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等乃伎(とのき)神社~取石(とろし)池跡探訪(2010.01.20)④取石池(とろしいけ)跡・・・終

取石池(とろしいけ)跡   高石市取石6丁目
●A 黄金塚古墳から南を見る              (南西方向、取石池があった辺り)
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高石市取石6丁目にあった取石池は「妹が手を取石(とろし)の池の波の間ゆ鳥が音異(け)に鳴く秋過ぎぬらし」と万葉集で詠まれた歌が有名である。
●B 取石池辺りの風景(イメージ) (藪池辺りの風景)
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また、神亀元年(724年)10月21日、聖武天皇が「紀伊の国より和泉国所石頓宮に至る」と、続日本書紀に記されている。
●C
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西に大阪湾を望む取石池一帯は、眺望がよく旅先の仮御所が営まれるにふさわしい地形であり、この歌もその宿泊時に詠まれた可能性が高い。
●D
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取石池は昭和16年に、食糧増産の為、水田化され姿を消した。
●E
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万葉集
巻10-2166 詠み人知らず
妹が手を取石(とろし)の池の波の間ゆ鳥が音(ね)異(け)に鳴く秋過ぎぬらし

写真撮影方向図
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※取石池が無くなったのは残念ですが、6丁目の東側に格好の場所がありました。藪池・鶴田池と言い大きさは取石池に比すべくもありませんが、イメージはできると思います。万葉の昔に帰り暫し、佇んで眺めてきました。
by barakan1 | 2010-01-31 14:41 | 旅日記

等乃伎(とのき)神社~取石(とろし)池跡探訪(2010.01.20)③和泉黄金塚古墳・・・

和泉黄金塚古墳  大阪府和泉市上代町
●A方向より見る
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信太山丘陵先端に位置する二段築成と推定される墳丘をもつ前方後円墳である。
●B方向より見る
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大きさは、全長約94メートル、後円部は直径約60メートル・高さ約9メートル、前方部は推定幅約42メートル、高さ約6.5メートルである。
●C方向より見つ
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●D方向より見る
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古墳時代前期末(4世紀後半頃)の築造で、後円部の粘土槨に木製棺の埋葬施設が3つ平行に並んでいた。
●E方向より見る  (左側上方、黄金塚古墳)
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中央槨の棺外から出土した画文帯四神四獣鏡には、景初三年の銘があったことから、魏志倭人伝における邪馬台国の卑弥呼へ魏の皇帝から銅鏡百枚を贈ったとの記述との関連性が指摘されている。
●F方向から見る (後円墳上の黄金塚の碑)
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2008年3月28日に国史跡に指定される。
写真撮影方向図
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
by barakan1 | 2010-01-31 00:42 | 旅日記

等乃伎(とのき)神社~取石(とろし)池跡探訪(2010.01.20)②等乃伎(とのき)神社・・・

等乃伎(とのき)神社   大阪府高石市取石取石2-14-48
●正面一の鳥居
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祭神
天児屋根命
相殿神 大歳大神、壷大神、菅原道真公、誉田別命
境内社 宇賀之御魂神、天御中主神
●一の鳥居前(狛犬)
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「延喜式内社」
『続日本紀』天平勝宝4年(752)の条に「中臣殿来連竹田売」と記載されています。ここにみえる中臣氏の一族である殿来連が祖先神である天児屋根命を当社に奉祀し、また、その年に太政大臣・藤原武智麻呂、その子の大納言・恵美押勝(藤原中麻呂)が相次いでこの里に来られ居住されたと伝えられています。このように、当神社は常に藤原氏一族(中臣氏)と由縁がありました。
●一の鳥居後(狛犬)
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【巨木伝説の神社】
『古事記』下巻の仁徳天皇記の「枯野(カラノ)といふ船」から
兔寸(トノキ)河の西に一つの高樹(タカキ)ありき。その樹の影、旦日(アサヒ)に当れば淡道島(アハヂシマ)に逮(オヨ)び、夕日に当れば高安山(タカヤスヤマ)を越えき。かれ、この樹を切りて船を作りしに、いと捷(ハヤ)く行く船なりき。時にその船を号(ナヅ)けて枯野(カラノ)といふ。かれ、この船を以(モ)ちて、旦夕(アサユフ)に淡道島の寒泉(シミヅ)を酌(ク)みて、大御水(オホミモヒ)献(タテマツ)りき。この船、破(ヤ)れ壊(コボ)れたるを以ちて塩を焼き、その焼け遺(ノコ)りし木を取りて琴に作りしに、その音七里(ナナサト)に響(トヨ)みき。ここに歌ひて曰(イ)はく、 枯野(カラノ)を塩に焼き しが余り 琴に作り かき弾(ヒ)くや 由良(ユラ)の門(ト)の門中(トナカ)の海石(イクリ)に 振(フ)れ立つ 浸漬(ナヅ)の木の さやさや こは志都歌(シツウタ)の歌返(ウタカヘ)しなり。
●二の鳥居前(狛犬) 左手水舎
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この伝説の冒頭にある「兎寸河」は、当神社の東南を流れる「富木川」で、また、南北朝の戦乱時代に焼討に遭う以前は、当境内には多数の楠の巨木がそびえていたらしく、多くの焼株の発掘で確認されています。
●二の鳥居後(狛犬)と磐座(?)
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この事から、古来、富木村に船を作る為の楠の巨木が豊富に茂っていたことが想像できます。
●境内全景と拝殿
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また、遠い昔、海岸線は当神社に接近していたと考えられ、それは、当氏地の大園遺跡の発掘物の中に多数の漁具類が存在した事からもわかります。
●拝殿と拝殿内部
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以上の事から、古代において、当神社には楠の巨木が茂り、海岸線が接近して、前掲の仁徳天皇記の記載が示すように、淡路島の清水を汲んで高津の宮に帰ってくる時には、そのそびえる楠の巨木が船路の遠くから目印になったのでしょう。現在も当神社にはその名残の楠があり、御神木として崇められています。
●本殿
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【太陽信仰】
遠い昔、古代国家の黎明期、揚子江南部地域から朝鮮を経て伝わったといわれる稲作農業にとって、一番大切なのは太陽と水の恵みでした。太陽信仰はその稲作農民が太陽を崇める事により始まり、太陽は神として信仰されるようになりました。
●東側より拝殿を見る
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「とのぎ」という言葉は古代の太陽信仰と密接なつながりがあり、古代朝鮮の新羅語では「日の出・朝日」を意味するといいます。巨木伝説の説話で巨木の影がさしたといわれる高安山の頂上に立てば、当神社の方角に冬至の太陽が沈みます。当神社の側からみると、高安山の頂上に夏至の「日の出」を拝む事になります。
●境内社                              ●本殿
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この冬至の日は、一年のうちで最も日中の時間が短く、太陽の活力が弱まっています。そしてこの日を境にして、太陽の活力は夏至の日に向かって盛り返すのです。
●『古事記』下巻、仁徳天皇記の碑と説明板
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等乃伎神社では、この冬至の日に太陽の恵みの復活を祈って重要な祭が行われ、夏至の日に太陽の恵みに感謝して祭が行われたと伝えられています。このように、当神社は太陽祭祀の重要な場所であったのです。
ー全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁ーより
※立派な狛犬が沢山あります。その時々に奉納され、こんなにたくさんになったのでしょう。この地域の人々から篤く崇敬されているのでしょう。それに、歴史の割に荘厳感というか、重々しさといったものがなく、明るく気持ちのいい神社でした。
by barakan1 | 2010-01-29 21:19 | 旅日記

等乃伎(とのき)神社~取石(とろし)池跡探訪(2010.01.20)①水源地遺跡・・・

等乃伎神社~和泉黄金塚古墳~取石池跡探訪
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●等乃伎神社近くの寒つばき




10時半自宅発~天王寺~富木(とのき)駅~等乃伎神社~和泉黄金塚古墳~取石(とろし)池跡あたり~富木(とのき)駅~天王寺駅・自宅15時半着。歩数18500歩でした。


水源地遺跡     大阪府高石市綾井住宅付近/加茂2・3・4丁目
a0016431_16533650.jpg高石は泉州北部のほぼ中央にあり、西に大阪湾を控え、古代から人々が住んでいた所で、この辺りにも古墳時代中、後期(5~6世紀)先人達が、農・漁業を糸飲んだしゅうらく遺跡がありました。直径約400マー取るの)円形に近いもので、祭祀用とされる須恵器の鈴付取っ手月付き湾や韓国産らしい双耳壺、古い製塩土器も出土しています。高石市の浄水場周辺に広がっているので「水源地遺跡」となずけられました。
■コース地図

by barakan1 | 2010-01-28 14:44

時つ風吹く吹飯(ふけい)浜」コース探訪(2009.01.18)⑧宇度墓(うどはか)古墳・・・終

宇度墓(うどはか)古墳   大阪府泉南郡岬町淡輪
●写真撮影ポイント
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別名淡輪ニサンザイ古墳とも呼ばれ、垂仁天皇第2皇子、※五十瓊敷入彦命(いにしきりひこのみこと)の陵墓とされ、宮内庁の管轄下にある「陵墓参考地」である。
●A地点
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3段築成の前方後円墳で、5世紀後期の築造といわれています。墳丘の規模は、三段構築された後円部の径100m、高さ13mで、前方部の最大幅は120m、高さ12mを測り、墳丘全長は180mとなっています。また、前方部と後円部のつなぎ目である括れ部の幅は65mとされています。
●B地点
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両側に南側は30×20mの造り出し部が付設されています。墳丘の周囲にはいまも水をたたえた水濠となっている二重で幅25~40mの楯形をした周濠があります。この周濠のさらに外側には堤があります。これらの外周施設をふくめた兆域の全長が300mになることが知られています。
●C地点
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円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪、家形埴輪、鳥形埴輪などが採取されており墳丘には埴輪の配列がなされていました。葺石が墳丘に施されていたとみられています。
●D地点
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この古墳は、西陵古墳に続いて、築造されたと考えられており、被葬者は紀伊を本拠地とする人物が、葬られているのではないかと、想定されているのだそうです。
●E地点
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『日本書紀』によると、五十瓊敷入彦命は茅渟池を造ったり、菟砥の川上宮(現在の大阪府阪南市自然田付近か?)で剣一千口を造り、石上神宮に納め、神宮の神宝を掌ったとあり、その後、「自分は年をとったので、神宝を掌ることが出来ない、大中姫がやりなさい。」と云ったことになっている。
●F地点
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大中姫も出来なかったので、物部十千根大連に治めさせたとある(物部氏が石上神宮の神宝を管理する由縁はこのことであるという)。墓は、泉南の宇土古墳とされている。
●G地点
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※父は垂仁天皇。母は、丹波道主王の娘・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。
  ・妹に倭姫命(やまとひめのみこと)がいる。  (伊勢神宮の起源説話)
(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2010-01-27 23:36 | 旅日記

時つ風吹く吹飯(ふけい)浜」コース探訪(2009.01.18)⑦淡輪邸址~黒崎の浜・・・

淡輪邸址(阪南ロータリークラブ設置の説明板)
ここより南東一帯の約千五百平方米の敷地は「城の藪」と呼ばれ、この地を領した淡輪氏の邸跡であった。
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淡輪氏の祖父で戦死した佐藤忠信の子小治郎重治で、元久年間一二○四年頃この地に地頭として住みついたものとされている。  南北朝の戦乱の世に功があったことが淡輪文書に残っている。戦国時代、淡輪徹斎の女「おこよ」は豊臣秀次の妾となって小督の局と呼ばれたが、秀次の死に連座して三条河原で斬首された。また徹斎の次男六郎兵衛重政は大阪夏の陣の前哨戦「樫井川の合戦」(元和元年一六一五年)で塙団右衛門とともに壮烈な死を遂げた。
黒崎の浜
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紀貫之が土佐守の任を終え、京へ帰る船旅の日記、「土佐日記」に「和泉の灘に出て、黒崎の松原を過ぎて箱の浦に到着した。」とあるゆかりの地。
by barakan1 | 2010-01-26 18:08 | 旅日記

時つ風吹く吹飯(ふけい)浜」コース探訪(2009.01.18)⑥払殿座神社~船守神社 ・・・

●番川越しに、払殿座神社(大ムク)と船守神社(大クス)を望む
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払殿座神社(大ムク)   大阪府泉南郡岬町淡輪4401
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船守神社   大阪府泉南郡岬町淡輪4442番地
●正面鳥居
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祭神
紀船守(きのふなもり)
紀小弓宿禰(きのおゆみすくね)
五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)
●神社東より(大クス)を見る
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摂社
恵美須神社「事代主命」
八幡宮「應神天皇」
稲荷神社「宇迦之御魂大神」
●神社西より(灯篭)を見る
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由緒
『日本書紀』に、「紀小弓宿禰が『田身輪邑(たみわのむら=岬町淡輪)』に葬られた」という記述があるそうです。紀氏の本拠地は紀の国ですが、日根郡は紀の国に接しており、紀氏が移住していたようで、紀小弓宿禰・紀船守が、この地の産土神として、祀られたのであろうと考えられているようです。
●拝殿(狛犬)
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紀船守は紀雄人の子で、授刀舎人(たちはきとねり)であった。恵美押勝の(天平宝字八年(764年))の際、押勝を射殺したとして勲功があったと言う。 紀朝臣の祖は武内宿禰と言うことになっているが、宿禰の子の紀角禰は紀ノ角と称し、紀氏の祖となっている。
●拝殿内部                          ●本殿
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◇延喜11年(911年)醍醐天皇の勅令により創建されたと伝えられます。
●本殿
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※※境内には、樹齢800年を超えるといわれている大楠がありますが、この樹は4本の幹が一本になった珍しいもので、大阪府の天然記念物に指定されています。
●摂社群
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by barakan1 | 2010-01-25 14:49 | 旅日記

時つ風吹く吹飯(ふけい)浜」コース探訪(2009.01.18)⑤西陵(さいりょう)古墳・・・

西陵(さいりょう)古墳  大阪府泉南郡岬町淡輪
●A地点より見る
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概要大阪府の南端に大阪湾に面して造られた2つの大型古墳があります。西陵古墳は淡輪平野に突出した尾根を利用して築造されており、泉南部で最大の前方後円墳です。
●B地点より見る
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墳丘長210メートル、後円部直径115メートル・高さ18メートル、前方部推定幅108メートル・長さ110メートル・高さ14メートルの前方後円墳である。5世紀中頃。全国26位の規模である。
●C地点より見る
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墳丘は、三段築成であり、葺石で葺かれていた。西側(前方部から見て右側)に長方形の造り出しがある。
周囲には、幅15メートルから35メートルの周濠がめぐっている。
●D地点より見る
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a0016431_16195643.gif外部からは、円筒埴輪、朝顔形埴輪や、蓋形・盾形・短甲形・家形埴輪といった器材埴輪が見つかっている。
後円部には、主体施設として、かつて凝灰岩製の長持形石棺の蓋石が一部露出していたが、1922年の史跡指定時に埋め戻された。棺の蓋の長辺側には二個の円形突起があったという。また、かつて、蓋石と考えられる石材が露出しており、竪穴式石槨の存在が推定されている。
●E地点より見る
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被葬者としては、紀小弓宿禰とする説(日本書紀 雄略天皇9年(465年)、紀船守とする説(和泉志)、五十瓊敷入彦命とする説(南游紀行)がある。墳丘内には遊歩道があり、自由に観察することができる。1922年3月9日に国の史跡に指定されている。
●F地点より見る
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本墳北側に2基の円墳が現存し、陪塚として国の史跡に指定されている。かつて、もう1基の古墳が存在し、線路の敷設時に破壊されたが、その際に提瓶、高杯、壺、平瓶、刀身、鉄鏃が出土した。
[編集]出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
by barakan1 | 2010-01-24 16:22 | 旅日記

[時つ風吹く吹飯(ふけい)浜」コース探訪(2009.01.18)④金乗寺~吹飯の浜(浦)・・・

金乗寺   大阪府泉南郡岬町深日734
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金乗寺は阿弥陀如来を本尊とし、浄土真宗西本願寺の末寺で蓮如上人によって鶴龍山金乗寺という山号寺号を付けられた寺である。
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●大阪緑の百選
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周囲3.5m、高さ17m大阪府指定天然記念物のイチョウの木。雌株。樹齢500年。

吹飯(ふけひ)の浜(浦)
●吹飯の浜の万葉歌碑
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歌枕にもなった、吹飯の浜(浦)の現在です。多奈川には火力発電所の大きな建物群が林立し、その手前深日港は埋め立て工事が継続中です。全く変わってしまったと言えるでしょう。唯、淡輪へ続く海岸線は辛うじて長松海浜保全地区として僅かに、昔の面影を伝えてくれます。
●万葉歌碑前から、深日港方面を見る
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万葉集 詠み人不詳
巻12-3201
時つ風吹飯(ふけひ)の浜に出(い)で居(ゐ)つつ贖(あか)ふ命は妹がためこそ
※時つ風の吹く吹飯の浜辺に出て、航路の無事を祈るのは、誰のためでもない、愛しいお前のためなんだ。
●吹飯の浜(浦)あたり
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新古今集第18 雑歌下 
藤原清正
天(あま)つ風ふけひの浦にゐる鶴(たづ)のなどか雲居にかへらざるべき
※【通釈】天つ風が吹くという名の吹飯の浦にいる鶴が、どうして雲の上に帰らないことなどあろうか。
―そのように、私もいつかは再び昇殿を許されるであろう。
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(源俊頼)
潮みてば磯こす波にあらはれて吹飯の浦に千鳥なくなり
大和物語 三十段
源宗干
沖つ風ふけひの浦に立つ浪の名残にさへや我を沈まむ
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千載集
(藤原家基 )
さ夜千鳥ふけひの浦におとづれて絵島が磯に月かたぶきぬ
※歌枕「吹飯の浜(浦)」の所在については、一般に当地深日の浜(浦)とするが、異説も多い。
by barakan1 | 2010-01-23 16:17 | 旅日記

「時つ風吹く吹飯(ふけい)浜」コース探訪(2009.01.18)③国玉神社2・・・

国玉神社
●境内全景・拝殿
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由緒 平成祭礼データから
国玉神社は第六十代醍醐天皇の御代に成った延喜式内社であり、創立年月は旧記にな く詳でありません。国内神名帳に正五位下国玉神社としてあります。
●拝殿、拝殿内部
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境内三、〇四五坪を有し千歳川岸の丘麓にあり昔は樹木欝蒼として深日港を望む遠くは淡路島及摂淡連峯を望み明治六年、郷社に列記され明治四十一年、神饌幣帛料供進社に指定せられ明治四十五年五月、若宮の浜山に祭祀されてありました村社賀茂神社の御祭神を相殿とし、末社でありました、八幡社、若宮八幡、戎社の三社を元国玉神社の本殿に相殿として祭祀してあります。
●本殿
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現在の本殿は元賀茂神社の本殿を遷座してあり梁行四間桁行三間の銅葺流造にして氏子地は深日孝子一円にわたっております。 拝殿上の「大国玉神」の木の額は旧深日村の古事に依れば門厳の書であります。
●祓戸社
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深日庄は第七十三代堀河天皇寛治四年より第一〇四代後柏原天皇大永年間まで京都賀茂神社の領知で元賀茂神社の隆昌繁栄に反して国玉神社は次第に衰徴し徳川時代に至っても隆昌をする事無く明治維新まで明中十五軒にて山林等を資にして祭祀・保存しておりましたものです。当下たん地にあります。

a0016431_13474738.jpg●戎社

現旧蹟跡の碑は第四十八代称徳天皇の紀州行幸の際行宮として定め給ひし処であり、続日本紀に「天平神護元年九月(閏)十月二十六日庚戌遺行宮於大和河内和泉等国以欲幸紀伊甲申致和泉国日根郡深日(フケ谷朱)行宮干時西方暗瞑異常風雨紀伊国守小野朝臣小贄従此而還詔賜アシギヌ卅疋綿弐百屯」と記されてあり、「第六十五代花山天皇の行幸の際須臾寓宮として定め給ひし」と記されてあります。
●五社
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又末社は元は小祠でありましたが、永年の風雨の為破損甚だしく神々の御神慮を恐れ、昭和四十年七月十日、境内東南側に銅葺流造の社殿に遷座祭祀せしもので、当神社は称徳天皇行宮より現在まで一千二百余年の年月を経ております。
神社より、吹飯の浜(浦)遠望
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新古今集
藤原清正
天つ風ふけゐの浦にゐるたづのなどか雲居に帰らざるべき
以上  
ー神南備にようこそーより抜粋
※神社よりの眺めは、万葉の時代を望むべくもなく、住宅でぎっしり埋めつくされています。今日はその向こうに見える筈の淡路島もモヤにかすんで見えません。淡路島でも見えたら、その情景も幾分昔に近づけたかも知れないのに・・・。
by barakan1 | 2010-01-22 14:01 | 旅日記