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大阪市内(竹淵~樟本神社)探訪(2010.03.14)④赤阪神社・・・

赤阪神社  大阪市平野区長吉六反1-14-24
●神社正面鳥居
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御祭神
素盞嗚命尊・菅原道真公
赤坂神社(長吉村大字六反字北浦) 境内石碑より
本地(大字六反)は、古来丹北部に属し、もと土師郷の内にして赤坂村と呼べしが、元弘年間楠氏勤王の師を起し赤坂城に於て賊軍と縷々攻戦あるに及びその名稿の同一なるを憚りて六反村と改稿せるという。
●境内・拝殿
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隣接して渋川郡の六反村あり郡城を異にしてその名を同うす。故に所属郡名を冠して俗に丹北六反、渋川六反と呼び来りしに渋川六反は享保年間に戸数凡そ十七戸を有する部落なりしも後水害を憚りて暫次居を此の丹北六反に移して無人家たるに至りしかば明治二十年五月七日丹北六反即ち本地に之を合併せり。
●拝殿・拝殿内部・本殿
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赤坂神社は字北浦にあり、御祭神素盞嗚命尊・菅原道真公を祀れり、もと素盞嗚命尊のを祀れるのみなりしが、明治五年四月字飼田の素盞嗚命神社・天満神社・御神社の三社を合祀して祭神は今のごとく二座となり、かつ社名を赤坂神社と改められる。
※正面鳥居前で長原遺跡の発掘工事をやっていました。このあたりは縄文時代の遺跡が広範囲に、沢山あるところです。
by barakan1 | 2010-03-30 14:09 | 旅日記

大阪市内(竹淵~樟本神社)探訪(2010.03.14)③産土神社(うぶすなじんじゃ)・・・

産土神社(うぶすなじんじゃ)    大阪市平野区長吉六反1-14-24
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祭神  素盞鳴尊
創建は明らかではないが、もと牛頭天王社と称し素盞鳴尊を祀った。明治5年に産土神社(うぶすなじんじゃ)と改称し村社となった。
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旧社殿の棟札(屋根裏の柱に取り付け後世に記録を残す板札)に天保7年上棟の記述があったが、現在の社殿は老築化により昭和61年に建て替えられたものである。
※住宅に囲まれまったく遠くからは見えませんし、ちょっと、息苦しいくらいです。
でも、社殿は建てられて間がないのか、ピカピカです。
by barakan1 | 2010-03-29 20:18 | 旅日記

大阪市内(竹淵~樟本神社)探訪(2010.03.14)②竹淵神社(天照皇太神社)・・・

竹淵神社(天照皇太神社)   八尾市 竹渕 2丁目 154
●正面鳥居
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祭神
天照大御神
摂社 勝手明神、雨乞神社、宮池大地主神社
●境内・社号標
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由緒  『竹淵神社縁起』から
上古、神武天皇日向国より岩船の山へ越給ふ時、当国長脛彦おそい奉りしに、当郷の大竹藪の中へ入せたまひ、しはらく皇居成給ふを、ながすね彦が目にハふかき淵の中へ入給ふ神変と恐奉りて逃失ける、
●境内・拝殿と摂社
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其時天皇楯をならへて猛獣を防ぎ給ふ所を、今もたてつ表といひて此村の東にあり、天皇上らせ給ふ道を神武海道といふハ、此時よりの名今に残れり、皇居の跡に天照皇太神宮をまつりて、往昔当郷の面々供奉し奉りしを、宮座と号し、明応年中(1492-)までは三十六人在しと申伝へし。
●摂社群(子安・勝手大明神、 宮池主大神、 八大竜王・水速女命)
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(中略) 又土俗の説に、天皇藪へ入せ給ふ時、士卒安気せしより末代の人の行てやすらふを、藪入と云伝へしとハ、此村ニ覚ける諺也。
『和名抄』河内国渋川郡竹淵 多加不知 とある。
●摂社群(水神白光龍王大神、 盛隆大明神)
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お姿  数十年前までは、境内を取り囲むように周濠があり、龍神のすむ宮池と恐れられていた。市街化が進み、碧水が汚水に変わっていき、昭和44年、周濠を埋めた。貞享四年(1687)、村の西から当地に遷座しているようで、竹藪は見あたらない。ー神南備にようこそーより抜粋
◆境内石碑
●境内南から見る
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『當神社は往古より広大なる神域を有し6000余坪の周濠にて常に碧水を湛え老い松鬱蒼として神嚴に満ちたし夏は水鳥が○の上に漂ひ浮草の下には魚族がおよぎ晴れたる夜は星水面に映じ蛍が光を競そう時代は濠の美を以って神域の尊貴を表現せられた。口傳に依れば此の周濠(宮池)には猛き龍神が住みかつて魚釣人が急死せしこと有り龍神の神慮にふれた所業と傳へられ氏子や近郷の者はおそれをなして居た。
●宮池(旧周濠の一部)
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星移り歳重ね此の神社の周辺は人家工場が密集して汚水などが流れ込み昔日の面影を失うに至った。そこで氏子相図り宮池の一部を埋めて境内を広くし植樹などをして神嚴を復元する事に決し先つ宮池の主即ち龍神を宮池大地主大神(みやいけおおとこぬしおおかみ)と構え新宮を造営して鎮め祀る次第である。
昭和四十四年十月吉日』
by barakan1 | 2010-03-28 14:32 | 旅日記

大阪市内(竹淵~樟本神社)探訪(2010.03.14)①コース概要・・・

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■14時半より、余りによい天気の為平野方面の探訪に出掛ける。


バスにて長吉住宅前~竹渕神社~産土神社~赤坂神社~(木の本)樟本神社~(南木の本)樟本神社~地下鉄長吉~昭和町着19時半。
歩数9500歩。




■コース地図

by barakan1 | 2010-03-27 22:36 | 旅日記

大阪市内(生野八坂神社~横野神社跡)探訪(2010.03.13)⑥横野神社跡・・・終

■横野神社跡(式内社)    大阪市生野区巽西3丁目9
●付近風景(住宅・工場でいっぱいです)
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延喜式内社の神社でもとは印色宮(いんじのみや)と呼ばれていた。 仁徳十三年に、横野堤が築かれたとの記事が『日本書紀』に見える。横野堤の守護神であったのかも知れない。
●正面より見る(西→)
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『式内社調査報告』に伝説が記載されている。
昔、印地宮のあたりに、狭山池から流れる川があり、ある時大雨が降ってその大水で上流から御幣の入った湯桶が流れてき、その中に「式内横野神社」と書かれた神符があり、近隣の村で奪い合ったが、結局流れ着いた場所に小祠を建立したと云う。 印地宮と云う名と狭山池を造ったとされる印色入日子命の名が似ていたからであろう。
なお、他の地域の人々は「ねんじの宮」と呼んだ。ねじれる・こじれるの意である。ー神南備にようこそーより抜粋
●神社跡
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山小路(史跡 山小路案内板ーより抜粋)
生野区巽南一丁目一番の界隈は、河内國渋川郡四条村(元桑原庄)字山小路である。山小路は山号も小丘山という定願寺の、開基正長に係る記録巻物にある通り、自然堤防である平野川右岸提より、東へ分岐するやく一丁程の堤と、その堤に付随する堤の内側(南側)の一帯をいう。
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この山小路の堤が、日本書紀に仁徳天皇の十三年(326)に築かれたとある「横野堤)である。
川島村の村名が島というがごとく、山小路より北は玉造江という難波の入江であった。横野堤である山小路の堤は玉造江からの入り汐に、両手を広げて立ちはだかり、山小路にあったと歴史に名高い古社「横野神社」を守ったのである。まさに神社と堤が一体となった古い携帯をなしている。
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明治に至って、町村制施行に伴う巽神社への合祀には、山小路の村社天神社である横野神社から御霊を巽神社に写したが、今日、神社跡には「横野神社跡」の碑が立つのみである。
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万葉歌碑
巻10-1825
むらさきの根延(ば)ふ横野の春野には君を懸けつつ鴬鳴くも

藤原家隆
紫の根はふ横野の春駒は草のゆかりになつくなりけり

山家集 西行法師
すみれ咲く横野の茅花(つばな)咲きぬれば思ひ思ひに人通ふなり

続古今和歌集 藤原光俊
霜枯れの横野の堤風さえて入汐遠く千鳥鳴くなり

※むらさきの根延(ば)ふ横野も現在はこのとおりです。川の流れも入江もなく、一片の痕跡もなく、唯々家が詰まっています。
by barakan1 | 2010-03-26 19:20 | 旅日記

大阪市内(生野八坂神社~横野神社跡)探訪(2010.03.13)⑤田島神社・・・

田島神社   大阪市生野区田島三丁目五番
●神社入口鳥居
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祭神
少彦名命 配祀 事代主命、八幡大神、菅原大神
摂社 伊邪那美神社、素盞嗚尊神社
●社号標・参道
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『平成祭礼データの由緒』
当社所蔵の社記録等は明治初期まで伝わっていたがほとんど散逸し、御創建年月等不詳である。ただ遺物等により徴すれば、現存最古の石灯篭に「貞亨元甲子歳(西暦一六八四年)」とあり、少なくともこれ以前から神社としての態を成していたことが伺われる。
●拝殿
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又社宝の後陽成天皇(安土・桃山時代)御宸筆の軸や神額などには、現主祭神少彦名命の御名が見えず『南無天満大自在天神』や『天満宮』、『天神社』とあり、その裏書や少彦名命の御樋代には「寛政四壬子年(一七九二年)」とある事等からから、寛政四年までは菅原大神を主祭神に、事代主命、八幡大神を相殿として『天満宮』と称していたが、この年少彦名命を勧請して『天神社』と称したものであろう。
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後、明治四十二年四月、現社号に改称したが、この頃までは境内地も広大で、裏山には千数百年を経た古松、数百年の老杉が繁茂し昼尚暗く狐や狸が棲息する程であった。
●狛犬・手水舎・御神牛
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【流造】創建の年代も審ではないが、明治二十七年、桧皮葺屋根、昭和三十五年、銅板葺屋根に葺替え修築された。
●摂社
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御大典を記念して本殿屋根銅板葺替、幣・拝殿改築、末社二社新築、石鳥居新築、銅製御神牛及び石玉垣が新設された。
以上
by barakan1 | 2010-03-25 13:13 | 旅日記

大阪市内(生野八坂神社~横野神社跡)探訪(2010.03.13)④舎利尊勝寺(しゃりそんしょうじ)・・・

南岳山 舎利尊勝寺(しゃりそんしょうじ)   大阪市生野区舎利寺一丁目2-36
本尊は釈迦如来
●山門
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この寺院がある町名にもなっている舎利寺は正しくは、南岳山舎利尊勝寺という。その縁起は寺伝によれば、約1400年前、聖徳太子の創建と伝わる。
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この地は生野長者の旧地と言われ、長者に言葉の不自由な子が生まれたが、四天王寺を創建するために来ていた聖徳太子がこのことを知り、その原因を太子が前世で仏舎利3顆を与えたためと云い、それを吐くことを命じたところ、長者の子供は3つの仏舎利を吐き出し、言葉は普通に話せるようになったという。
●山門の扁額は木庵の揮毫     ●魚板(ぎょばん かいはん)、又は飯梛(はんぽう)
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太子は3つの仏舎利のうち、1つを法隆寺に、1つを四天王寺に、残った1つを自筆の御影と共にの長者に付与された。大変喜んだ長者が屋敷内に堂を建て、仏舎利を奉ったのが、舎利尊勝寺の始まりと言われる。
●本堂
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当山の中世の寺歴は不詳であるが、戦国時代末期の1547年(天文16年)両細川軍がこの付近で対決した、いわゆる舎利寺合戦で荒廃した。その後、1672年(寛文12年)徳川家綱が黄檗山万福寺の2代木庵に当地を与え、復興させた。
●西国三十三カ所観音霊場の一部
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境内には、幕末の1852年(嘉永5年)に32代住職幸道により、西国三十三カ所観音霊場が再現されている 。ー大阪発見 寺社巡りーより抜粋
by barakan1 | 2010-03-24 14:08 | 旅日記

大阪市内(生野八坂神社~横野神社跡)探訪(2010.03.13)③生野神社・・・

生野神社   大阪市生野区舎利寺1-2-27
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祭神
素盞嗚命、大國主命
由緒
天平時代の創建と言う。奈良時代である。
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『平成祭礼データの由緒』
当社は天平七亥年九月八日の勧請にして、元は八阪神社と称せられたが、明治五年、村社に列し、明治四十二年に社号を素盞嗚尊神社と改称し、同四十四年五月、会計適用の指定を受け、大正十五年十月十七日、神饌幣帛料供進の指定を受けた。
昭和二十二年四月一日付にて生野神社と社号を改称す。 以上
ー神南備にようこそーより抜粋
by barakan1 | 2010-03-24 13:54 | 旅日記

大阪市内(生野八坂神社~横野神社跡)探訪(2010.03.13)②生野八坂神社・・・

生野八坂神社   大阪市生野区生野東4-7-11
●東向き、神社正面鳥居
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祭神
速素盞嗚尊
摂社 大楠稲荷神社、三寶荒神、歓喜社「諾冉二神」
●拝殿         ●歓喜社
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由緒
元禄二年(1689年)勧請。
『大阪府神社史資料』によれば、昔、蛙岩ありと言う。後に奈良の元興寺極楽坊に遷されたと言う。 踊る巫女の世界南都 元興寺に蛙石が掲載されています。
●摂社 歓喜社             大楠稲荷神社              三寶荒神
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『平成祭礼データの由緒』
当社は東成郡誌第三編、生野村第四神社の項によれば「素盞嗚尊神社、大字林寺字林に鎮座せり、祭神素盞嗚尊、元禄二年の勧請なり、社格村社、境内地百参拾坪、民有地第二種に属す。」とあり、境内の鳥居には「文化五戌辰年九月吉日当村氏子若中」 とあり、狗犬の台座には「天保十五年」の金石文を有し、遠く生野村の昔より素盞嗚尊を奉斉し、土地台帳にも「村社地」として境内八畝三歩が登載せられ、所謂「生野の祇園様」として創祀されたのであるが、一旦滄桑の変に遭遇し、明治四十一年八月、天王寺区の河堀稲生神社に委託され、境内地も「河堀稲生神社御旅所」となったのであるが、大東亜戦争の戦禍以後荒廃殊に甚だしく、日本民俗伝統の美風たる敬神崇祖、報本反始の良俗破壊を恐れたる氏子有志は幾度か復興御造営の儀を重ね全氏子の連判をも得て天王寺区の河堀稲生神社と交渉の結果遂に円満なる協議成立して「生野八坂神社」の復興御造営が完成されたのである。 以上
ー神南備にようこそーより抜粋
by barakan1 | 2010-03-23 23:05 | 旅日記

大阪市内(生野八坂神社~横野神社跡)探訪(2010.03.13)①コース概要・・・

■大阪市内(生野八坂神社~横野神社跡)探訪
座摩神社に咲くミツマタの花)
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●コース概要(15時出発)
生野八坂神社~生野神社~舎利尊勝寺~田島神社~と探訪。横野神社跡もやっと発見、目標地は全て回れた。自宅着は19時。10400歩。





■コース地図

by barakan1 | 2010-03-23 22:55 | 旅日記