<   2009年 11月 ( 11 )   > この月の画像一覧

播磨(姫路・高砂市)探訪(2009.11.23)④播磨国分尼寺跡・・・

播磨国分尼寺跡  姫路市御国野国分寺毘沙門252-1
a0016431_20493261.jpg
これまで、5回の発掘調査が行われており、中央部付近から講堂を囲む雨落溝金堂基壇の築土などとともに、毘沙門池の近くからは、東・北部築地基壇や井戸跡が検出された。
●参考地を東→                      ●西→
a0016431_20541756.jpg
寺域は東西約134㍍、南北約180㍍の規模が推定されている。多数出土した古瓦は、国分寺出土瓦と殆ど同じものだという。現在はまだ、あくまでも推定地ということであるらしいが、限りなく100%に近い推定地となっているようだ。
●由来記碑
a0016431_20571746.jpg

◆播磨国分尼寺跡参考地碑由来記
a0016431_20563746.jpg
昭和四十年頃、播磨国分寺跡は荒廃の極にあった。姫路市当局に再三その保護を訴えた結果、発掘調査されて徐々に保存へ向かうことになった。然し国分尼寺跡は、この御国野町に尼寺の前、尼寺の道尼寺が池等の地名と共に、礎石や古瓦などの出土による有力な推定地が、専門家に指摘されていながらまったく放置されていたので、この推定地の壊滅を防ぐため、以前に礎石の残存する土壇があったというこの場所に、国分尼寺跡参考地碑を立てておかれるよう、市当局に誓願すること数年、且つ費用の一部を寄進して、昭和46年建立されたのが隣設の参考地碑である。
●有馬道より(東→)より見る
a0016431_20595226.jpg
その建碑について、播磨国分寺史跡保存会長故中島広蔵氏に、絶大な献身的協力を頂いたことは感激の極みである。また土地所有者久野房雄氏と母堂の故きくの刀自に建碑地の提供と礎石の返還、更に地元石材店主元山義一氏の多大な物質的協力等私の請願に大きなご援助を頂いた右各位に、心から深謝する次第である。
●丹波道より(西→)より見る
a0016431_2105657.jpg
後日、もし尼寺跡が正式に解明されて地域に移動があった場合にも、この尼寺跡保護のために先駆した民間人の努力の跡が、全国の志ある方々へのはげみともなるよう、尼寺跡参考地碑並びにこの由来記碑の二基は、播磨国分尼寺跡保護の経緯を語る資料として、必ず共に遺跡の一隅に永久保存されることを念願するものである。
昭和54年(1979年)11月      
 諸国国分二寺跡保存発願者 東京都杉並区 岩永蓮代 記

a0016431_2124671.jpg●国分尼寺への道

※播磨国分寺跡の東側の道を北に一直線に歩き、ドンツキを左に曲がるとすぐである。それを途中で東に入ったため迷いに迷い、1時間のロスをしてしまった。分かってみると至って簡単な分かりやすい位置なのですが・・・。

近所の人に国分尼寺跡を知りませんかといっても???!!!ばかりでまったく要領を得ません。結局付近を歩きまわって発見した次第です。
by barakan1 | 2009-11-30 21:11 | 旅日記

播磨(姫路・高砂市)探訪(2009.11.23)③播磨国分寺跡・・・

播磨国分寺跡   姫路市御国野町国分寺121
●播磨国分寺跡慨図 ・石碑
a0016431_17177100.jpg
天平13年(741年)、国分寺の建立について聖武天皇が詔(みことのり)を出した事により全国に国分寺が創建された。約200mの築地塀の中に南大門、中門、回廊、金堂、講堂、七重塔、僧坊、北門を備えた壮大な寺であった。
●塔跡より見る全景
a0016431_17175670.jpg
平安中期末に一度焼け、さらに天正年間(1573~92)に豊臣秀吉の兵火にあって焼失した。現在の国分寺は1639(寛永16)年姫路城主となった松平忠明が率先して再建したものである。『峯相記』に疫病除けの霊牛説話が関連して記され、寺宝にも霊牛がみられる。現在、創建当時の伽藍配置に基づき、塔や門、回廊などの基壇、築地塀などが復元された。広大な寺域を持つ奈良時代の国分寺は、この伽藍配置で偲ぶことができる。ーひょうご歴史の道ーより
※1塔跡から現存寺本堂(講堂跡)の方角を見る
播磨国分寺では、塔礎石だけが17個完全なかたちで残されていた。一辺のサイズが9.3㍍となっているため、そこから推測すれば高さ60㍍前後の七重塔が建っていたのではないかと考えられている(ちなみに京都東寺の五重塔の高さは57㍍)。 そしてこの周囲からは、鬼板瓦や青銅製の飾金具(水煙)の断片が出土したという。
●南大門より北→(中門・金堂・講堂)方向を見る
a0016431_17193149.jpg
a0016431_17235128.jpg
※2撮影位置は南門と中門の中間あたりで、手前の基壇が中門跡、現存寺山門が金堂跡、本堂が講堂跡ということになる。
●中門と回廊
a0016431_17242783.jpg
●中門跡の北から金堂・講堂跡の方角を見る
a0016431_17255332.jpg
a0016431_17345779.jpg



※3中央の灯籠は、中門と金堂を結ぶ回廊内の金堂院中央に実際に置かれていた基壇が見つかっている。灯籠の復原は、韓国仏国寺の遺品と東大寺大仏殿前の金銅灯籠等を参考にして作製した。山陽本線の架線と新幹線の高架が見える。





●復元築地塀
a0016431_17353542.jpg
●西復元築地塀前より国分寺を見る(全景)
a0016431_1743362.jpg
※現在国分寺跡は写真のように、国指定史跡として、又、ふるさと歴史の広場として、整備されている。 
(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2009-11-29 17:44 | 旅日記

播磨(姫路・高砂市)探訪(2009.11.23)②牛堂山国分寺・・・

牛堂山国分寺(現在の名称)   姫路市御国野町国分寺 121
●国分寺全景(南→)    ※前景は国分寺遺跡
a0016431_12541271.jpg
●山門(南→)    
a0016431_12551184.jpg
◆宗派    高野山真言宗
◆本尊   十一面観世音菩薩
◆創建   天平13年(741)
◆開基   聖武天皇(勅願)
●本堂
a0016431_12563433.jpg
●山門・鐘楼・??神社
a0016431_12575818.jpg
●由緒
a0016431_12584764.jpg
国分寺は牛堂山と称する。伽藍の造営の時に霊牛が現れて、山中から巨木を運んだ故事によるそうだ。この地は牛鹿氏という豪族の本拠で、その協力で国分寺が出来たことを暗に示して
いるという説もある。
●開山堂                        ●五智如来像
a0016431_12595424.jpg
※古代の国分寺は、現国分寺の山門の下に金堂が、本堂の下に講堂があったらしいが、未発掘である。
●北門(南→)                     ●生木地蔵尊・???堂
a0016431_1333426.jpg

by barakan1 | 2009-11-26 13:09 | 旅日記

播磨(姫路・高砂市)探訪(2009.11.23)①コース概要・・・

播磨(姫路・高砂市)探訪
a0016431_031378.jpg自宅発8時半~御着駅10時着~播磨国分寺~播磨国分尼寺跡~山の越古墳(第三古墳)~壇場山古墳~黒田家墓所~御着城址~小寺大明神~大歳神社~延命寺~JR宝殿駅~生石(おうしこ)神社~宝殿駅~天王寺・自宅17時半着。
国分寺から国分尼寺を探して1時間ほど迷い、ウロウロしましたので、もう1ヶ所の目的地日岡神社と稲日太郎姫命陵へは行けませんでした。次回にします。歩数28000歩。少し疲れました。
コース地図

by barakan1 | 2009-11-26 00:49 | 旅日記

桜井市(纒向遺跡~箸墓~恵比寿神社探訪(09-11-14)⑥恵比寿神社(三輪)・・・終

恵比寿神社    奈良県桜井市三輪
a0016431_21451458.jpg
御祭神
八重事代主命 (やえことしろぬしのみこと)
八尋熊鰐命 (やひろくまわにのみこと)
加夜奈留美命 (かやなるみのみこと)
a0016431_214533100.jpg
御由緒
当神社は八重事代主命(三輪明神の御子神)他ニ柱を奉し日本最初の市場海石榴市(つばいち)の守護神として悠久の昔創祀せられ「つばいちえびす」と称えて商売繁盛・福徳円満を祈って敬仰して参った大和の古社であり恵比須信仰の本源をなすお社であります。
a0016431_21455330.jpg
(三輪の初えびすは、日本最初の市(いち)、海石榴市(つばいち)の伝統を今に伝える祭典です。)
a0016431_21461350.jpg
万葉集
巻12-3101 
紫は灰さすものそ海石榴市(つばいち)の八十の衢(ちまた)に逢ひし子や誰(たれ)
巻12-3102 
たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰と知りてか
a0016431_17362286.jpg

by barakan1 | 2009-11-23 21:50 | 旅日記

桜井市(纒向遺跡~箸墓~恵比寿神社探訪(09-11-14)⑤網越神社・・・

大神神社 大鳥居(明神鳥居)
a0016431_2016640.jpg
大きさは、熊野大社に次ぎ、高さが32mで、、また、棟木の断面は五角形で、笠木と島木を二段重ねにして、長さが41m程あり、総重量185ton。(素材は耐候性鋼板)
綱越神社(おんぱらさん)  式内社 奈良県桜井市大字三輪字大鳥居1168
ご祭神: 祓戸大神    (大神神社摂社)
a0016431_20171339.jpg
大神神社の参道入口に位置し「祓戸の大神」を祀る延喜式内 社であります。夏越の社とも言われ、旧六月晦日の大祓、「夏越祓」が厳粛に行わ れる古社として広く世に知られ、社名の綱越は、夏越から転 訛したといわれます。
a0016431_20174693.jpg
本社のもっとも大切な「卯の日の神事」、つまり大神祭の奉仕に先 立ち、その前日に神主以下奉仕員が三輪川での「垢離取り」の後、 当社において祓の儀を受けて、はじめて本社の神事にたずさわ ることができました。

a0016431_2018764.jpg●網越神社の磐座


現在は七月三十、三十一日の両日、御祓祭(おんばらまつり)が盛大に執り行わ れ、特設の茅輪をくぐり無病息災を祈る人々で賑わいます。 -境内案内より-
by barakan1 | 2009-11-21 20:23 | 旅日記

桜井市(纒向遺跡~箸墓~恵比寿神社探訪(09-11-14)④豊慶大神~九日社・・・

豊慶大神
a0016431_20184096.jpg
※古墳かなにかでしょうか?
a0016431_20191221.jpg
県道のバス停(箸中)の西側に鎮座。
由緒等不明
巻向川(芝・不動橋付近より)
a0016431_20204354.jpg
柿本人痲呂歌集 巻7-1101
ぬば玉の夜さり来れば巻向の川音(かはと)高しも嵐かも疾(と)き
a0016431_20214172.jpg
柿本人痲呂 巻7-1087
痛足川(あなしがわ)川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居たつらし
國津神社(九日神社)   奈良県桜井市芝812
●西池越しに見る
a0016431_20224953.jpg
祭神
多岐津毘賣命、多紀理毘賣命、狹依毘賣命
a0016431_20233266.jpg
由緒
日本古代のレイラインとされる「太陽の道」は桜井市では、長谷寺、三輪山、桧原神社、国津神社、箸墓が線上に浮かぶと桜井市の公式HPにも紹介されている。 箸墓の東に国津神社が鎮座しており、桧原神社と国津神社とは氏神、産土神のペアとして地域の人々に祀られているようであるが、当九日神社はほとんど取り上げられる事はない。
●陰陽石
a0016431_20241742.jpg
ZOUさんの九日神社に教えて頂いたのですが、小川光三氏の『大和の原像』では、三輪山ー桜井市芝の春日神社ー多神社の、「ミニ太陽の道」が存在するとの事です。確かに三輪山頂の真西は「ミニ太陽の道」です。
ー神南備にようこそーより抜粋
by barakan1 | 2009-11-20 20:30 | 旅日記

桜井市(纒向遺跡~箸墓~恵比寿神社探訪(09-11-14)③箸墓古墳・・・

箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命大市墓)
この古墳墓は「令義解」に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」と書かれていて、当時、既に大規模な古墳だったことが窺える。
●箸墓を北→
a0016431_17231069.jpg
記紀によれば、第7代孝霊天皇の皇女で、大物主神(大神神社の祭神)の妻とされている倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とされており、現在は宮内庁が陵墓参考地として管理している。
日本書紀には「昼は人が造り、夜は神が造った」との記述も残る。崇神天皇十年の条に、倭迹迹日百襲姫命が死んだので大市に葬り、この墓を箸墓(はしのみはか)とよんだ。ところがこの墓は昼は人間が築き、夜は神が造った。しかもこの墓を築造するのに多くの人が大坂山から箸墓まで相並んで手送り式にして石を運んだという。
●箸墓より二上山を見る                ●箸墓付近写真
a0016431_17244341.jpg
この大坂山とは現在二上山麓の香芝市逢坂(旧下田村)と考えられている。この記述は、果たして記録としてどの程度の信頼性があるかは疑問だが,古墳築造の様子が記述されているまれなケースとしても注目される。またこの古墳は、邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓であると言う、いわゆる邪馬台国近畿説でも有名である。
●箸墓西北→
a0016431_17264092.jpg
畿内大和説で、卑弥呼の墓が具体的に提示されているのはここ箸墓古墳だけである。しかし従来、その年代の違いから考古学的には否定する見方が強かった。箸墓古墳は従来、3世紀末から4世紀前半の築造と言われていた。卑弥呼が死んだのは3世紀前半( 248年)であるから」、50年から100年のズレがあったわけである。ところが近年、平成7年2月に奈良県立橿原考古学研究所が箸墓古墳の築造を3世紀後半と発表し、また平成8年12月には奈良県桜井市教育委員会が「纏向石塚古墳」の築造を3世紀初頭と発表したことで、がぜん、邪馬台国畿内(大和)説の有力な根拠として、新聞紙上を賑わせたのである。
●南→
a0016431_17272196.jpg
畿内説は、3世紀には日本は九州から畿内の広い範囲で既に統一され、初期大和政権の首都纒向遺跡の支配は西日本各地に及んでいた、と主張した。橿原考古学研究所附属博物館の館長河上邦彦氏は、「前方後円墳は3世紀の大和古墳群(箸中古墳群、柳本古墳群を含む)で発生する。「径百余歩=約145m」もある「卑弥呼の墓」は、発生期の前方後円墳に相違ないから、邪馬台国はやはりここにあったのだろう。」という。
倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちばか)
孝霊天皇の皇女であった倭迹迹日百襲姫が御諸山(三輪山)の神である大物主神の妻となったとする、有名な神婚伝承を伝える。倭迹迹日百襲姫は箸で下腹部を突いて薨じ、大市に葬られたが、人々はその墓を名付けて箸墓と呼んだとされている。
a0016431_17284960.jpg
a0016431_17283296.jpg
崇神天皇の祖父孝元天皇の妹、倭迹迹日百襲姫命は大物主命の妻となった、だがこの神は夜にばかり通ってきて姿を見せないので姫はまだお姿を見たことがありません、どうか夜の明けるまで居て美しいお姿を見せて下さいと願った、神は「明朝お前の櫛箱の中に入っていようと答えた。姫は朝のくるのを待って櫛箱をあけると中に美しい小蛇がいたので驚いて泣きだすと神は人の姿に戻り「よくも私に恥ずかしい思いをさせてくれた」といって三輪山に帰ってしまった、姫はたいへん後悔しそのはずみに箸で陰処(ほと)を突いて死んでしまった。そこで人々はその墓を箸の墓と呼んだ。   
ー邪馬台国大研究ーより抜粋
by barakan1 | 2009-11-18 17:35 | 旅日記

桜井市(纒向遺跡~箸墓~恵比寿神社探訪(09-11-14)②他田天照御魂神社・・・

他田坐天照御魂神社(おさだにますたまてるみたま)   桜井市太田字堂久保
祭神:天照御魂神 (天照大神荒魂、天照国照火明命とか志貴連祖天照饒速日命とする説あり)
a0016431_17294831.jpg由緒:式内社他田坐天照御魂神社は桜井市戒重の春日神社にあてる説がある。城上郡と明確に書かれており、春日神社の位置は十市郡にあり、この説には無理があるとしている。 当社も春日神社と称していたが、『大和志』が延喜式神名帳記載の社に比定していこう、社名、祭神を変更したと云う。*1
 この神社のある太田の地から見ると立春・立冬は三輪山山頂付近、春分・秋分は巻向山頂上付近となり、日読みの地であったと指摘されている。
●境内全景・拝殿
a0016431_1730448.jpg
他田は訳語田で、敏達天皇が他田幸玉宮に遷座、日祀部を設置している。この地が日知りに適していたからと言われている。
天照御魂神社と呼ばれる神社は、摂津の新屋坐天照御魂神社、山城の木島坐天照御魂神社などがある。
●本殿
a0016431_17333954.jpg
太田と云う住所名は『播磨国風土記』を思い起こす。呉の勝が紀の国の名草の太田から摂津の太田、播磨の太田へと移っていった記述である。 この太田は一方では普通名詞的であるので、云いにくい所であるが、この巻向の太田もその一連の土地ではあるまいか。紀の国の名草の太田から大和で移った呉勝がいたと考えれば、巻向遺跡の主であるかどうかはともかく、 天照御魂神を斎祀ったとは大変なことで、この神は天照大神の原型ともされる神であること、紀の国の日前宮の神との関連、秦氏の古代史上の役割はどうであるかと云うこと、もの凄い謎を秘めた山辺の道(から少し外れた)神社ではある。真南に箸墓古墳が見える。
ー神南備にようこそーより抜粋
a0016431_17344436.jpg※★この神社は今回見学した纏向遺跡の真西直ぐに鎮座します。(左写真)余り由緒のある神社に見えなかったので、全景の写真を撮りませんでした。やはり、ヤマトはあなどれませんねぇ。



今回ルート

by barakan1 | 2009-11-17 17:53 | 旅日記

桜井市(纒向遺跡~箸墓~恵比寿神社探訪(09-11-14)①纒向遺跡・・・

●コース概要
纒向遺跡見学に向かう。晴れの予報が外れ、肌寒い日和となった。そんな中、10時半現地到着。すでに2・3百人は並んでいるか?結局1時間余り待って、遺跡の見学となる。後からも続々と電車から見学者が降りていたが・・。20分ばかりで、アッというまに見学は終わる。
a0016431_20392597.jpg
箸墓を見学し、三輪方面に国道を歩く。途中神社など見学しながら、大神神社入口に到着、ここより網越神社~恵比寿神社を経て、三輪駅より帰途に着く。
纒向遺跡
【卑弥呼の居館か】 奈良・纒向遺跡から3世紀前半の建物跡が出土
a0016431_20415187.jpg
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末~4世紀初め)で、3世紀前半(弥生時代末~古墳時代初め)の大型建物跡1棟が見つかった。市教委が10日発表した。同時期の建物としては、国内最大の面積で、邪馬台国の女王・卑弥呼が君臨した時期にあたり、専門家は「邪馬台国の中枢施設の可能性がある」と指摘している。畿内説と九州説が対立する邪馬台国の所在地論争に影響を与える発見となる。
●西→          南→            東→            北→
a0016431_2042222.jpg
市教委によると、周辺で以前に発掘された3棟とともに中心軸が東西の同一線上に並ぶなど例のない計画的な配置が施されていた。
a0016431_20424541.jpg
大型建物は南北19.2メートル、東西12.4メートル、床面積は約238平方メートルと推定している。柱穴13個(直径32~38センチ)を確認。その間には、一回り小さい柱穴9個(直径23~25センチ)もあった。南北の柱間(約4.8メートル)を支える束柱(つかばしら)だったとしている。東西の柱間(約3.1メートル)にはなかった。
a0016431_2043531.jpg
出土した柱穴群の西側は6世紀に造られた溝で削られていた。しかし、見つかった柱穴の形や並び方から見て、削られた部分にも同様の柱列があったと判断した。
a0016431_2043308.jpg
また、大型建物跡の西側では、すでに3世紀前半の小中規模の建物跡3棟が見つかっていた。大型建物跡と同じ方位を向き、中軸線も東西の同一直線上に並んでいた。周囲からは総延長40メートル以上の柵(さく)列も出ており、大型建物跡など東側の3棟は柵内に区画されていたとみられる。計画的に配列された建物群は、飛鳥時代の宮殿や寺では一般化するが、今回は最古の例という。
a0016431_20435472.jpg
大型建物跡の一部は、方形周溝墓とみられるL字形の溝で壊されていた。溝から3世紀中ごろの土器が出土したため、大型建物の時期は3世紀前半と判断した。纒向遺跡中心部の全体像を探るため、9月から約390平方メートルで調査を進めていた。これまでの調査面積は、遺跡全体の約5%にすぎず、今後の調査によって、さらに東側などに建物などが確認される可能性も期待されている。
a0016431_20442782.jpg
3世紀後半までの大型建物跡としては、吉野ケ里遺跡(佐賀県)の高床式建物跡(2世紀、約156平方メートル)や、樽味四反地(たるみしたんじ)遺跡(松山市)の掘っ立て柱建物跡(3世紀後半、約162平方メートル)などがある。
邪馬台国は、3世紀末の中国・三国時代の史書「魏志倭人伝」に記載されている。宮殿や物見櫓(やぐら)、城柵があったと記されているが、纒向遺跡ではこれまで大型建物跡が出土しておらず、畿内説の「弱点」とされてきた。 産経新聞 ー2009.11.10ーより
by barakan1 | 2009-11-16 20:51 | 旅日記