<   2011年 06月 ( 23 )   > この月の画像一覧

福井・滋賀探訪(2011.06.18~19)⑤野々宮神社~小丸城跡~野々宮廃寺跡・・・

野々宮神社  福井県越前市北小山20-16
●野々宮神社正面より
a0016431_12402251.jpg
この野々宮神社は継体天皇と伊勢斎宮に入られた第六皇女・佐々宣姫を祀ったお宮らしい。詳細、少し調べたが不明。
●社号標・狛犬
a0016431_12405839.jpg

小丸城跡  越前市五分市町
●小丸城跡全景
a0016431_12413145.jpg
朝倉氏を滅ぼした後、越前は織田氏の支配領域となる。そこでこの地に入部した佐々成政が 天正3年(1575)に築いた城がこの小丸城である。越前支配は重臣の柴田勝家に任されていたが、その補佐として付けられた3人の武将が前田・不破・佐々であった。
●案内板・万葉歌碑
a0016431_1242965.jpg

この周囲には山城が多く存在していたが、それらはみな里からは遠くにあり、地域支配を確立させるためには、平城を拠点とする必要を感じたのであろう。ただし、佐々氏はその4年後には越中砥山城に転封となるので。小丸城はわずか4年で廃城となった。
●小丸城跡碑
a0016431_12433825.jpg
小丸城からは文字瓦が出土したことも有名である。瓦に記された文字には、「5月24日に一揆が起こり、前田又佐衛門が鎮圧にあたり、一揆勢1000人ほどを生け捕りにして、磔やかまゆでの刑に処した」といった内容のことが描かれている。もっともこれは後世の作為であるという説もある。
●場内への石門
a0016431_12441877.jpg

味真の野
a0016431_12444483.jpg
◆万葉歌碑
巻15-3744 中臣宅守
我妹子に恋ふるに吾(あれ)は玉きはる短き命も惜しけくもなし
巻15-3740 中臣宅守
天地の神なきものにあらばこそ吾(あ)が思(も)ふ妹に逢はず死にせめ
巻15-3745 狭野弟上娘子
命あらば逢ふこともあらむ我がゆゑにはたな思ひそ命だに経(へ)ば
巻15-3750 狭野弟上娘子
天地のそこひの裏(うら)に吾(あ)がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ

野々宮廃寺跡  越前市五分市町
a0016431_12501789.jpg
小丸城跡から道路をはさんで南側約300mのところにある。昭和34年から4年間の調査や平成元年から3年間に及ぶ調査より、□仏(せんぶつ)片、布目瓦、須恵器などの遺物と基壇と考えられる版築状の遺構が検出されている。建物跡の遺構は確認されていない。創建年代は、検出された瓦から7世紀後半頃と考えられる。なお、建立者は、『続日本紀』等の文献にみえる、当地の豪族味真野氏が比定される。
a0016431_12503726.jpg
このことから越の国最大の寺院跡と思われ、ここが味真野の中心で、おそらく中臣宅守もこの辺りに住んでいたのではないかと思われています。
by barakan1 | 2011-06-29 12:56 | 旅日記

福井・滋賀探訪(2011.06.18~19)④五皇(ごおう)神社・・・

五皇(ごおう)神社   福井県越前市文室町20-12
●神社正面
a0016431_21114129.jpg
祭神男大迹王子・ホンダワケノミコト・稚野毛二?皇子・太郎子皇子・汗斯王子・
        彦主人王子・イザナギノミコト
●由諸・社号標
a0016431_21122240.jpg
境内社大洗磯前神社・神明神社
●鳥居と参道
a0016431_21125194.jpg
立派な神門がある五皇神社は、継体天皇と応神天皇から継体天皇の父彦主人王までの5代の御神霊を祭っています。
●神門
a0016431_2114136.jpg
●狛犬・手水舎
a0016431_21141748.jpg
継体天皇が味真野地方におられた頃この地に学問所と文庫を建てたところ。地名文室の由来ともなっています。
●神門(偉く立派な神門です)~本殿
a0016431_21145420.jpg
延命長寿の験がある。農業,害虫除けの神。毎年4月18日には「ほうき祭り」が行われ、ほうきで石段や境内を掃き清めて参拝すると、腹痛が治るとも言い伝えられています。
●拝殿(後方本殿)
a0016431_21164398.jpg
(そう言えば、拝殿のしたに、手箒が沢山吊るしてありましたネ)
●境内神輿庫と本殿後方上にある境内社??
a0016431_21174765.jpg

by barakan1 | 2011-06-28 21:20 | 旅日記

福井・滋賀探訪(2011.06.18~19)③味真野苑・・・

味真野探訪  
味真野苑   福井県越前市余川町
a0016431_11513585.jpg味真野神社の奥は「味真野苑」として整備されており、池水には蓮が生い茂り、万葉館や万葉歌碑(比翼の丘)も建てられています。また、苑内には万葉由来の草木が植えられており、苑内を回遊しながら楽しむことが出来ます。そして、苑後方の倶利古曽山の展望台へ登ると味真野が一望できます。中臣朝臣宅守がここに配流され、都に残された狭野茅上(ちがみ)娘子との幾多の相聞歌を詠すれば、たちまち天平の昔に還ることができます。

◆中臣朝臣宅守と狭野茅上娘子(さののちがみおとめ)の悲しい恋の物語
a0016431_11245517.jpg
中臣朝臣宅守(やかもり)が蔵部(くらべ)の女(め)に娶(あ)ひて、狹野茅上娘子(さぬのちかみをとめ)を娉(よば)へる時、勅(みことのり)して流す罪に断(さだ)めて、越前国(こしのみちのくちのくに)に配(はな)ちたまへり。ここに夫婦(めを)別れ易く会ひ難きを嘆き、各(おのもおのも)慟(かな)しみの情を陳べて、贈り答ふる歌、六十三首
●狭野弟上娘子  万葉歌碑(比翼の丘)
a0016431_11274978.jpg
巻15-3724 
君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも
あなたが行く長い道を手繰り寄せ、折り畳んで一挙に焼きつくしてしまう天の火がほしいものです。
※天平十二年(740)以前、越前国に配流される。罪状は諸説あるが不明。万葉巻十五目録によれば、蔵部の女嬬狭野茅上娘子との重婚罪が原因とも解釈できるが・・・。天平十二年、大赦があり流人は都へ帰ったが、宅守は許されなかった(続紀)。天平十三年九月、前年の恭仁京遷都に伴う大赦で流人は全て赦免され、この時宅守も帰京を許されたと思われる。ー千人万首ー
●中臣朝臣宅守  万葉歌碑(比翼の丘)
a0016431_11343117.jpg
巻15-3727 
塵泥の 数にもあらぬ 我れゆえに 思ひわぶらむ 妹がかなしき
ものの数にも入らない私ゆえに、思いわびているだろうあなたのいとしさよ。
※中臣朝臣宅守と狭野茅上(ちがみ)娘子との相聞歌は万葉集中63首もあり抜きん出ている。

●万葉歌碑(池の畔)
◆狭野弟上娘子
a0016431_11394091.jpg
巻15-3723
あしひきの 山路越えむと する君を 心に持ちて 安けくもなし
巻15-3747
我がやどの 松の葉見つつ 我れ待たむ はや帰りませ 恋ひ死なぬとに
巻15-3751
白たえの 我が下衣失はず 持てれ我が背子 直に逢ふまでに
a0016431_11402930.jpg
巻15-3753
逢はむ日の 形見にせよと たわや女の 思ひ乱れて 縫へる衣そ
巻15-3767
魂は  朝夕に たまふれど 我が胸痛し 恋の繁きに
巻15-3772
帰り来る 人来れりと 言ひしかば ほとほと死にき 君かと思ひて
a0016431_1141756.jpg

◆中臣朝臣宅守(池の畔)
a0016431_11415461.jpg
巻15-3728
あをによし 奈良の大路は 行き良けど この山道は 行き悪しかりけり
巻15-3730
畏みと 告らずありしを み越路の 手向けに立ちて 妹が名告りつ
巻15-3733
我妹子が 形見の衣 なかりせば 何物もてか 命 継がまし
a0016431_11424356.jpg
巻15-3734
遠き山 関も越え来ぬ 今更に 逢ふべきよしの なきがさぶしさ
巻15-3764
山川を 中に隔りて 遠くとも 心を近く 思ほせ我妹
巻15-3776
今日もかも 都なりせば 見まく欲り 西の御馬屋の 外に立てらまし
a0016431_11431499.jpg
★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2011-06-27 12:01 | 旅日記

福井・滋賀探訪(2011.06.18~19)②味真野神社・・・

味真野神社   福井県越前市池泉町21-18  謡曲花筐(はながたみ)発祥の地
●味真野神社全景(南→)
a0016431_17524773.jpg
御祭神
    繼體天皇 佐々宣王 伊弉册尊 大國主神 大己貴命
    天照大神 建御名方命 事代主命
合祀 式内社 越前國今立郡 小山田神社 愛鬘命
●味真野苑案内図
a0016431_17555061.jpg
室町末期の鞍谷氏の館(鞍谷御所址)の一部である。現在は味真野神社の境内をコの字に囲むようにして北・西・南面の土塁と、北・西面の空堀を残している。いい伝えによれば、古代の男大迹王(継体天皇)の宮居の跡といわれ(※)、中世になっては足利将軍義満の次男義嗣が上杉禅秀の乱(1416)に連座して殺され、その子嗣俊がこの地に住み、鞍谷氏と称して三代栄えたという。
●味真野神社正面(北→)
a0016431_1757351.jpg
最近の説では、斯波義俊の館跡といわれる。義俊は応仁の乱の原因にもなった斯波家家督相続争いの斯波義廉(よしかど)の子息で、朝倉氏によって名目上の守護として越前に迎えられ、はじめ一乗谷に在住したが文明18年(1486)にはこの地に移っている。
●境内から拝殿を見る
a0016431_17594258.jpg
子孫は代々鞍谷氏を称し朝倉氏と婚姻関係を結びながら居住し、朝倉氏滅亡後は小丸城を築城した佐々成政と臣従関係をむすんでいった。ー社頭掲示板ー
●拝殿・狛犬
a0016431_181054.jpg
26代継体天皇には謎の部分が多い。『古事記』には応神五世の孫、袁本杼命(おほどのみこと)を近江より迎えて即位させたとあり、また『日本書紀』は越前三国の男大迹王(おほどのおう)を迎えたとあるが大和に入るまで20年の月日を山城の地を転々したと伝えられている。
味真野にも即位前に隠れ住んだと言う伝承がある。 味真野神社近くには「継体天皇御宮跡」の石碑があり、神社にはその祖応神天皇と継体天皇が祀られている。 

◆※謡曲「花筐」と味真野神社
世阿弥はこの伝承を謡曲の『花筐』として芸能化し、味真野を舞台に男大迹王と美しい女性「照日の前」との恋と悲しい別れを描いている。
●手水舎                      ●境内「花筐」石碑
a0016431_184871.jpg
謡曲「花筐」は、雲の上人と里の女との隔てない恋を美しく描写した狂女物です。
武烈天皇が崩御され、越前国味真野におられた男大迹皇子が選ばれて皇位を継ぐ事になり、寵愛されていた”照日の前”に、文と花筐を形見として残されました。
皇子は即位して継体天皇となられ、在る日の御幸の折、狂い歩く女をお見かけになりました。持っている花筐から、皇子を慕う”照日の前”と分かり都に連れて帰られたのです。
●男大迹王と「照日の前」の像
a0016431_1851462.jpg
この味真野神社は男大迹皇子の御所跡で、継体天皇をお祀りし、皇子と”照日の前” との、ロマンスのあった地として、謡曲「花筐」発祥の地にふさわしい所です。   謡曲史蹟保存会   社頭掲示板

◆味真野風景(苑展望台より)
万葉館前のモニュメントに記された万葉歌
狭野弟上娘子
巻15-3770
あぢま野に 宿れる君が 帰り来む 時の迎えを 何時とか待たむ
a0016431_1861882.jpg
★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2011-06-26 18:16 | 旅日記

福井・滋賀探訪(2011.06.18~19)①コース概要・・・

福井・滋賀探訪(2011.06.18~19)
a0016431_11244729.jpg
18・19日、1000円高速が中止になる前にと福井・滋賀の万葉故地を探訪してきました。これで遠方への探訪には出掛け辛くなりましたね。残念です。涼しくなるまで遠出は控えて、近郊だけにするか!?

●味真野苑の池で見かけたトンボです。朝早くて、寝起きでしょうか?ヨタヨタと私の目の前を飛んでゆきました。

コース概要(1日目)
17/20時自宅発~北陸道南條SAにて仮眠~18/5時SA発~味真野神社・味真野苑6時着~五皇神社~野々宮神社~小丸城跡~野々宮廃寺跡~本興寺~御霊神社~国分寺~総社大神宮~(今庄)観音堂~新羅神社~鹿蒜神社~鹿蒜田口神社~山中峠越え(県道207・トンネル)~(杉津)利椋八幡神社~五幡神社~田結神社~鞠山(田結崎)氣比神宮~宇波西神社~梅丈ケ岳~三方石観世音~(小浜)八幡神社~後瀬山~敦賀泊
コース地図

by barakan1 | 2011-06-26 11:58 | 旅日記

愛媛・香川万葉故地ほか探訪(2011.06.04~05)⑯讃岐国分尼寺跡・・・終

讃岐国分尼寺跡    香川県高松市新居
●法華寺全景
a0016431_11535439.jpg
天平13年(741)に聖武天皇が諸国に国分二寺を造営するように命じたことによって建立されました。
讃岐国分寺跡とペアで創建された尼寺跡。国分寺と相違して,塔は造られませんでした。讃岐国分寺の北東・約2kmに位置しています。
●説明版
a0016431_11544657.jpg
現在,法華寺と呼ばれる寺の境内には,当時の金堂の礎石と考えられる石材が二十個見られます。推定ですが,南北4間,東西7間の大きな建物であったことがわかります。
●山門
a0016431_1157617.jpg
創建以降,国分寺の末寺となるなど幾多の変遷を遂げましたが,江戸時代に至って遂に廃絶してしまいます。そして,小さな堂を残すのみとなりました。
●本堂正面
a0016431_11574324.jpg
弘化3年(1846)になって,国分尼寺跡に法華寺が再興されました。今,同寺の山門には,「法華滅罪之寺」との額が揚げられ,かつての国分尼寺の法統を継ぐ寺であることを示しています。
●金堂礎石
a0016431_11583256.jpg
寺域は東西約180~210m,南北約180mと考えられ,法華寺の北東に鎮座する春日神社は,北東隅にあたると推定されています。
●金堂礎石
a0016431_11585184.jpg
また,発掘調査により南西部で境界を画する大溝が発見されていて,今後の調査の進展が期待される遺跡ともいえます。
昭和3年(1928)讃岐国分寺跡と同時に,国の史跡に指定されました。
ー讃岐国分寺跡資料館HP-より
●法華寺北側発掘跡(まだブルーシートが被されています)
讃岐国分尼寺跡:「尼坊」跡?礎石を確認 建物跡の発見
a0016431_121167.jpg

讃岐国司に在任中の菅原道真が国分尼寺を訪ね,白牡丹の漢詩を詠じたことはつとに有名です。※仁和2年(886年)、道真は讃岐の守を任じられ赴任しています。
a0016431_11592416.jpg
「法花寺白牡丹」
色即為貞白  色はすなはち貞白(ていはく)たり
名猶喚牡丹  名はなほし牡丹(ぼうたん)と喚(よ)ぶ
嫌隨凡草種  凡草に随(なら)ひて植ゑられむことを嫌ふ
好向法華看  法華に向(なん)なむとして看るに好(ことむな)し
在地輕雲縮  地に在りては 軽き雲縮(しじま)る
非時小雪寒  時非(な)らずして 少しき雪寒(こ)いたり
繞叢作何念  叢(くさむら)を繞(めぐ)りて何の念(おも)ひをかなす
清淨寫心肝  清浄なるに 心肝(しむかん)を寫(そそ)かむ

★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2011-06-24 12:09 | 旅日記

愛媛・香川万葉故地ほか探訪(2011.06.04~05)⑮讃岐国分寺跡・・・2

■讃岐国分寺跡   香川県高松市国分寺町国分字上所2065番地
●讃岐国分寺復元図
a0016431_1614960.jpg
◆講堂跡
国分寺の現本堂は,この講堂の礎石を再利用して建てられています。
礎石の現状などから推定しますと,基壇の規模はわかりませんが,建物の規模は,桁行22.8m,梁行12.7mと推定されています。
●讃岐国分寺模型
a0016431_163972.jpg
◆金堂跡
国分寺の現本堂前に大きな石が並んでいますが,これが創建時の金堂の礎石です。金堂とは,現在でいえば本堂にあたり,ここに本尊が祀られました。
礎石の現状などから,基壇の規模は,東西34.9m,南北21.3m,建物の規模は,桁行27.8m,梁行14.2mと推定されています
●金堂跡礎石
a0016431_1612029.jpg
●金堂復元模型
a0016431_1655737.jpg
◆塔跡
国分寺の境内・東南隅に石造の七重の塔がたっている場所に,幾つかの礎石がみられます。これが創建時の塔の礎石です。石製の塔が建つ礎石は,丁度中央に所在するひときわ大きな礎石で,心礎といわれ,塔の中心となる心柱が立てられていました。石塔の基部をみますと,心柱を受ける柱穴が彫り込まれているのがわかります。
礎石の現状などから,基壇の規模は,17.8m四方,建物の規模は,10.1m四方と推定されています。
●塔心礎跡
a0016431_1665542.jpg
◆中門跡
確認された回廊の跡などから,仁王門の場所に中門が建てられていたと推測されています。
◆回廊跡
中門から出て,塔を取り囲み金堂に至る廊下状の建物であったことが発掘調査からわかりました。回廊に囲まれた正方形に近い区域が,讃岐国分寺の中枢域にあたります。
発掘調査の結果から,基壇の幅は6.5m,建物の幅は3.6m程度と考えられます。
◆僧房跡
全国の国分寺でもトップクラスの規模を誇る僧房です。整備に伴う発掘調査で,創建時の状況などが明らかになりました。
発掘調査の結果から,基壇の規模は,東西87.9m,南北16.0m,建物の規模は,桁行83.9m,梁行12.0mであることがわかりました。
●僧坊跡
a0016431_16133425.jpg
◆鐘楼跡
鐘を吊るすための建物です。普通,経典を保存する経蔵という建物とセットで建てられることが多いのですが,讃岐国分寺では経蔵は確認されませんでした。
発掘調査の結果から,基壇の規模は,東西7.1m,南北9.0m,建物の規模は,桁行6.2m,梁行4.1mであることがわかりました。
◆掘立柱建物跡
講堂跡の西側で,礎石を使わない建物が発見されました。僧房を補完する施設と考えられています。また,講堂の東側にも同じような建物があったと推定されています。
発掘調査の結果から,建物の規模は,桁行(南北)20.6m,梁行(東西)11.8mであることがわかりました。
●掘立柱建物跡           ●築地塀跡            ●鐘楼跡
a0016431_16164887.jpg
◆築地塀跡
寺域全体を囲むように大規模な塀・築地があったことが,発掘調査により確認されました。その外側には,溝も掘られていて,寺の内と外を厳格に分けていました。
発掘調査の結果から,基壇の幅は4.4m,築地本体の幅は1.8m程度と考えられます。
●国分寺跡配置図
a0016431_1641470.jpg
◆南大門跡
中門の南側,寺域南辺上には,大きな門が建てられていたと考えられています。この門を南大門といいます。ー讃岐国分寺跡資料館ーより抜粋引用
by barakan1 | 2011-06-23 16:29 | 旅日記

愛媛・香川万葉故地ほか探訪(2011.06.04~05⑭讃岐国分寺・・・1

讃岐国分寺 (遍路八十番札所 白牛山千手院国分寺 ) 
香川県高松市国分寺町国分字上所2065番地
●国分寺案内図
a0016431_15422729.jpg
本尊千手観世音菩薩
天平13(741)年,聖武天皇は各国ごとに官営の僧寺と尼寺を建てることを命じました。正式名称を僧寺は「金光明四天王護国之寺」尼寺を「法華滅罪之寺」と定めました。
●仁王門
a0016431_15425823.jpg
また,当時都があった奈良(平城京)には,各国に建てられた国分寺,国分尼寺の頂点として東大寺・法華寺を建立しました。
●参道             ●鐘楼              ●手水舎
a0016431_15442172.jpg
これによって,疫病や天災・内乱など社会不安が緩和できると期待したのです。
●参道から本堂をみる
a0016431_1545189.jpg
国分寺の造営工事は,各国の国司(中央から派遣された国府の長)の責任で推進され,遅くとも天平宝字年間(760年前後)には,ほぼ全国的に完成したようです。
●本堂
a0016431_15453939.jpg
讃岐国分寺は,天平勝宝8年(756)には完成していたと続日本紀に記載されています。
●春日明神          ●弁財天             ●大師堂
a0016431_15464424.jpg
隣接する坂出市府中町(当時は阿野郡河内郷)に讃岐の国司が政務を執った国府があったので,ほどよい距離のところに国分寺,国分尼寺が建てられたのでしょう。
●毘沙門天堂                          ●地蔵堂
a0016431_15471866.jpg

by barakan1 | 2011-06-23 15:53 | 旅日記

愛媛・香川万葉故地ほか探訪(2011.06.04~05⑬沙弥島・・・

沙弥島(しゃみじま) 香川県坂出市沙弥島
●瀬戸大橋
a0016431_1159313.jpg
今回探訪の目玉です(与島のSAからはあいにく見えませんでしたが・・・)。
昔からよくこのあたりは来ていたにも関わらず、全く記憶に残っていませんでした)
沙弥島はかっては坂出港の沖合約4kmに浮かぶ,東西160m,南北930mの小島であった。昭和42年(1967年)番の州埋立事業で陸続きになったが,今でも『沙弥島』と呼んでいる。
●ナカンダ浜
a0016431_1201674.jpg
讃岐国狭岑島(さみねのしま)にて石中(いそへ)の死人を視て、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
●オソゴエの浜
a0016431_121234.jpg
巻02-0220
玉藻よし 讃岐の国は
国柄(くにから)か 見れども飽かぬ 神柄(かみから)か ここだ貴き
天地 日月とともに 満(た)り行かむ 神の御面(みおも)と
云ひ継げる 那珂の港ゆ 船浮けて 吾(あ)が榜ぎ来れば
時つ風 雲居に吹くに 沖見れば しき波立ち
辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏み
行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど
名ぐはし 狭岑の島の 荒磯廻(ありそみ)に 廬りて見れば
波の音(と)の 繁き浜辺(はまへ)を 敷布の 枕になして
荒床(あらとこ)に 転(ころ)臥す君が 家知らば 行きても告げむ
妻知らば 来も問はましを 玉ほこの 道だに知らず
欝悒(おほほ)しく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは


●万葉歌碑、人麿岩
a0016431_1221578.jpg
反歌二首
巻02-0221
妻もあらば摘みて食(た)げまし狭岑山野の上(へ)のうはぎ過ぎにけらずや

●長崎鼻の先 潮騒(潮流で表面がざわついています)
a0016431_1241253.jpg
巻02-0222
沖つ波来寄る荒礒を敷栲の枕とまきて寝(な)せる君かも

●大タンンポ
a0016431_1271391.jpg
人麿の歌は、風待ちのため立寄った讃岐の沙弥島の海岸で、思いがけず石中に横たわる行路死人を見て哀傷の想いを発し、その妻に想いを馳せて詠んだ万葉集巻二にある歌である。沙弥島最北端の長崎鼻の裏側の浜がナカンダの浜で、そこに人麿岩と称せられる石群がある。人麿が見た死人はおそらく漂着し、その辺りに横たわっていたのであろう。
●沙弥島全景(記念公園より)
a0016431_1284258.jpg
●各ナカンダ浜             ●オソゴエの浜
a0016431_1228667.jpg
※集歌0220の歌の「中の水門ゆ」が示す中の水門とは、那珂の湊のことで讃岐国那珂郡(香川県丸亀市)の金倉川の河口と推定されています。(今では、埋め立てられ工場が立ち並び、其の場所は永遠の彼方です)
●沙弥島略図
a0016431_12101727.jpg
★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2011-06-22 12:21 | 旅日記

愛媛・香川万葉故地ほか探訪(2011.06.04~05⑫金刀比羅宮 ・・・2

金刀比羅宮奥宮
●案内板
a0016431_1583053.jpg
本宮横に奥宮への案内があり、「ついそこ」のような雰囲気で書かれていたので、フト訪れる気になり登り始めたが長い長い、ほんとうに長い。本宮からまだ785段もありました。老体には本当にこたえました。
●常盤神社
a0016431_15105929.jpg
●白峰神社
a0016431_15113477.jpg
明治元年(1868年)の神仏分離令で象頭山松尾寺金光院は廃されて、神道の神社になり金刀比羅宮と改称し、主祭神の名は大物主神と定められ、相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀った。
●菅原神社
a0016431_15121367.jpg
●参道石段
a0016431_15124510.jpg
また、祀られていた宥盛は厳魂彦命と名を変え、明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座される。それまで金毘羅大権現の本地仏として祀られていた本尊十一面観音像は信仰の対象から外されたが、社宝として現在も観音堂に納められている。
●厳魂(いづたま)神社
a0016431_1513347.jpg
●厳魂(いづたま)神社より琴平の町
a0016431_15145267.jpg
不動明王、毘沙門天の2体の脇侍仏は破却の危機に直面したが象頭山松尾寺の末寺である万福院住職宥明によって救い出された。その後、所在は転々としたが、明治15年(1882年)、裸祭で知られる岡山市の真言宗寺院、西大寺の住職光阿によって同寺に勧請され、あらためて金毘羅大権現の本地仏として祀られ現在に至る
by barakan1 | 2011-06-21 15:17 | 旅日記