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自宅裏のコブシの花&メジロ(2011.03.17)

コブシの花&メジロ
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自宅裏のこぶしの花がやっと咲きました。昨日散歩をしようと前を通ると、毎年見かけるメジロ達が4,5羽きて、盛んに廻りを飛び回り蜜?を吸っていました。連日、東北関東大地震の重苦しい報道ばかり見聞きしていましたので、少し気持ちが明るくなりました。
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(東北関東大震災の凄まじい惨状をテレビで見、居ても立ってもおれず、貧者の一灯ですが義援金を送って来ました)
by barakan1 | 2011-03-17 10:37 | 旅日記

櫻井~奈良~名張市(2011.03.06)探訪⑩夏見廃寺跡・・・終

夏見廃寺跡     三重県名張市夏見2759
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◆夏見廃寺は、飛鳥時代後半(白鳳時代)7世紀末から8世紀前半に建立され、10世紀末頃に焼失した寺院跡です。
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丘陵斜面にある地形的制約から、講堂が金堂南西部に位置するなど他に例のない、変則的な伽藍配置となっています。
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発掘調査で金堂建物が奈良県桜井市の特別史跡山田寺跡と同じ身舎(もや)と廂(ひさし)がともに間口3間、奥行2間という特異な建物であることや、
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金堂跡を中心に各種のせん仏が多量に出土したことで、大和の中央勢力との深い結びつきを物語る貴重な寺院跡である。 平成2年3月8日付きで国の史跡に指定されました。
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◆夏見廃寺は大来皇女が建立した寺だといわれています。大和薬師寺縁起には「大来皇女 最初斎宮 以神亀二年 為浄御原天皇 建立昌福寺 字夏見 本在伊賀国名張郡」とあり、
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大来皇女が父帝のために発願したこのお寺が、現在の国史跡・夏見廃寺跡だと考えられています。
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◆◆ここから、二上山は西に位置し、大来(大伯)皇女は、父天武天皇と共に密かに大津皇子を偲んだのであろうか。
大津皇子薨りましし後、大来皇女、伊勢の斎宮より京に上りましし時、
作りませる御歌二首
巻02-163 
神風の伊勢の國にもあらましをいかにか来にけむ君もあらなくに
巻02-164 
見まく欲りわがする君もあらなくにいかにか来けむ馬疲るるに
●夏見廃寺跡から明日香・泊瀬・二上山方向をみる
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大津皇子の屍(みかばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたがみやま)に移し葬(はふ)りまつれる時、大来皇女の哀傷(かなし)みてよみませる御歌二首
巻02-165 
うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を兄弟とわが見む
巻02-0166
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに
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※やっと夏見廃寺に来ることが出来ました。大津皇子との関係で是非訪ねたいと思っていましたが、今回小夫天神社を尋ねる機会に少し方向は違いましたが足を伸ばしました。考えていたよりは小じんまりと可愛くまとまった寺跡だと思いました。此処で、大津皇子を偲んだのか?と思うと何だか懐かしい気持ちになりました。時は冬、色彩に乏しく華やかさは全く有りませんが、それでも春には素晴らしい景色に変わるのでしょう!!
大来皇女の歌を味わってください。
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by barakan1 | 2011-03-15 21:35 | 旅日記

櫻井~奈良~名張市(2011.03.06)探訪⑨三陵墓古墳群史跡公園・・・

三陵墓古墳群史跡公園   奈良市都祁南之庄町1581
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●三陵墓西古墳
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都介野岳からのびる尾根上に営まれた古墳群で、直径40mで5世紀前半の円墳である西古墳、
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全長110mの前方後円墳で5世紀半ばに築造された東古墳と、直径16mの円墳で古墳時代後期に造られた南古墳の3基の古墳で構成されています。
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なかでも西古墳・東古墳は大和高原・宇陀郡において最大級の古墳です。
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被葬者は明らかではありませんが、『古事記』『日本書紀』には「都祁直(つげのあたい)」「闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)」の記載があり、この地域に一大勢力があったことが伺えます。
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現在、西古墳・東古墳は墳丘、埴輪列などを復元し、史跡公園として整備されています。
●西古墳から見た三陵墓東古墳
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by barakan1 | 2011-03-14 14:02 | 旅日記

櫻井~奈良~名張市(2011.03.06)探訪⑧小治田安萬侶の墓・・・

小治田安萬侶(おはりだのやすまろ)の墓  奈良市都祁甲岡町
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小治田安萬侶(生年不詳 - 729年3月13日(神亀6年2月9日)没)は蘇我稲目の後裔にあたる奈良時代の役人で、文武から聖武まで4代の天皇に仕えた。『続日本紀』には719年(養老9年)に正五位上に叙されたとの記事があり、亡くなった時の位は従四位下であった。
1912年(明治45年)、茶畑の開墾中に偶然木櫃が発見され墓誌3枚が出土した。1951年(昭和26年)に改めて発掘調査が行われて火葬墓であることが確認された。
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墓地は都祁水分神社がある丘陵の南斜面につくられており、墓誌の他に木櫃と副葬品の三彩の壷、銀製の和同開珎、須恵器、土師器が出土したほかに、双獣双鳳文鏡1面も同墓の出土品として伝わっている[1]。火葬は墓のすぐ近くで行われ、木櫃は1辺約3.6mの正方形の穴の中に炭と礫が敷かれた上に置かれていた。
なお、同じく墓誌が発見されている太安万侶は、名前が同一であるが別人である。同時代の文官ということもあって、よく混同される。  (ウイデペキアより)
by barakan1 | 2011-03-13 20:01 | 旅日記

櫻井~奈良~名張市(2011.03.06)探訪⑦都祁水分(つげみくまり)神社・・・

都祁水分(つげみくまり)神社 式内社 奈良県奈良市都祁友田182
●神社遠景
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【祭神】速秋津彦命  
    天水分神 
    国水分神
●正面鳥居
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◆内大社都祁水分神社略記
都祁水分神社は都祁村友田にあります。広大な森、長い参道、古来よりの水の神として崇敬されています。
祭神は速秋津彦神・天水分神・国水分神の三柱の神で、古く本地垂跡説によると阿弥陀三尊とせられています。当社の歴史については古来大和国の水分4社の1つで、飛鳥時代に創祀されたと伝えています。最初の鎮座地は、当社より3キロ南方の小山戸カモエ谷の都祁山口神社の地であります。
●参道~拝殿前
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この地に祀られた自然神で、また、農耕神として、大和川、木津川の水源の神として、奈良朝時代「神戸」を寄せられ平安時代仁寿2年官社に列せられ、貞観元年には「正五位下」に進められました。
●境内(舞殿・拝殿)左より
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延喜式には大社に列し、月次、新嘗の官幣にあづかっています。平安時代の中頃当地区に興福寺喜多院二階堂の荘園が成立しました。藺生、小山戸、友田、南殿、白石、無山、向淵の7庄で開発が進むとともに水分神は信仰をあつめ、荘園の中央友田へ遷し祀られることとなりました。天禄3年9月25日のことです。
●境内右より
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この社地は奈良朝時代聖武天皇の行幸された堀越頓宮の伝承地であり、平安時代に伊勢齋宮の皇女が宿られた都介頓宮の跡でもあります。鎌倉時代の初め喜多院二階堂領は、同じ興福寺の大乗院領となり、水分神社も大乗院家の指示で、当地方に、成長した武士が氏人となり、護持されました。これらのことは応永31年に作られた当社縁起に詳記されています。
●拝殿・狛犬
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室町中期の明応8年7ケ庄の反米によって造営されたのが現本殿であります。
江戸時代には7庄の氏神として地方的な信仰をえ、殊に藤堂藩大庄屋、小山戸の北氏は当社の護持に一段と力をつくしています。明治維新の後、当社は郷社となり後県社に列せられました。
●神門・本殿
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当社の祭礼は古くより春日「おん祭」を模倣して盛大に行われ、神輿は9月25日、小山戸山口神社に渡御せられ、翌26日遷御され、田楽、佃男、流鏑馬があり能狂言も催されていました。
●本殿・狛犬
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本殿(重要文化財)1間舎春日造桧皮葺で梁行2,6米、桁先3米の大きく雄健な建物であります。向拝の斗KYOUは連3斗、蟇股には牡丹の丸彫が入っています。御霊舎、本殿内に安置されている旧神輿で、床板裏に「康正3年丁丑9月25日造立之」等の墨書銘があって、室町前期の建造であることが知られる貴重な遺品であります。石造狛犬、本殿前左右に安置されている。一対の狛犬で安山岩製、高さ0.7米でどっしりとして肉取りに抑揚があり、顔の表現もすぐれ頭髪や胸毛も豊で、尾の意匠はそれぞれ変化があります。鎌倉末期の作と認められている優秀なものであります。
以上、水分神社の大畧であります。長い歴史の荒波にたえて、水分神社が護持されたことは、農耕神として霊験いちじるしい御神徳と一般のあつい信仰によるものであります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
◆水の神都祁水分神社
都祁水分神社は、大和の国水分四社(都祁・宇陀・吉野・葛城)のひとつで、速秋津彦命、天之水分神、国之水分神祭られています。水分は、水配:山から流れる水がわかれる所 を言い、当地では大和川と木津川の分配を司る神として古くより崇敬されてきました。
●境内社(水分神社、水分社、大国神、御霊神社)
本殿左の境内社                本殿右の境内社 (右大きい祠 国津神社)
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すでに天平2年(730年)の大倭国正税帳に「都祁神戸」と記せられ、延喜式にもある由緒ある神社です。はじめは、友田の南方大字小山戸て祭られていましたが、天禄2年(971年)に、現在の場所に移されています。
本殿は、室町時代中期、明応8年(1499年)に造営され一間社春日造、桧皮葺の中世社殿として国の重要文化財に指定されています。又本殿の前には、鎌倉末期の作と推定される一対の狛犬があり、早期狛犬の秀作として注目されています。
ほかに、国指定重要文化財の棟札、県指定文化財の御輿、板絵、絵巻が収められています。ー社頭掲示板ーより
◆◆長田王がここ山辺の御井で詠まれたという万葉歌
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和銅五年(712)壬子(みづのえね)夏四月、
長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺(やまのへ)の御井(みゐ)にして作る歌
万葉集
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山辺の御井を見がてり神風の伊勢をとめども相見つるかも
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by barakan1 | 2011-03-12 15:52 | 旅日記

櫻井~奈良~名張市(2011.03.06)探訪⑥都祁山口(つげやまぐち)神社・・・

都祁山口(つげやまぐち)神社  奈良県奈良市都祁小山戸町
●小山戸村落より神社全景。(真ん中小さな森「森神」さんと呼ばれる場所)
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【祭神】 大山祇神
(合祀) 大国主命
 境内社 恵比須神社
●正面鳥居
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当社は古代闘鶏つげの国の鎮守として奉祀され、大和の国の十四所山口神の一つで、都祁村の山霊をまつる。、天平ニ年(七三〇)の大倭国正税帳(正倉院文書)に「都祁神戸」、大同元年(八〇六)牒(新抄格勅符抄)「都祁山口神一戸大和」とあり、当社をさすのである。
●参道
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同所に祀られていた都祁水分社は、天禄ニ年(九七一)九月二十五日に友田の阪窪山に移され祀られている。
●本殿
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当社神主職は神八井耳命の子孫都祁直の末裔と伝え、貞観年間より藤原氏を称した。以来父子相継ぎ、小山戸殿とも称せされ、暦応年中(一三三八~四二)伊勢の北畠氏に属して北と改姓、大乗院小山戸庄の下司職をも兼帯したという。
●恵比寿神社                    ●御社尾磐座への道
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戦国の争乱によって神社は衰退したが、北左京之進が寛永年中(一六二四~四四)に大字相河そうごの丸山に祀られていた國津神社と合併のうえ合祀されている。又、本殿の裏山にゴシャオ(御社尾)とよばれる巨岩があり、古代より磐座として崇敬され、当社の歴史を示すものである。(水分神の上社と呼ばれている)
境内の案内板より抜粋
御社尾、磐座
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小山戸に鎮座する都祁山口神社の後方の山稜には、元慶3年(880年)、水分神が白龍の姿で降臨した磐座と伝えられている御社尾(ごしゃお)の磐座があります。また、この岩の近くから古墳時代の管玉が発見されており、祭祀遺跡でもあります。
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磐座に向かう稜線上の道にはヒノキの根が張り独特の景観を描きます。途中樹の根元に「都祁直靈石」の石碑があります。頂上にたどり着くと、鳥居の向こうに瘤状に盛り上がる大きな岩塊が迫ってくる。
都祁水分神社の起源とされる神聖な場所です。
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by barakan1 | 2011-03-11 14:53 | 旅日記

櫻井~奈良~名張市(2011.03.06)探訪⑤笛吹大明神・・・

笛吹大明神
笛吹奥宮は天神社から、1kmほど北にある。さらに、少し北には「猿田彦之命」の大岩がある。
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●笛吹大明神の由來
笛吹山の礎に笛吹淵あり、又天磐淵ともいう、谷川に架れる橋を天の磐橋という、又笛吹橋ともいう、この辺りの山を磐舟といい、大古、笛吹大明神天香久山の竹を採りて笛を造り、笛吹鳴して天照大御神へ神楽の舞を献りて御祭されし所なりと伝う。 天照皇大神宮御遷座のとき、御先導神である猿田彦神の降臨の地とも伝う。  
 (古事記、神道五部書、社伝古文書より)
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石碑(上)には、次のように彫られている。
「笛吹奥宮笠神の聖地」
『 天照す神の隠れる戸をあけて、日の出にかへす笛吹の神 』
●「猿田彦命」の岩
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38号は初瀬川の上流に沿って通じているのですが、上記の奥宮からすぐ上(かみ)の川沿いに巨石があり、しめ縄が張られていました。猿田彦命の岩と呼ぶそうです。
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by barakan1 | 2011-03-10 21:39 | 旅日記

櫻井~奈良~名張市(2011.03.06)探訪④化粧川と化粧壺・・・

化粧川と化粧壺
●県道38号線からの入口
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前回の探訪(2007.04.05)時は結局化粧壺へは辿りつけず、引き返した。いま考えるともう少しのところまでたどり着いていたのだが・・・。
●化粧壺付近
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今回は小夫の村を過ぎた少し先の分かれ道(ここにも化粧壺の看板あり)、から化粧壺を目指す。しかし此処からも思っていたより遠く、岡を超えて下り切ったあたりにヤット目指す化粧壺を発見した。(小夫神社社叢の反対側(北側)あたり)
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●化粧川と化粧壷の由来
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大字修理枝に字化粧川あり、修理枝川の上流にあって、古は田地なくして広々とした天然地磐岩で、川の中央に凹んだ溜あり、実に清浄なる所で、年経ると共に田地が延びて川幅狭くなり、化粧壷という岩のみ現われる。
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この水源は小夫山中より流れ出て、修理枝を経て更に小夫と笠との境を通じて大和川(泊瀬川)に合流する。 上古、天照皇大神宮に奉仕された、豊鍬入姫命の御化粧ありし所、又大來皇女命御禊の旧跡と云う
by barakan1 | 2011-03-09 17:59 | 旅日記

櫻井~奈良~名張市(2011.03.06)探訪③小夫天神社・・・

小夫天神社     桜井市大字小夫字神前田3147番地
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御祭神中殿天照皇大神(あまてらすすめらおおみかみ)
        相殿     大来皇女命(おおくのひめのみこと)
        東殿天兒屋根命(あめのこやねのみこと) (春日大神)
        相殿     品陀別命 (ほんだわけのみこと)  (応神天皇)
        西殿菅原道真 (天満大自在天神)
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◆社伝 倭笠縫邑の旧跡伝承
倭笠縫邑に天照皇大神宮御鎮座は、第十代崇神天皇六年己巳秋九月二十三日神人分離の一大変革を起し、報本反始の至情を顕現せしめ、皇女豊鍬入姫命をして、皇祖を奉斎し給うた最初の霊跡なり。
●参道・神社正面
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◆泊瀬斎宮の旧跡伝承
抑(そもそも)当社敷地は泊瀬斎宮の跡にして、第四十代天武天皇白鳳二年夏四月丙辰朔己巳大來皇女をして待らしめ、宮を斎宮となし身を清め、皇祖天照皇大神を祀らせ給へり、これ即ち、大來皇女化粧川御禊の旧跡であり、泊瀬斎宮の旧跡なりと伝う。
天武天皇三年(六七四)十月九日に「大來皇女、自泊瀬斎宮向伊勢神宮」と『日本書紀』に記されている。  (古事記、日本書紀、倭姫命世記より)
●社殿・狛犬
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◆大來皇女命のご事績
大來皇女命は、天武天皇の皇女にして御父天武天皇御名は大海人皇子と申し、天智天皇の同母弟であり、幼き頃より聡明におはしまして、天智天皇の元年に東宮の位に就き給いしも、同年四月に病身の故をもって皇太子を辞し給い、出家して陛下のために功徳を修めんと、大和の吉野に入り給う。
●社殿・本殿
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後に飛鳥浄御原の宮におはしまして帝位に即き給う、縦いて年号を白鳳と改め給い、深く神佛を崇敬いたさせ給へり、されば此の年の四月に大來皇女を天照皇大神の宮に待らしめんと、泊瀬斎宮に居らしめ斎宮となし給う
●山王神社 大峯行者菩薩社 高神社(九龍神社)    ●祓戸社 
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a0016431_15191142.jpg大來皇女は壬申の乱に勝利した、父天武天皇の命により、その即位二ヶ月後天照皇大神宮に奉仕する斎王に任ぜられ、十三才の御身で大和の泊瀬の斎宮に入らしめ給い、一年半に及ぷ潔斎を行なわれ青垣巡る神浅茅原の美わしい化粧川の地その昔、天然地磐岩なる渓流にして、修理枝川の化粧壷にて御禊されし、十三才の皇女乙姫のお姿を瞼に想いめぐらすと き、諸条件による難行、苦行の神業に堪えられ、斎王の任務を果されしを偲び奉るのであリます。   (日本書紀、社伝古文書より)
既往千三百年前の秋、斎王として伊勢に下向して十三年間、伊勢の斎宮に在りし大來皇女は、父天武天皇の詐報と弟大津皇子刑死の報に悲しみ、斎宮をあとに退下帰京し給う。
※ー神南備にようこそーより抜粋
★★木槻(けやき)の大樹の由來 口碑
第二十三代顕宗天皇の御代、顕宗紀に「殖槻也田中乃杜也」とあり、社務所のある辺は、古來から神前田と称し、恰も、 田中の杜なり、殖槻なりとあるに符合しいわゆる磐境としての神木であります。 (顕宗紀、社伝占文書より)
◆◆大津皇子の、伊勢の神宮(かみのみや)に竊(しぬ)ひ下(くだ)りて上来(のぼ)ります時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)のよみませる御歌二首(ふたつ)
万葉集
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我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし
巻02-0106
ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
※昨年の12月、大来皇女のお母さん、太田皇女の墓?発見で話題になりましたね。
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by barakan1 | 2011-03-08 15:37 | 旅日記

櫻井~奈良~名張市(2011.03.06)探訪②天落神六社権現 ・・・

天落神六社権現    桜井市大字和田
祭神  味耜高彦根命(あづちすきたかひこねのみこと)ほか
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天落神六社権現由緒記 文嚴樫俊夫
落神の宮は、当地に祀られている山に三社、川に三社ある総称で、六社権現とも呼ばれている。長谷寺縁起に文によると、昔、雷神が瀧蔵権現神社(瀧蔵権現)に祀られていた毘沙門天御所持の宝塔を取り、天に昇ろうとして落ちた所で、落神の地名の起源になっている。六社の一つ、川の中の巨大磐座に味すき高彦根命を祭神とする祠が安置され、古来より雷除け、災害防止等、霊験あらたかな神として厚く信仰されている。
a0016431_1740933.jpg毎年、旧暦一月十一日に六社権現講が輪番で網掛行事が行われ、また当地吉岡氏は吉岡留吉氏より代々守護神として毎年五月九日に月次祭を行い祀られている。湖底に沈んだ磐座は此処より南西約180m下流の大和川沿いにあった。その一つ川中の屏風岩は、高さ四・八米、巾七・七米、奧行四・七米下部周囲二十四米の三角状巨巌で西面に向かって左側に一・四米の宝篋印塔と梵字、中央上部に梵字の線彫があり、上部に祭神の祠が安置されていた。また一つは県道をはさんだ山側の露出した岩盤に、高さ九十七糎の宝篋印塔が線刻されていた。この度、これ等の磐座が、初瀬ダム建設事業により湖底に水没することとなり、清浄な石材を選び、由緒ある磐座の面影を記録にとどめ、御神徳を顕彰し、当所に遷座し奉る。
昭和六十三年七月吉日  【境内の石碑より】 
by barakan1 | 2011-03-07 17:41 | 旅日記