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桜井市(出雲)~榛原町(戒長寺)探訪(2010.02.24)⑤玉立橋~戒長寺・・・1

玉立橋~戒長寺
●額井岳(812.6m)  玉立橋東詰より眺める
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大和富士とも呼ばれ富士山のようにすそ野を綺麗にひろげていで、遠目に見て美しく直ぐに分かります。榛原町の北にそびえています。
●戒場山(戎長寺門前の村落)風景
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戒長寺(かいちょうじ)真言宗御室派、   奈良県宇陀市榛原区戒場386
●戒長寺参道入口
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本尊;薬師如来
国道165号線の榛原駅と室生口大野駅間のバス停「山辺」から更に北へ、少し急な山道を2キロ辿って行くと少し開けた村落で、急な石段を上がった標高600mの高台に「戒長寺(かいちょうじ)」があります。
●参道石段・鐘楼門
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寺伝では、第33代用明天皇の勅願により息子の聖徳太子が建立し、後に弘法大師空海が修業した霊場で、俗に戒場薬師と称する古刹です。
●鐘楼門とお葉付き銀杏
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藤原時代には地方の戒律道場として隆盛を極めたお寺で、9体の藤原仏を伝来していますが今は少し寂れ、現在の本堂、庫裏、鐘楼門等は、1864年(元治元年)頃の再建です。
●本堂
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寺の裏山を薬師山と云い、また、寺域周辺に護摩山、大門、堂阪等の小字が残り往時の隆盛が偲ばれます。ー奈良観光ーより抜粋
(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2010-02-28 17:21 | 旅日記

桜井市(出雲)~榛原町(戒長寺)探訪(2010.02.24)④墨坂(すみさか)伝承地・・・

「 墨坂 」 伝承地   奈良県宇陀市榛原区あかね台1丁目2-16
●3度目の探索にて、ようやく発見できました。ちょっと案内か何かがあればと思いました・・・。
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a0016431_14393092.jpg日本書紀によれば、神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのにわ)を築かれ、天皇みづから皇祖天神を祭祀され「この地を上小野榛原(かみつおのはりはら)下小野榛原(しもつおのはりはら)という」とある。その下小野榛原が即ち墨坂の地である。現在は西峠地区にあたる。

神武天皇の軍が大和菟田に入られた時この墨坂において賊軍がいこり炭(山焼きの意)をもって防戦したため、天皇の軍は苦戦し菟田川を堰き止め消火して進軍した所でもある。


墨坂伝承地碑と伊勢本街道
古代の墨坂と思われる場所に「墨坂伝承地」と刻まれた石標がぽつんと建っている。辺りを見回すと伊勢街道と書かれた小さな標柱があり、何とか昔の面影を残していた。
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◆万葉の住坂もこの地と言われている。

柿本人麻呂の妻
巻04―0504
君が家(へ)に吾(あ)が住坂の家道をも吾(あれ)は忘らじ命死なずは 

※近くにある、宇陀市榛原区萩原榛原小学校のグラウド脇に歌碑がある。



●また、墨坂伝承地碑のすぐ近くに室生山第八十八ヶ所霊場がありました。
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by barakan1 | 2010-02-27 14:52 | 旅日記

桜井市(出雲)~榛原町(戒長寺)探訪(2010.02.24)③但馬皇女万葉歌碑・・・

万葉歌碑(但馬皇女)   桜井市吉隠柳口すぐ前の廃小学校内
和銅元年(はじめのとし)歳次戊申(つちのえさる)、
但馬皇女の薨(すぎたま)へる後、穂積皇子の冬日雪落(ゆきのふるひ)御墓を遥望(みさ)けて、悲傷流涕(かなしみ)よみませる御歌一首
巻02-0203 
降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(ゐかひ)の岡の寒からまくに
※猪飼の岡の所在については不明とされている。
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a0016431_1540916.jpg但馬の皇女は太政大臣武市皇子の妃であったが、いつの頃からか穂積皇子を恋する身となった。
この許されざる恋は、たちまち世の知る所となったが、それでも但馬皇女はこれまで経験したこともない朝の川を渡って穂積皇子に逢おうとする。
やがて悲しい恋に終焉が訪れる。

和銅元年(708)の但馬皇女の死である。
その後、万葉集に登場するのが前掲の穂積皇子の歌である。
※但馬皇女の、高市皇子の宮に在せる時、
穂積皇子に竊(しぬ)び接(あ)ひたまひし事既形(あらは)れて後によみませる御歌一首

巻02-0116 
人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み生ける世に未だ渡らぬ朝川渡る
by barakan1 | 2010-02-26 15:51 | 旅日記

桜井市(出雲)~榛原町(戒長寺)探訪(2010.02.24)②野見宿禰塚跡・・・

野見宿禰塚跡  桜井市出雲
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桜井市の田園の畦道に碑「野見宿禰塚跡」が建っています。夏場にはホタルが飛び交うということです。野見宿禰は天穂日命の末裔で、国技相撲の開祖、埴輪起源説話の土師連(はじノむらじ)の祖、菅原道真大江朝臣の先祖です。
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明治16年まで直径20m以上の塚と五輪塔(十二柱神社へ移す)がここにあったがその後、取り壊され、塚の中にあった朱を初瀬川に捨てたら三日三晩川が赤く染まったそうです。
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塚からは、親子勾玉(子持勾玉)や埴輪、土器等が出土したと云われています。また昭和42年には縄文土器や弥生式土器、須恵器などが出土しているため、縄文の時代から人々が住んでいたと推察されるのです。
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※相撲は、垂仁天皇の時代、「當麻蹶速(たいまのけはや)」と「出雲の野見宿禰」が初めて天覧相撲をしたのが始まりといわれています。
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by barakan1 | 2010-02-25 21:23 | 旅日記

桜井市(出雲)~榛原町(戒長寺)探訪(2010.02.24)①コース概要・・・

墨阪神社より見た額井岳
a0016431_20512459.jpg■桜井~榛原町探訪
自宅発7時45分~桜井(出雲・野見宿禰塚跡)~西峠(墨坂伝承地碑)~額井(十八神社)~額井(山部赤人墓)~戎場(戎長寺)~鳥見山~吉隠(小学校万葉歌碑)~165号線~柏原~阿倍野自宅着15時半。走行距離130Km、歩数3000歩でした。


■探訪コース

by barakan1 | 2010-02-25 21:11 | 旅日記

大阪城梅園見頃です(2010.02.23)観梅に行きました・・・

■大阪城梅園
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大伴宿禰百代
巻03-0392 
ぬば玉のその夜の梅を手(た)忘れて折らず来にけり思ひしものを
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太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌
筑前守山上大夫
巻05-0818
春さればまづ咲くやどの梅の花独り見つつや春日暮らさむ
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詠人知らず
10-1857
年のはに梅は咲けどもうつせみの世の人我れし春なかりけり
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市原王
巻20-4500
梅の花香をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ
※万葉集では、梅の花は花の中で一番詠まれているのではないでしょうか!!それだけ日本人には古くから馴染みの深い花だったのでしょう!!
大阪城の梅は、今週あたりが最高の見頃ではないでしょうか!!是非お出かけください!!
by barakan1 | 2010-02-23 23:32 | 旅日記

黄土輝く「住吉の岸」探訪(2010.01.30)黄土発見の地・・・・

■『黄土発見の地』       大阪市阿倍野区帝塚山1丁目17
古代黄土(はにふ)染め復元の研究している金子 晋氏が、万葉歌の住吉を詠んだ歌に数多く出てくる『黄土(はにふ)』はどの辺りの土で染められた『黄土(はにふ)染め』であったのだろうかと、探し歩き帝塚山のこの地でやっと見つけたとのこと。この土で黄土染めは古代から甦ったように再現がなされたという。
●アベノ~チンチン電車で姫松、そこから歩きました。アベノ神社の南の参道の入口辺りになります。
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清江娘子(すみのえのをとめ)
巻01-0069
草枕旅行く君と知らませば岸の埴生(はにふ)ににほはさましを
この歌は、「長皇子」に送った歌で、「長皇子の御歌」は、この歌の返歌になる
【通釈】ご旅行中のあなたさまと存じておりましたなら、断崖の赤土であなたさまの魂を染めてさしあげましたのに。※岸の黄土(埴生) 断崖の赤土。きめの細かい黄赤色の粘土。瓦・陶器の原料。また、上代には衣にすりつけて模様を現すのにも用いた。赤や黄に発色する物質は霊力を持つと考えられた。
長皇子
巻01-0065
あられ打つあられ松原住吉の弟日(おとひ)娘(おとめ)と見れど飽かぬかも
●大阪府営住宅西側(斜面)
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◆車持千年
巻06-0932
白波の千重に来寄する住吉の岸の埴生ににほひて行かな
◆阿倍豊継
巻6-1002   
馬の歩み抑へ留めよ住吉の岸の埴生ににほひて行かむ
◆作者未詳
巻7-1148
馬並(な)めて今日わが見つる住吉の岸の黄土(はにふ)を万代(よろずよ)に見む 
◆作者未詳 
巻7-1146                 
めづらしき人を我家(わぎへ)に住吉(すみのえ)の岸の黄土を見むよしもがも 
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※万葉歌によく出てくる岸の埴生を是非見たいと思っていましたが、なかなか場所を見つけられなかったのですが、今回ヤット探し当てることが出来ました。想像通りと言いますか、やはり現場は土がそのまま露出しているわけもなく、綺麗に護岸工事というか、崩落防止の工事がなされていました。以前の写真で写っている女竹の叢もなく、草も枯れたベロンとした斜めの土壁となっていました。案内板があるわけでなく、由来を知らなければ誰も『黄土発見の地』などと思う人はいないでしょうね。でも、崖(土or草壁)だけでも残っただけラッキーかもしれません。
□地図
                
by barakan1 | 2010-02-13 15:00 | 旅日記

音に聞く「高師の浜松が根」コース探訪(2010.01.27)⑧北畠顕家供養塔・・・終

北畠顕家供養塔
●石津川・太陽橋
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石津太神社前の紀州街道を南進して太陽橋を渡った所に南北朝時代、「石津河原の戦い」で、戦死した南朝の忠臣、北畠顕家の供養塔があります。
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ここは昔から古跡「行家松」として知られており源頼朝の伯父,新宮十郎行家の墓と伝えられて来ました。行家は義経に味方して頼朝に泉州で殺されたとも、京都の赤井河原で斬られたともいわれている人物で、供養塔の側にある供養墓碑の表面には南無阿弥陀仏と彫られ、側面には「正徳三癸巳蔵建之」とあり、背面に行家の名が彫られています。しかし、行家の斬られた場所も泉州の貝塚とも山崎の赤井河原ともいわれるのと同じように、北畠顕家の戦死の場所も、大阪阿倍野とも石津河原の二説があり、これらの二つの説の決定的な答えは未だ不明です。ただ、この地で「石津河原の戦い」が行われ、その戦いにまつわる伝承や怪談、昔話が数多く石津には伝わっており、こんにちでは、顕家の戦死は石津ヶ原の地とされています。
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※北畠顕家(きたばたけ あきいえ)は南北朝時代の南朝方の公卿・武将で、父は北畠親房。足利尊氏を九州に敗走させた功により鎮守府大将軍となり建武4年・延元2年各地を転戦。翌年「石津河原の戦い」で北朝方の高師直軍と戦い討死しました。一説では敗戦後、大阪阿倍野で死亡したともいわれています。
by barakan1 | 2010-02-12 13:47 | 旅日記

音に聞く「高師の浜松が根」コース探訪(2010.01.27)⑦石津(いしづ)神社・・・

石津(いしづ)神社  式内社   大阪府堺市石津町1-15-21
●神社正面
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祭神
八重事代主神、大己貴神、天穗日神
合祀 譽田別神、伊邪那美神、白山比賣神、水分神、高野神、高オカ神
摂社
宿祢神社「野見宿禰」、天満宮「菅原道眞」
●境内参道、拝殿
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由緒
大島郡の式内社石津太神社一座とあり、当社と石津太神社とが論社として、定まっていない。『泉州志』は在下石津村とし、当社を記載していない。 『大日本地名辞書』では逆に当社を式内として、下石津を記していない。
●拝殿・御神木(楠)
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石津村が上下に分離した際、一方に本社、もう一方にお旅所などがあったのを、それぞれ氏神とした事によるのかも知れない。 両社とも最古の笑姿神の降臨の地との石碑が立っている。笑姿、エミス。 当社は八重事代主神を戎神としている。五色の宝石を携えて降臨したので石津と名付けたと言う。孝昭天皇七年、勅願にて当社を創祀とする。天穂日命の十四世孫野見宿禰を神主としたとの由緒。
ー神南備にようこそーより抜粋
●拝殿         ●拝殿内部                  ●本殿
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『平成祭礼データ』
当宮の起源は古く、人皇五代孝昭天皇(西暦前四七五年)の御宇七年八月十日、勅願により創建されたと伝えている。当宮は延喜式神名帳にも見られる日本最古の戎神の宮として広大無辺の御神徳を垂れ給い、石津の地はもとより付近各地の人々の心の拠り処として篤い崇敬を集めております。
●手水舎         ●御神木           ●社号標
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社伝を抜粋しますと、往古、事代主神、此地に降臨のとき五色の神石を携え来りて此に置き給う、故に石津と名づく。人皇十一代垂仁天皇の御宇、天穂日命十四世孫、野見宿祢を当宮の神主と定め給う。仁徳天皇、石津に行幸あり、祈年穀の祭には毎年官幣使を立て給う。孝徳天皇、白雉三年(西暦六五二)に当宮に行幸ましましてこの時、御手洗川に御鏡を落とし給う。是れに依りて御手洗川を益鏡の小川という。
●宿祢神社「野見宿禰」、天満宮「菅原道眞」
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(石津川)孝謙天皇、天平勝宝元年(西暦七四九)に行幸し給い同五年春正月、神主紀伊守を内裏に召して禄を給う。同天平宝字元年夏五月、紀伊守に藤原朝臣の姓を給いて従三位大納言を授けられ、河内の狭山・野田の二村を神領とせられる。当時は社頭も広く、新堂の岸を西にして、それより八町四方に及ぶ。大社と云えることは、柱は太く板は厚く造り、社頭は巍々とし殿宇は厳然として広大結構類いなく、出雲大社に次ぐ御社なればなるべし。その後平火の為に社殿悉く烏有に帰し、広大なる神領も失われ、後、漸次建営せり。後醍醐天皇行幸し給いて奉幣し給い、その上、神官に冠、及び沓を賜る。
●26号線袴橋より、神社全景
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元禄十年(西暦一六九七)征夷大将軍、徳川綱吉公より神田八石九斗余の貢米を免ぜられ朱印地を賜り、河内四郡及び堺の付近は悉くその氏子なりき。桜町天皇の寛保三年(西暦一七四三)飛騨守石津連、陸野茂基を従六位下に叙せらる。以上のように朝廷武家の尊崇が篤く、これは偏に御神威の重きによるものであります。
以上
by barakan1 | 2010-02-10 20:22 | 旅日記

音に聞く「高師の浜松が根」コース探訪(2010.01.27)⑥石津太(いわつた)神社・・・

石津太(いわつた)神社  式内社   大阪府堺市浜寺石津町中4-12-7
●神社参道(一の鳥居)
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祭神 蛭子命、天穗日命 相殿 八重事代主命
配祀 天照大神
合祀 建御名方富命 摂社
白蛇社「白蛇の御靈」、八幡神社「譽田別命」、磐山稲荷神社「倉稻魂命」
●神社正面(二の鳥居)
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由緒
大島郡の式内社石津太神社一座とあり、当社と石津神社とが論社として、定まっていない。『泉州志』は在下石津村とし、『大日本地名辞書』では逆に上石津神社を式内としている。
●拝殿(入母屋造軒唐破風付)左建御名方富命          右本社
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同一敷地内に鎮座していた一つの神社であったが、村が上下に分離した際、それぞれ氏神として分けたのかも知れない。なにせ昔の神社の敷地は広大だった。聖神社と葛葉稲荷の如し。境内の由緒書きには、往時、境域は八町四方を有し、七堂伽藍、舞楽殿、文庫、楼門等で壮麗を極めていたと記す。
●境内全景
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両社とも最古の笑姿神の降臨の地との石碑が立っている。笑姿、エミス。 当社は蛭子神と八重事代主神を戎神として並び祀っているが、主祭神は蛭子神のようだ。
●手水舎                        ●八幡神社
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蛭子神は天磐楠船に乗せて、順風に放ち棄てた所、船は漂って当地へ漂着。この時、五色の神石を置いたので、石津と名付けた。船の着いた所を磐山と言う。
●磐山稲荷神社        ●戎神腰かけ石               ●白蛇社
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天穂日命は石津連の祖で、子孫は当社と石津神社の神主であったが、明治以降退転。
ー神南備にようこそーより抜粋
■『平成祭礼データ』
延喜式内社にして、我が国最古の戎社と称せられる当社は、伊奘諾命、伊奘册命夫婦となり、蛭子命をお生みになられたが、命三才に成られても尚、立ち給ふこと能はざりしかば、天磐樟船に乗せて順風に放ち棄て給ひしに、船は波に従い飄々として海岸に漂着し命は其の携へ来りし五色の神石をここに置き給い、此の地を石津といい、其の船の着きし所を石津の磐山という。後遥に年を経て、五代孝照天皇七年八月十日初めて、宮柱太しく建て給ひて、蛭子命を祀り更に、八重事代主命、天穂日命を合祀する。
●五色の石
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平安朝以後、朝廷の御幸幾度かあり、神階も加増せられ、境内は八町四方を有し、社殿は甍を並べる壮観さを呈していたが、元和年間以後数度の兵火に罹り社殿は悉く烏有に帰した。のちに、豊太閤は大阪城築城に際し、当社を裏鬼門の鎮守神として崇敬し、木村重成は社殿復興のために黄金金若干を寄進したと伝える。全国に崇敬者あり、明和六年、江戸湯島天神へ、同年八月に坐摩神社で出開帳し、又、前年には神札頒布について、西宮神社との係争が和解したという記あり。明治四十一年十二月諏訪神社を合祀する。
by barakan1 | 2010-02-08 19:09 | 旅日記