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大阪市(天王寺・中央区)探訪(2008・12・18)③高津宮2・・・

高津宮  大阪市中央区高津1-1-29
●境内案内図(谷末社)
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●谷末社
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●陰陽石
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●逢合坂
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●縁切坂
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●絵馬殿(昔はざさぞ、見晴らしが良かったでしょう)
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仁徳天皇と家は次の歌が有名ですね
みつぎ物ゆるされて、国富めるを御覧じて(新古707)
高き屋にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ民のかまどはにぎはひにけり
※古の都の跡は、大阪城の近くに昔はあったようですが、ご多分にもれず、歴史の変遷にしたがい移転を重ね、現在のところに落ち着いているようですが・・・。この場所も結構歴史を監視させる場所となっていますよ。
●境内社群
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by barakan1 | 2008-12-31 16:35 | 旅日記

大阪市(天王寺・中央区)探訪(2008・12・18)②高津宮1・・・

高津宮  大阪市中央区高津1-1-29
●南鳥居
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●参道
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難波高津宮に遷都した仁徳天皇を主祭神とし、祖父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子の履中天皇を右座に祀る。
●参道
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貞観8年(866年)、勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。
●境内
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天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽神社を当社の地主神として摂社とした。明治5年に府社に列格した。
●本殿
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昭和20年(1945年)3月の大阪大空襲によって神輿庫を残して社殿が全て焼失し、昭和36年(1961年)10月に再建された。
●本殿
また、現府立高津高校の門内に高津の宮跡との石碑があるそうです。
●比売古曾神社 式内社
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万葉集に高津が「歌われているのはこの歌だけです
録兄麻呂(ろくのえまろ)が歌
卷3-0292 
久方の天(あま)の探女(さぐめ)が岩船の泊てし高津は浅(あ)せにけるかも
by barakan1 | 2008-12-26 21:56 | 旅日記

大阪市(天王寺・中央区)探訪(2008・12・18)①東高津宮・・・

東高津神社   大阪市天王寺区東高津町4-8
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祭神
仁徳天皇 配祀 磐之姫命
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由緒
創建年は不詳である。元は生玉神社の南にあったが、大阪城築城の折、当地付近(現在では上本町駅構内に当たる)に遷座したとの伝説がある。
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昭和7年(1932年)の上本町駅拡張工事の折、現在地に移転。現在地を元高津とするのは、当社から高津宮が遷座していったから。ただし、現在は高津宮に合祀された北高津宮に遷座したからとも言われる。
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戦災で社殿を焼失していたが、昭和42年(1967年)に復興した。
※当社は、仁徳天皇の皇居であるとする明治31年(1898年)の大阪府の調査報告がある
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境内に、摂社「白豊稲荷」と王仁神社が鎮座(菟道稚郎子の師で、書首(ふみのおびと)らの先祖)
by barakan1 | 2008-12-19 21:20 | 旅日記

藻塩焼く「須磨」コース探訪(08・11・26)⑪現光寺・・・終

現光寺   神戸市須磨区須磨寺町1丁目1-6
須磨の現光寺は、紫式部が書いた「源氏物語」の主人公・光源氏がわび住まいしたところと伝えられている。このことから現光寺は、以前「源氏寺」と呼ばれていた。門前に「源氏寺」と彫られた大きな自然石の碑がある。裏面には、
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「おはすべき所は行平の中納言の、藻塩たれつつわびける家居近きわたりなりけり。海面は、やや入りてあはれにすごげなる山中なり。」
と源氏物語・須磨の巻の一節が書かれている。さらに小さな文字で「光源氏が京より移り住んで、わび住まいしたところと古来語り継がれている」と彫られている。
●鐘楼                 ●本堂
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境内には、松尾芭蕉の「見渡せば 眺むれば 見れば須磨の秋」の句碑がある。元禄元年(1688)、平安朝の須磨に憧れ、また源平の古戦場を訪ねる芭蕉は、この寺の風月庵に泊まったともいわれる。  ー神戸および近郊の名所・旧跡写真ーより
●芭蕉                  ●子規
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見渡せば ながむれば 見れば 須磨の秋   芭蕉
読みさして 月が出るなり 須磨の巻       子規
by barakan1 | 2008-12-15 22:59 | 旅日記

藻塩焼く「須磨」コース探訪(08・11・26)⑩関守稲荷神社・・・

関守稲荷神社  神戸市須磨区関守町1-3
御祭神
稲倉魂神(うかのみたまのかみ)
●神社を北側から見る
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※源氏物語』光源氏が巳の日祓いをしたことにちなみ、「巳の日祓稲荷」とも呼ばれています。
●須磨の関
須磨あたりは古代より畿内と西国とをつなぐ交通と軍事の要衝として地政学上非常に重要視された土地で、摂津国の南西の隅にあたる須磨には摂津関(須磨関)が設置されていました。
●東鳥居、脇の「須磨関屋跡」の石碑             ●南鳥居
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a0016431_23433778.jpg天智天皇の治世の7世紀中頃に設置され、789(延暦8)年に廃止されたという須磨関の置かれていた場所については様々な説があります。
1868(明治元)年にここから少し南西の所にある現光寺の裏手から発掘された石碑の一面には「長田宮」、もう一面には「川東左右関屋跡」と彫られていました。この石碑に彫られている「川」とは現在は暗渠になっている千森川のことで、川沿いの地にあたる現光寺境内近辺に関屋があったのではないかと考えられています。ほかにも関守稲荷神社辺りが関屋跡だという説や、多井畑にあった陸関という説も残されていますが、明確な位置は分かっていません。
現光寺の裏から発見された石碑
●神社
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関守(稲荷神社)を有名にしているのは、百人一首に歌われている。
源 兼昌
淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝覚めぬ 須磨の関守 
の歌によってでしょう。
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須磨の関(関屋)は歌枕となり沢山の歌がうたわれています。境内にある歌碑、
藤原定家
桜花 たが世の若木 ふり果てて 須磨の関屋の 跡うづむらん 
藤原俊成
聞き渡る 関の中にも 須磨の関 名をとどめける 波の音かな 
その他、沢山の神様や境内社が祀られています。
by barakan1 | 2008-12-14 23:54 | 旅日記

藻塩焼く「須磨」コース探訪(08・11・26)⑨須磨寺3(平敦盛)・・・

■須磨寺  神戸市須磨区須磨寺町4-6-8
●境内・本堂
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a0016431_1351318.jpg●源義経卿腰掛松
この郎松は義経が腰を掛けて、敦盛の首実験をしたと伝えられるもの。


●平敦盛卿首洗池。
敦盛卿の刎ねた首をここの池で洗ったといわれる。



●三重塔
a0016431_139924.jpg●平 敦盛(たいら の あつもり)
平安時代末期の武将。平清盛の弟である平経盛の末子。位階は従五位下。官職にはついておらず、無官大夫と称された。
笛の名手であり、祖父平忠盛が鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受ける。

平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷次郎直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。
●源平の庭
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直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。
●敦盛首塚
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※この出来事が熊谷次郎直実出家の契機になったと語られている。光明寺はまさにその直実(蓮生法師)によって創立された寺である。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
by barakan1 | 2008-12-12 13:32 | 旅日記

藻塩焼く「須磨」コース探訪(08・11・26)⑧須磨寺2・・・

須磨寺  神戸市須磨区須磨寺町4-6-8
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●須磨寺参道
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山号上野山
宗派真言宗須磨寺派大本山
本尊聖観音
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創建年仁和2年(886年)
開基聞鏡、光孝天皇(勅願)
正式名上野山 福祥寺
●龍華橋と仁王門
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須磨寺(すまでら)は、兵庫県神戸市須磨区にある仏教寺院。真言宗須磨寺派大本山。山号は上野山(じょうやさん)。本尊は聖観音である。宗教法人としての公称は福祥寺。
●仁王門・参道
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886年に光孝天皇の勅願寺として聞鏡上人が創建した。源平合戦ゆかりの寺として知られ、「青葉の笛」など多数の寺宝を有する。
●唐門
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●境内・本堂
須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇      芭蕉
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
by barakan1 | 2008-12-12 12:53 | 旅日記

藻塩焼く「須磨」コース探訪(08・11・26)⑦須磨寺の紅葉1・・・

■掲載が遅れましたが!須磨寺の紅葉です。
●堂谷池越しに須磨寺の塔をみる
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芭蕉
須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇 
by barakan1 | 2008-12-10 23:13 | 旅日記

藻塩焼く「須磨」コース探訪(08・11・26)⑥松風村雨堂・・・

松風村雨堂   神戸市須磨区離宮前町1
●前道は離宮道です
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平安時代の歌人、在原行平(818-893)は、平城天皇(774-824)の孫で、六歌仙・在原業平(825-880)の兄にあたる人。その行平と村娘「松風」「村雨」の悲恋物語が残されているのが、この松風村雨堂です。
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行平は光孝天皇(830-887)の怒りを買い、須磨に配流されてしばらくわび住まいをしていた。ある日潮汲みにきた多井畑の村長のむすめ「もしほ」と「こふじ」に出会い、「松風」「村雨」と名づけ愛した。三年の歳月が経ち、都に帰る行平は、
小倉百人一首で有名な(古今集卷8-365)
立ち別れ いなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば いま帰り来む
の歌を残し烏帽子(えぼし)、狩衣(かりぎぬ)をかたわらの松にかけ姉妹たちへの形見とした。
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二人の姉妹はたいそう悲しんで庵を建て、観世音菩薩を信仰し、行平の無事を祈っていたが、後、多井畑へ帰り、わびしく世を去った。
実は歴史的には行平が須磨に流罪にあったという事実は未だ確認できてはいないらしいのですが、この悲恋「伝説」は後に源氏物語、田楽、世阿弥の能等にも取り上げられ広く伝えられたそうです。 ー須磨の歴史・文化遺産ーより
●右側松風村雨堂(現観音堂)                 ●入口歌碑
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※※在原行平は業平の兄。能『松風』ゆかりの地ですが、行平が須磨に流罪にあったという事実は確認できませんし、「立ち別れ…」の和歌は、在原行平が因幡守を拝命し任国に赴任した際の和歌というのが定説です。
●衣掛けの松
お堂の脇には「衣掛けの松」と書かれた古い切り株がある。都へ帰る行平が嘆き悲しむ姉妹への形見として、ここに愛用の烏帽子(えぼし)と狩衣(かりぎぬ)を掛けて去ったという。
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他に須磨時代の行平の歌には次の歌がある
ー田村の御時に、事にあたりて、津の国の須磨といふ所に籠もり侍りけるに、宮の内に侍りける 人に遣はしけるー
わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ
by barakan1 | 2008-12-09 12:55 | 旅日記

藻塩焼く「須磨」コース探訪(08・11・26)⑤元宮長田神社・・・

元宮長田神社
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西須磨村の氏神は長田神社で、昔は長田まで行ったが遠いので、前田家屋敷内に長田神社より分社したと伝わる。元宮とは、元のおみやより分霊を迎えたことによるものか。
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前田家と菅の井
須磨の旧家である前田家の垣根に植えられていたカキツバタは有名で、
街道を往来する人々にしたしまれ、俗謡にもうたわれていた。
”須磨の前田のカキツのなかに、アヤメ咲くとはしらなんだ”
”咲いてしおれてまた咲く花は、須磨の前田のカキツバタ”
などがのこっている。
●菅公お手植えの松               ●菅の井
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菅原道真が、九州へ左遷の途中、風雨をさけて須磨に上陸され、今の綱敷天神社の地に憩われたとき、前田家から井の水を汲んで差し上げたところ、大いに喜ばれて自画像を賜ったという。前田家では、この井の水で酒を造り「菅の井」と名付けて、毎年太宰府神社へ献上していたといい伝えている。この名所の井も大正の初め、前田家の跡え警察署の庁舎を建てるとき埋められたがすぐ脇に代わりの井を掘って菅の井を忍ぶことにして、標柱をたてている
●西国街道(神戸方向を望む)
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この神社の前を西国街道が通っています。
by barakan1 | 2008-12-07 18:12 | 旅日記