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摂津国「垂水」コース探訪(2009.12.17)⑥垂水神社2-懽(よろこ)びの御歌・・・終

垂水神社拝殿
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◆神社の北側に滝跡があり、更に北には不動社など神仏混合の名残の摂社郡がある。かっては修験者が滝修行などをよく行っていたそうである。不動社では現在でも神主が護摩を毎月焚いているとのこと。
●摂社・末社群(大神社・楠社・旧の滝)
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●不動堂・政高大明神・高登社
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◆垂水の滝             旧の滝
a0016431_199133.jpg※かってのコンコンと湧き出る泉やまた万葉の頃のワラビの名所の面影は全く残っていない。 わずかに千里山の南半分が北大阪の手つかずの森として今に名残を伝えている。 ー神南備にようこそーより抜粋


志貴皇子の懽(よろこ)びの御歌(みうた)一首(ひとつ)
巻6-1418 
石激(いはばし)る垂水の上のさ蕨の萌え出(づ)る春になりにけるかも
●津くよみの池と万葉歌碑
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◆◇垂水を詠んだ万葉歌
巻6-1142
命を幸(さき)くあらむと石走る垂水の水を結びて飲みつ
巻6-3025 
石(いは)走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく吾(あ)が心から
●不動堂から神社方向を見る
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◆※「垂水」とは滝の古語である。神社の北には垂水ヶ岡(千里山)の泉から湧き出る水が滝となっており、元々はこの滝を神体として水の神を祀っていたものと見られる。万葉集に収録されている志貴皇子の歌「いははしる垂水の上のさわらびの もえいずる春になりにけるかも」は、この滝を詠んだものとされているが、伝説の域を出ない。
●不動堂前より、江坂方面(西)を見る(ビル群でかつての千里丘陵の森の痕跡は見られません)
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※志貴皇子の懽(よろこ)びの御歌(みうた)の場所にやっと、来ることが出来ました。付近の情景は変化して、ささやかな滝に往時を偲ぶだけですが、それでも丘陵の端に沸く泉の風景は想像できました。神社は古社らしく雰囲気のあるいい神社でした。
by barakan1 | 2009-12-28 19:32 | 旅日記

摂津国「垂水」コース探訪(2009.12.17)⑤垂水神社1・・・

垂水神社    大阪府吹田市垂水町1-24-6
●神社一の鳥居
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祭神   豐城入彦命
配祀   大己貴命、少彦名命
●神社参道(両側は住宅でいっぱいです)
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末社   戎社・皇大神社・祓殿・楠社
御旅所 楠明神社
その他 不動堂
●境内入口の標柱
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由緒
神崎川・淀川が古来難波と呼ばれていたこの地を西に流れて茅渟の海にそそぎこむ、その北岸に鎮座する垂水神社は、七世紀のはじめの起源を今日に伝えている。 「新撰姓氏録」は、この地に勢力を持っていた阿利真公が大化の改新頃の旱魃のおり 、垂水基岡(千里山)から湧き出る水を、当時の難波長柄豊崎宮に送り、その功をた たえられ、垂水公の姓を賜るとともに、垂水神社を創祀したという。
●社務所前拝殿への石段
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いははしる垂水の上のさわらびのもえいずる春になりにけるかも
(万葉集・志貴皇 子)と、万葉集にも詠まれた神水が涸れることなく、今も一千数百年の時を越えて垂水の滝として流れ続けている。
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社伝によると、豊城入彦命は、崇神天皇の第一皇子でありながら、弟の垂仁天皇に皇 位を譲り東国開発の旅に出た。のちに四道将軍の一人に数えられる豊城入彦命が、第 一歩を記したのがこの垂水の地であり、子孫が神として祭り社を阿利真公とその末裔 に伝えたという。
●弥生遺跡
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なお、境内には弥生時代の住居址が確認されており、水にたいする 信仰はかなり古くからあったものと思われる。
●拝殿・狛犬
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その後は、祈雨の神として朝廷をはじ め広く信仰をあつめ、平城天皇の頃に封戸の寄進をうけて以来、平安時代には、勲八 等従五位下から従四位下まで、祈雨のたびに神階を進めた。延喜式(九〇七年)制に おいては、名神大の社に列せられている。また、大嘗祭にさきがけて行われたといわ れる八十嶋祭において、朝廷より奉幣と祭料布を下賜されたといい、これを証明する ように神崎川畔から古鏡が発見されている。また垂水の地には、最近まで律令制のな ごりを伝える条里の遺構も見受けられた。
●境内拝殿・本殿・各末摂社
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やがて、古代から中世の荘園の時代には、当社を含む垂水荘は、豊かな農耕の地ゆえ に東寺や春日大社などの有力社寺の有力権争いの対象となっていた。 近世にあって は、社寺の衰えという時代の情勢を越えて、熱心な信者に支えられ、天和三年(一六 八三)に社殿を改築し、朝廷から十六弁の菊を神紋として使用することが認められて いる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
●境内玉の井の井戸
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by barakan1 | 2009-12-26 22:42 | 旅日記

摂津国「垂水」コース探訪(2009.12.17)④雉子畷(きじなわて) ・・・

■雉子畷(きじなわて)  吹田市垂水町1-15
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淀川の長柄の渡しに橋をかける際、岩氏が人柱となった。岩氏の美しいひとり娘光照前(てるひのまえ)は物いわぬ人となり、河内の禁野(きんや)の人に嫁いだ後も、一言も物を言わなかったので、実家に帰されることとなり、
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夫とともにこの辺りにさしかかった時、雉子が鳴いて、夫がそれを射殺してしまった。その時、女は悲しんで 、
ものいわじ 父は長柄の橋柱 雉子も鳴かずば 射られざらまし
と詠んだとう 爾来、この辺りを「雉子畷」と言い伝えたという。
by barakan1 | 2009-12-24 20:38 | 旅日記

摂津国「垂水」コース探訪(2009.12.17)③泉殿宮(いずどのぐう)・・・

泉殿宮(いずどのぐう)  大阪府吹田市西之庄町10-1
●南入口鳥居(正面)
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祭神   建速須佐之男大神、宇迦之御魂大神
配祀   住吉大神、春日大神
●北入口鳥居
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末   社  神産巣日神 (かみむすびのかみ)
       奇稲田姫神 (くしいなだひめのかみ)
       大 国 主 神 (おおくにぬしのかみ)
戎 神 社  えびす大神 (えびすおおかみ)
稲荷神社  豊 受 大 神 (とようけのおおかみ)
●参道・拝殿
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由緒
当宮往古は、次田ノ社と称え奉り、河内の次田連の祖神 天香山命を氏神として、五穀の神「宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)」[伏見稲荷大社の御祭神]を祀(まつ)る。
●境内拝殿
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第56代清和天皇貞観(じょうがん)11年(西暦869年)当地久しく旱魃(かんばつ)、草木は色を変じ、大河の流れも通わず、天下疫病流行し、諸民悉(ことごと)く枯渇(こかつ)に苦しむ。播磨(姫路)の広峯神社より王城鎮護(おうじょうちんご)の守り神として[祇園八坂神社]の御祭神として迎えられる「建速須佐之男大神」(たけはや すさのお の おおかみ)]の御神輿が、しばらく当宮にお立ち寄りになられた。大神に祝詞を奏上し、獅子頭を激しく振り、歎きを告げ、篤(あつ)く雨を祈ると、忽然と清泉土中より湧漲(ゆうちょう)した。立ち処に、里人渇(かつ)を免(まぬ)がれ、田畑隈(くま)なく潅水(かんすい)した。
●拝殿・狛犬
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よって、建速須佐之男大神を勧請し相殿として斎き祀る。この雨乞いの状と雨を喜ぶ童子の姿は、吹田市地域無形民俗文化財の「泉殿宮神楽獅子(いづどのぐうかぐらじし)」の所作となっている。
●泉殿霊泉
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明治22年(西暦1889年)、「泉殿霊泉」をドイツのミュンヘンに送り、これビール醸造(じょうぞう)に適水との保証を得、当宮隣接地に同水系の湧水を以って、東洋初のビール醸造工場(現、アサヒビール㈱吹田工場)建設の逸話がある。ーHPよりー
●戎社・末社・稲荷社
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by barakan1 | 2009-12-23 22:19 | 旅日記

摂津国「垂水」コース探訪(2009.12.17)②高浜神社・・・

高浜神社   大阪府吹田市高浜町5-34
●正面入口鳥居
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祭神
主祭神 素盞嗚尊
配祀  天照大神、春日大神、住吉大神、菊利姫大神、不詳神二座(天火明命、天香山命)
摂社  布留御魂大神など
由緒
地元では「大宮さん」と呼ばれている。
吹田は昔、次田連の一族の居住地であったことからの訛と云う。創祀は次田連がその祖神を祀ったことによるとされる。社名の高浜は吹田の別名とされる。淀川縁の微高地であったのだろう。
●参道~手水舎
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『新選姓氏録』には吹田連(異本では次田連)は河内国神別に記載があり、火明命兒天香山命之後也、とある。 神社由緒書きでは吹田連は河内から当地へ移住したとされているが、吹田の東側には天照御魂神を祀る新屋神社が鎮座、また銅鐸が出土した奈良遺跡も近く、相当に古い神社かも知れない。
●拝殿・狛犬
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摂津国の吹田連の名が『新選姓氏録』には見えない所から、その頃には吹田連は当地を去っていたのであろう。 吹田連の祖神を祀っていたと伝わるが、秘神ではなく、不詳二座とされているのは、新たな支配者(多分藤原氏)に遠慮したものかも。当地の地主神は天火明命と天香山命と云う。
●本殿
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天平七(735)年行基が石浦神宮寺を建立、この時に当社に牛頭天王を勧請した。また貞観十一(869)年、播磨国廣峰山から山城国八坂郷への牛頭天王の遷座の際、当時は疫病が流行っていたので牛頭天王に悪疫退散祈願をおこない、小祠を建てて祀ったのを合祀したので、主祭神とされて祀られている。 神社の由緒書きには記されていないが、織田信長が畿内を席巻した際、多くの神社は信長の氏神の素盞嗚尊を祭神として破壊を免れたのであるが、その頃に牛頭天王宮と称し、主祭神としたのかも知れない。近所の神社も素盞嗚尊が多い。 それでも天正年間には戦火にかかり焼失している。
●本社横拝殿(???)
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★★かっては高浜の杜と称えられた高浜松林であったようだが、大坂城建設に松の老樹が切り出されたと云う。 現在でも、社叢からは松林の名残を感じる。
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建長三年(1251)
後嵯峨上皇
来て見れば千代もへぬべし高浜の松にむれいる鶴の毛ころも
ー神南備にようこそーより抜粋
by barakan1 | 2009-12-21 19:47 | 旅日記

摂津国「垂水」コース探訪(2009.12.17)①コース概要・・・

摂津国「垂水」コース探訪。
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●吹田の街路に咲いていた「寒椿」   いろんな場所で咲いていました。
自宅10時発~JR吹田着~高浜神社~泉殿宮~雉子畷(きじなわて)~垂水神社~阪急千里線豊津~梅田・寺田町16時着。17000歩でした。




●古代の大阪湾
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前日より一段と寒くなった中、探訪へ。1か所だけの予定の探訪なので気が楽です。(あまり時間を気にすることがないので・・)垂水神社へは温かい時分に行くのがいいのですが・・。
思い立ったが吉日です、行ってまいりました。
千里丘陵の東南端に位置する神社はまさに泉の湧き出るたころのような立地でした。千年以上前は周りは何もなく、大阪湾が深く入り組んで、淀川により沢山の島や小川が縦横に走っていたのかもしれませんねぇ。そんなことを思いながら、吹田のあたりを見て回りました。
■コース概要

by barakan1 | 2009-12-20 22:20 | 旅日記

難波八十島「姫島」コース探訪(2009-12-06)住吉神社(野里)・・・終

住吉神社(野里)   大阪市西淀川区野里1-15-12
●正面入口鳥居
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祭神:表筒男命 中筒男命 底筒男命 神功皇后
摂社
淀川戎神社「事代主命、大國主命」
五座相殿社「草祖神、菅原道眞、八幡大神、春日大神、八百萬大神」
事平神社「事平大神」
稲荷神社
●参道→拝殿
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◆一夜官女祭の由来
永徳二年(1382年)足利三代将軍義満の創建と伝えられている野里住吉神社の境内の片隅にある『瀧の池』の跡地に乙女塚が建てられている。
●一夜官女の乙女塚
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それには悲しい物語りが伝えられている。 中津川に面した昔の野里は、打ち続く風水害と悪疫の流行によって悲惨な明け暮れで、近隣の村人たちは野里のことを『泣き村』と呼んでいた。
●力石           手水舎           標柱(しめはしら)から拝殿を見る
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  この村を救う為には、毎年定まった日に一人の子女を神に捧げよとの託宣があり、村を救う一念から村人の総意でこれを実行していた。人身御供の子女は毎年一月二十日丑三つ時に唐櫃に入れられて神社に運ばれ放置された。
●拝殿・狛犬
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丁度七年目の行事を準備している時、一人の武士が立寄り、村人からことの詳細を聞き、『神は人を救うもので人間を犠牲にすることは神の思し召しではない』と乙女の身代わりに唐櫃に自ら入って神社に運ばれた。 翌朝、そこには武士の姿はなく、大きな『狒狒』が深手を負い絶命していた。この武士こそ当時、武者修行中の岩見重太郎であると伝えられている。村ではこの後安泰の日々を送るようになった。これを後世に長く伝えるため、同じ形式で同じ一月二十日に村の災厄除けの祭りをして他に例を見ない記載が行われ、今日に至ったものである。
●拝殿・乙女塚・野里戎神社
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明治四十年より二月二十日に改められた。この一夜官女の祭は昭和四十七年三月三十一日付で大阪府文化財保護委員会より重要民族資料として指定されている。 この地は古戦場としても有名であり、享禄四年六月四日、細川常植と細川晴元が中津川で戦った時、常植方の本陣が当社であったという。現在の野里本通が旧中津川の右岸に当り、摂津の大物崩という戦がこれである。
◆「野里の渡し」
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1889(明治22)年からの改修工事によって、淀川は流路が大きく変わりました。それまで野里住吉神社の東側は淀川に面していました。現在境内の南側に残る土手は、当時の堤防のなごりです。野里の渡しは、大阪と尼崎を結ぶ大和田街道に設けられた渡しで、野里住吉神社のやや北側にありました。1876(明治9)年に木製の橋が架けられるまでは、大阪と中国地方を結ぶ交通の要所として賑わっていました。一説には室町時代に野里村が開発された時に、代官の堀江彦左衛門によって作られたといわれています。また、江戸時代の地誌である『摂津志』・『摂津名所図会』には、『日本書紀』に見える『かしわの渡し』が、野里の渡しであると記されています。」
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※この渡しは仁徳天皇の皇后が、かしわの葉を海に投げ入れられた故事から槲の済と名づけられ、大伴家持が 
船いだす沖つしほさい白妙に かしわのわたり浪高く見ゆ
と詠じたその地が、野里の渡し(柏の渡し)であると伝えられています。
(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2009-12-18 16:26 | 旅日記

難波八十島「姫島」コース探訪(2009-12-06)④姫島神社・・・

姫島神社   大阪市西淀川区姫島4-14-2
●神社正面鳥居
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祭神
阿迦留姫命、住吉大神
●入口鳥居・手水舎
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由緒
江戸時代初期には鎮座していたが、応神・仁徳朝の頃は周辺は明らかに海中であった。 記紀の記述にある難波の阿迦留姫命の日女島には比定できないが、この地にこのように姫島神社が鎮座している事は何かの由縁があったと思わなければならない。 例えば、渡来人に許された漁場であったとか、岩礁があって、そこに神を祀っていた事などが推定される。
●参道・拝殿
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『摂津国風土記逸文』に「比売島の松原。昔、軽島の豊阿伎羅の宮に天の下をお治めになった天皇(応神天皇)のも世に、新羅の国に女神があった。その夫からのがれて来て、しばらく筑紫の国の伊波比の比売島に住んでいた。そこでいうには、「この島にいるならば、男神が尋ねて来るだろう」と。それでまた移って来てこの島にとどまった。だから、もと住んでいた土地の名をとってこの島に名づけたのである。」 と出ている。
●境内・拝殿(狛犬)
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●拝殿・本殿
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難波の媛島松原は大隅島とともに放牧地であった。(安閑紀二年九月)阿迦留姫命は牛を連れた男の持っていた赤玉から誕生したとの物語があるが、ここの牛の放牧から三宅吉士によって作られた神の物語であろうと、『古代の日本と渡来の文化』第二章アメノヒボコと難波のヒメコソ社神(高寛敏氏)に記されている。
●境内末社群
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古事記には「天日槍命は、赤留比売の後を追って難波に渡来しようとしたが、渡しの神が遮ったため、引き返して但馬国に留まった。」と記載されている。 この渡しの神とは住吉の神と思われるが、まさに並祀されており、姫を庇護しているように見える。ー神南備にようこそーより抜粋  ※赤留比売命神社
●末社群 稲荷社・元盾社
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●金毘羅社・稲荷社
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◆◇和同四年(よとせといふとし)歳次辛亥(かのとのゐ)、河邊宮人(かはべのみやひと)が姫島の松原にて嬢子(をとめ)の屍(しにかばね)を見て悲嘆(かなし)みよめる歌二首
巻2-0228 
妹が名は千代に流れむ姫島の小松の末(うれ)に蘿生(こけむ)すまでに
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by barakan1 | 2009-12-16 17:35 | 旅日記

難波八十島「姫島」コース探訪(2009-12-06)③住吉神社(大和田)・・・

大和田の浜(千船大橋よりみる)
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住吉神社(大和田)  大阪市西淀川区大和田5-20-20
祭神
底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后
●正面
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●神社境内に「万葉歌碑の由来」との掲示板がある。
先の古歌について、この歌の大和田の地は、神戸市の和田岬に近く、かっての大輪田の泊と呼ばれた付近をよんだものであるとの説があるが、これは謬りで、摂津名所図絵には、大和田が「御手村の西北にあり此所尼崎に近くして河海の界なり、故に魚鱗多し、殊に鯉掴という。なお浦浜古詠あり。兵庫の和田岬とするは謬也とことわってある。郷土史家の厚い想いが伝わる。



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4世紀以前、当地は陸上であったか、海中であったか、であるが、姫島神社の創建初期には海中の岩礁でお祭りをしていたのではとの推測もなされる程の低地であり、徐々に島々がつながって来ていた時期ではとの想い。八十嶋祭りの原点。    
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ー神南備にようこそーより抜粋
●「判官松の碑の由来」
平家物語巻第十一逆櫨の記述によれば、元暦二年二月三日九郎大夫判官義経都をたって、摂津国渡辺(今の堀江)より舟ぞろえをして八嶋へすでによせんとす。三河守範頼も同日都をたって摂津国神崎(今の西淀川)より兵船をそろえて山陽道におもむかんとす」とある。
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平家追討の軍勢は折からの台風の襲来にあい、一時退避、その時義経はあらためて住吉大明神に海上安全の祈願し一本の松の苗を手植えした。それが判官の松の由来である。
亦一説に義経の軍が流れ着いた時、大和田の庄屋が鮒の昆布巻きを献上しこまごまと生活の煩事を援助した。喜んだ義経は食事の箸を地中に立てその意を天に示した。どうしたことかみるみるうちに生きかえり松の姿に生長した。
ー神南備にようこそーより抜粋
◆◇境内の万葉碑(和歌の名所としても知られています)
万葉集
巻6-1067
浜清み浦うるはしみ神代より千船の泊つる大和太(おほわだ)の浜
by barakan1 | 2009-12-14 17:20 | 旅日記

難波八十島「姫島」コース探訪(2009-12-06)②田蓑神社・・・

太古、大阪の西淀川一帯は海中にあった。その後、長い歳月をかけて、淀川、大和川、猪名川などが上流から土砂を運びやがて御幣島、姫島、歌島、竹島などの難波八十島が形成される。
千船大橋より神崎川右岸をみる(ビルと民家で一杯だ、後方六甲山)
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小野篁 百人一首
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟
万葉歌の情景は現在では想像もつかないほど、ビルや住宅が密集林立しているが、万葉の時代にたち戻って西淀川区を探訪してみよう。
田蓑(たみの)神社     大阪市西淀川区佃1-18-14
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祭神
表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后
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摂社
稲生神社「宇賀御魂神」
七重社 「天照皇大神 配祀 事代主大神、猿田彦命、大國主大神、應神天皇、 少彦名大神、菅原道眞」
東照宮 「徳川家康   配祀 大物主大神」
●拝殿
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縁起
田蓑神社は869年(貞観11年)にでき、神功皇后が三韓征討後、船を難波へ着けられた時、海魚を献じたと伝えられる小社である。当地はもと田蓑島と称したが社傍に田蓑という池があったという。いまもあがめられる御船の鬼板は、神功皇后より賜ったといわれる。
●本殿
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天正年中徳川家康公が摂津多田の廟に参詣の時、田蓑島の漁夫が漁船をもって神崎川の渡し舟を勤め、その由縁で同公は当村の住吉神社にも参拝した。なお台命により村名を佃と改めた。」とあり、このことから神功皇后三韓遠征以前からの古社であることがわかります。なお、神功皇后からいただいた鬼板は現存するそうです。
●摂社群(東照宮・七重社・稲生神社)
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a0016431_13224253.jpg※東京佃島にある住吉神社は、大阪佃の人々が江戸に移り住むとき、田蓑神社の分神霊を泰載し、正保3年(1646年)現在の地に遷座したと伝えられます。

大阪阪府下最古の浪速狛犬がお出迎え(下に元禄15年(1702年)と表記がある。)


◆◇「大和物語」の話よりつくられた謡曲が「芦刈」です。
昔難波に仲の良い夫婦がいました。生活苦のため相談をして夫と妻は別々に働きに出ることにしました。夫は芦を売り、妻は都へ奉公へ出て、やがて妻は優雅にくらす身分になりました。妻は夫が恋しくなり探すうちにはからずも路上で巡り会いますが夫はみすぼらしい身を恥じて、
●謡曲「芦刈」ゆかりの地の碑と摂社群
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 「君なくて あしかりけると 思ふにも いとど難波の 浦ぞすみ憂き」 
と詠んで逃げました。
妻は夫婦の縁は貧富などによって遮られるものではないという意味で、
 「あしからじ とてこそ人の 別れけめ なにか難波の 浦もすみ憂き」 
と詠み返しました。和歌を詠み交わすうちに心も通い合い、目出度く元通り、夫婦仲良く末永く暮らしたという。
◆◆田蓑の淀川下流地域では有名な歌枕の地である
古今集』巻17 雑歌上 読人不知 0913
難波がた 汐満ちくらし あまころも 田蓑の島に 鶴鳴きわたる 
藤原 家隆
霜うづむ田蓑の島に住む民の名には隠れぬ袖やさゆらむ 
●佃漁民ゆかりの地碑と紀貫之歌碑
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なにはへまかりけるときたみののしまにて雨にあひてよめる
紀貫之
あめにより田蓑の嶋をけふゆけどなにはかくれぬものにぞありける
by barakan1 | 2009-12-13 13:55 | 旅日記