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平城遷都1300年祭(平城宮)探訪(2010.07.18)第一次大極殿・・・終

平城宮
●朱雀門
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平城遷都祭(ならせんとさい)2010 公式ホームページより
事業実施の目的
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平城宮跡は、西暦710年に、藤原京から遷都された平城京の中核です。当該宮跡地は、当時の天皇の住居や政治・国家的儀式を行う場として、学術的に貴重な価値を有することから、
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国の特別史跡に指定されるとともに、1998年、平城宮跡を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されました。
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趣 旨(コンセプト)
ここでは、日本で初めての本格的な律令国家として国の礎を築く一方、シルロードから西洋やアジアの文化が流れ込み、天平文化が花開きました。
●高御座
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国のあり方だけではなく、食、衣、宗教、芸能など、日本のあらゆる文化が始まったすばらしい時代です。そんな華やかな面と相反して、一方では天災や飢饉などに見舞われた大変な時代でもありました。
●宝珠
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時の聖武天皇や光明皇后は、皆が幸せに暮らせるようにと心を痛め、国民の力を一つにするべく、国民すべてに呼びかけて、大仏を建立いたしました。
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その根底には、人に限らず、生きとし生けるものすべてを大切に思う心がありました。
by barakan1 | 2010-07-29 17:32 | 旅日記

平城遷都1300年祭(平城宮)探訪(2010.07.18)①遣唐使船・・・

平城京探訪
7月18日13時前、奈良西大寺の平城京メイン会場に向け自宅出発。
会場にはこの暑さにもかかわらず、大変な人です。遣唐使船~朱雀門~大極殿~二次大極殿跡を周り~シャトルバスで西大寺へ~17時半には自宅着できました。歩数10000歩です。
かなり端折って回ったので短時間で回れましたが、すべて見ているととても時間がありません。大極殿は建築中と違って又、一段と大きく見えました。
●平城京歴史館(遣唐使船復元展示)
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展示されている遣唐使船(復原船)は文献をもとに造られ、
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長さ30m、
高さ15mで、





















遣唐使の居住用や炊事などに使われたとみられる3つの屋形と2本のマストなどが組み立てられます。
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この船で当時、留学生や僧侶たち約150人が乗り込むことができたようです。
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(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2010-07-25 15:54 | 旅日記

淡路島(国)探訪①(2010.04.18)(31)絵島・大和島~岩屋神社・・・終

絵島    兵庫県淡路市岩屋 
『古事記』では、イザナギ・イザナミの二神が海原を天の沼矛(ぬぼこ)でかき回して造った最初の島『おのころ島』に降り立ち、国生みを始めたという。その最初の島『おのころ島』が、淡路島とも沼島(南淡町)ともこの絵島ともいわれている。
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西行法師
山家集
千鳥なく 絵島の浦に すむ月を 波にうつして 見る今宵かな
■大和島
絵島の南に位置する陸続きの小島で、砂岩、礫(れき)岩から成る。各所に小型の海食風景が見られ、山上には風圧の影響で特異な風衝形をつくるイブキ群落(県指定文化財)がある。
昔は、大和島とのわずかな間に岩屋街道が通っていたが、現在の国道は島の西側を大きく開削して造られている。
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柿本人磨呂
巻03-0255 万葉集
天離(ざか)る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ

■岩屋神社   淡路市岩屋字明神799
●侍長屋形式の門守殿
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道路に面して、かなり横に長い侍長屋形式の門守殿があり、その中央に入口の鳥居が立つ形式。鳥居をくぐり、階段を上ると境内。正面の階段を上ると、社殿がある。拝殿には、「天地大明神」の扁額。この文字は、小野道風の書らしい。拝殿の後方には、周りを板で覆われた本殿。創祀年代は不詳。天地大明神とも、岩屋明神、絵島明神とも呼ばれた神社。
●手水舎・狛犬
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神功皇后三韓征伐のおり、対岸の明石垂水の浜で風波にあわれ、渡海に難渋し、風待ちのため、岩屋に着岸。三対山上の石屋明神に参拝し、戦勝を祈願され、「いざなぎやいざなみ渡る春の日にいかに石屋の神ならば神」と詠じ給うと、風波が止み、海上は静まったという。
●社殿
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もとの鎮座地は、現在地の300m北にある三対山(城山)で、後土御門天皇の御代、大内義興による築城の際に、現在地に遷座させられた。
●拝殿・本殿
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祭神は、國常立尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊の三座。
一説には月読尊とも、伊都之尾張神とも。
●境内社   稲荷神社、左手に八百萬神社。
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御由緒
創立年月不詳なれども伝へいう崇神天皇(第十代天皇)の御代三対山に鎮座せられ絵島明神といい 垂仁天皇(第十一代天皇)の御代石屋明神という神功皇后(皇紀八百六十年頃)三韓征伐の際対岸 明石郡垂水の浜より当浦に着船せられ三対山の頂上に於て戦勝を祈願せられ凱旋の時又参拝ありて 報賽せらるるという延喜式の制小社に列し白河天皇(第七十二代天皇)承暦四年禍穢によりて使を派し 清祓を科すべき事を卜奏せり二条天皇(第七十八代天皇)長寛元年「天地大明神」と勅定せられ神階を 昇叙し神供田を寄進せらる源平争覇の頃岩屋浦兵火の巷と化せしかば当神社多く什宝古記録の烏有に 帰せしめたり土御門天皇(第八十三代天皇)の御代大内義興将軍義植を奉じて京都に入らんとし当地に 軍を進め三対山に岩屋城を築きし時当神社を海浜なる今の地に遷座せり池田氏淡路を領せし際社殿を再興し 寛政八年領主蜂須賀候親しく参拝し文化十四年又直参を見たり明治六年二月郷社に列せらる。
-『平成祭データ』-
※2日間、31抄の淡路島探訪もやっと終わりました。二ヶ月あまりも掛かってしまいましたが、本当にやっと終わったという感じです。もう一度訪問しなかればならないのですが何時になることやら・・・。
by barakan1 | 2010-07-03 17:12 | 旅日記

淡路島(国)探訪①(2010.04.18)(30)石の寝屋(古墳)・・・

石の寝屋(古墳)   淡路市岩屋小字サセブ
兵庫の伝説(明石の海に眠る真珠を求めて)  
●古墳登り口より明石大橋を見る
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今から1500年も前のことです。そのころの淡路島(あわじしま)は、「御食国(みけつくに)」とも呼ばれて、天皇がめし上がるさまざまな食物を、朝廷(ちょうてい)にさしあげていました。
●高速道を跨ぐ橋をわたって古墳へ(右の山です)
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ある年の秋、允恭天皇(いんぎょうてんのう)という天皇が、淡路へ狩りにやってきました。そのころの淡路には、大きな鹿(しか)や猪(いのしし)、そして鴨(かも)や雁(かり)などのわたり鳥がたくさんいたのです。
●古墳への山道(ツツジが咲いていました)
詠み人知らず
巻07-1188 
山越えて遠津の浜の磯躑躅還り来むまでふふみてあり待て
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ところが一日中追いかけて、どんなに矢を射かけても、たった一つのえものもありません。不思議に思った天皇は、その理由を占わせてみました。するとイザナギ神社の神様から、こんなお告げがあったのです。
「私が、えものをとれないようにしているのだ。赤石(あかし)の海の底にある真珠を取ってきて、私に祭ってくれたら、淡路島のえものを残らず取らせてあげよう。」
●古墳中腹より大橋を見る
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天皇はさっそく、淡路の海人(あま)を大勢集めて、赤石の海へもぐらせました。けれども海が深くて、だれ一人底までもぐることができません。「だれかもっと深くまでもぐれるものはいないのか。」「申し上げます。阿波国(あわのくに)の長村に、男狭磯(おさし)という海人(あま)がおります。この人は、他の海人の倍ももぐれるそうです。」
●古墳中腹より岩屋港を見る
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「では、すぐに使いを出せ。」
こうして、阿波の国から男狭磯が呼び寄せられました。男狭磯は、さっそく腰に長いなわを結んで、海にもぐってゆきました。しばらくして浮かび上がってきた男狭磯は言いました。
●石の寝屋古墳(石棺)
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「この海の底に、とても大きな光るアワビがある。だが深すぎて、とてももぐれそうにない。どうしたものか。」「それこそ神様のおっしゃる真珠にちがいない。なんとか取れないものかな。」「どうにかして神様を喜ばせてあげたいものだ。」「だがさっきもぐったので、もう五十尋(ひろ)もあるぞ。これ以上はとても無理だ。」
●石の寝屋古墳(石棺)
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a0016431_198363.jpg船の上にいた人々は、口々に言いました。
男狭磯は迷いました。が、やがて決心したように海へ飛びこみました。なわはぐんぐんのびてゆきます。四十尋、五十尋・・・。やがて六十尋もこえようとしたところで、ぐいぐいとなわを引いて、男狭磯から合図がありました。

「それっ、引っ張れ!」
船の人たちは、必死になってなわをたぐり寄せましたが、ようやく海面についたとき、男狭磯は息が絶えてしまっていました。けれども男狭磯のうでには、見たこともないほど大きなアワビがしっかりとだかれていて、その中から、桃の実ほどもあるみごとな真珠が見つかったのです。

天皇はさっそく、イザナギ神社に真珠をお祭りしました。すると、神様のお告げの通り、たくさんのえものをとることができました。けれども天皇は、男狭磯が死んでしまったのがくやまれてなりません。そのころ海人というのは、身分の低い人たちでしたが、天皇は男狭磯のために、赤石の海を見わたせる山の上に立派な
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墓を造り、ていねいにとむらいをしたそうです。石で造ったこのお墓は、だれ言うとなく「石の寝屋(ねや)」と呼ばれるようになりました。
兵庫県立歴史博物館ネットミュージアム
伝説番号:016 ひょうご歴史ステーションーより
by barakan1 | 2010-07-02 19:13 | 旅日記