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茨木市(大織冠神社・阿武山古墳等)探訪Ⅰ(2011.04.02)⑧新屋坐天照御魂神社・・・終

新屋坐天照御魂(にいやにいますあまてるみたま)神社 (西河原) 
茨木市西河原3-1-2
●神社社叢&入口燈籠
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祭神 天照国照天彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)
    天児屋根命(あめのこやねのみこと)
    建御名方命(たけみなかたのみこと)
●社頭案内板&一の鳥居
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由  緒(社頭案内板)
当社は延喜式神名帳(927年成立)に記載された古社である。
●社号標と手水鉢
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当地西河原の周辺はその昔新屋郷といわれ遥か古代から天照御魂神がお鎮まりになった。名神大社の中でも相嘗祭(あいなめさい)に朝廷から幣巾を奉られた式内社最高の社格で府下には数社あるにすぎない。
●境内・参道
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天正(1573~92年)の頃までは神域広大神事も盛んに行われ、近隣7ケ村の産土神(うぶすなのかみ)として崇敬された。
●参道&拝殿
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しかし戦国争乱等により衰運に傾き、寛文9年(1669年)社殿は旧神域の西北隅にあたる今の社地にうつり、同12年現在の社殿が新しく造営された。
●本殿(覆屋の中)&狛犬
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現在、本社には主祭神の他、天兒屋根命・建御名方命(タケミナカタノミコト)を相殿に祀り、境内社には八幡神、住吉神、磯良神を祀る東之神社、速素盞鳴尊を祀る須佐神社、宇賀御魂神(うがみたまのかみ)を祀る稲荷神社がある。
●境内社 (須佐神社                            稲荷神社)  
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※元境内社の磯良神社(疣水神社)が南にあり、そこに当神社が鎮座していたが現社地に遷座している。
by barakan1 | 2011-04-19 16:27 | 旅日記

茨木市(大織冠神社・阿武山古墳等)探訪Ⅰ(2011.04.02)⑦疣水(いぼみず)磯良(いそら)神社・・・

疣水(いぼみず)磯良(いそら)神社 大阪府茨木市三島丘1-4-29
●社号標・西側大鳥居
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祭神
磯良大神
●手水舎                      南側一の鳥居      
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由緒
新屋坐天照御魂神社(西河原)の境内社であったが、今や独立して、繁盛している。これはひとえに「玉の井」(疣水)の効用である。「疣、黒痣を洗えば、忽ちにして抜け落ちる」とされている。井保桜も有名であった。
●玉水明神                      霊泉玉の井
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●旧社地碑                      二の鳥居                       
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磯良大神は安曇氏の祖神として知られ、その顔に蠣などが取りついている海の中に住む精霊である。播磨国揖保郡(龍野)の粒坐天照神社と新屋坐天照御魂神社とは繋がりが見られ、新屋社の摂社となっている疣水神社とは無関係ではないと思われるが、今の所解明できていない。
●御神水疣水拝受所
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磯良大神とは古代の海人族である安曇氏の祖神であり、対馬の和多都美神社(豊玉町仁位)の原初の御神体が「磯良エビス」と呼ばれる霊石である。博多湾で金印の出土した志賀島が拠点であったようだ。ここには式内社の志加海神社が鎮座。
●境内拝殿・本殿
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磯良を磯武良とも記す。対馬の多久頭魂神社の摂社松崎神社の祭神は「安曇磯武良」と表現されている。磯武良をイソノタケルと読むことができる。磯は渚でありナギサタケルとなり、日高日子波限建鵜葺草葺不合尊のナギサタケが出てくる。
●境内社  (住吉神社 疣水桜姫稲荷神社疣水長藤大明神)
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一方、五十猛命はまさに「イタケル」「イソタケ」と呼ばれ、これまた似た名前である。これらの三神は海に大いに関係がある事と、不合尊の鵜茅を半島の上伽耶と解する見方もあり、また五十猛命を韓国伊太テ命とも称し、二神は共に半島の名を持つ神である事も偶然ではないと思われる。ー神南備にようこそーより抜粋
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●摂津名所図会 磯良神社より

井保桜は疣水の北にあり、此花希代の大樹にして、野邊に只一本ありて遠境より見えわたるなり、根本より一間許上より幹二十餘に別れて四方繁茂し、小枝数千あり、一本の周り五十間許なり、花は山桜の少し少輪伊勢桜ともいひつべきもの歟、花の盛りは立春より七十日目許なり、其の年の寒温による、浪華及び近隣より群来りて艶花を賞。
(枯れてしまったのか「いぼ桜」との石碑が立ち傍らに細い何代目?かの桜の木が有りました)
by barakan1 | 2011-04-15 16:17 | 旅日記

茨木市(大織冠神社・阿武山古墳等)探訪Ⅰ(2011.04.02)⑥阿武山古墳(藤原鎌足の墓?)・・・

阿武山古墳(藤原鎌足の墓?)   高槻市奈佐原
●中央の高い塔が地震観測所である。
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あの麓に「阿武山古墳」があるこの古墳は、昭和9年(1934)京都大学阿武山地震観測所の施設拡張工事によって発見され、京都大学の梅原末治氏らによって発掘調査が行われた。
●その地震研究所への入り口
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古墳時代終末期の古墳で、直径約80m、石室は花崗岩の切石とレンガで造られ、内側は漆喰を塗り、中央に棺台があった。台上には麻布を漆で固めてつくった夾紵棺(きょうちょかん)が置かれ、棺内には60歳前後の男性人骨が横たわり、頭部には、ガラス玉を銀線で連ねて錦で包んだ玉枕が置かれていた。
●フェンス           ●京都大学阿武山地震観測所の建物
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発見当時「貴人の墓」として注目を集め、墓室の規模や構造、特殊な埋葬形態から、被葬者は相当な地位にあった人物と考えられ、「藤氏家伝」には、藤原鎌足は「大化の改新」(645年)の前年に三島の地に隠棲しており、669年山科精舎に埋葬後、阿武山、そして多武峯へと改葬されたと伝えられていて、ここを藤原鎌足の墓とする説が沸き起こった。     昭和58年に国指定史跡となった。
●古墳石碑
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阿武山古墳の入口は、「京都大学阿武山地震観測所」と書いた門柱がたっているところから、後は徒歩で900m歩くとやがて地震観測所に行き着く。その脇から標識に従って進むと、「大阪学院大学」のフェンス沿いを少し登ったところに阿武山古墳と刻まれた白い石柱がある。
●南側より、周濠~墓室方向を見る
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この古墳には通常の古墳に見られるような墳丘はない。小高い丘のようになっており標識がなければとてもここが古墳とはわからない。
●墳丘
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山道から墓室まではコンクリートで舗装された遊歩道がつけられている。墓室として囲われた場所には木が植えられている。「墓室」と書かれた標識が設置されている。墓はこの地下約3mにあるが、囲ってなければ位置もわからないほど普通の地面である。(墓室と書かれた看板の前に誰が供えたのか花が供えられていた。何だかホッとした光景でした)
●墓室(正面・南側)より見る
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墓室、棺などはかなり凝った造りで、棺内にはミイラ化した高齢の男性の人骨一体が、頭部には、ガラス玉を連ねて綿でつつんだ玉枕と金糸をまとって葬られていた。金糸をまとっているところから、古代の天皇か、それに準ずる高位の者の遺体と推定された。皇族の可能性もあるため、科学的調査は非礼にあたると内務省が介入し、4ヶ月後には棺と遣体は元通りに埋めもどされてしまった。
●阿武山古墳案内板
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当時は軍部の権勢が全盛で、天皇家絶対の風潮の中、内務省が憲兵隊を動員して、研究者らの立ち入りを禁止し、出土品も含めてすばやく埋めもどしてしまったのである。
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その後、、ほぼ半世紀後の昭和57年(1982)に、京大地震研の一室から、古びた数十枚の写真が発見された。それは、発掘直後に京大の研究者たちが密かに撮影した、阿武山古墳被葬者のレントゲン写真原板を含む調査写真だった。
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さらに、遣体から採取した頭髪も見つかり、奈良国立文化財研究所と東海大学医学部整形学科による数年がかりの分析調査が行なわれた。また昭和62年(1987)になって、発掘当時撮影されたX線写真の分析が行われその結果、埋葬者は背骨と肋骨の骨折が原因で死亡しており、金糸は冠帽の刺繍に用いたとも推定されるという報道がなされた。
●夾紵棺の内部
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これをもって再び被葬者が「藤原鎌足」ではないかと再び取りざたされた。朝日新聞のトップの大見出しは、「藤原鎌足の墓だった」というものであった。  
ーhttp://inoues.netーより抜粋
■■藤原釜足■■万葉歌
内大臣藤原卿の鏡王女を娉(つまどふ)時、鏡王女の内大臣に贈る歌一首
巻02-0093
玉櫛笥(たまくしげ)帰るを安み明けていなば君が名はあれど我が名し惜しも
内大臣藤原卿、鏡女王に報贈(こたふる)歌一首
巻02-0094
玉櫛笥みもろの山のさな葛かづらさ寝ずは遂に有りかつましじ
内大臣藤原卿、釆女(うねめ)安見児(やすみこ)を娶(え)たる時に作る歌一首
巻02-0095
吾はもや安見児(やすみこ)得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり
●阿武山古墳『墓室」
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by barakan1 | 2011-04-15 00:25 | 旅日記

大阪城花見へ(2011.04.10)・・・

大阪城花見
今年の花見は、丁度この10日(日)が満開で、気温も20度と絶好の花見日和となりました。そのためか、人では物凄く、公園内は敷物をしいて花見をする人で一杯でした。人出は今までの花見で最高のでしたが、浮かれて酔っ払っている人も見かけず、上品な花見の風景でした。
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■古今和歌集■
巻一春歌上 0053
在原業平
世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
by barakan1 | 2011-04-11 13:04 | 花探索

茨木市(大織冠神社・阿武山古墳等)探訪Ⅰ(2011.04.02)⑤阿為神社御旅所・・・

阿為神社御旅所    所在地 茨木市耳原3丁目1
阿為神社より南へ約1.5km。茨木亀岡線の名神高速の少し北側。
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ここは、ここから約1.5km北にある阿為神社の御旅所です。御旅所とは、神社の祭礼の時に神輿が本宮から出て、しばらく仮にとどまる所です。
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阿為神社は、平安時代の延喜5年(905年)醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」の神名帳に記されている式内社のひとつで、中臣藍建が初めてこの地に来て祖先の天兒屋根命を氏神として祀ったのが始まりだといわれています。 明治41年(1908年)には手久良山の幣久良神社(式内社)を合祀されました。
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毎年5月に行われる阿為神社の御礼祭の祭には「神輿とふとん太鼓」が安威・耳原地区をまわり、この御旅所で休憩をとります。  茨木市教育委員会
御旅所敷地内は茨木市が指定した保存樹林です。
by barakan1 | 2011-04-11 12:48 | 旅日記

茨木市(大織冠神社・阿武山古墳等)探訪Ⅰ(2011.04.02)④阿為(あい)神社・・・

阿為(あい)神社 別名:苗森神社 式内社  茨木市安威3丁目17
●東側鳥居
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祭神 天兒屋根命
摂社 幣久良(てくら)神社
●南側鳥居
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由緒 (大阪府神社誌から)
創建年代不詳なるも、文献からは天智天皇の頃と推測される。皇極三年鎌足三嶋に退くとあるも、蘇我氏打倒大化改新の秘策が練られた。
●参道・手水舎
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近くから出土した漢式二神神獣鏡、太刀、左鎌が保管されている。 『播磨国風土記』には飾磨の郡大田の里について以下の記述がのこっています。
●境内全景・拝殿
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大田と称するわけは、昔、呉の勝[クレノスグリ]が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の賀美[カミ]の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。
●拝殿・拝殿内
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※※中臣藍連が始めてこの地に来て祖先の天兒屋根命(アマコヤネノミコト)を氏神として祀り、、居住地とした。中臣鎌足が一時、この三島地方に住んだのは、一族の藍連、太田連を頼ったと言われる。
◆大阪府誌から
●境内社殿
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安威村大字安威に在りて、天兒屋根命を祀り、式内の旧社にして一に苗森明神と称せり。社伝によれば藤原鎌足の勧請に係り、今旅所の在る所は昔日の神域にて、字を宮の後と称するも実に是れより起これるという。 又、苗森の称も田畴間の森林なるより出で、後鹿島大明神の社頭に奉遷せしもの、即今の神域なりとぞ。
●末社群  市杵島姫神社・稲那神社(石祠)・金山神社  ●大年神社   ●菅原神社 
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安威の地名は古く雄略天皇紀に見え、和名抄にも収めて阿井と訓し、今、太田なる継体天皇の御陵も古は藍にして、郡中きわめて古き名邑の一なり。 然して当社を勧請せし鎌足と伝ふれども、姓氏録摂津国神別の部に「中臣藍連、天兒屋根命十二世孫大江臣之後也」となるを以て見れば此の族の勧請ならんは疑なし。
●末社群  ● 出雲神社                       ●鹿島神社
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社域は藍村の正北に位して花園山の半腹に靠り、数十級の石磴の上に在りて兆域一町二反の余り。
本社は出雲大年の両社と共に鞘屋の裡に座して稚松雑木之れを蔽ひ、
●末社群  ●八幡神社                        ●秋葉神社
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素盞嗚命社、底筒男命社、猿田彦神社、金山彦神社、市杵島姫神社、火明神社、天満宮、鹿島神社の七末社は境内に羅列して本社を護れるものの如く、後ろの松林は香箪に富み頂上の眺望また極めて佳なり。
●  ???                              ●幣久良神社(稲荷神社)
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明治四十一年 耳原字百舌鳥野の式内社の村社 幣久良神社(稲荷天明神と称した)を合祀した。
ーー神南備にようこそーより抜粋
●阿為神社略図
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by barakan1 | 2011-04-07 20:23 | 旅日記

茨木市(大織冠神社・阿武山古墳等)探訪Ⅰ(2011.04.02)③大織冠神社・・・

大織冠神社(だいしょくかんじんじゃ) 鎌足古廟   茨木市西安威2丁目
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祭神
藤原鎌足、淡海、不比等
藤原鎌足の墓であった伝わる「大織冠神社」は追手門学院に隣接した住宅地の中にある(チョット分かりにくい処にあります)
大織冠とは、647年(大化3年)に 制定された最高冠位のことで、この冠位を与えられたのは、669年(天智天皇8年)に死の前日に賜った、中臣鎌足(この冠位とともに藤原の姓も賜った)ただ1人である。
●将軍塚
平安中期の頃から「藤原鎌足公の墓所は初め摂津の阿威にあったが、後に大和多武峯に改葬された」との説があり、それが江戸時代になって、この塚をあてるようになった。その為に鳥居を建て石碑を造り、石室内に祠をつくって崇拝し、毎年10月16日には京都の九条家から使者が来て、反物2千匹を持参し、お祭りをされていた。
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考古学上からは、山頂を利用して造った円墳で南向きの横穴式石室を有するものである。石室は羨道が玄室の片方によった、いわゆる方袖式のもので丸みのある花崗岩を積み上げている。玄室の長さは4.5m、幅1.71m、高さ2.4mで5枚の天井石がのせられている。時代は古墳時代後期(6世紀)のものであるが、早く開口されたので副葬品については何もわかっていない。     ー茨木市教育委員会ー
●鎌足古廟(茨木市に下記のような民話が残っている)
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鎌足の長子,定慧が遣唐使として唐にあった間、父鎌足は亡くなった。某年10月16日の夜、定慧が夢の中で多武峯に立っていると、父が来て、自分は天にいる。お前が日本に帰ればこの地に寺塔をたててくれ、そうすれば天から降りて子孫を守るであろうと聞いた。帰国の後、弟不比等に話すと父の亡くなったのも兄上が夢を見たときと語り、2人は驚いた。定慧は大和多武峯に墓所を移すべく、使者に阿為の村人と遺骸の返還交渉させたが、村人も承諾しなかったため、せめて頭部だけでも渡す話し合いになり、承諾させた。以来、鎌足古廟、胴塚と呼ばれるようになった。
■将軍山古墳
昭和31年3月に、後円部が発掘調査されたが、その後、宅地造成のために破壊されることになり昭和39年4月に再び全封土にわたって調査されて全く姿を消した。
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この古墳はもと山丘の頂上を利用した全長およそ107m、後円部径70m、前方部端の幅44mの古墳時代前期(4世紀代)の前方後円墳であった。三段に築かれた封土の周囲を葺石でおおい、円筒埴輪を並べ、後円部中央には、この付近に産しない結晶片岩を用いて竪穴式石室を造っていた。石室には12枚の天井石がのせられU字型の粘土棺床が造られていた。
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この石室を移築したのが、現在のこの石室である。実際の石材を用いて、もとどおり竪穴式石室に造ってあるので、その構造を知る上に参考になるものである。早く盗掘にあったので副葬品は硬玉製勾玉、ガラス製小玉、銅鏃、鉄鏃、鉄剣のみであった。      ー茨木市教育委員会ー
※※昭和9年(1934年)に発見された「阿武山古墳」が、昭和62年(1987年)に、藤原鎌足の墓としてほぼ実証されるに至った。これらの事柄から、この「古墳」の被葬者は鎌足でないことはほぼ確実である考えられている。
by barakan1 | 2011-04-06 14:47 | 旅日記

茨木市(大織冠神社・阿武山古墳等)探訪Ⅰ(2011.04.02)②新屋坐天照御魂神社・・・

新屋坐天照御魂神社 (福井神社)  名神大社     大阪府茨木市西福井3-36-1
●一の鳥居から神社をみる、後方日降丘、府道脇の社標
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祭神
天照皇御魂大神
(あまてらすすめみたまのおおかみ)
天照国照天彦火明大神
(あまてるくにてるあめのひこほあかりのおおかみ)
天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵大神
(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのおおかみ)
●二の鳥居と神社入口と社叢
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◆社伝では、崇神天皇7年、アマテルミタマ神の降臨があったので物部氏の祖・伊香色雄命(いかがしこおのみこと)によって祀られ、景行天皇の皇女五百野媛をして天照皇御魂大神を祀った。
●神社参道石段
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また、後に神功皇后出立に際しこの社で禊祓いを行い、後日帰国後に東西の川上に社を造り、天照皇御魂大神の幸御魂と荒御魂を祀った。これが西河原と上河原の神社だという。
●入口由緒書き案内板
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◆神社発行の由緒書きより
当社は大和朝廷時代初期(第十代崇神天皇七年秋九月)に創建され、物部氏の祖伊香色雄命により勅祭された市内最古の神社です。
●境内拝殿・手水舎
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以後、歴代朝廷の御崇敬深く、特に神功皇后は当社の御分霊を上河原と西河原に奉遷し、厚く新屋社を尊崇されました。これらの社は新屋三座(社)と呼ばれました。第六十代醍醐天皇の延長五年(九二七)に延喜式内名神大社に列せられ、神位は正四位の下を授けられ、島下郡の総社に位置づけられました。
●境内社殿(拝殿・本殿)
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鎌倉時代以後、社領の没収などにより社頭は衰微しました。しかし、桃山時代になり天正年間茨城城主中川清秀公は厚く当社を崇敬し、奥方の性寿院は社殿及び玉垣等を改修し、今日の基がつくられました。中川候は九州竹田の城主になってからも明治時代までことある毎に寄進し、崇敬の誠をつくされました。
●本殿正面
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明治になり同五年(一八七二)には、見山、石河、清渓、安威、福井、豊川地区の郷社として各神社を統括するようになりました。日進・日露の戦争後、日本が世界の一等国に仲間入りした明治四十年幣帛供進社となり昭和二十一年まで続きました。
●境内末社(丸山稲荷神社・六所神社)
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終戦直後社頭は衰微しましたが、昭和二十九年宗教法人法の神社として復興し、千数百戸の氏神として現在に至っています。
●摂社(須賀神社・出雲神社)
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●末社(天満宮・石神大海神・道祖神-石造の神像は保管
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◆日降丘
社殿の軸線は日降丘に向かい、社殿右手・稲荷社横に日降丘への登頂口がある(頂上まで約200m)。頂はアマテルミタマ神が降臨した聖地とされ、四方に青竹を立て注連縄を張った中央に『聖地 日降丘 第10代崇神天皇7年秋9月、伊香色雄命、天照御魂神亦の名火明大神を齋奉る』と刻した石標が立つ。
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社殿が日降丘を拝する位置にあり、頂上に日神を祀ったとおぼしき聖地(山宮跡)があることは、当社の原点が日降丘を神の降臨地とする神奈備信仰にあったことを示唆するもので、現在の社殿は丘上の聖地にあったであろう山宮に対する里宮の位置に当たる。
日降丘一帯には約30基からなる新屋古墳群があり、今10数基を残すという。当社創建に係わる氏族(新屋連)の墳墓であろうという。(日降丘に登りましたが、墳墓のようなものも、その痕跡も眼に付きませんでした)
※※いつもは家族のことをお願いするのですが、今回は東日本大震災にあわれた皆さまの、社会生活や家庭生活が一刻も早く復興するようお願いいたしました。(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2011-04-04 17:39 | 旅日記

茨木市(大織冠神社・阿武山古墳等)探訪Ⅰ(2011.04.02)①コース概要・・・

茨木市(大織冠神社・阿武山古墳等)探訪

a0016431_1356028.jpg●疣水(いぼみず)神社のサザンカ
春日の温かさに思い立ち、茨木市にある阿武山古墳と大織冠神社を訪ねて車を走らせました。先日購入したナビの威力は流石で、一度も間違えることなく目標にたどり着きました。今日は7箇所廻りましたが・・・。今城塚古墳は時間切れで、次回に回しました。素晴らしい公園になっているらしいので、楽しみです。
●探訪コース。
9時自宅発~阿為神社御旅所~新座坐天照御魂神社(西福井)~大織冠神社(将軍塚)~阿為神社(安威三)~阿武山古墳~疣水(いぼみず)神社(磯良神社)~新座坐天照御魂神社(西川原)~16時半自宅着。

■コース地図

by barakan1 | 2011-04-03 14:28 | 旅日記