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松原市探訪2(2009.03.12)⑥柴籬神社(しばがきじんじゃ)2・・・終

柴籬神社(しばがきじんじゃ)
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田坐神社              ●拝殿                     ●天神社
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反正(はんぜい)天皇 (多遅比瑞歯別命:タジヒノミズハワケノミコト)
●境内社群   稲荷神社・勝手神社
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この天皇の事跡は記紀にはほとんどない。先代の履中天皇紀に、履中即位に関しての逸話が残されているくらいで、兄のために住吉仲皇子を討ったその功績により、履中天皇の実子をさしおいて、履中天皇在位中に皇太子に立てられた。
●歯神社・住吉神社
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古事記の反正天皇の段には、「水歯別命(みずはわけのみこと)(反正)、多治比(たじひ)の柴垣宮に坐(いま)しまして、天(あめ)の下治めたまひき。
●大歳神社(?)
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此の天皇、御身の長、九尺二寸半。御歯の長さ一寸、広さ二分、上下等しく斉(ととの)ひて、既に珠(たま)を貫(ぬ)けるが如くなりき。天皇の御年、陸拾歳(むそち)ぞ。御陵は毛受野(もずの)に在り」とあり、日本書紀の反正天皇元年条には、「冬十月に、河内の丹比に都つくる。是を柴籬宮と謂す。是の時に當りて、風雨時に順ひて、五穀成熟(みの)れり。人民富み饒(にぎわ)ひ天下太平なり」とある。
ー邪馬台国大研究・天皇陵巡りーより抜粋
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●歯磨き面
『古事記』によると、反正は歯が丈夫な上、歯の長さ一寸(約三センチ)。上下等しく整い、玉を貫くようであったという。このため、反正は瑞歯別(みずはわけ)天皇と呼ばれた。


◆◆井原西鶴句碑
第18代反正天皇の都である丹比柴籬宮跡と伝える柴籬神社で白色の花を咲かせた木槿の木を詠んだものです。
柴籬宮 むくけうへてゆふ柴垣の都哉
この西鶴の句をひきだしたかのように、同句の前で、三田浄久がやはり柴籬宮を題材に
柴垣のみやこに咲や車ゆり 
と詠んでいます。
by barakan1 | 2009-03-30 19:55 | 旅日記

松原市探訪2(2009.03.12)⑤柴籬神社(しばがきじんじゃ)1・・・

柴籬神社(しばがきじんじゃ) 大阪府松原市上田7丁目12-22
●西入口・鳥居
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祭神:、反正天皇(多遅比瑞歯別命:タジヒノミズハワケノミコト)、菅原道真公、依羅宿禰 
境内社:住吉社、歯神社、稲荷大神社、勝手大神、大歳社、正井殿、十二社権現社。
●南入口
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柴籬神社は反正(はんぜい)天皇(多遅比瑞歯別命)を祭神とし、第24代仁賢天皇の勅命により創建されたと伝わる。この付近は反正(はんぜい)天皇の皇居、柴籬宮の跡と伝えられています。
●南正面
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反正(はんぜい)天皇(18代)父: 仁徳天皇 第3子
母: 磐之媛命(いわのひめのみこと:葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘)
●境内参道・一の鳥居、手水舎
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記紀は、反正天皇が丹比柴籬宮で即位したと伝えている。大阪府松原市上田七丁目にある柴籬神社には、このあたりに丹比柴籬宮があったという伝承が残っている。
●二の鳥居、奥拝殿
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同社は反正天皇他を祭神としており、柴籬神社の南門に「反正天皇柴籬宮址昭和十九年一月 大阪府建立」の石碑があり、西鳥居前にも「丹比柴籬宮址 大正八年 大阪府」の石碑が建てられている。
●拝殿
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●本殿(祠は田坐神社)              ●拝殿内陣
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この伝承が事実であれば、大和王権の宮城が河内におかれた初源となるが、考古学的には現在の所、宮の存在を確かめる遺構や遺物は発見されていない。地元には宮号を引き継いだ神社名や、神社西方に反正山(はじやま)の地名が残る事などから、宮跡の有力な候補地であると主張している。
by barakan1 | 2009-03-29 17:11 | 旅日記

松原市探訪2(2009.03.12)④十二社権現宮・・・

十二社権現宮  大阪府松原市新堂3丁目
祭神:イザナギミコト、イザナミノミコト他天神七代、地神七代
●神社遠景
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十二社権現は熊野権現に祀られている伊邪那岐命、伊邪那美命などの天神七代、地神七代を祀ったもので、熊野詣での無事を祈るため街道沿いに熊野十二社の分霊が祀られた、のちに熊野詣でが衰え高野詣でが盛んになるなるにつれ、高野詣での無事を祈ると共に高野詣でにいけない人々のこの十二権現は大事な神様であった。
●社殿正面より
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ここの十二社権現宮は古来、新堂村の鎮守として住吉街道沿い(中高野街道との交差点の北東角地)にあった、住吉街道はこの地で中高野街道に交差していて、高野詣や熊野詣の遥拝所もかねていた。
戦国時代の永禄年間(1558~69)の創建と伝えています。
良念寺前にあったが昭和52年に今の地に移動した。
●社殿近景 狛犬・灯篭
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一般に神社は木が茂っていて見つけやすいが、この宮は近くでも見通し悪く、児童公園の前を通っても、遊具や宮が見えずに私有地の広場(車庫)にみえるので、行き過ぎ、非常に見つけにくい。写真に見える自転車屋の横の道から入るとすぐに判るがこれは裏道で商店街からみると通れるとは見えない道。
●神社付近
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なお、この宮の載っている地図を見たことが無い。
ー河内松原の神々ーより抜粋
by barakan1 | 2009-03-28 14:06 | 旅日記

松原市探訪2(2009.03.12)③高見神社・・・

高見神社   大阪府松原市高見の里3丁目
御祭神      女神でシンメイ様
●神社遠景
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松原の民話には、ほかの地に類の少ない古代民話が残っています。
このお話は、高見神社に伝わるお話です。昔から高見神社の神様は、夜にお参りに行っても留守なので昼間に参らねばならないと伝えられています。現在は建て替えられて見ることが出来ませんが、建て替えられる前の神社の屋根には女性のシンボルが掲げられていたそうです。
●狛犬、社号標、鳥居、
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さて、ずうっとずうっと昔のこと、松原には、反正天皇と呼ばれるご立派な天皇が今の柴籬神社がある場所に御在所あそばされていたそうです。
そんなある日のこと、いつものように天皇が馬を走らせて高見神社あたりまでこられた時の事でした。頭の高さより高く藁把をたっぷりと背中に背負った少女が、周りをゆっくりと眺めて満足そうな笑みを浮かべている姿に出会いました。天皇は、その少女の自信に満ちた堂々とした姿を不信に思い「どうしてそのように満足な笑顔で立っているのか」と尋ねられたそうです。すると少女は「私は田畑も持たず、こうして藁を売り歩く貧しい者ですが、この地に立って噂の通りの天皇である事を知り、この地で生活をしようと決めたところです」と、しっかりとした口調で答えたそうです。そこで天皇はかさねてその意味を問うと、「ご覧下さい。この場所はこの辺りでは一番高い所にあります。この地で周りを眺めると、あちらこちらから夕食の支度をしているかまどの煙が、豊かな生活を象徴するようにたち昇っております」と答えたと伝えられています。
●拝殿、狛犬
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この出会いがあってから、天皇はこの利発な少女を大層気にいられて、出会った地を「高見ノ里」と名付けられ、少女をこの地に住まわされたといわれてています。伝えられている話によりますと、やがてこの少女が天皇と結婚して高見神社にお住まいになり、柴垣神社へ夜になるとかよい妻となってお出かけになるのだそうです。
●境内・拝殿
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高見神社の御祭神は、女神でシンメイ様と伝えられていますが、この少女であるという証拠は何も残っていません。 ー松原の民話 8話ーより抜粋
by barakan1 | 2009-03-27 11:29 | 旅日記

松原市探訪2(2009.03.12)②布忍(ぬのせ)神社・・・

布忍(ぬのせ)神社   大阪府松原市北新町2-4-11
●神社遠景(右下・西除川)
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御祭神
    速須佐男之尊(はやすさのおのみこと) 
    八重事代主之尊(やえことしろぬしのみこと) 
    建甕槌雄之尊(たてみかづちおのみこと)
摂社  末広稲荷社 宇迦之御魂大神
●西入口(神門)                     ●東入口鳥居
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由緒
『大阪府全志』本地(大字向井)は古来は丹北郡に属し、もと布忍荘の内にして向井村と称す。字地に宮村といへるあり。河内志村里の條に「向井屬邑一」と記せるは、此の字地を指せるものならん。
●神門~拝殿                       ●手水舎
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布忍神社は西方字坊中にあり、阿麻美許曽大神、事代主命、武甕槌命を祀れり。里老の口碑に依れば、社はもと八町許り北方なる字天見丘にありしを、白布を敷きて当所に迎え奉る。故に社名を布忍と号し、村名を向井と称すと社の近傍なる氏子の各村は毒虫の到ることなく、神霊の奇瑞なりと称して崇拝せり。
●拝殿・狛犬
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明治五年村社に列し、大正四年八月神餞幣帛料供進社に指定せらる。境内は七百七拾壱坪を有し、本殿・幣殿・拝殿・絵馬舎・社務所を存し、末社に春日神社・水分神社あり。氏地は本地及び大字高木・同東代・同清水・同更池・天美村大字掘にして、例祭は十月十五日、夏祭は七月十三日に行はる。ー神南備にようこそーより抜粋
●拝殿内陣                         ●本殿
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◆布忍(ぬのせ)と云う地名について
布忍の名は史料には随分早くからみられるのです。
『日本書紀』の景行天皇51年8月条に、景行の皇子である日本武尊の妃や子に関して「日本武尊は両道入姫皇女(ふたち゛のいりびめのひめみこ)を娶して妃とし、稲依別王(いなよりわけのみこ)を生めり。次に足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこ)。次に布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)。次に稚武王(わかたけのみこ)とあります。
●神社境内
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日本武尊の皇女として、布忍入姫命が記されていることが注目されます。同姫の記述はこれだけですが、父の日本武尊の白鳥陵が古市に、兄の足仲彦(仲哀天皇)の墓が藤井寺に所在すると伝えることから、布忍入姫命も布忍に関わりがあると推察されます。
●境内社 末広大明神           白龍大神社           加太淡嶋社   
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また、『新撰姓氏録』河内皇別の条に「布忍首。的臣同祖、武内宿禰の後なり。日本紀に漏れたり」とあるので、大和王権から律令制の時代、布忍の地を本拠とした布忍首という氏族がいたこともうかがえます。ー歴史ウオーク26ーより抜粋
●春日神社         水分神社                      白姫大神社
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◆◆布忍八景絵馬に読まれた歌(抜粋)
歌学者 下川辺長流
さく花も神のこたまの冬めきていかきの桜雪をこすなり
国学者 契沖
植置きてたむける神のミや桜ひとの心もミれはのとけし
※よく手入れされて清潔な感じのする社です。石垣から境内を覗いていて、急に落ち葉を燃やしていたおばあさんから声を掛けられびっくりしました。「よう、お参り」といってくださいました。
by barakan1 | 2009-03-25 13:49 | 旅日記

松原市探訪2(2009.03.12)1コース概要・・・

コース概要。
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a0016431_11404565.jpg●上田町で見た花

阿倍野橋10時半発~布忍駅~布忍神社~高見神社~高見の里から電車で河内松原へ~十二社権現~柴籬神社~松原駅~阿倍野橋~自宅14時着。歩数5800歩。半日の探訪となりました。
(*^_^*)★地図写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2009-03-24 11:43 | 旅日記

松原市探訪1(2009.03.10)⑨田坐(たざ)神社・・・終

田坐(たざ)神社  式内社 大阪府松原市田井城 5-11(河内国丹比郡田井郷)
●神社入口(西)                    ●鳥居              ●手水舎
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祭神 依羅宿禰命(よさみのすくね)
   呉服漢織女神(くれはあやはのかみ)
   豊宇気昆売神(とようけひめかみ)
●拝殿・狛犬
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社伝によればこの地は養蚕、絹織物の発祥の地であると言う。雄略天皇14年(4世紀後半)に呉服漢織、呉の国より来たりて住吉浦に泊す。勅して丹比の田座の地に迎う、即ち磯歯津路(いしつじ)を経て田座の地に来たり、桑を植え、蚕(かいこ)を飼い、絹糸を作る。依羅宿禰これを管す云々・・・。という記述があり雄略天皇の命によりこの地に桑を植え絹糸を製したという。依羅宿禰氏の祖神と朝鮮から渡来した絹織物の技術者二人の女性を現す神及び豊穣の神を祀っている。ー神社由来石碑よりー
●拝殿左横より
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田の中に在る神から社名が生まれた。中世には岩清水八幡宮の荘園となり八幡神を祀っていたと言う。明治の神社統合で柴籬神社に合祀大正14現在の旧社地に復座した。
●拝殿・後方社叢
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◆条里制にいきづく集落・農地・氏神
古代にさかのぼっても、田井城は律令制の土地区画である条里制遺構がいまでも各所に残っていることで有名です。歩いていると見過ごしますが、地形図などで確かめると、農地の畔や道路区画、あるいはため池の1辺が約650mのほぼ正方形をなすものが見られます。これは、条里制の1里の1辺が約648mであることとほぼ一致しています。
●神社横、古い民家
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この集落の中心に鎮座している神社が、延喜式内社の田坐神社です。田坐神については、『日本三代実録』の貞観4年(862)4月条に「旡位田坐神に従五位下を授く」とあり、つづいて同年5月条に「田坐神を官社に列す」と記されています。
ー歴史ウオーク20-より抜粋
●条里制の址
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●田坐神社。田坐は「田にいます」の意味と考えられる。
●田井城は条里制の4条にあたる.
◆神社由来石碑に、田井城の地を詠むとして、以下の万葉歌を掲げてある.
万葉集
卷10-2249
鶴がねの聞こゆる田井にいおりして吾が旅なりと妹に告げこそ
卷10-2250
春霞たなびく田井にいおりして秋田刈るまで思はしむらく
by barakan1 | 2009-03-23 17:27 | 旅日記

松原市探訪1(2009.03.10)⑧阿保(あお)神社・・・

阿保(あお)神社   大阪府松原市阿保5丁目4?19
●神社正面(東向)
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祭神:菅原道真公、阿保親王、市杵嶋姫(天照の第三の姫、神仏混交時代には、弁財天とよばれる)
境内社:阿保親王社、市杵嶋姫社
◇菅原道真公が大宰府に流されていく途中、道明寺の覚寿尼に一夜のいとまごいをされた時に、浪速からの往き帰りに、この地で休息されたことから、この地に阿保神社が建てられたそうです。
●神社境内・拝殿(東向)
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◇「アオ」の地名は「アボ」親王から?
阿保の読み方は珍しいでしょう!?。「あお」と読みます。
地名の由来は、平城天皇の第2皇子である阿保(あぼ)親王の別荘地からきたと言われています。
●拝殿・拝殿内部
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◇親王は、平安時代初頭の弘仁元年(810)に起こった薬子の変(嵯峨天皇の時代、藤原薬子・仲成が平城上皇の復位をもくろんだ事件)に関連して、大宰権帥として九州へ左遷されましたが、のち許され、承和元年(834)に河内国丹比郡田坐に別荘を造営したと伝えられています。田坐の地は、現在の阿保から田井城のあたりに当たると考えられます。
●阿保親王社                          ●市杵嶋姫社
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『続日本後紀』によれば、親王は性格は謙退で、文武の才能を兼ね、絃歌に秀でていたといいます。 しかし、承和9年(842)に51歳で亡くなりました。
★六歌仙の1人である在原業平は、阿保親王と桓武天皇皇女の伊都内親王との間に生まれた第5子です。
古今和歌集 (巻17・雑歌上900)
業平朝臣の母のみこ
老いぬればさらぬ別れもありといえばいよいよ見まくほしき君かな
(巻17・雑歌上901)
業平朝臣
世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もとなげく人の子のため
ー歴史ウオーク23-より抜粋
●ご神木(楠) 大変立派なご神木です(樹齢?何百年くらいなのでしょうか?)
 幹周/4.85m、樹高/20m、樹齢1000年  
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阿保親王墓
阿保天神社(芦屋市)
by barakan1 | 2009-03-22 17:57 | 旅日記

松原市探訪1(2009.03.10)⑦深居神社・・・

深居神社   松原市小川5丁目26番4号
●深居神社全景(前面道路・古市街道)
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祭神:品陀別命(応神天皇)
この深居神社は、奈良時代の養老元年(717)の創建と伝え、品陀別命(応神天皇)を祀っています。棟札から、一間社流造りのこけら葺の本殿は、江戸前期の万治3年(1660)に建てられました。また、寛政5年(1793)をはじめとする多くの絵馬が拝殿天井に掲げられています。
●正面鳥居・参道
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もともと、同社は小川だけではなく、津堂や市域の若林・大堀・川辺(大阪市平野区)の総産土神でした。それが、元弘~建武期(1331~35)以降、現在のように小川一村の氏神となったのです。ですから、深居神社から分かれた若林神社・大堀八幡宮・津堂八幡宮・川辺八幡宮の祭神も品陀別命なのです。
●拝殿・狛犬
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深居神社本殿が建つマウントも古墳の墳丘を想定させるとともに、境内からも須恵器が見つかっているそうです。こうしたことから、古墳時代における小川の有力者のお墓(古墳)は、集落の北西にのち建てられた深居神社付近にあった可能性があります。 --松原市(ウオーク37)より-
●本殿
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深居神社立石は、いまでは「歯神さん」としてまつられています。立石前には中世の一石五輪塔が2基おかれています。
●歯神さん
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※昔は小川だけではなく、津堂・若林・大堀・川辺の総産土神だったことを思えば、寂しいお姿です。境内もせまく(横に公園が整備されて広くは見えますが)、樹叢も小さくこじんまりしています。でもきれいに清掃されて、よくお祀りされているようです。
by barakan1 | 2009-03-19 17:47 | 旅日記

松原市探訪1(2009.03.10)⑥若林神社・・・

若林神社   松原市若林1丁目
●若林町神社あたり(橋の左すぐ大和川、右は神社社叢)
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祭神:品陀別命(応神天皇)
主な文化財:御幣収納木箱
中世の元弘、建武(1331~1337年)に深居神社から分祀されたという。
●神社正面
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河内守護の畠山氏と将軍家・戦国群雄の攻防
この、畠山氏の後継者争いから、京都で応仁の乱(1469~77)が起こったことはよく知られていますが、これを始めとして若林は中世史書に戦場として登場します。同地では若林1丁目に鎮座する若林神社が微高地の最高所にあたります。今では大和川の堤防の方が高いくらいですが、昔は戦略の要衝だったのです。
●拝殿・狛犬
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江戸時代前半、延宝年間の「若林村絵図」に、同社は八幡宮とあり、今とは比べられないほど広大な境内地が森で囲まれています。 同地が小字「若林」であるうえ、鎮守の森が陣取場になりやすいことから、神社付近が戦略拠点にふさわしい場所だったのでしょう。
ー河内松原の神々ーより抜粋
by barakan1 | 2009-03-18 18:53 | 旅日記