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竹ノ内街道・河内飛鳥探訪(08.10.12)⑧推古天皇陵~二子塚古墳・・・終

■推古天皇磯長山田陵(すいこてんのう・しながやまだみささぎ)
 大阪府南河内郡太子町
考古学名=山田高塚古墳。東西59m、南北55m、高さ11mの3段作りの方墳。幕末に大修理され最下段は原型を損なわれている。2室あり2個の石棺があった。
日本最初の女帝第33代推古天皇(593年即位、628年没)の御陵と比定。夭折した竹田皇子(たけだみこ)と共に眠る。
●天皇陵を北西より眺める
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※554~628 第33代とされる天皇。在位592~628年。名は額田部(ぬかたべ)皇女。父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘の堅塩媛(きたしひめ)。18歳で敏達(びだつ)天皇妃となり、前皇后広姫の死後に皇后となった。
●御陵を南→北に見る
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敏達天皇がなくなると皇室の実権をにぎり、病気がちだった同母兄の用明天皇を後継とした。さらに用明天皇が死んだ587年(用明2)には、皇位継承を要求する異母弟の穴穂部(あなほべ)皇子を、蘇我馬子や甥の聖徳太子(厩戸皇子)らとほろぼしている。その後、穴穂部皇子の実弟の崇峻天皇が即位したが、592年(崇峻5)に蘇我馬子と対立、暗殺されたため、女性としてはじめて即位し、太子を摂政とした。
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(※※最近の発掘で、奈良県橿原市五条野町の植山古墳が推古天皇の母子合葬陵の可能性が高いことがわかった。)
二子塚古墳(ふごづかこふん)
二つの方墳が連なった双子方墳と言う珍しい古墳。全長61m、幅23m。同一規格、同形・同大の石室と石棺を有する。東側の石室のみ見学可能。
●推古天皇陵から眺める
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元々民間所有のもので昭和31年「古墳売ります」の広告が出て、文化庁と町が慌てて買い上げた。この「二子塚古墳」が推古天皇+竹田皇子の合葬陵と言う説がある。
by barakan1 | 2008-10-30 14:19 | 旅日記

竹ノ内街道・河内飛鳥探訪(08.10.12)⑦仏陀寺古墳(ぶっだじこふん)・・・

■仏陀寺古墳(ぶっだじこふん)  大阪府南河内郡太子町山田
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仏陀寺境内にあります。大きな椿の根元に横口式石棺の上部が見える。蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の墓と伝える。
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7世紀後半の終末期古墳。長さ2.19m、幅1.2mの家形状。墳丘は大正時代削られた模様。凝灰岩(ぎょうかいがん)の横穴式石槨の上部が露出している。
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石川麻呂は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と共に蘇我入鹿(そがのいるか)を滅ぼし、後、孝徳天皇の時右大臣にまで昇進するも謀反の罪を着せられ、大化5年(649)飛鳥の山田寺で自害した。
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蘇我倉山田石川麻
by barakan1 | 2008-10-28 12:44 | 旅日記

竹ノ内街道・河内飛鳥探訪(08.10.12)⑥孝徳天皇陵・・・

■ 孝徳(こうとく)天皇陵
竹内街道沿いにある直径約30mの円墳。自然の丘を利用して築造されたもので鶯陵(うぐいすのみささぎ)と美しい名で呼ばれる。清少納言が『枕草子』の中で讃えた“うぐひすのみささぎ”はこのご陵のことといわれる。
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御陵: 大阪磯長陵(おおさかのしながのみささぎ:大阪府南河内郡太子町)
諡名: 天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)
異名: 軽皇子(かるのみこ)
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父:  茅渟王(ちぬおう:敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の子)
母:  吉備姫王(きびひめ:欽明天皇の孫)
皇后: 間人皇女(はしひとひめ:舒明天皇の娘)
皇妃: 阿倍小足媛(あべのおたらしひめ:阿倍倉梯麻呂の娘)、蘇我乳娘(そがのちのい
     らつめ:蘇我倉山田石川麻呂の娘)
皇子女:有間皇子・・・母は阿倍小足媛
宮居: 飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや:奈良県高市郡明日香村)、
     難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや:大阪市東区法円坂町)
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◆◆第36代 孝徳(こうとく)天皇
舒明天皇が崩御して、皇后がその後を継ぎ皇極天皇となる。有力な後継者であった山背大兄皇子は、蘇我入鹿の手にかかり、一族全員皆殺しにあってしまう。中大兄皇子が、自分の身にも危険を感じたとしても不思議ではない。蘇我入鹿を倒さなければ次は自分だと思ったのは想像に難くない。
権勢を誇る蘇我入鹿の存在を、こころよく思わない人物がもう一人いた。蘇我氏に滅ばされた物部氏に従っていた中臣鎌子(なかとみのかまこ:後、藤原鎌足)である。鎌子は中大兄皇子と結託し、蘇我倉山田石川麻呂をも仲間に引き入れ、蘇我入鹿を滅ぼす。世に「大化の改新」(乙巳の変:いっしのへん)と呼ばれるクーデターである。(後に石川麻呂は謀反の疑いをかけられ殺されてしまう)
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皇極天皇は、この事件の責任をとる形で退位、即座に息子の中大兄皇子に即位を促した。だが、中大兄皇子は即位せず、実際には皇極帝の同母弟で中大兄皇子の叔父である軽皇子(かるのみこ)が孝徳天皇として即位した。はじめ軽皇子は、舒明天皇の長子古人大兄皇子(ふるひとのおおえみこ)がふさわしいと辞退するが、古人大兄皇子は仏門にはいるからと皇位継承を辞退して、その申し入れをするやいなや、太刀を抜き髪と髭を切り落とし、たちまち僧形となった。そこでやむなく軽皇子が即位したとある。
即位した孝徳天皇は、難波へ遷都し長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)に都を構える。現在大阪市にある難波宮跡の「前期難波の宮跡」と呼ばれる部分がこの宮跡ではないかと考えられている。
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孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし、阿倍内麻呂を左大臣、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に任じた。中臣鎌足には大錦(だいきん)の冠位を授け内臣(うちつおみ)とした。天皇は、東国の国司らを集め戸籍を作り田畑の調査を命じたり、有名な「大化の詔(みことのり)を発したりしたが、しかし結局この天皇は、所詮中大兄皇子・中臣鎌子らの傀儡でしかなく、最後には中大兄皇子と仲違いの末、一人長柄豊碕宮に取り残され、中大兄皇子らは飛鳥へ引き上げてしまう。
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中大兄皇子の独走に怒った天皇は、恨みを抱いて皇位を捨て山碕離宮に隠遁しようとしたが、離宮の完成を見ることなく長柄豊碕宮に没した。陵は、竹内街道に面した小高い丘の端にある。 ー邪馬台国大研究よりー
by barakan1 | 2008-10-26 12:26 | 旅日記

竹ノ内街道・河内飛鳥探訪(08.10.12)⑤鹿谷寺跡3・・・

●本日の探訪コース
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鹿谷寺(ろくたんじ)跡ちかくの展望台より
●西(太子町方面)をみる。
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●竹ノ内街道(左辺の道路)             ●二上山の雌岳(東側)
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●鹿谷寺跡への登り口(今回は下り口)
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※やっと念願の、鹿谷寺跡へ来ることができました。二上山へ登ってもこちらに降りてくることはありませんでしたので、なかなか尋ねることが出来ませんでした。今回は此処のために探訪したようなものですから、十分見てきました。それに、展望台からの眺めのよいことったら!!本当に絶景です。昔ならば、竹ノ内街道も天気が良ければ難波の方まで見えたのではないでしょうか!!
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by barakan1 | 2008-10-24 12:26 | 旅日記

竹ノ内街道・河内飛鳥探訪(08.10.12)③④鹿谷寺跡2・・・

■鹿谷寺(ろくたんじ)は、奈良時代に二上山(にじょうざん)山麓に造られた、凝灰岩の石切り場跡に造られた寺院。
●鹿谷寺跡追加写真
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by barakan1 | 2008-10-23 19:46 | 旅日記

竹ノ内街道・河内飛鳥探訪(08.10.12)③鹿谷寺跡1・・・

●太子町付近地図
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竹ノ内峠の手前に、万葉の森があります。その中のアスレチックへ入る道を北へ入ると「ろくわたりの道」の入口です。ここから20分ほどで鹿谷寺跡につきます。今回の訪問の主要目的地です。
■鹿谷寺跡(ろくたんじ) 大阪府南河内郡太子町山田
二上山(にじょうざん)山麓に造られた鹿谷寺(ろくたんじ)は、奈良時代に凝灰岩の石切り場跡に造られた寺院
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二上山山麓には、大陸文化伝来の大動脈となっていた竹内街道沿いにそれにふさわしい遺跡が点在しています。
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『鹿谷寺』は二上山の男嶽と女嶽の中腹地点にあるわが国唯一の大陸風石窟寺院で二上山の火山活動によって形成された凝灰岩の岩盤を南北25m、東西20mに亘って彫り込んで造営されています。
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中心部は平坦になっていますが、東西には切り立った岸壁があり、東の岸壁には線刻の三尊仏坐像が刻まれ、蓮華座の阿弥陀仏がこの寺の本尊であると考えられます。
●鹿谷寺跡石窟如来三尊仏(国史跡、奈良時代後期、凝灰岩、高さ 115Cm)
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また、北端中央部には凝灰岩を掘り残して造られた十三重石塔があります。この石塔は上部は破損しているものの高さ5m基底部の幅約1.5mの規模が有り、下部に幅 20cm、高さ 35cm、奥行き45cmの方形の仏舎利孔が認められ、南側の一段低いところにある平坦部の尖碑状の小塔が寺域の南限となっているとも考えられます。
●鹿谷寺跡十三重石塔(国史跡、奈良時代後期、凝灰岩、高さ 510Cm
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大正四年(1915)三月、この寺址を修築したとき阿弥陀三尊仏付近より土師器・須恵器などの土器と共に同和開珎が出土したほか奈良三彩小壷の蓋が採集され、寺跡に至る登山道周辺から奈良時代の『平城宮3(ローマ字)』と呼ばれる形式の土器が出土しており、本寺院の造営年代は八世紀の第二半期前半と推定されています。
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鹿谷寺跡広場の南約50mにある凝灰岩で河内名所図会には仏像か刻されているが、現在はわずかに見えるだけである。(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2008-10-22 18:43 | 旅日記

竹ノ内街道・河内飛鳥探訪(08.10.12)②竹ノ内街道2・・・

■竹ノ内街道  ー 道マガ大阪ーより抜粋
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西国巡りや伊勢詣、山上詣りなどが盛んに行われた江戸時代。竹内街道は、その往来においても宗教の道として利用されました。庶民の寺社詣も一般 的になり、街道沿いには旅籠や茶店が軒を連ね、道標も多く見られたこのときが、竹内街道が最も賑わいだ時代かも知れません。
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明治時代に大阪南部が堺県となり、やがて堺県が奈良県と併合すると、この街道の重要性はさらに高まります。竹内峠では大改修が行われ、『竹内街道』という名称もこの頃に定着したようです。
●大道旧山本家(反対側に孝徳天皇陵への入口があります)
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戦後は、自動車の普及率が高まるともに、交通手段の進歩もあって、奈良と大阪を結ぶ重要な道となりました。昭和50年には、竹内街道の東部が国道166号となり、沿道や新道の整備が進められました。そして、2004年にはこの道筋に新しく『南阪奈道路』が完成。平成の竹内街道として、万葉への道が現代へ甦りました。
                        ●この道の先が竹ノ内峠です
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by barakan1 | 2008-10-21 19:14 | 旅日記

竹ノ内街道・河内飛鳥探訪(08.10.12)①竹ノ内街道1・・・

●コース概要
9時半自宅発~アベノ駅~上の太子駅~竹ノ内街道~孝徳天皇陵~万葉の森~鹿谷寺跡~万葉の森~仏陀寺~推古天皇陵~バス(喜志駅)~アベノ駅~自宅着16時半。歩数19500歩。
■竹ノ内街道(上ノ太子駅~山田~万葉の森)まで
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竹ノ内街道  ー 道マガ大阪ーより抜粋
堺市の大小路から松原市南部、羽曳野市を経て、太子町、竹内峠を越えて奈良県當麻町の長尾神社へ。この全長約30キロメートルにおよぶ街道が、竹内街道です。
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推古天皇21年(613年)「難波より京に至る大道を置く」と、『日本書紀』記録された日本最古の国道「大道」。竹内街道はこの「大道」とほぼ同じルートを通 っています。
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飛鳥時代には、中国や朝鮮半島の優れた大陸文化がこの道を通じて伝来。日本で最初の本格的文化である飛鳥文化の発展に、大きく貢献した街道でした。また、竹内街道は大陸からの渡来人を迎えるだけでなく、大陸へ赴く遣隋使や遣唐使が利用したことも、この街道の特徴です。
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このように外交路として繁栄した街道も、710年に奈良の平城京へと都が遷されると、次第にその役割を消失。その後は、聖徳太子信仰が強まることで、太子信仰の道としての性質が色濃くなります。中世末には、自治都市・堺と大和をつなぐ経済の道としての役目も果 たしました。
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※(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2008-10-18 15:24 | 旅日記

西国街道(山崎~島本~長岡天神)探訪(08.10.02)⑩長岡天満宮・・・終

■長岡天満宮    京都府長岡京市天神2
●神社入口 一の鳥居
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阪急水瀬川駅より長岡天神駅まで電車で移動。
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●八条ガ池
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御祭神  菅原道真
由緒
当長岡天満宮の御鎮座地長岡は、菅原道真公が御生前に在原業平らと共に、 しばしば遊んで詩歌管弦を楽しまれた縁深いところであります。
●二の鳥居&参道
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公が太宰府へ左遷された時、この地にお立ち寄りになり「我が魂長くこの地に とどまるべし」と名残を惜しまれた縁故によって、公御自作の木像をお祀りし たのが当神社の創立であります。
●参道&三の鳥居
ーご神前庭園内の石碑に刻まれた菅公御歌ー
うみならずたたえる水の底までも清き心は月ぞてらさん
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 爾来皇室の崇敬篤く度々の御寄進御造営を うけ、寛永15年(1638)には八条宮智仁親王によって「八条が池」が築 造されました。ー長岡天満宮HP-より
●拝殿
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●拝殿内部
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※長岡天満宮社殿は,昭和16年に平安神宮の社殿を拝領移築したもの。
※詩吟同好会の人達5~6人が神社各所にある詩碑の前で、朗々と吟じておられました。他の神社とは一風異なるところでしょう!。
by barakan1 | 2008-10-16 13:13 | 旅日記

西国街道(山崎~島本~長岡天神)探訪(08.10.02)⑨竹内神社・・・

■武内神社(たけのうちじんじゃ)  大阪府三島郡島本町大字高浜805
●東側より神社を見る
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祭神 :武内宿禰
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由緒
邑の旧記によれば、社は壱伎直眞根子(いきのあたいまねこ)を祭ると云う。山伎宮と云う。 壱伎直眞根子は、応神御宇謀反を疑われた武内宿禰の身代わりに自害した者、祭神とする神社は筑前國に三座見えるのみ。
●手水舎            ●鳥居              ●参道より拝殿を見る
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●拝殿                            ●夏大禹聖王碑・南無堅牢地神碑
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a0016431_20394132.jpg●本殿(左)祭神:武内宿禰(たけのうちのすくね)
●本殿(右)祭神:春日大明神

別名:春日神社とも云う。 淀川に近く、水害に悩まされて来た高浜の人々が祀っていた。河川敷(水無瀬ゴルフ場)に鎮座していたが、改修で当地に遷座。京都府大山崎町の離宮八幡の七十有余の摂社の一だった。
境内に夏大禹聖王碑・南無堅牢地神碑(かだいうせいおう・なむけんろうじしん)
禹王(うおう)は治水に功があった中国の王、堅牢地神は台地を堅固に守る神。
ー神南備にようこそーより抜粋
by barakan1 | 2008-10-14 20:50 | 旅日記