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海南市・熊野古道(藤白坂~橘下神社)探訪(2009.08.25)⑤橘本土橋跡~橘本神社・・・終

橘本土橋跡
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峠の道を下りきったところに加茂川が流れていてここに土橋が架かっていた。紀伊国名所図会には、この土橋付近には家が建ち並び、駕籠で旅する人・すげ笠を持いる人・親子連 れ・武士などという色々な人が通っている。
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北側には、地蔵・南側には三界萬霊碑(寛政5年《1793年》)があり、交通の要所であった。ここから一壺王子にかけて馬を用立する伝馬所や旅籠が軒を連ねていたものと思われる。また、熊野詣での帰途藤白坂はあまりにも険しいのでここから加茂川に沿って下り、舟の津(今の塩津)から 舟で和歌浦に到ることが天仁2年(1109年)の中御門右大臣宗忠の旅行記「中右記」に記されている。
橘本神社   海南市下津町橘本779
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元は現在地の北の「六本樹の丘」に鎮座していた。六本樹の丘は田道間守が常世の国から持ち帰った橘の木を最初に植えた地と伝えられる。
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創建の年代は不詳であるが、永享9年(1437年)と記された神社の棟札が残っている。天正17年(1589年)、白河法皇が熊野行幸の際に当社で一夜を明かし「橘の本に一夜のかりねして入佐の山の月を見るかな」と詠んだ。
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貞享4年(1687年)、紀州藩主徳川光貞が社殿の修繕を行ったという記録があるが、その後廃頽し、明治初年には橘の老木と小祠だけが残されていた。
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里人の尽力により再興し、明治40年(1907年)11月、現在地の所坂王子(九十九王子の一つ)跡地に社殿を造営して遷座し、所坂王子と近隣の搭下王子・橘本王子を合祀した。
●拝殿・狛犬
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
●境内社 
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天満宮  
秋葉神社(迦具土神) 小殿社(スサノオノミコト) 里神社(アマテラスオオミカミ) 女郎子神社(アメノウズメミコト)
by barakan1 | 2009-08-31 14:42 | 旅日記

海南市・熊野古道(藤白坂~橘下神社)探訪(2009.08.25)④橘本王子跡・・・

橘本王子跡(阿弥陀寺)    海南市下津町橘本1084-2
●地蔵峰寺から橘本へ下る。
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ミカン畑の中を貫く古道の細い道を、かなりの急こう配で下ります。
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途中から橘本の村落が見渡せるあたりから、少し坂道も緩くなります。暫く行くと村落の中へ入り、道標に従って歩くと阿弥陀寺に着きます。その境内に橘本王子(きつもとおうじ)跡地があります。
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阿弥陀寺の境内に橘本王子があったと伝えられるが、遺構らしきものは見られない。境内にはかつて橘の木があり、代々植え次がれてきたともいうが1940年前後に枯死したという。
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●橘本王子への案内板と地蔵尊
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紛らわしいのだが、橘本王子と現在の橘本神社とは別の神社で、橘本王子は橘本神社に合祀されている。
●阿弥陀寺
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古今和歌集 巻第三 夏歌139
よみ人しらず
さつきまつ花たちばなの香をかげば むかしの人の袖の香ぞする
●橘本王子跡
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by barakan1 | 2009-08-29 13:34 | 旅日記

海南市・熊野古道(藤白坂~橘下神社)探訪(2009.08.25)③地蔵峰寺・塔下王子~御所の芝・・・

石造宝ギョウ印塔
藤白坂を登りきったところは、昔地蔵峰寺の境内のあったところである。
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その施設の一つとして石造宝きょう印塔があった。宝きょう印塔はお経を納めることによりもろもろの功徳を積むことが出来ると考えられていた。

地蔵峰寺 「峠の地蔵さん」   和歌山県海南市下津町橘本1612
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当時は藤代王子より熊野古道を登った峠にあり、「峠の地蔵さん」と呼ばれ、大きな石造地蔵菩薩が本尊として安置されている。現在は藤白山延命院地蔵峰峠と称し天台宗に属し和歌浦雲蓋院末になっている。
創建の時代は詳らかでないが、永享10年(1438)の寺の古文書によると、真言律宗に属し寺域も方八町に及び僧徒も相当数在住していたと思われる。本尊の造られた元享3年(1323)の頃はまだ建物はなく八角形の覆屋根程のものであったと想像される。この本堂の建立時期は明確な資料はないが、正面 側柱に「永正十」(1513)の刻書があり、これは落書とおもわれるがこの頃の建立と思われる。
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建物は桁行、梁間ともに三間寄棟造り本瓦葺で、禅宗様の影響が濃厚で、木製礎盤に円柱を立て、柱頭は粽、柱上の出三ツ斗は和様であるが、中備は双斗で柱間二ヶ所ある。内陣天井は鏡天井で周囲1間は化粧天井となっている。

藤代塔下王子跡
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この王子は、明治42年、橘本王子神社に合祀されるまでは、若一王子神社として、イザナギノミコト祭神とする社もあった。社のあった場所は、当時よりせばめられているが、地蔵峰寺の右側にある。地蔵峰寺は、無住であるが、土地の人々に守られている。この寺の背後に回ると御所の芝にいくが、そこからの眺望はすばらしい。

a0016431_21365313.jpg御所の芝

ここからの展望が見たくて訪れたようなものです。評判に違わず素晴らし景色でした。古の人々が苦しい藤白坂を越えて、ホッとした時この景色を見てどんなに感動したのか想像できます。
ここからは万葉集に詠われた万葉故地(名高、黒牛潟、和歌の浦、片男波、雑賀崎)等が望めます。
万葉歌の一部と共に、そのパノラマをご覧ください。
(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。


巻7-1396
紫の名高の浦のなのりその磯に靡(なび)かむ時待つ我れを
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巻9-1672
黒牛潟潮干(しほひ)の浦を紅の玉藻(たまも)裾引(すそび)き行くは誰が妻
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卷7-1213 
名草山(なぐさやま)言にしありけり吾(あ)が恋ふる千重の一重も慰めなくに
山部宿禰赤人
巻-0919 
若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る
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巻12-3175 
和歌の浦に袖さへ濡れて忘れ貝拾(ひり)へど妹は忘らえなくに
巻7-1194 
紀の国の雑賀(さひか)の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ
by barakan1 | 2009-08-28 21:53 | 旅日記

海南市・熊野古道(藤白坂~橘下神社)探訪(2009.08.25)②13丁石~筆捨松~17丁石・・・

■1丁石(有間皇子の墓所)
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□1丁石~7丁石(前回写真)
□8丁石~13丁石(前回写真)
13丁石~17丁石
●~13丁石(前回ギブアップしたところ。あと100メートル行けば13丁石でした!!)
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●13丁石
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●14丁石(筆捨松のあるところ)
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●<投げ松>
第34代舒明天皇(629年~641年)は、熊野へみ幸の途次、藤白峠で王法の隆昌を祈念し、小松を谷底へ投げられた。帰途、小松が根づいていたので、吉兆であると喜ばれ、以来「投げ松」と呼ばれている。
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※ここで、初めて2人の女性ハイカーに出会いました。
<筆捨松>
平安前期(885~888年)のころ、絵師 巨勢金岡(こぜのかなおか)は、熊野詣のとき藤白坂で童子と出会い競画することになった。
金岡は松に鶯を、童子は松に烏を描いた、次に金岡は童子の絵の烏を、童子は金岡の絵の鶯を手を打って追うと、両方とも飛んでいった。
今度は童子が烏を呼ぶと、何処からか飛んできて絵の中におさまった。しかし、金岡の鶯は ついに帰らなかった。「無念!」 と金岡は筆を投げ捨てた。
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童子は 熊野権現の化身であったと言われている。藤白伝承遺跡 (海南ロータリークラブ)
●<硯石> (重さ約10屯)
熊野古道 「筆捨松」 にちなみ、紀州徳川家初代藩主 頼宣(よりのぶ)公の命により、自然の大石に硯の形を彫らせたと伝えられる。 
(熊野古道藤白坂顕彰会
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●15丁石
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●16丁石
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●17丁石
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※17丁席を過ぎ、これで、藤白坂をやっと越え、峠に出ることが出来ました。
by barakan1 | 2009-08-27 16:35

海南市・熊野古道(藤白坂~橘下神社)探訪(2009.08.25)①コース概要・・・

コース概要
a0016431_10474055.jpg●熊野古道「橘本」付近に咲いていた花

藤白坂を再度挑戦してきました。
●コース概要。
天王寺駅7時発~8時半海南駅着~藤白神社~藤白坂(1丁~12丁)は省略、~筆捨松~石造宝ギョウ印塔~地蔵峰寺・塔下王子跡~御所の芝~阿弥陀寺~橘本神社~加茂郷駅~16時天王寺着。歩数21800歩。
今回は涼しいうちに登ったのと準備がよかったのか、体調も十分で、前回どうしてこんなところでギブアップしたのか?不思議なくらいでした。調子がよかったので、冷水浦に下る予定を橘本神社まで足を伸ばしました。橘本からは予想通りバスの便は無く加茂郷まで2時間かけて歩きました。
●コース地図

by barakan1 | 2009-08-26 11:03 | 旅日記

海南市・熊野古道(藤白坂)探訪(2009.08.03)⑨日限地蔵院「日限さん」・・・終

日限地蔵院「日限さん」  海南市鳥居284
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「日限さん」で親しまれている寺の境内は、きれいに手入れされており、水子や家内安全の地蔵さんがたくさん祀られている。
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ここには、和歌山には数少ない義経伝説があり、ガイドブックには「境内には義経の墓があり、左右に鈴木三郎、亀井六郎の墓が並ぶ」という。
by barakan1 | 2009-08-20 17:10 | 旅日記

海南市・熊野古道(藤白坂)探訪(2009.08.03)⑧祓戸王子(はらえどおうじ)跡・・・

祓戸王子  海南市鳥居257-1
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祓戸王子(はらえどおうじ)跡は、如来寺裏手斜面にある墓地の中を通り、頂上を越したところに碑がある。街道からだいぶ離れた場所にあるが、かつてはもっと街道よりの麓近くにあったといわれ、地元の伝承によれば如来寺の隣地であったという。
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1873年(明治6年)に村社に列格された当時は小さいながら社殿があり[10]、1873年(明治6年)付の記録によれば境内288坪とあるが、1909年(明治 42年)に藤白神社に合祀され、跡地には碑が建てられた。
●祓戸王子跡の碑
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「熊野道之間愚記」の建仁元年(1201年)10月8日条には祓戸王子の名で記載が見られるが、藤原経光の参詣記(『民経記』所収)承元4年(1210年)4 月24日条には鳥居王子、仁和寺蔵の『熊野縁起』(正中3年〈1326年〉)には大鳥居王子と記されている。
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室町時代以降はもっぱら鳥居神社の名で呼ばれたと見られ、禅林寺文書や『紀伊続風土記』にも鳥居王子との言及がある。
●祓戸王子跡より海南市を眺める
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この辺りの地名を鳥居と称する。古くは熊野一ノ鳥居があった場所と考えられており、聖域に入る直前に身を清める潔斎所であったようだが、鳥居は天文18年(1549年)に失われたという。
●熊野一の鳥居跡
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熊野本宮大社のすぐ手前にある同名の王子(祓戸王子)も同様の役割を担っていた。今日では、藤白王子の二ノ鳥居の傍らに熊野一の鳥居と刻まれた石碑が設置され、祓戸王子を顕彰している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
by barakan1 | 2009-08-19 14:18 | 旅日記

海南市・熊野古道(藤白坂)探訪(2009.08.03)⑦鈴木邸(屋敷)・・・

鈴木邸(屋敷)   海南市藤白468番地
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鈴木姓全国200万の鈴木さん 紀州藤白がルーツです
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藤白神社の境内には、歴史の匂いをプンプンさせる旧家がたっていて、”鈴木邸”の表札がかかっている。全国200万人いるといわれる鈴木姓のルーツにあたる家である。
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熊野の荘園を管理していた八家のうちの一つであった鈴木家は、平安時代末に熊野から今の海南市藤白に引っ越してきている。このとき藤白神社に、鈴木家の祖先にあたる饒速日命(にぎはやひのみこと)をおまつりした。
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この饒速日命の子孫が、熊野から大和へ向かう途中の神武天皇に、稲をさしあげたところ、”穂積”という姓をもらったと伝えられている。稲穂を積みあげたものは、”すずき”と呼ばれていたので、”鈴木”となったといわれている。また、ナギの”木 ”に”鈴 ”をつけて馬印としたところから付けられたともいわれている。
日本で一番多い姓が鈴木さんなのである。
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熊野信仰がひろまり、熊野神社の末社が全国を網羅して、3千数百社もつくられたように、鈴木姓もひろまっていったのだろうか。霊験あらたかな熊野にあやかろうとしたのかも知れない。122代つづいた鈴木家は、熊野詣の街道筋で、ルーツを訪ねてくる鈴木さんを待っている。
ー熊野古道・和歌山ーより
●庭園の「曲水泉」
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今では、人影もなくあれ放題の屋敷が二棟建っている。建物の裏にまわると、庭園の「曲水泉」が静かに水をたたえている。曲水泉とは、往古、貴人たちの優雅な遊びのために作られた仕掛けである。曲がりくねった水路に沿って庭石が並べてある。客人たちはそれぞれの庭石に腰をかけ、上流から流された杯が自分の目の前にくるまでに詩歌をつくり、杯を取り上げて酒を飲み、次へ流した。造園の年代ははっきりしないが、室町時代のものと推定されている。
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※鈴木氏の系図の中で、鈴木三郎重家や亀井六郎重清が特に有名である。二人がまだ幼少だった頃、牛若丸が熊野往還するとき必ずこの鈴木屋敷に滞在して遊んだという。そんな縁で、二人は源義経の家来になり、奥州の衣川館で戦死を遂げている。
ー紀伊路(きいじ)・中辺路(なかへち)ーより
※真夏ということで、草が茫々と生えており廃屋という言葉がピッタリの風情です。しかし千年もの昔からここに住み、また家の跡が残っているなんて不思議な気がします。昔の形を残しつつ、早く、保存の手が加えられたらいいですね。
by barakan1 | 2009-08-17 14:01 | 旅日記

海南市・熊野古道(藤白坂)探訪(2009.08.03)⑥藤白神社・・・

藤白神社  和歌山県海南市藤白466
●一の鳥居
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主祭神
饒速日命(ニギハヤヒノミコト)(邇芸速日命・藤白鈴木氏の氏神)
●二の鳥居
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御配神
熊野坐大神(クマノニイマスオオカミ)(家津御子大神・本地阿弥陀如来)
熊野速玉之男神(クマノハヤタマノヲノカミ)(伊邪那岐神・本地薬師如来)
熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ) (伊邪那美神・本地千手観音)
天照大神(アマテラスオオミカミ)(中殿)(若宮・本地十一面観音)
祓戸大神(ハラエドノオオカミ)   (祓戸王子)
事解之男命(コトサカノオノミコト)
玉依毘売命(タマヨリビメノミコト)
●手水社・狛犬
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境内社
御祭神
熊野杼樟日命(子守楠神社)(クマノクスビノミコト)
有間皇子(有間皇子神社)恵比寿神社 巳神社 祇園神社 
住吉神社 秋葉神社 塩竈神社 松尾神社
●社務所・拝殿
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御鎮座景行天皇5年
◆由緒
南市を眼下に、遠く和歌の浦、紀淡の海をみはるかす万葉故地「藤白のみ坂」の入口に位置し、太古さながらの楠の大樹にいだかれた当社の由緒は古く、景行天皇五年の鎮座にはじまる。
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その後、斉明天皇が牟婁の温湯(現在の白浜湯崎温泉)に行幸の御時、神祠を創建されたという。そのゆかりで境内社として、有間皇子神社を祀る。
●拝殿
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聖武天皇が玉津島行幸に際し、当社に僧行基を詣らせ、熊野三山に皇子誕生を祈らせたところ、高野皇女ご誕生、よって御母光明皇后は神域を広め、整え、熊野三山の御祭神を勧請し、ここを末代皇妃夫人の熊野遥拝所と定められたことから、子授け、安産、子育ての守護神として崇められるようになった。
●子守楠神社
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孝謙天皇玉津島行幸の際は、供奉した熊野広浜が祖神であるから当社に詣で、「日本霊験根本熊野山若一王子三所権現社」と号した。以来、藤白王子、あるいは藤白若一王子権現社と呼ばれ、「藤代」とも表記された。
●境内社群
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平安から鎌倉にかけての時代、熊野信仰がたかまる中で、この地に大鳥居を建て、熊野一ノ鳥居として熊野九十九王子中、最も格式の高い五躰王子の一となり、熊野聖域の入口、門として、祓戸王子を鳥居の近くに設けた。歴代上皇法皇の熊野御幸は延べ百回に及び、当社に必ず宿泊され、特別な催事が行われた。
●藤白王子権現本堂
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『吉記』(藤原経房)承安四年(1174)九月廿五日の条に「・・・藤代王子に於て里神楽(県指定無形民俗芸能藤白の獅子舞のルーツ)を行い、白米を給ふ・・・宝前信心殊に凝らす感応の甚しきなり」とあり、
●有間皇子神社
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藤原定家は建仁元年(1201)『後鳥羽院熊野御幸記』十月八日に祓戸王子から御所へ二町ばかりの小宅泊 翌九日 天晴 朝出立頗る遅々の間王子御前に於て御経供養等有と云々 白拍子の間 雑人多く立ち隔て路なし 強に参る能はず 逐電し藤代坂を攀ぢ昇る 五躰王子 相撲等ありと云々」と記し、
●有間皇子神社&万葉歌碑
巻9-1675 
藤白の御坂を越ゆと白たへの我が衣手は濡れにけるかも
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同日の藤代王子和謌会詠ニ首倭歌(題深山紅葉 海辺冬月)の後鳥羽院の詠草は国宝「熊野懐紙」として残り、境内に歌塚と歌碑がある。宇多・花山・白河聖王三代の重石、鈴木屋敷庭園、観音堂とともにこれら当時の面影をいまに伝える貴重な文化財である。
「※参照:熊野一の鳥居 藤白神社 由緒」 「前回訪問時藤白神社」
by barakan1 | 2009-08-13 23:46 | 旅日記

海南市・熊野古道(藤白坂)探訪(2009.08.03)⑤熊野古道(8丁石~13丁石)・・・

熊野古道藤白坂②(8丁石~13丁石)
●8丁石
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●黒江潟(名高の浦)を望む
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●9丁石
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◆◆翌658(斉明4)年10月、天皇は紀の湯(牟漏の湯と同地か)に行幸し、有間皇子は留守官蘇我赤兄らと共に飛鳥に留まった。11月3日、赤兄は皇子に天皇の失政を指摘し、皇子は赤兄の態度に喜んで「吾が年(19歳)始めて兵を用いるべき時なり」と言ったという。5日、皇子は赤兄の家に行き、樓閣に登って謀議したが、その時夾膝(おしまき。脇息のことかという)が自然に折れ、これを不吉な前兆として謀反の中止を誓い合った。皇子は市経(いちぶ。奈良県生駒郡生駒町)の自宅に帰ったが、夜半になって赤兄は人夫を率い、皇子の家を囲ませ、駅使を天皇のもとに派遣した。9日、皇子は守君大石・坂合部連薬らと共に捉えられ、紀の湯に連行された。皇太子中大兄は皇子に対し謀反をはかった理由を訊問し、皇子は「天と赤兄と知らむ。吾もはら知らず」と答えた。11日、藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑に処せられた。  アサヒネットー有間皇子より
有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
巻02-0141
磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む
●10丁石
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●11丁石
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●12丁石
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巻9-1675 
藤白の御坂を越ゆと白たへの我が衣手は濡れにけるかも
~13丁石への道(竹林の中)
ここでとうとう、ギブアップしてしまいました。峠までもう少しという地点でしたが、体の調子を考え、近々再度の来訪を誓って藤白坂を戻りました。
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by barakan1 | 2009-08-09 11:44 | 旅日記