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斑鳩の里探訪(2009・05・26)⑤三井の井戸~山背大兄王の墓所・・・

史跡 三井の井戸
●法輪寺~井戸への道
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聖徳太子が掘られたと伝えられる古井戸の一つで、所在地の名称の「三井」や法輪寺の別名である「三井寺」もまたこれによっている。
●井戸の手前の村の鎮守社(由緒・祭神:不明)
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井戸の深さ約4.24メートル、口径0.9メートルで、中ぶくれの筒状になっている。その構造は、底のほうに4個の石を組み合わせ、内外の隙間から水がわきだすようにする。
●三井の井戸
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側壁は、底部から約1.15メートルの高さまでの間を乱石積み、その上方約3メートルの部分は扇方のセンを積んでいる。類例まれな構造から、昭和9年6月26日史跡に指定された。
●井戸・付近の小路
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ー三井の井戸説明文よりー

■山背大兄王の墓所(富郷陵墓参考地) 生駒郡斑鳩町大字三井
地元で岡の原と呼ばれているこの丘陵は、聖徳太子の皇子・山背大兄王の墓所と伝えられ、現在、宮内庁の富郷陵墓参考地となっています。
●富郷陵墓参考地全景(西北→)
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a0016431_13194567.jpg山背大兄王は、法輪寺・法起寺を建てられたとされ、太子の後継者として皇位継承をめぐって田村皇子(のちの舒明天皇)と争われたといいます。
皇極2年(643)11月に斑鳩宮が蘇我入鹿の軍勢に攻められ、太子一族は滅びました
大化の改新の2年前の出来事でした。 
斑鳩町教育委員会
●山背大兄王
推古天皇の時代(7世紀前半)、聖徳太子と蘇我馬子の娘・刀自古郎女とのあいだに生まれる。誕生の地は岡本宮(のちの法起寺)で、三井の井戸の水で産湯をつかったと伝えられる。異母妹の舂米女王(上宮大娘姫王)と結婚して7人の子をもうけ、聖徳太子没後は斑鳩宮(法隆寺夢殿の辺り)に居住した。
●富郷陵墓参考地全景(北→)
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太子および推古天皇薨去後、皇位継承をめぐる政争に巻き込まれ、蘇我氏より迫害をうけたのち、皇極2年(643年)に、蘇我入鹿らの軍によって生駒山に追い込まれた。しかし大兄王は、聖徳太子の遺訓「諸悪莫作、諸善奉行(すべての悪いことをするな、善いことをなせ)」を守り、蘇我の軍に戦を挑んで万民に苦を強いることをいさぎよしとせず、斑鳩寺で一族とともに自害した。
by barakan1 | 2009-05-30 13:23 | 旅日記

斑鳩の里探訪(2009・05・26)④法輪寺(ほうりんじ)・・・

法輪寺(ほうりんじ) 別称三井寺   奈良県生駒郡斑鳩町三井1570
宗派は聖徳宗、本尊は薬師如来坐像。
●斑鳩神社よりサイクリングロードで、法輪寺への道
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創建については、古くから2つの説がある。
1つの説は『聖徳太子伝私記』(嘉禎4年・1238年、顕真著)に見えるもので、聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため、622年(推古30年)に建てた、とする。
●法輪寺全景(南→北)
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今一つの説は『上宮聖徳太子伝補闕記』(平安時代前期成立)および『聖徳太子伝暦』(延喜17年・917年、藤原兼輔著)に見えるもので、創建法隆寺の焼失後、百済の開法師・円明法師・下氷新物(しもつひのにいもの)の3人が建てたとするものである。
●三井神社前より(東→西)見る
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これらの人物の名前については「聞法師、円明師、下氷君雑物(しもつひのきみくさもの)とも伝えるが、いずれの人物も伝記は不明である。
●法輪寺正面・山門・三重塔
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発掘調査の結果、法隆寺再建伽藍(現存)に近い瓦と、それより一段階古い瓦とが出土している。また、前身建物の遺構とみられる掘立柱穴や溝も検出されており、当時の創建は飛鳥時代末期、7世紀中頃までさかのぼると考えられている。
●三重塔
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法隆寺東院の北方に位置する。現存する三重塔は1975年の再建であるため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。
●境内(三重塔・講堂・金堂)
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法輪寺は寺史に関わる史料が乏しいため、創建事情の詳細は不明であるが、発掘調査の結果等から、7世紀中頃には存在していたことは間違いない。本尊薬師如来像と虚空蔵菩薩像も飛鳥時代末期にさかのぼる古像である。
●講堂                          ●金堂
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三井寺と言う別名は、当寺のある三井の地名に由来し、付近に聖徳太子ゆかりと言われている3つの井戸があった所から来ている(3つの井戸のうちの1つが現存し、国の史跡に指定されている)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
●三重塔芯礎                     ●会津八一の歌碑 『鹿鳴集』より
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法輪寺にて
くわんのん の しろき ひたひ に やうらくの
かげ うごかして かぜ わたる みゆ

by barakan1 | 2009-05-29 21:15 | 旅日記

斑鳩の里探訪(2009・05・26)③斑鳩(いかるが)神社・・・

法隆寺~天満池と斑鳩神社(天満宮)   ●東大門を出て、すぐ左へ
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天満池と斑鳩神社の間を行くこの道は、
●松尾寺への表参道
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法隆寺から松尾寺へ参拝する昔からの表参道で、道のあちこちに、昔の人が利用した道標が立っています。松尾寺へは約2㎞。
●天満池より法隆寺方面を眺める (後方法隆寺、はるか後方二上山)
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斑鳩(いかるが)神社   奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1丁目11番
●神社正面(西向き)
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祭神:菅原道真公
境内社:総社明神、五所明神(法隆寺東院の総鎮守)、白山権現、
      (いずれも法隆寺境内に有りましたが、明治2年に遷祀されました)
      大将軍社、厳島社、恵比須社、の六社が有ります
●参道石段より境内拝殿を見る
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ー由緒ー
「斑鳩神社は、旧法隆寺村の守り神として、丘の麓にありましたが、元享四年(西暦1324年)に現在のところに遷したといわれています。地元では『天満さん』の名で親しまれています。
●境内すぐ右に手水社と牛の石像
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菅原道真公(西暦845~903年)をまつる神社で、天慶年中(938年以降)に、法隆寺9代管主湛照僧都(938~946年)により建立されました。
●境内より拝殿を見る
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また、湛照僧都管主は、菅原氏の後裔であることも関係し、ここに建立したと伝えられています。境内には、本殿、一殿、二殿と惣社、五所社、白山社、大将軍社、厳島社、恵比須社の六社がまつられています。
●本殿(その他の社殿は見え辛い)
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10月中旬には、家内安全と五穀豊穣を願って、五台のふとん太鼓が練り繰り広がられます。」
●参道上がる左手に境内社(伊香留我伊香志男命を祀る祠、右えびす社)
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ー案内板ーより
(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2009-05-28 18:45 | 旅日記

斑鳩の里探訪(2009・05・26)②法隆寺・・・

法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれています)  奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
●法隆寺伽藍配置図
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飛鳥時代の遺構を伝える法隆寺は、金堂に安置されている薬師如来の光背銘によると、用明天皇が自らの病気平癒を祈って薬師像と寺の建立を発願したが、その完成を待たずに崩御し、その遺命を受けた推古天皇と聖徳太子が607(推古15)年に完成したとあります。 金堂釈迦三尊像の光背銘によると、621(推古29)年に間人皇后が亡くなり、622(推古30)年に太子も病いに倒れ、太子を看病していた妃膳夫人も病床に臥したといいます。そのとき、他の太子の妃や山背大兄皇子をはじめとする皇子、諸臣が太子と等身の釈迦像の造顕を発願したが、膳夫人、聖徳太子と相次いで薨去したといいます。そこで、623(推古31)年に釈迦像を仏師・鞍作止利に造らせたと伝えられます。 そして643(皇極2)年、蘇我入鹿に攻められた山背大兄皇子一族は、斑鳩寺で自害し、聖徳太子一族は滅亡しました。
●南大門より、中門越しに五重塔を見る
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『日本書紀』によると、670(天智9)年に法隆寺は一屋も余すことなく焼失したといいます。金堂と五重塔を擁する現在の西院伽藍は、天武・持統朝に着工され和銅年間(708~714)には完成されていたといわれます。ー岩波書店「日本古典文学大系新装版」ー
●南入口から南大門方向に「参道」を見る
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●法隆寺の国宝「南大門」
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法隆寺の玄関にあたるのが「南大門」、室町時代の1438年(永享10年)に再建され、三間一戸の八脚門、深い屋根を持つ室町様式の単層入母屋造です。
●法隆寺の「五重塔」と「中門」
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参道の正面には、飛鳥時代に建てられ何れも国宝の法隆寺「五重塔」と「中門」が写真の様に見えています。
a0016431_11472376.jpg●法隆寺の国宝、謎の「中門
法隆寺西院伽藍の正面が飛鳥時代建立の「中門」です。間口は子孫継ガザル不思議な相で、中央に柱が建つ4間、奥行3間、重層入母屋造、正面中央2間の奥と表に二重の観音扉を設けて、東西両端に天平時代の711年(和銅4年)に造立された国宝の「金剛力士像」が控え、向って右の阿形は塑造、左の吽形は頭が塑造で胸が木造、我が国最古の仁王さんです。
上記ー奈良観光ーより抜粋
●中門前より「東大門」を望む                ● 中門前より「西大門」を望む
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また、参道をちょっと上がって中門の手前に見えている左右(東西)に延びる道を行けば東西大門があります。

a0016431_11493177.jpg●東大門より、東伽藍(夢殿)方向を望む

※新型インフルエンザの影響か?修学旅行生は一組しかおらず、境内は閑散としている。法隆寺には3度程きているがこんなに人が少ないのは初めてである。マスコミで伝えられる観光地の苦戦の状況をマジかに見る思いだ。早く終息してもらいたいものだ!! 今回は伽藍には入らず、外からのみ拝観し、夢殿もパスして今回の目標である、法輪寺、法起寺方面に向かう。(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2009-05-27 12:00 | 旅日記

斑鳩の里探訪(2009・05・26)①コース概要・・・

a0016431_17523668.jpg斑鳩の里探訪
コース概要。
0時天王寺発~法隆寺駅10時半着~法隆寺~斑鳩神社~法輪寺~三井の井戸~三井神社(天満宮)~山背大兄王の墓所(富郷陵墓参考地)~法起寺~郡山駅~天王寺・自宅着15時。歩数15000歩でした。
暑さに参ってしまって小泉城跡まで歩く積りが法起寺でギブアップしてしまいました。

富郷陵墓参考地の斜面に咲いていました。
名 前 ニワゼキショウ(庭石菖)   
ナンキンアヤメ(別 名)
北アメリカ生まれの帰化植物で、明治20年頃、観賞用に取り入れられたものが野生化しました。ニワゼキショウの名前は、葉の形がセキショウに似ているからです。花の色は紫、ピンク、白などがあります。一日花ですが、次々と咲いてきれいです。花が散った後には、小さな球形の実ができます。
探訪地付近地図

by barakan1 | 2009-05-26 18:15 | 旅日記

橿原市探訪(2009.05.12)⑩吉備池廃寺(跡)・・・終

吉備池廃寺(跡)    桜井市吉備
●西→東
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奈良県桜井市吉備で1995年に柱穴などが見つかり、97年の調査で、7世紀中ごろの寺院跡と判明した。
●北→東南
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これまでに飛鳥時代で最大の規模を誇る金堂や高さ約90メートルと推定される九重塔の基壇、塔と金堂を囲む回廊、僧侶が生活した僧坊などの跡が確認され、出土した瓦の年代などから、この遺跡が、舒明天皇11年(639年)に造営が始まった初の国立寺院「百済大寺」とする説が有力となった。

●北→南
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東側の基壇は東西37m・南北約28mあり、寺院の金堂跡とされ、西側は一辺約30m四方あり、九重の塔が建っていたと推測されています。
●南→北     (真ん中森は春日神社)
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●吉備池堤の万葉歌碑

大津皇子
巻03-0416 
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ


大来皇女
巻02-0165
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む
by barakan1 | 2009-05-24 14:09 | 旅日記

橿原市探訪(2009.05.12)⑨春日神社(吉備)・・・

春日神社(吉備)  桜井市吉備259
御祭神  春日四神(天児屋根命・姫大神・武甕槌命・経津主命
       天武天皇 大津皇子(磐坐)
●神社遠景 ●入口 (磐余池辺双槻宮があったとされる付近の春日神社)
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用明天皇は磐余(いわれ)池の畔に新しい宮を造営した。宮の前にケヤキの大木が二本そびえていたので、磐余池辺双槻宮(いわれいけのべのなみつきのみや)と呼ばれた。ところが、現在この宮跡の所在がはっきりしない。
●鳥居・拝殿
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伝承では、桜井市吉備にある春日神社あたりに磐余池辺双槻宮あったとされている。しかし、確証がある訳ではない。春日神社の横に「磐余邑」の碑が立っている。このあたりは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が決戦した故地でもある。
●本殿
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春日神社の近くにため池がある。残念ながら磐余池ではなくて、吉備池と呼ばれている灌漑用の池である。最近の発掘調査で池の底から寺院跡が発見された。「吉備池廃寺」と名付けられたが、舒明天皇の時代に建立された百済大寺ではないかと推測されている。ー聖徳太子ゆかりの宮跡ーより
●神武天皇東征の聖蹟碑         ●境内万葉歌碑
神武天皇はこの磐余の地で最後の勝利を得たとされているのである。
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万葉歌碑 大来皇女
巻02-0163
神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに

懐風藻  大津皇子
臨終   
金烏臨西舎  
鼓声催短命  
泉路無賓主  
此夕離家向
  

金烏(きんう) 西舎(せいしゃ)に臨み
鼓声(こせい) 短命を催(うなが)す
泉路(せんろ) 賓主なし
この夕(ゆうべ) 家を離(さか)りて向う

日は西の家屋を照らして西に傾き、
夕刻を告げる鼓の音は、自分の短い命をさらにせき立てるように促す。
死出の道には客も主人も無く、自分ひとりだ。 
この夕べ、自分は家を離れてひとり死出の旅路に向かう。
by barakan1 | 2009-05-21 14:57 | 旅日記

橿原市探訪(2009.05.12)⑧稚櫻(わかさくら)神社・・・

稚櫻(わかさくら)神社   奈良県桜井市池之内1000
●神社北→南を見る  (左稚櫻神社               右御厨子神社)
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祭神; 出雲色男命(※)、去来穂別命(履中天皇)、気長足姫命(神功皇后)
※物部氏始祖・饒速日命の三世の子孫、また、長真胆連(稚櫻部造)の四代前の祖先にあたる
●神社北東→    (左下は2005年の様子)
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境内社: 高麗神社(武内宿禰)、天満神社(菅原道真)
末社:  厳島神社(市杵島姫命)、八坂神社(素戔鳴命)
●神社入口鳥居
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稚桜神社縁起
稚桜(わかざくら)名の由来は履中紀三年十一月、天皇は皇妃とともに磐余市磯池(いわれのいちしいけ)に
●磐余市磯池推定地a0016431_1454872.jpg
両枝船を浮かべて船遊びを楽しんだ。膳臣余磯が天皇に酒を献じたとき、桜の花が舞い落ちてきた。「咲くべき時季でないのに咲いた。いったいどこの花だろうか。」不思議に思った天皇は、物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)に命じて探させた。長真胆連は探し回って、やっとのこと掖上の室山で見つけ出し献上した。天皇大いに喜び即座に宮の名を磐余稚桜宮と名付け、長真胆連の姓を稚桜部造と、余磯を稚桜部臣と改めた。
●神社境内・拝殿(下写真は2005年の同所)
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この地は磐余池を望み神功皇后・履仲天皇の居所であった磐余稚桜宮跡という。
文政3年(1820)の宮座文書にも「当村氏神天満宮」(梅咲直昌文書)とあつて、天満宮→稚桜神社→磐余稚桜神社→若桜神社と改変の跡がみとめられる。
●拝殿・狛犬
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昭和49年の奈良県神社庁編『奈良県神社職員録』によると社名は若桜神社であるが、平成七年(1995年)の「全国神社祭祀祭礼総合調査」(神社本庁)では稚桜神社(ちざくら)としている。
●本殿   左右に末社(左天満神社・右高麗神社)
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文禄四年(1596)の棟札には、祭神が現在と同じになっているが、江戸中期頃からの書き物(宗国史など)には祭神が天満天神に変っている。しかし、社名は文禄の棟札にも寛文九年(1669)、安永三年(1774)、弘化四年(1847)、明治十四年(1881)の棟札にも「稚桜」と明記されている。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁
●荒神の小祠、稲荷大明神、愛宕大権現、富士大権現、天照・春日・八幡、三宝荒神、金毘羅
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※前回(2005)探訪時は台風で木が倒れ、山の上の社殿は裸状態でしたが、今回行くと、見違えるほど木々が繁茂し風景は一変していました。より神社らしく神々しさが増したようでした。(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
ー延喜式神名帳ーより抜粋
by barakan1 | 2009-05-19 15:06 | 旅日記

橿原市探訪(2009.05.12)⑦御厨子山妙法寺 (みずしさんみょうほうじ)・・・

御厨子山妙法寺 (みずしさんみょうほうじ)
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御厨子神社南側に境を接してあります。現在は高野山真言宗のお寺です。
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磐余池が付近にあったと推定されることから、大津皇子の法要なども営まれることもあり、現在では神社よりも知られる存在であるかも知れません。
●妙法寺本堂
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創建は、縁起によれば右大臣吉備真備によると伝えられているそうです。遣唐使として入唐後、子供の善覚律師に命じて観音堂を建立させたとされ、盛時には妙法寺、北室院、南室院などが在ったようです。
●妙法寺より磐余池~稚桜神社方向を見る(東)
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※吉備真備は、このお寺の北東約1Kmにある桜井市吉備が本拠地だとされ、屋敷跡や塚とされる五輪塔などが今に伝わっています。
ー飛鳥三昧ーより
by barakan1 | 2009-05-18 16:09 | 旅日記

橿原市探訪(2009.05.12)⑥御厨子(みずし)神社2・磐余池・・・

磐余池の推定地 
●御厨子神社入口前(東側)万葉歌碑
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池はとうに消滅し(干拓され、田園の一部と化)し、正確な場所はわからなくなっています。・・・が、磐余地域の地名に「橿原市東池尻町」「桜井市池之内」があり、池の存在を窺がわせます。
●御厨子神社前より東を見る
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大津皇子の死を被(たまわ)りし時、磐余(いはれ)の池の陂(つつみ)にて涕(なみだ)を流してみよみませる御歌一首
巻03-0416 
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
●稚桜神社参道石段より、御厨子神社(西)を見る。(その間が磐余池?)
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橿原市の御厨子(みずし)神社と桜井市の稚桜(わかざくら)神社にはさまれた部分が、どうも磐余池の跡らしいと推定されています。

a0016431_1113387.jpg月輪石
神社の拝殿に向かい右手、竹薮中にあります。 
大きさは、長さ3.7m、高さ1.4m、幅1.9m。中央部の亀裂は40cm。
この石も古代信仰の名残なのでしょう。神の依代である磐座として今も祭られています。
※御厨子(みずし)神社祭神の根裂神(ネサクノカミ)は、伊邪那岐命(イザナギ)が十握剣(とつかのつるぎ)で軻遇突智神(カグツチノカミ)を斬った時、剣の峰から滴り落ちた血からなった神とされています(書紀)。古事記では「根折神」(ねさく)と書かれます。どちらも木の根を裂くほどの威力のある雷神とされています。木どころか岩まで裂き割ったのでしょうか。
by barakan1 | 2009-05-17 11:17 | 旅日記