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八尾市内(新家幡宮~~渋川神社)探訪(2010.03.29)⑥許麻(こま)神社・・・

許麻(こま)神社  式内社  八尾市久宝寺5-4-8
●神社入口(東)
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祭神 素盞嗚命 
配祀 高麗王靈神、牛頭天王、許麻大神
境内社 金比羅神社・嚴島神社・八幡神社・太宰府神社・秋葉神社
●正面鳥居
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由緒
渋川郡の式内小社。『和名抄』には若江郡、大縣郡に巨麻郷の名が見えるように、河内湖の干上がった当地付近は渡来系の者が多く住み着いたようだ。祖神を祀ったのが、後に神社となったのだろう。 河内国諸蕃大狛連の居住地だったと云う。ー神南備にようこそーより抜粋
●神社境内
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許麻(こま)神社の創立は不詳であるが、「延喜式」神名帳には小社に列せられており、今から1100年以前より存在していた由緒ある神社で、江戸時代には「久宝寺の牛頭天王」と呼ばれていた。
●神社境内(境内社)
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許麻は高麗に通じ、この地は古くは「巨麻荘」または「許麻荘」といい、高麗からの渡来民族が多く住み着いていた。彼らが祖霊として祭祀したのが、後に神社として祀られ、社名に「コマ」が残ったと思われる。
●拝殿                         ●本殿
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また、かっては、この神社と同じ敷地内に「久宝寺観音院」が宮寺としてあり、この寺の創建は聖徳太子が建立された「久宝寺」に遡るが、戦国時代、松永弾正久秀の兵火に罹り、灰燼と化した。
●狛犬(なかなか風格のある狛犬です)     ●御神前
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幸い、聖徳太子自作と伝わる本尊の11面観音は難を逃れ伊賀の国に疎開したが、紆余曲折を経て、現在は同じ久宝寺町にある、念仏寺に安置されている。久宝寺観音院は1677年(寛文7年)再興されたが、明治初年の神仏分離により廃寺となった。
●境内社  厳島神社
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ー神社めぐりーより抜粋
※神社に着いた時に、ミゾレが降ってきました。空が黒くなり、いい写真が撮れませんでした。
by barakan1 | 2010-04-30 19:19 | 旅日記

八尾市内(新家幡宮~~渋川神社)探訪(2010.03.29)⑤顕証寺・・・

近松山 顕証寺(けんしょうじ)    八尾市久宝寺4-4-3
顕証寺は「久宝寺御坊」とも称し、本願寺第8世蓮如が布教活動拠点として、1470年(文明2年)廃寺になっていた聖徳太子の創建になる「久宝寺跡」に「西證寺」として建立した歴史を持つ。
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〔蓮如は1471年(文明3年)越前吉崎に移り、北陸の布教の拠点として「吉崎御坊」を建てており、非常に精力的な活動を行っているのには驚かされる。〕顕証寺は浄土真宗西本願寺別院で、歴代の住持は連枝(親鸞聖人の血筋)の格式をもち、河内十二坊の総支配をつとめている。
●」山門                            ●本堂
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顕証寺のある久宝寺寺内町は中世末、浄土真宗本願寺派などの寺院の境内に発達した町で、門徒の団結を図る為、この御坊を中心に周囲に二重の堀と土塀を廻らし、街路は碁盤の目のようになっていた。 この町では御坊が一切の支配権をもち、久宝寺城主安井氏がこの権利を委されていた。
by barakan1 | 2010-04-27 12:08 | 旅日記

八尾市内(新家幡宮~~渋川神社)探訪(2010.03.29)渋川天神社(渋川廃寺跡)・・・

渋川天神社 (渋川廃寺跡)   八尾市渋川町5-48
●神社正面(北) 奥JR大和路線
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祭神:素盞鳴命
    菅原道真公
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神社の南西の地は白鳳時代に渋川寺のあったところで、昭和十年ごろ国鉄の竜葉操車場を開設工事のとき、多数の単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦及び塔心礎が出土した。
●本殿、摂社
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また一説にはこの附近は物部守屋の別業の地でそこに渋川寺があったともいわれている。仏教崇拝抗争や古代の仏教を再検討すべき課題を提起している寺址である。  ~境内の能書より~
by barakan1 | 2010-04-25 11:50 | 旅日記

八尾市内(新家幡宮~~渋川神社)探訪(2010.03.29)③跡部神社・・・

跡部神社(あとべ)  式内社   八尾市亀井町2丁目4-5
●東向き、正面鳥居
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祭神 饒速日命(大阪府全志では 受鬘命、武内宿禰 とする)
   平成祭礼データには鬘受命なる神名は見える。
   天理市荒蒔町の勝手神社の祭神である。詳細不詳。
●境内拝殿・狛犬
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由緒
『旧事紀天神本紀』に見える物部氏降臨神話の船長が跡部首で、その祖は天津羽原命と記されるが、その遠祖饒速日命をまつるのではないかとされる。 『姓氏録』には摂津国神別に阿刀連の名があり、饒速日命の後とある。この地の産土神である。ー神南備にようこそーより抜粋
●社号標・拝殿・拝殿内部
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a0016431_18352227.jpg大阪府神社名鑑によれば、「当社は延喜式内の神社であるが、創建の年月および御祭神は詳らかでない。しかし此の地は古の跡部郷であり、阿刀連がその祖神を祀ったものであろうと伝えられている。明治五年四月に天照皇大神、伊奘冊命を合祀した。同年村社に列せられた。」

※亀井跡部にある。蘇我馬子が聖徳太子と共に、物部守屋をその阿都の館に攻めたとある阿都は、渋川を中心としたこの跡部あたりをさすものといわれる。その住地にあるこの跡部神社は、物部氏の一族阿刀氏の祖神饒速日命(にぎはやひのみこと)をまつっているもので式内社である。ーsiseki_bodyーより

※歴史のある神社の割りには、社叢はあまり大きくなく、片側はぽっかりと空間が開いている。チョット残念!!
by barakan1 | 2010-04-24 18:37 | 旅日記

八尾市内(新家幡宮~~渋川神社)探訪(2010.03.29)②新家天満宮・・・

新家(加美)天満宮     大阪市平野区加美南5-3-25
●正面鳥居
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由緒書
御祭神 菅原道真公(菅公・菅丞相・菅家)
      天照大神
末社   稲荷神社(御神号 橘大明神)
例祭  十月十七日  夏祭 七月二十日頃の祝休日
●社号標          ●手水舎              ●拝殿
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由緒 
当社の創建年月は不詳である。所伝によれば、この鎮座地は、御祭神の菅原道真公が左大臣藤原時平の陰謀讒言によって昌泰四年(901)、十六歳の醍醐天皇により右大臣・従二位の官位から太宰権師に左遷され[道真公没後二十年目の延喜二十三年(923年)、同じ醍醐天皇により右大臣に復され正二位を贈られた]、筑前(福岡県北西部)の太宰府に行かれる折。菅原家歴代の菩提寺道明寺の住職である叔母の覚寿尼に別れの挨拶に立ち寄られた帰りに平野川を船で下り休憩された所で、後年京都の北野天満宮の御分霊を勧請した場所とのことで、その社は「川べりの天神」と呼ばれて尊崇されていた。
●境内全景 (末社稲荷神社                   拝殿内部)
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時が移り明治五年(1872)「村社」に列せられ、明治三十九年(1906)公布の政令「神社合祀令」に従い、同四十一年、加美村大字鞍作の村社、菅原神社に合祀された。社殿はその後ほどなく自然倒壊したが、大木や石の大鳥居、灯籠等の残る境内地は保存されていた。
戦後の昭和二十四年(1949)四月に新しく造営された現社殿へ菅原神社から御祭神にお還りいただき、当時の所在地名。加美村新家町に因んで宗教法人「新家天満宮」という社名てで再建された。
●以前にあった狛犬?   ●三鞍用水樋門顕彰碑(旭神社にも同様のものが・・・)
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※末社社の稲荷神社の祭神が橘大明神、これは旭神社に同居する若宮八幡宮
(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2010-04-23 20:43 | 旅日記

八尾市内(新家幡宮~~渋川神社)探訪(2010.03.29)①コース概要・・・

新家幡宮~~渋川神社探訪
a0016431_19485910.jpg●顕証寺の桜


12時半自宅出発~新家天満宮~跡部神社~顕証寺(けんしょうじ)~許麻(こま)神社~渋川神社~自宅着17時半。走行距離20キロ、5時間の探訪でした。







●コース地図
※約③週間ほど前に探訪した場所です。
by barakan1 | 2010-04-23 20:06 | 旅日記

大阪市内(御館神社跡~つるのはし跡)探訪(2010-04-21)

彌栄神社御旅所~つるのはし跡を訪ねる。
●地図

■茨(いばら)稲荷神社・彌栄神社御旅所(御館神社跡)   大阪市生野区勝山北3
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御館神社は「いばらの神」と呼ばれていたと言う。『浪華百事談』によれば、仁徳天皇の高津宮の際の御弓場の址で、その時の南大門の外にあたる場所に鎮座、仁徳天皇を祭神としていた。
●境内鳥居・祠
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現在は弥栄(やえ)神社の御旅所になっているが、この神社の祭神は素戔嗚尊と仁徳天皇になっている。出雲の熊野大社を勧請したという説もあり、当初は牛頭天王社であった。
●祠内(茨稲荷大明神)       ●祠                  ●御館神社跡の碑
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猪甘津(ゐかいつ)の橋 (つるのはし跡)
「つるのはし」は、日本最古の橋として名高い「猪甘津の橋」の古跡とされています。日本書紀の仁徳天皇14年の条に「冬11月、猪甘の津に橋わたす。すなわちその処を号けて小橋という」と記されていて、これが我国での架橋の記録として最も古いものです。
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近代に入ってからは、明治7年旧平野川を深く掘り直した際に石橋に掛け替えられ、同32年国庫補助により欄干付・長さ7間(12.7メートル)幅1間(1.8メートル)の石橋に改修されました。その後、大正12年(1923)に鶴橋耕地整理組合の手によって新平野川が開削され、不要となった旧川筋は昭和15年(1940)に埋立てられて、つるのはしは廃橋となりました。
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この由緒ある橋の名を後の世に伝えるため、昭和27年(1952)ここに記念碑を建て、当時の親柱4本を保存しました。なお、このつるのはし跡公園は旧平野川の流路の上に位置しており、公園入口前の道路上につるのはしがありました。
◆猪甘津の橋を詠んだ歌
小野小町
忍ぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡り初めにし 猪甘津の橋 
●橋の親柱             ●小野小町の歌             ●案内板
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by barakan1 | 2010-04-21 16:20 | 旅日記

大阪市内(御幸森~彌栄神社etc)探訪(2010-03-27)②彌栄神社~胞衣塚・・・終

彌栄神社(やえいじんじゃ)  大阪市生野区桃谷二丁目16-22
●各入口鳥居( 西                南                 東 )
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祭 神
素戔嗚尊、仁徳天皇
摂 社
白玉稲荷神社、櫛名田毘売神社、福徳大明神
●境内
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文録年間(1592~96)に旧出雲国意宇郡の熊野坐神社より勧請されたと伝わる。もと牛頭天王社といわれて、スサノオノミコトだけが祀られていた旧木野村(このむら)の氏神であったが、明治五年(1872)に彌栄神社と改められ、その後、明治43年(1910)に旧岡村の御館神社(祭神は仁徳天皇)が合祀され、祭神は二柱となった。すぐ東側には仁徳天皇が狩りをしたという御幸森(天神社)もある。 ー彌栄神社説明看板ーより
●境内
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※この辺りは旧平野川が流れ、その土手沿いに平野街道が通り、この道に面して彌栄神社の鳥居があったという(東鳥居前道路付近)
●拝殿&狛犬
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※当地より南に御館神社が鎮座、「いばらの神」と呼ばれていたと言う。 『浪華百事談』によれば、仁徳天皇の高津宮の際の御弓場の址で、その時の南大門の外にあたる場所に鎮座、仁徳天皇を祭神としていたのを、大正二年に合祀した。
◇後日探訪します。
胞衣塚(えなづか)  東成区東小橋
比賣許曽神社(ひめこそじんじゃ)の直ぐ隣り「玉津3交差点」に面しあります。
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式内社比賣許曽神社(ひめこそじんじゃ)とゆかりの深い大小橋命(おおおばせのみこと)の胞衣(えな)を納めたところと伝えられる。後世この塚に植えられた柳が、子供の夜泣き封じに効能があると伝承され、俗に「よな塚」と呼ばれて人々から親しまれた。       ー東成区役所ー
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※胞衣とは「人間の胎盤」のことらしく、胞衣壺(えなつぼ)に入れて埋納する習慣があったそうです。
by barakan1 | 2010-04-20 14:57 | 旅日記

大阪市内(御幸森~彌栄神社etc)探訪(2010-03-27)①コース~御幸森天神宮・・・

a0016431_1741159.jpgコース説明


自宅~御幸森天神宮~彌栄神社~胞衣塚。徒歩6000歩、約3時間の探訪でした。






●コース図

御幸森天満宮     大阪市生野区桃谷3-10-5
●西入口
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祭神   仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命
摂社  菅原神社、御幸戎神社、稲荷神社
由緒
当地は昔の百済郷であり、猪飼野の生土神。仁徳天皇の行幸ありし御幸の森と言い、『社頭の略記』によれば、崩御後の反正天皇二年に社を建立し、仁徳天皇を祭ったとする。
少彦名命は京都五条天神社より、忍坂彦命はここより北側の清水谷の社よりお迎えした。
●参道・鳥居
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 『平成祭礼データの由緒』
当宮の創建年代は詳かではないが、伝によれば、今から千六百年程前、当地の南方の地に百済の人々が帰化し、我国に文学、建築、産業等の先進文化を伝えた。仁徳天皇はこれらの人々の状態を御見聞になるための道すがら、度々当地の森に御休憩された。その由縁により、この所を御幸の森と称するようになった。
●境内西から
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天皇崩御の後、この森に社殿を建立し天皇の御神霊を奉祀して御幸宮と称した。
年代は降って、平安時代中頃、全国に疫病が流行し人々は大いに恐れ苦しんだ。その時、社僧大蔵院行綱は当宮に病気平癒、厄除の神、少彦名命を勧請奉斎し、ひたすら疫病を祓う御祈祷を行なったところ、疫病は鎮まり、以後、当村の者は疫病にかかることはなかったと伝えられている。なお、この当時は天王天神社と称していた。
●境内東から
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次に、清水谷に地主の神、忍坂彦命を奉祀する天神社という社があった。ところが、元和元年、大坂夏の役の折り、社殿が兵火のために消失した。大阪城代松平忠明はその有り様を憂い、その御神霊を御幸宮に奉遷した。その際、祭田として百済川、中洲の地と燈明台一基を寄進し崇敬の誠心を表した。
明治維新となり神仏分離の制が敷かれたのを機に社号を御幸森天神宮と改称した。 以上
●拝殿(南向き)
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お姿
彌栄神社とはバス道ひとつ隔てて西側に鎮座、この道がかっては百済川だった。猪飼野は猪甘津と呼ばれ、 百済川には日本最初の橋が架けられたと言う。単なる飛び石とか丸木を渡したものではない橋と言うことだろう。  
ー神南備にようこそーより抜粋
●※難波津の歌(なにわづのうた)の碑
古代に百済から渡来し日本に論語や漢字を伝えた王仁博士が詠んだ歌。
古今和歌集の仮名序で「おほささきのみかどをそへたてまつれるうた」として紹介されている。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
応神天皇の死後、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と大雀命(おおさざきのみこと)が互いに譲り合ったため3年間空位となっていた皇位に大雀命が就き、仁徳天皇となった際にその治世の繁栄を願った歌と言われる。
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※平安時代、この歌(難波津の歌)とともに手習う人が初めに用いる歌が、
万葉集 作者未詳
巻16-・3807
安積(あさか)山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに
だったそうです。
●境内社(戎社・稲荷社)
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●遥拝所と仁徳天皇腰掛石
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★☆
17・18日と淡路島を回ってきました。超特急での探訪で30社以上回りました。どれだけフォローした説明をつけられるかわかりませんが・・・。(まで、未掲載の写真があるので、もう少しかかると思います??・・・。
by barakan1 | 2010-04-19 17:44 | 旅日記

大阪市内(大宮~大隅神社)探訪(2010.03.19)③大隅神社・・・終

大隅神社    大阪市東淀川区大桐5-14-81
●正面入口(南)
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祭神:応神天皇(おうじん) ・・八幡神社(大道村西脇)
別雷大神(わけいかずち)
天児屋根命(あめのこやね) ・  春日神社(大道村島頭)
市杵島姫神(いちきしまひめ)・ 厳島神社(中島村江口)
伊邪那美神(いざなみ) ・・・  伊邪那美神社(大道村別所)
天照皇大神(あまてらすめ) ・  江口の境内社
素盞鳴尊(すさのお) ・・・・  熊野大権現(大道村別所)
大山咋神(おおやまくい)
豊受毘売神(とようけひめ) ・  稲生神社(大道村東頭)
菅原道真公(すがわらみちざね) 天満神社(大道村今在家)、松山神社(中島村松の山)  明治年間に合祀。後に松山神社は旧に復す。
●鳥居・社号標              ●手水舎
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由緒
応神天皇を祭神とする八幡系でない珍しい神社。
神社庁:平成祭礼データCD(大隅神社略誌)から
当社の氏地は、もとの大隅島、即ち上中島にあたり、後の西成郡中島・大道の両村の範囲である。応神天皇二十二年(西暦二九一年)春三月、帝難波の地にみゆきしたまい、この大隅島に離宮を営んで宮居せられ、これを大隅宮と称した。
●境内拝殿
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その後安閑天皇(五二五年)秋九月、勅してここに牛を放牧せられた。後鳥羽天皇御悩の時、この地から黄牛の乳を薬料として献進したので、御平癒の後、乳牛牧の地名をたまわった。
●拝殿前狛犬(左右に5頭づつ並んでいます)
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応神天皇の崩御の後、里人帝の御徳をしたい、宮址に神祠を建てて、帝を奉祀したのが当社の起源であるといわれている。爾来当社はこの地の産土神として尊崇せられて来たが、一度淀川が氾濫した際、加茂明神の御神体が漂着して霊光を放った。里人は喜び迎えてこれを産土神祠に合祀したものと思われる。これより社名を賀茂神祠と改め、社殿を二つに分けて、一つには別雷大神を奉祀し、一つには従来の応神天皇の他に伊邪那美神・天照皇大神・素戔嗚尊・豊受毘売神・天児屋根命・大山咋命・菅原道真公の八柱の神を合祀しその名を伊邪那美神社外七座社と称した。即ち前記境内八座社である。
●拝殿・本殿
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昔は境内が広く、老杉古松繁茂して森厳な神域をなし、社殿もまた壮麗を極めたが、天文十八年(一五四九年)の江口合戦、さらに元亀・天正の騒乱を経て、慶長・元和の大阪の陣に至るまで、幾多の戦乱を経過する間に、当社も兵火に焼かれて頽廃し、多くの貴重な古記録や社宝も失われた。加うるに、元禄年間には神木が乱伐せられて、社頭荒涼の観を呈するに至ったが、宝永四年(一七〇七年)、宮寺曹洞宗大道寺の社僧大順これを嘆き、強く村人達の協力を得て漸く拝殿を再興した。その後文政十年(一八二七年)にはさらに本殿の補修が行なわれたが、その頃東西五十二間・南北六十三間(三二七六坪)あった境内地は、明治初年に行なわれた境内地の払下げによって、四囲ことごとく民有地となり、今はただ昔日の面影を留めるのみとなった。
●境内社  (稲荷社・天満社)
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明治四年、旧に復して応神天皇を主祭神とし社名も大隅神社と改められ、明治三十七年には幣殿を設け、拝殿を再興改築した。明治四十年六月二十日、大阪府告示第一八三号をもって神饌幣帛料供進社に指定せられた。 ー神南備にようこそーより抜粋

a0016431_15185595.jpg★大隅島『馬.船・常民』隼人と馬(森浩一氏)から抄
淀川の出口に、古代には大隅島というのがありました。ここが『日本書紀』による応神天皇の大隅宮があったところとなっています。
★大隅島・乳牛牧(ちちうしのまき)跡
味原牧(あじふのまき)とも呼ばれた乳牛牧は、律令制下、宮内省典薬寮所属の牧で、乳牛を飼育したことから乳牛牧と呼ばれました。後鳥羽天皇御悩の時、この地から黄牛の乳を薬料として献進するや、天皇が平癒したので、乳牛牧の地名を賜ったとも伝えられています。牧の住人は、牛を飼育し、牛乳や蘇、酪を貢納しました。また、古い牛を引き取るとともに、毎年新しい牝牛7頭と子牛7頭を京の典薬寮乳牛院に送りました。乳製品を食する習慣は、朝鮮半島より伝えられて古代貴族に始まりましたが、一般社会に広まることはなく、平安時代を過ぎると食習慣から消えてしまいました。室町時代に荘園化した乳牛牧は、守護・細川持賢が1442年に崇禅寺に寄進しました。乳牛牧から崇禅寺に納められた年貢に茶が含まれていた記録が、崇禅寺所蔵の日本最古の茶年貢目録に残されています。
ー「大阪あそ歩」ーより抜粋
by barakan1 | 2010-04-16 15:28 | 旅日記