(かみのみや)に竊(しぬ)ひ下(くだ)りて上来(のぼ)ります時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)のよみませる御歌
巻02-0105
わが背子を大和へ遣(や)るとさ夜更けて暁露(あかときつゆ)にわが立ち濡れし                  
ひそかに伊勢まで逢いに来た弟に、死が待ち受けていることを察しながら都に帰す姉の辛い思いが伝わります。
●堤北側より見る
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a0016431_15244880.jpg※◇この堤上の、この建物跡で刑は行われたのかも!この堤のあの場所で、山辺皇女は殉死をしたのでしょうか!!いろいろと想像を巡らすとはるか昔の情景が目に浮かんでくるようです。
※◇山辺皇女(やまのべのひめみこ) 大津皇子正妃
『日本書紀』は686年10月2日に大津皇子の謀反が発覚し、翌日10/3には大津皇子に訳語田(おさだ)の家で死を賜った。皇子は磐余の池で辞世の歌と漢詩を詠んだ後、家で自頸して果てた。まだ24歳の若さだった。このとき、妃の山辺皇女が髪を乱し、裸足で走り出し殉死した。見る者は皆すすり泣いたという。
残念ながら山辺皇女の万葉歌は伝わっておりません。

※★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2011-12-18 15:37 | 旅日記

橿原市~明日香村(磐余池堤跡~額田王墓)探訪(2011-12-17)①コース概要・・・

磐余池堤跡~額田王墓探訪。
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9時半、自宅~橿原市東池尻村・磐余池堤跡~御厨子神社~秋殿古墳(訪問できず)~談山神社~気都和既神社~明日香へ(開通した新道利用)~額田王墓(野口植山城跡)~亀石~天武・持統天皇陵~自宅着16時半。方向距離110㌔でした。
 ※秋殿古墳は駐車する所が見つからず、今回はパスしました。次回は少し手前の交差点近くににあるコンビニの駐車場に止めて歩くことにしょう。(今回はそこまで頭が周りませんでした。)他は計画通り、思った以上にスムーズに探訪出来ました。
■コース地図

by barakan1 | 2011-12-17 19:20 | 旅日記

藤井寺市~羽曳野市探訪(2011-12-04)⑤河内大塚山古墳・・・終

河内大塚山古墳   大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘
●案内看板
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a0016431_1283333.jpg6世紀後半に築造された大和王権の大王墓と考えられているが、学術的発掘調査が行われていないため被葬者を特定できていない。民話には雄略天皇陵という伝承がある。
大正期までは墳丘内に人が住居を構えており村が存在したが、1925年に陵墓参考地となり強制退去させられ、1932年に陵内立入禁止となって現在に至っている。管理は宮内庁が行っている。
①から見る古墳
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②から見る古墳
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かつて住んでいた人の証言から、後円部にある埋葬施設は横穴式石室である可能性が高いとされている。
③から見る古墳
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④から見る古墳
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また、今城塚古墳、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳などと同様に、前方後円墳の中でも古墳時代後期の一部に見られる「剣菱形」と呼ばれる特異な形状をしている。(前方部の中央がやや外側に突き出すように角ばっている構造を指す)
⑤から見る古墳
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⑥から見る古墳
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また、埴輪をもっていない。今城塚と見瀬丸山古墳の中間に編年されうる。
古市古墳群の一つとされるが、百舌鳥古墳群と古市古墳群のおよそ中間地点、最も西寄りの離れた場所に存在する。
⑦から見る古墳
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⑧から見る古墳
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このため学術的には古市古墳群に該当しない見方もあるため、世界遺産への登録を目指している両古墳群のリスト等には含まれていない。
⑨から見る古墳
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⑩から見る古墳
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規模
古市古墳群最後の巨大前方後円墳であり、墳丘長335メートルは大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、備中造山古墳に次ぐ全国第5位に相当する。 墳丘の周囲には濠がめぐらされている。
⑪から見る古墳
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⑫から見る古墳
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墳丘長 335メートル(全国5位)
前方部幅 230メートル
後円部直径 185メートル
前方部高さ 4メートル
後円部高さ 20メートル
2008年には周濠にかかっている土橋の部分の発掘調査がされた。
⑬から見る古墳
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※※ここ恵我之荘の大塚山古墳のあたりは、私が(40年ほど前)新婚生活を送った場所です。今回数十年ぶりに尋ねましたが以前住んでいたアパートはなんとか残っていましたが、周りはまったく変貌していて、思い出せる場所も建物も有りませんでした。新婚時代の懸命に生活していた様を懐かしく思い出しました。
★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2011-12-15 12:18 | 旅日記

藤井寺市~羽曳野市探訪(2011-12-04)④津堂城山古墳・・・

津堂城山(つどうしろやま)古墳       大阪府藤井寺市津堂
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津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)とは、大阪府藤井寺市にある前方後円墳。古市古墳群に属し、4世紀後半ごろに築造されたと推定されている。城山古墳と呼ばれているが、他地域の同名の古墳と区別するため、地名を冠して呼称する。
●前方部より北を見る
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概要
前方部は南東を向き、二重の周濠が墳丘を囲んでいる。外側の周濠は宅地や田畑となっているが、これを含めると古墳の全長は400m以上になる。
●前方部上より東(生駒山方面)をみる
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●前方部上より南(金剛山方向)をみる
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これまでの発掘調査などから築造は4世紀後半とみられ、古市古墳群の中でも初期の古墳であり、誉田山古墳よりも先行する。室町時代には古墳の地形を利用して小山城が築かれたため、墳丘の一部が掘削されている。
●前方部上より墳丘部方向をみる
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●墳丘部
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明治初期の天皇陵の治定作業では陵墓とされなかったが、1912年に、神社に建立する石碑の材料とするため、後円部の墳丘から石板を発掘したことがきっかけで竪穴式石室と長持形の巨大な石棺が発見され、鏡や鏃などの副葬品が多数出土した。そのため、後に「藤井寺陵墓参考地」に治定された。
●古墳西側よりみる(左墳丘部~右前方部)  ※黄葉部津堂八幡神社
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1980年に大阪府教育委員会が、1983年には藤井寺市教育委員会が発掘調査を実施。造り出しや二重の周濠(中堤幅30m、外濠25m)、石葺の外側堤(幅20m)の存在が確認された。また、周濠内の前方部左右近くの島状遺構(方墳形の祭壇)からは3体の水鳥形埴輪が出土。このほかにも衝立型や家形・盾形・衣蓋形、靫型の埴輪、円筒型など多彩な形象埴輪が発見された。
●墳丘部
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これらのことから、大和から河内へと古墳築造が移った初期の大王の陵墓ではないかと考えられている。
●まほらしろやま前より古墳をみる(北→南)   ※手前社号標に使われていた天井石の一部
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◆津堂城山古墳
4世紀の末に、古市古墳群の中で最初に造られた前方後円墳です。この古墳の位置は、羽曳野丘陵の低位段丘上にあり、古市古墳群の中では最も北側にある古墳です。
●古墳北東側よりみる(左前部~右墳丘部、手前周濠部)
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◇平面地形
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所在地大阪府藤井寺市津堂
形状前方後円墳
規模全長208m、高さ16.9m
築造年代4世紀後半
埋葬施設竪穴式石室 石棺
出土品埴輪、銅鏡、玉類、鉄鏃等
史跡指定1958年(昭和33年)国指定
特記事項藤井寺陵墓参考地(宮内庁)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by barakan1 | 2011-12-11 12:36 | 旅日記

藤井寺市~羽曳野市探訪(2011-12-04)③小山「産土神社」・・・

小山常夜灯
a0016431_12535256.jpg各種文献にみえて、結構有名な常夜灯だったようだ。文政13年(1830)に建立された石造りの常夜灯。常夜灯脇のこの道は、小山から葛井寺へ通じ、葛井寺・道明寺を経て、高野山や吉野・伊勢へ詣でる巡礼者が行き来する道で、道路の脇に当時の道標を見つけることが出来る。

小山「産土神社」   藤井寺市小山4-7-9
●正面鳥居
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祭神 素戔嗚尊、牛頭天王(ごずてんのう)とその妻である櫛稲田姫(くしなだひめ)
●境内全景と狛犬
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小山地区の産土神。もともと小山村の人々は岡村の辛国神社(からくにじんじゃ)を共有の形で祭っていた。しかし祭事の度に岡村の氏子達との争いが絶えなかったので、江戸時代初期に小山村独自の氏神として、現在高鷲北宮にある「大津神社」から分霊したものと言われている。
●本殿・陣中
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大津神社は渡来した百済国王の子孫津史(つのふひと)一族が氏神として建立した神社で、延喜式にも記載がある古社である。
●稲妻大明神                        ●金比羅宮
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by barakan1 | 2011-12-09 13:04 | 旅日記

藤井寺市~羽曳野市探訪(2011-12-04)②小山善光寺・・・

小山善光寺(こやまぜんこうじ)   大阪府藤井寺市小山1-16-39
現在、浄土宗に属し、南面山無量寿院善光寺(なんめんざんむりょうじゅいんぜんこうじ)と称します。本尊は信濃善光寺(しなのぜんこうじ)と同じ一光三尊仏阿弥陀如来(いっこうさんぞんぶつあみだにょらい)です。
●藤井寺駅より善光寺(津堂城山古墳)への道
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寺伝によりますと、推古朝(7世紀初頭)本田善光(ほんだよしみつ)によってもたらされた仏像を本尊として、隆聖法師(りゅうしょうほっし)が城山古墳の南側(「善光寺屋敷(ぜんこうじやしき)」の名が残る。)に寺院を建立したということですが、おそらく渡来系氏族の津氏によって、今から約千三百年前の七世紀後半に建立されたことが出土軒瓦から推定できます。
●山門
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その後、戦国時代の兵火によって三好氏と小山城と共に、諸堂消失して廃寺となりましたが、江戸時代初期の慶弔年間(1596-1614)に、宗珍法師によって現在の地に再興されました。毎年、四月二十四日午後四時から本尊の御開帳があります。
■小山善光寺(こやまぜんこうじ)の縁起
●境内                             ●本堂
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当寺は、天正年間まで津堂城山古墳の後円部外側に接する小字名、善光寺屋敷址といわれる位置にあったが、天正年間織田信長軍の河内小山攻めの折、小山城と共に戦火をうけて堂宇焼失後、西誉宗珍によって慶長年間(江戸初期)になって現在地に移転再建されたものである。
●写経塔                           ●案内板
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この寺は面山無量寿院善光寺と称し、歴史上でも有名な本田善光が信州に帰国の途中、難波の堀江で立派な仏像(一光三尊仏)を拾い、これを負うて帰国のみぎり、小山の里を訪れ小堂で宿泊したが住職の隆聖法師がその仏像を所望したけれども一体しかなく、そのため三日三晩にわたり二人で熱心に供養勤業をつとめたところ三日目の暁一光三尊仏が二体になったので一体を河内におまつりし一体を善光が信濃でおまつりして共に善光寺として諸人の帰依する精舎となって今日に至った。
※別名に元善光寺。信濃善光寺の元祖というか・・・? 寺伝からいえは兄弟のようなものでしょうか!?
山門から本堂前に続く石畳の中に、津堂城山古墳の石室の天井板が使われているそうですが、訪問時は知らなかったために確認できませんでした!残念!!
by barakan1 | 2011-12-08 14:57 | 旅日記

藤井寺市~羽曳野市探訪(2011-12-04)①コース概要

藤井寺市~羽曳野市探訪(2011-12-04)
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①コース概要
近鉄藤井寺駅11時発~小山善光寺~産土神社~津堂山古墳・津堂八幡神社~近鉄恵我ノ荘駅~河内大塚古墳~アベノ橋駅15時着。今回は電車&徒歩での探訪です。


※寒くなって来たためか?なかなか探訪へ出掛ける気力が湧きません。
今回やっと、近場で、お茶を濁しました!!。゚(゚´Д`゚)゚。

◆右小山善光寺モミジ&本堂



■コース地図

by barakan1 | 2011-12-07 11:55 | 旅日記