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福岡周辺万葉故地探訪(2011.04.30)⑭香春神社-2・・・

境内社ほか
●境内より拝殿をみる
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●仏像や鹿の彫刻              ●本殿横磐座
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●本殿入口にある狛犬
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●天福神社、諏訪神社、蛭子神社   ●山王石(昭和十四年六月三十日、山頂から落ちてきた落石)
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●豊前国風土記(天平5年733頃成立)・逸文に
「田河郡・鹿春郷(カハル)。この郷の中に川があり、年魚(アユ)がいる。この河の瀬は清いので、清河原(キヨカハラ)の村と名づけた。いま鹿春の郷というのは訛ったのである。
昔、新羅の国の神が自ら海を渡って来着し、この河原に住んだ。郷の北に峰がある。頂上に沼がある。黄楊樹(ツゲ)が生えている。また竜骨がある。第二の峰には銅と黄楊、竜骨などがある。第三の峰には竜骨がある」
●香春一の岳の南麓の香春神社の前の道は、奈良時代から平安時代にかけて官の古路「田河道」と呼ばれ、都と太宰府との間の官人の通路であった
●第一峯:元は約500m近くあったが、昭和初期からの石灰石採鉱により頂上部が削られ、今は約300m、第二峰:470m、第三峰:511m。因みに、炭坑節で“ひと山、ふた山、み山越え”と唄われたのが、この香春3峰という。
by barakan1 | 2011-05-31 11:25 | 旅日記

福岡周辺万葉故地探訪(2011.04.30)⑬香春神社-1・・・

香春(かはら)神社    福岡県田川郡香春町大字香春733
●香春岳
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式内社  辛國息長大姫大目命神社 辛国息長大姫大目命、
式内社  忍骨命神社            忍骨命、
式内社  豊比咩命神社           豊比売命
●正面入口 一の鳥居
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創祀年代は不詳。
もとは香春岳の一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳の麓に三社別個に祀られていたらしい。
●神社案内板と狛犬
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官社に列したとき、三柱を一ノ岳麓の一社に祀られたと考えられており、
社伝によると、和銅二年(709)、新宮として創立したとある。
●二の鳥居と狛犬
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一ノ岳の神は辛國息長大姫大目命。式内社・辛國息長大姫大目命神社に比定されたいる。社伝によると崇神天皇の御代に唐より帰国し、香春一ノ岳に鎮座したという。
一名を新羅神ともいい、川原に来たために、香春神、鹿春神ともいう。
また、一説には新羅の皇子・都怒我阿羅斯等が追って来た、白玉から生まれた女神・比売語曽神であるという。また、一説には神功皇后のことであるという。
●三の鳥居と境内への参道
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二ノ岳の神は忍骨命。
式内社・忍骨命神社に比定されている。
社伝によると、天照大神の第一皇子・天忍穂耳命であるという。
●神池に架かる神橋
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三ノ岳の神は豊比咩命。
式内社・豊比咩命神社に比定されている。もとは三ノ岳の阿曾隈という所に、置絢子が祀っていたといい、後に「高巣の森」古宮八幡宮の地に移り、さらに一ノ岳麓に遷座した。
●廻廊付き拝殿
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「豊比賣」といえば、通常、神功皇后の妹・淀姫をさすが、社伝には、「神武天皇の外祖母」とある。ということは、神武天皇の母・玉依姫と神武天皇の伯母・豊玉姫の母、玉依姫の父である豊玉彦の后ということになる。さらに、「住吉大明神の御母」とあるから、玉依姫達と住吉の神(三筒男)は兄弟となる。
●拝殿(左右より)
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対馬は、海神の郷、竜宮城に喩えられ、豆酘(つつ)が筒男の語源であるとする説があるが、山幸彦が行ったワタツミが対馬なら、すべての辻褄が合う。
●拝殿・社号額・内陣
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香春三岳は天台宗との関連も深く、各頂上には山王権現の社壇があったらしい。
ー玄松子の記憶ーより
●本殿と本殿横山王権現社
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◆◆拔氣大首(ぬきけのおほびと)が筑紫に任(ま)けらるる時、豊前国の娘子紐児(ひものこ)に娶(あ)ひてよめる歌三首
巻09-1767 
豊国の香春は吾家(わぎへ)紐児(ひものこ)にいつがり居れば香春は吾家
巻09-1768 
石上(いそのかみ)布留の早稲田(わさだ)の穂には出でず心のうちに恋ふるこの頃
巻09-1769 
かくのみし恋ひし渡れば玉きはる命も吾(あれ)は惜しけくもなし

※蘆城野からは大きく飛びますが、是非訪ねたいと思っていたところなので、余裕はありませんでしたが訪れました。 大変立派な神社です。社殿もそうですが、歴史もなかなかのものです。山の中にも関わらず、早くから拓けたところなのでしょうね!入口から社殿までの長さと、高さに参拝するのに息切れがしました。
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by barakan1 | 2011-05-31 10:58 | 旅日記

福岡周辺万葉故地探訪(2011.04.30)⑫蘆城駅家&蘆城野・・

蘆城駅家&蘆城野   筑紫野市阿志岐
●蘆城駅家跡
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昭和53年(1978)、御笠地区の農地改良事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査で、大字吉木の水田下から奈良~平安時代のものと推定される9棟の掘立柱建物跡が発見されました。この建物群は『万葉集』に歌われた蘆城駅家の跡ではないかと推定されました。
●蘆城野より北を見る
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※「駅家」とは、古代律令国家において中央政府と地方の連絡のため、諸道30里(現在の16km)ごとに置かれた駅のことです。駅には馬が備えられ、駅使たちによって利用されました。また、駅の運営にあたらせるため数十戸の農家を「駅戸」として置き、「駅子」が馬の飼養や田の耕作にあたっていました。蘆城駅家は、大宰府から米ノ山峠を越え、田河道の各駅家を経て都へ至る第一番目の駅でした。
●蘆城野真ん中より北を見る(宝満山)
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蘆城野は今の筑紫野市阿志岐の辺りかと思われる。大宰府に近く、駅家が置かれていた。北に宝満山、東に宮地岳を望む風光明媚なところである。
●蘆城野真ん中より東を見る(宮地岳)
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蘆城野の駅家で官人たちが季節の風雅を楽しみ或いは送別の宴が開かれることもあった。天平2(730)年、大宰帥大伴旅人が大納言に任ぜられ大和に上るにあって、官人たちが送別の宴を催したのもこの駅家だった。
ーwww.city.chikushino.fukuoka.jp/ーより引用
◆◆五年戊辰(728年)、大宰小貳石川足人朝臣の遷任するに、筑前国蘆城驛家に餞す 
る歌三首
巻04-549 
天地の神も助けよ草枕旅ゆく君が家に至るまで
04-550 
大船の思いたのみし君が去なば われは恋ひなむ直に逢ふまでに
巻04-551 
大和路の島の浦廻に寄する波間も無けむわが恋ひまくは
●蘆城野万葉歌碑
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◆大宰帥大伴卿、大納言に任けられて京に臨入むとする時に(730年)、府の官人等、卿を筑前国の蘆城驛家に餞す歌四首
巻04-568 
み崎廻(み)の荒磯(ありそ)に寄する五百重(いほへ)波立ちても居ても我が思(も)へる君
  右一首、筑前掾門部連石足
巻04-569 
韓人の衣染むとふ紫の情に染みて思ほゆるかも
巻04-570 
大和へに君が立つ日の近づけば野に立つ鹿も響みてそ鳴く
  右二首、大典麻田連陽春
巻04-571
月夜よし河音清けしいざここに行くも去かぬも遊びて行かむ
  右一首、防人佑大伴四綱
●蘆城野真ん中より南を見る
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◆太宰の諸卿大夫、また官人等が、筑前国蘆城の駅家(うまや)に宴する歌二首
巻08-1530 
女郎花秋萩まじる蘆城野は今日を始めて萬代に見む
巻08-1531 
珠匣(たまくしげ)蘆城の川を今日見ては萬代までに忘らえめやも    
右の二首は、作者詳らかならず
●真ん中より北南を見る
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蘆城は、現在では阿志岐と書き、大字名となっています。大字阿志岐の範囲は、おおむね江戸時代の阿志岐村にあたります。
また、隣接して大字吉木(かつての吉木村)がありますが、『筑前国続風土記拾遺』によると、吉木が阿志岐から分かれたのは、慶長(1596~1615=安土桃山時代)のころであったと記されています。それ以前は、この両者を含めた地域が蘆城といわれた地であったろうと思われます。www.city.chikushino.fukuoka.jp/ーより引用
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by barakan1 | 2011-05-30 14:00 | 旅日記

福岡周辺万葉故地探訪(2011.04.30)⑪太宰府天満宮・・・

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう) 福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号
●神社鳥居・参道
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主祭神菅原道真公
昌泰四年(901)右大臣従二位菅原道真は、大宰権帥として左遷される。専権の心があり、上皇を欺き惑わして、天子の廃立を企てたという理由であった。宇多上皇の懸命な取りなし、道真本人の必死の弁明もむなしく、二月一日道真は罪人として都を追われる。
●太鼓橋・楼門
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901年大宰権師(だざいのごんのそち) を命じられた道真公が京都を出発される時に紅梅殿の梅に惜別の想いをこめて詠じた歌
『拾遺和歌集』巻第十六 雑春
東風(こち)吹かばにほひをこせよ梅花主なしとて春な忘れそ
【通釈】東風が吹いたら、匂いを配所の私のもとまで寄越してくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、春であることを忘れるなよ。
●手水舎                       ●楼門
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大宰権師とは名ばかりの官名で、実際は罪人として配所に流されたのであった。
●境内拝殿・本殿
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菅原道真は失意の内に太宰府で死去した。延喜3年(903)時に道真59歳であった。道真の憤懣は怨霊となって、流罪を命じた醍醐天皇と、左大臣藤原時平に祟り続けた。醍醐天皇の皇子は次々に病死し、左大臣時平の子孫も絶えた。延長元年(923)にはたまりかねて、道真の官位を従二位右大臣に復し名誉を回復したが、怨霊はおさまらず、
●拝殿内
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延長8年(930)には、ついに御所の清涼殿に落雷。民部卿藤原清貫がその落雷に当たって死亡。道真の怨霊のしわざだと、宮廷は恐れおののいた。993年にはついに正一位太政大臣を贈られる。さらに北野天満宮、太宰府天満宮に祀られ、朝廷の篤い尊崇を受けることになる。
●境内末社 (楓社・人丸社・志賀社・今王社)
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◆◆
太宰帥大伴の卿
巻05-0822
我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

九州国立博物館前万葉歌碑
大納言大伴の卿
巻04-0574
ここにありて筑紫やいづち白雲のたなびく山の方にしあるらし

大宰府天満宮の菖蒲池の梅林万葉歌碑
筑前介佐氏子首(さじのこおびと) 
巻05-0830
万代よろづよに年は来き経ふとも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし

●大宰府天満宮内万葉歌碑
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※日曜日とあって大変な人出です。本殿から入り口までをサ~と流すように見学しました。是非もう一度、ゆっくりと見てみたいですね。車の駐車に苦労しました(どこも一杯で・・・)
by barakan1 | 2011-05-29 14:47 | 旅日記

福岡周辺万葉故地探訪(2011.04.30)⑩戒壇院(かいだんいん)・・・

戒壇院(かいだんいん)   福岡県太宰府市観世音寺5-6-1
福岡県太宰府市にある臨済宗の寺院である。
●院正面より全景
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奈良時代において、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるために設置された施設であり、「筑紫戒壇院」(ちくしかいだんいん)と呼ばれることもある。
●正面入口(南門)
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古くは観世音寺の一部としてあり、ともに天下の三戒壇と呼び習わされた中央戒壇(東大寺)と東戒壇(下野薬師寺)に対して、西戒壇(さいかいだん)とも呼ばれた。
●境内全景 ・本堂
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歴史
奈良時代の半ばの天平勝宝5年(753年)12月20日に仏舎利を携え薩摩坊津で来日に成功した唐僧鑑真が、同じ年の12月26日に太宰府を訪れこの戒壇院の地で初の授戒を行った。開山は鑑真であり、戒壇院は現在も奈良時代以来同じ場所にあるとされている。 宗派を超えて僧が集い学ぶという開山の精神から地元では八宗兼学寺とも呼ばれた。
●本堂(左右より)
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一方で日本書紀には天平宝字5年(761年)に聖武天皇の勅願により観世音寺の境内の西南部の一角に戒壇院が設置されたとあるが、鑑真は天平勝宝6年(754年)1月には平城京に至り、東大寺に住すこととなった。
●本堂・寺号額・本堂内
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以降西海道唯一の戒壇として興隆を続けるも、中世に至って衰退を重ね、寛文9(1669年)崇福寺 (福岡市)の智玄和尚によって本尊の修理が施され、黒田家の家臣鎌田昌勝の諸堂宇再興を経て、元禄16年(1703年)に観世音寺から独立。
●「不許葷酒肉入境石碑   ●鐘楼                  ●鑑真の供養塔
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現在は福岡県福岡市博多区にある臨済宗妙心寺派の聖福寺の末寺として存続している。現在の本堂は延宝8年(1680年)天王寺 (福岡市)の了夢再建のものとされている。
ウィキペディアーより
by barakan1 | 2011-05-28 14:23 | 旅日記

福岡周辺万葉故地探訪(2011.04.30)⑨観世音寺・・・

観世音寺   太宰府市観世音寺5-6-1
●参道入口の寺標      ●参道       ●境内、講堂
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観世音寺は8世紀後半、天智天皇が亡き母斉明天皇の菩提を弔うために発願された寺です。
●講堂
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天智天皇から聖武天皇まで7代に渡って朝廷の援助があったにもかかわらず、その造営は遅々として進まず、養老7年(723年)には沙弥満誓を、さらに天平17年(745年)に玄昉(げんぼう)を造観世音寺別当として九州に下向させ、翌18年に完成、落慶法要が行われました。
●金堂
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実に80年余りもの年月をかけて、「府の大寺」は完成したのです。
その後も、西海道随一の寺として、観世音寺は大宰府政庁の庇護の下、積極的に寺領の拡大を続けていきました。
●講堂正面・内部
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しかし、南北朝・戦国の争乱の中で、観世音寺の伽藍は焼失、観世音寺も衰退していきましたが、現在は天台宗の寺院として、また太宰府の観光地の一つとして、多くの参詣客・観光客が訪れています。
●講堂を左右から見る
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(福岡県教育委員会「福岡の文化財」ホームページより
●天平の碾磑        ●国宝梵鐘         ●五重塔礎石
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観世音寺には創建以来の梵鐘(国宝)が伝わっています。この梵鐘自体には銘文がありませんが、兄弟の鐘とされる京都妙心寺の鐘が698年鋳造であることが明らかであることから、それに近い製作年代が推定できます。この梵鐘は、江戸時代には安楽寺(現在の太宰府天満宮)に安置されていましたが、明治時代になり、観世音寺に戻され、朝夕の刻を告げていました。しかし、鐘の老朽化を避けるために、近年、日常的にはならさなくなっています。
◆玄昉(げんぼう)の墓 
観世音寺境内の北西隅には、玄昉の墓(胴塚)と言い伝えられている宝篋印塔があります。
玄昉は、天平17年(745年)にを造観世音寺別当として九州に下向し、翌18年に観世音寺が完成、落慶法要を執り行った人物です。しかし、言い伝えによると、落慶法要の日、玄昉が導師として高座に登り、鐘を鳴らした時、にわかに雲が曇り、雷と共に悪霊が現れ、玄昉をつかんで空に舞い上がり、やがて胴や手足が落ちてきて、弟子たちがそれらを埋葬したと言われています。
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なお、頭の部分は奈良の興福寺に落ちたために、興福寺近くにも「玄昉の頭塔」があるそうです。当時の人々は、その6年前に反乱を起こして処刑された藤原広嗣の怨霊の仕業だと噂したそうです。(太宰府市『太宰府市史 民俗資料編』・『太宰府市史 美術工芸編』より)
※玄ぼうは前年11月に中央政界から左遷された。玄ぼうは以前に藤原広嗣を滅ぼしていた。寺が玄ぼうの手で完成したその日、藤原広嗣の残党に暗殺されたという。 玄ぼうの首は空高く飛んだという。
●観世音寺案内
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沙弥満誓(さみのまむぜい)が綿を詠める歌一首
巻03-0336 
しらぬひ筑紫の綿は身に付けて未だは着ねど暖けく見ゆ
※俗姓 笠麻呂(かさのまろ)

●観世音寺絵図
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※都府楼と観世音寺は今回の探訪で、是非立ち寄りたかった所です。想像通りで大変満足しています。もう少し時間が取れれば、ユックリと天平の雰囲気を十二分に味わうのですが・・・。
by barakan1 | 2011-05-27 13:03 | 旅日記

福岡周辺万葉故地探訪(2011.04.30)⑧隈麻呂の墓・・・

隈麻呂の墓      (榎社から東へ5分位の小高い岡にある納骨堂の横)
大宰府に左遷された道真は、隈麻呂と紅姫という二人の子を連れており、府の南館の生活は不自由で苦しいものだったが、愛らしい幼児二人が道真の唯一の心の支えでだったと伝えられている。
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しかし過酷な生活の中で、左遷の翌年、隈麻呂は病にかかり急逝し、榎社の東側、納骨堂の建つ小高い丘の上に、「隈麿之奥都城」とされる墓と六弁の花をつける梅の古木がある側で眠っています。また隈麻呂の姉、紅姫のその後は定かではなく、一説には隈麻呂に次いで翌年道真も亡くなったので、土佐に流された道真の長男高視の元に向かったとも言われている。(「紅姫の供養塔」と言われる地蔵石像が榎社本殿後方の小祠にあり)
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※ゲートボール中のオジイサンに訪ねたら、ここだよと隣の大きな木の側を差された。余りり小さく、小ぢんまりしていたので気が付かなかったのです。でも、綺麗に清掃されて大切に守られているようでした。
by barakan1 | 2011-05-26 12:41 | 旅日記

福岡周辺万葉故地探訪(2011.04.30)⑦榎社(えのきしゃ)・・・

榎社 (現在は太宰府天満宮の御旅所)   太宰府市朱雀6-18-1
●神社正面
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榎社(えのきしゃ、別称:榎寺)は、太宰府天満宮境内飛地にあり、菅原道真が、901年(昌泰4 年・延喜元年)大宰府に左遷されてから903年(延喜3年)逝去されるまで*謫居された跡で、当時、府の南館であったといわれる。1023 年(治安3年)、大宰大弐藤原惟憲(だざいのだいに・ふじわらのこれのり)が菅公の霊を弔うために浄妙院を建立したのが始まりで、境内に榎の大樹があったのでいつしか榎寺(えのきでら)と呼ばれるようになった。※謫居(たっきょ) 罪によって、自宅に引きこもったり、遠くの土地へ流されたりしていること。『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
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榎社(府の南館跡)は、在りし日の菅原道真の配所でありました「府の南館」とよばれた大宰府政庁の官舎でした。菅原道真が大宰府に左遷されたときには、使用されていなかったため、井戸をさらえ、軒を修理してやっと雨露をしのげる程のあばら屋だったと伝えられています。府の南館で、道真がひたすら謹慎生活を送る心情をよんだ漢詩が残っています。そして、後の、治安3年(1023年)に、大宰大弐藤原惟憲が、道真の霊を弔うため浄妙院を建立。境内に榎がたくさんあったことから榎寺ともよばれ、現在は榎社とよんでいます。
菅原道真公はこの南館で、延喜3年(903年)2月25日に亡くなりました。その後、亡骸を牛車に乗せ運んでいる最中に牛が動かなくなり、その牛車が動かなくなった地に道真は葬られました。この場所が現在の太宰府天満宮です。
●境内・拝殿・狛犬
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※※「怨霊」となった道真
菅原道真と言えば今や学問の神様として有名ですが、平安時代には最強の怨霊として、人々を震え上がらせていました。菅原道真の没後、左遷に追い込んだ左大臣藤原時平、道真の後任で右大臣の座に就いた源光、醍醐天皇の皇太子保明親王も亡くなります。保明親王が亡くなった翌月には、祟りを恐れた朝廷は、死んだ道真を右大臣の位に復活させ、正二位を贈ります。さらに左遷したときの宣旨はみな焼き捨て、その事実を白紙に返すという念の入れようでした。しかし道真の怨霊の怒りはおさまらず、925年には、やはり時平の娘を母に持つ慶頼王もたったの5歳で死んでしまいます。さらに、天皇の居処である清涼殿が雷に襲われ、しかも高官二人が死亡するという落雷事件が起こります。このような連続的な不幸な事件は、平安朝はじまって以来のことでした。
この事件を境に、醍醐天皇もまた体に異常を来たしてしまい、3か月後にこの世を去ります。この後も時平の長男保忠が死亡し、道真の怨霊は猛威を振るいます。このような不幸な事件がなければ「菅原道真の右大臣の位への復活」、「榎社」等もないことから、「菅原道真は学問の神様」なれなかったかもしれません。
◆◇◆菅原道真歌
(新古1697)
筑紫にも紫おふる野辺はあれど無き名かなしぶ人ぞきこえぬ
【通釈】筑紫にも紫草の生える野辺はあるけれども、私の「無き名」という菜――無実の罪を悲しむ人の声は聞えないことだ。
(新古1698)
かるかやの関守にのみ見えつるは人もゆるさぬ道べなりけり
【通釈】誰もが刈萱の関の番人に見えたのは、配流の身ゆえ、人目が厳しい道を来たからなのだ。
(新古1701)
流れ木と立つ白波と焼く塩といづれかからきわたつみの底
【通釈】渚に打ち寄せられる流木と、風に吹き立てられる白波と、海人に焼かれる塩と、どれが辛いだろうか。いや、海の底深く沈んだ我が身ほど辛いものはない。ー千人万首よりーどれも怨念がこもっていますねぇ!
●浄妙尼社                              ●紅姫の祠                        
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◇浄妙尼社
平安時代、無実の罪で大宰府に左遷された道真は、ある時、刺客に襲われて近くの麹屋に逃げ込みました。罪を言い渡されてやってきたものをかくまえば自分にも咎(とが)が及ぶかもしれないというのに、その家のおばあさんは、道真をもろ臼の中に隠し、その上に洗ったばかりの腰巻きをかぶせて刺客の目をごまかしたのです。道真の命の恩人ともいえるこのおばあさんは、その後もこっそり配所の館にいき、不自由な暮らしをする道真のお世話をしたといいます。その時、麹の飯を松の葉(梅の枝)に添えて差し入れたものが、今に伝わる梅ヶ枝餅のおおもとなのです。
後におばあさんは、もろ尼御前(浄妙尼・じょうみょうに)とよばれ、人々に敬われました。道真の配所の館跡といわれる榎社の背後には、もろ尼御前を祀る社があります。道真は死後"天神様"としてまつられるようになった後も、秋の神幸式の折には命の恩人である浄妙尼の祠をお参りに訪れます。
◇紅姫の祠
紅姫は篠栗で亡くなり、若杉山の修験者により紅姫稲荷神社に祀られたとも言われ、蓮照寺(篠栗霊場八十八箇所には含まれてない)に勧請されているらしい・・・現在榎社の社殿裏には「紅姫の供養塔」と言われる地蔵石像が、「隈麻呂の墓」から東へ徒歩4~5分の所にも、同じく「紅姫の供養塔」といわれる板碑があり、その板碑には梵字が刻まれている。
by barakan1 | 2011-05-24 13:51 | 旅日記

福岡周辺万葉故地探訪(2011.04.30)⑦大宰府政庁(都府楼)跡・・・

大宰府政庁(都府楼)跡   福岡県太宰府市観世音寺4丁目
●都府楼正面
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古くから都府楼の名で知られてきたこの地域は、日本書紀によれば、天智二年(663年) 唐・新羅の連合軍と白村江において百済と共に戦って大敗した我が国が、大陸からの侵攻 に備え、博多の那ノ津(当時は官家と呼ばれ、現在の福岡市大橋附近と想定されている所) にあった大宰の府(九州一円の統治の拠点であると共に、対外交渉を掌る役所)を移した ところである。
●南門から正殿を見る後方四王寺山(大野山)
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大宰府をこの地に置くと同時に、百済からの亡命者の指導により北面の四王寺山に大野城、 南面の基山に基肄城(きいじょう)を、平野部には水城を築いて大宰府を防衛した。
●南門復元図
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その後、大宰府は一時廃止されて筑紫鎮西が設置されたが、すぐ復活し「此の府、人物殷 繁にして天下の一都会なり」と言われるほどの繁栄をみた。
●南門(西・中・東)より見る
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十世紀中頃、藤原純友の乱の戦火で焼失する幾多の変遷を重ねながら、十三世紀頃まで九州 一円に対する権威を存続させていた。
●中門(西・中・東)より見る
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大宰府は、平城京の都城制にならって南北二二条、東西二四坊の条坊制をしき、大宰府政庁 は方四町、大宰府学校院は方二町、観世音寺は方三町の規模があったと想定されている。
●中門方向より正殿を見る
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●正殿より中門方向を見る
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また、大宰府政庁の建物は正殿(柱間四間×七間)及び東西各二棟の脇殿、並びに中門 (二間×三間)、南門(二間×五間)それに正殿後方に北門(推定)、そしてこれらをか こむ回廊、築地で構成されていた。
●後殿(西楼・東楼)
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なお、西側の丘には柱間三間×九間の規模をもった建物礎石があり、穀物、財物等を管理 する蔵司のあったところとされている。東側の月山と呼ばれる丘は、漏刻台(水時計)が置かれた場所と想定されている。
(特別史跡「大宰府跡」案内板より)
●正殿復元図
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●政庁航空写真(S40)、政庁復元模型、政庁配置図
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◆◆政庁周辺万葉歌碑
政庁跡・大宰府展示館
☆太宰少弐小野老朝臣が歌一首
巻03-0328
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり
政庁跡北側
☆大伴旅人
巻06-0956
やすみしし 我が大君の 食す国は 大和もここも 同じとぞ思ふ
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政庁跡・学校院跡北側
☆子等を思(しぬ)ふ歌一首
山上憶良
巻05-0802
瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて
安眠(やすい)し寝(な)さぬ

巻05-0803
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも

政庁跡西北の隅
☆大弐(おほきすけ)紀卿
巻05-0815
月(むつき)立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招きつつ 楽しき終へめ
政庁跡北側
☆太宰帥大伴の卿(まへつきみ)の凶問に報へたまふ歌一首
巻05-0793
世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
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by barakan1 | 2011-05-23 16:35 | 旅日記

福岡周辺万葉故地探訪(2011.04.30)⑥坂本八幡宮・・・

坂本八幡宮  福岡県太宰府市坂本3
太宰府市の坂本八幡宮は、応神天皇を御祭神としています。
●神社遠景(東より)
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「圓満四王寺縁起のよると、嵯峨天皇弘仁2年(811年)辛卵二月勅宣にて四王院に釈迦の像を造立し、有智山寺の沙門鳳詮法及行願具足の僧十一輩を移し開眼供養を遂げられ水田五十町を寄付した給ふ鳳詮法師は坂本に住して善正寺と号す。又坂本坊と呼り」とされています。平安時代には、この坂本地区に四王寺の座主坊としての善生寺が成立していたとされています。
●正面鳥居
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坂本にあったこの寺は中世は天台宗の寺院で本山の比叡山に習い九州の天台系寺院には境内に八幡宮を祭る形が多く見られます。この場所が、大字の境で「辻」という小字である事も当社の鎮守としての性格を表現しています。境内入口の南側にある「がらんさま」と呼ばれる立石は天台寺院の故地によく見かけられ寺の中心地や、結界となる境に置かれる事があるとの事です。  ー境内案内板よりー
●境内
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境内万葉歌碑
大伴旅人 
巻08-1541
わが岡にさ男鹿(をしか)来鳴く初萩の花嬬(はなづま)問ひに来鳴くさ男鹿 
●神社縁起・社殿
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ここには大伴旅人の邸宅があったとされているところです。
「天平2(730)年正月、大伴旅人邸で「梅花の宴」が催され、多くの歌人が集い、32首の梅花の歌が詠まれた」という所でしょうか。
太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首、
主人
巻05-0822 
我が園に梅の花散る久かたの天より雪の流れ来るかも
                  ・ ・
●境内ワイド
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◆新歌碑・神社遠景(歌碑前より神社を見る)
坂本八幡宮から少し東へ行った所にある新しい歌碑。大宰府で妻を亡くしたときの心情を詠ったものである。
大伴旅人
巻05-0793
世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり 
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by barakan1 | 2011-05-22 11:55 | 旅日記