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因幡国(河原~鳥取市)探訪(08.09.07)⑨伊福吉部徳足比売(いふくべのとこたりひめ)墓・・・終

伊福吉部徳足比売(いふくべとこたりひめ)墓跡  鳥取市国府町宮下
●無量光寺より、因幡国庁を見る
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●伊福吉部徳足比売(いふくべとこたりひめ)
因幡国の豪族である伊福吉部氏の娘として生まれた伊福吉部徳足比売は、藤原京にあった文武天皇に采女として仕えた。707年(慶雲4年)には地方豪族としてはまれな従七位下の位を授けられている。
●無量光寺全景(徳足比売墓への道)
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しかしその後、徳足比売は病を得て、故郷因幡国に帰ることなく708年(和銅元年)7月1日に大和国で没した。 徳足比売の遺体は、3年間のもがり(仮埋葬)の後、710年(和銅3年)10月に当時流行し始めていた火葬にされた。
●墓跡への入口
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遺骨は彼女の故郷因幡国に送られ、同年11月13日に彼女の生まれ育った鳥取平野を見下ろす稲葉山の中腹に葬られた。
伊福部氏は因幡一の宮である宇倍神社の司祭を長く務めた。(明治まで)
●寺よりの道は急坂の連続です
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伊福吉部徳足比売墓跡と遺物
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江戸時代の1774年(安永3年)、因幡国法美郡稲葉郷宮下村(現・鳥取県鳥取市国府町宮ノ下)にある無量光寺の裏山である宇部野山(現・稲葉山)の中腹から、石櫃に納められた骨蔵器が発見された。
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石櫃は140センチメートル×86センチメートル・厚さ47センチメートルの2枚の凝灰岩で作られ、蓋石と台石から成っていた。蓋石の中央には穴が作られて骨蔵器が納められていた。 骨蔵器は鋳銅製の合わせ蓋式の容器で、高さ16.5センチメートル・蓋の直径26.4センチメートルあった。骨蔵器の中には、青灰色の灰のようなものがあったと伝えられている。蓋の表面には銘文が16行にわたる108文字の漢文で放射状に刻まれていた。
●因幡万葉歴史館(徳足比売像・墓誌・骨蔵器)
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前項で記した伊福吉部徳足比売の生涯と葬送の経緯は、この銘文(墓誌)から明らかになったものである。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
※◆徳足比売墓跡を求めて無量光寺をウロウロしていると、旧陸軍墓地を清掃されえているおじいさんがおられたので、場所を伺うと、入口はすぐに分かったのですが、そのあと付け加えられた言葉がいけません。「あの辺はクマが時々出るので、気をつけて行きなされや!」
a0016431_16142826.jpg山門左側より登り始めたのはいいのですが、雨はシトシトと降ってくるわ,クマは気になるわ!周りの雰囲気を楽しむ余裕もあればこそ!! クマ避けにと下手な口笛を吹きながら、文字通りヒイヒイ言いながら墓を目差しました。
墓は穴を穿った石板が半分埋もれているだけです。周りはコンクリートの覆いのような建物が建てられ、保護されていました。骨蔵器や墓誌から想像していたロマンチックなイメージとは大分かけ離れていましたが・・・。でも、それはそれとして、墓を訪ねたという満足感はありました。
その後、雨が激しくなってきたので、急いで山を降りましたが、道がぬかるみ始め、今日で二度目のショック!!脚がツルリと滑りものの見事にスッテンコロリとやってしまいました。幸いなことにカメラだけは無事でした。 ヤレヤレの探訪最後の徳足比売墓訪問でした。
by barakan1 | 2008-09-30 16:25 | 旅日記

因幡国(河原~鳥取市)探訪(08.09.07)⑧宇部神社・・・

宇倍神社 因幡一の宮 鳥取市県大字宮下651
●一の鳥居
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祭神
武内宿禰命
彦多都彦命(因幡国造の祖、彦坐王の子 神祇史料)
武牟口命(伊福部氏の先祖 姓氏家系大辞典)
●二の鳥居
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由緒
因幡の国の一宮・法美郡の延喜式名神大社。
●参道石段
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『因幡国風土記逸文』に、「難波の高津宮に天の下を治めなされた五十五年春三月、大臣武内宿禰は、御年三百六十余歳で当国に御下向あり、亀金の双の履を残して御陰所知れずになった。聞く所によると、因幡の国法美の郡の宇倍山の麓に神の社があり、これを宇倍社という。これは武内宿禰のみ霊である。昔、武内宿禰は、東方の夷を平らげて、宇倍山に入った後、終わる所を知らずと言う。」とある。(『万葉緯』所引「武内伝」)
●境内・拝殿
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これにより、祭神を武内宿禰としているが、この逸文は鎌倉期以前には遡らないようである。
宮司家伊福部氏は明治維新後宮司の世襲を断ち、北海道に移住、著名な音楽家(伊福部昭氏)を輩出する非凡な家系であった。『日本の神々』で川上廸彦氏は、真の祭神は伊福部氏の祖の武牟口命とされている。八頭郡にも式内社の多加牟久神社も武牟口命にかかわるとされる。
●本殿・拝殿(左横より見る)
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お姿:稲葉山の西南麓に鎮座。境内一帯は祭祀遺跡である。また植生も実に豊であり、樫・椿などが繁茂している。社殿の前には右近の橘、左近の桜が植えられている。
本殿は明治三一年再興。三間社流造。社殿は紙幣に描かれた。
ー神南備にようこそーより抜粋
●七宝水
手水舎に流れている水は稲葉山中腹からわき出ている清水で、「七宝水」とか「延命水」と呼ばれている。
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●双履石
御祭神「武内宿禰命」は第十二代 景行天皇から仁徳天皇までの 五朝にお仕えされ、大臣の祖と して日本の国づくりに御活躍の後 仁徳天皇五十五年春三月、 この亀金の岡に双履を遺し 齢三百六十余歳にてお隠れ になりました。
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その石を双履石と称し 命御昇天の霊石として 今に伝わる当社の原点です。
by barakan1 | 2008-09-29 13:45 | 旅日記

明日香村(稲淵~山田寺)ヒガンバナ探訪(08.09.26)③おまけ・・・

●我が家から明日香へは国道25号線を東に下り、国分より大和高田方面(御所香芝線)へ、二上山の麓を通り、当麻寺を右に見て、165号(大和高田バイパス)を東下、小房から藤原京、八釣町を経て明日香に入りました。途中、当麻寺の東西両塔がアングルに入る場所を見つけたので、1カット写しました。また、行程の最後に山田寺跡へ回りました。
當麻寺は、奈良県葛城市當麻1263
白鳳時代に創建され、奈良時代の三重塔を東西二基とも残す全国唯一の寺で、「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」を本尊とする「極楽浄土の霊場」です。
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※當麻寺の国宝「東塔(三重塔)」「西塔(三重塔)」です。
山田寺跡  奈良県桜井市大字山田
大化改新の功臣・右大臣・蘇我倉山田石川麻呂(入鹿の従兄)が、641年(舒明3年)に着工し、2年後「金堂」が完成したが、石川麻呂が政争で息子・興志(こごし)と共に自殺した為、一時中断して、676年(天武5年)塔が完成し、2年後丈六仏を鋳造して、685年(天武14年)開眼供養が行われた。
●塔基壇                     ●金堂基壇
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※稲淵棚田ヒガンバナの「おまけ」編です。
by barakan1 | 2008-09-29 13:28 | 旅日記

明日香村(稲淵~山田寺)ヒガンバナ探訪(08.09.26)②稲淵棚田2・・・ 終

稲淵棚田2
●稲淵・明日香川添いヒガンバナ
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●数多く読まれたている明日香川の歌より三首
柿本人麻呂
卷2-0197 
明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば流るる水ものどにかあらまし
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●卷14-3544 
飛鳥川下濁れるを知らずして夫汝(せな)なと二人さ寝て悔しも
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●卷19-4258 
明日香川川門(かはと)を清み後れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ
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●山田寺東側土手のヒガンバナ
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(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2008-09-28 11:57 | 旅日記

明日香村(稲淵~山田寺)ヒガンバナ探訪(08.09.26)①稲淵棚田1・・・

■いや~、今日の稲淵の棚田は大変な人出でした。
余り、人がウヨウヨしている光景などみないものですから・・・。ビックリしました。
それにしてもアマチュアカメラマンの多いこと・・。それに持っているカメラの立派なこと!!ソリャ~カメラメーカーがもうかるはずですわ!!
それではコメントなしで、掲示します。
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by barakan1 | 2008-09-27 20:24 | 旅日記

因幡国(河原~鳥取市)探訪(08.09.07)⑦大伴家持歌碑・・・

大伴家持・在原行平歌碑   鳥取市国府町庁 
博物館展望台からみた国府町
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●天平宝字3年春正月1日於 因幡国庁賜饗国郡司等之宴歌一首
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卷20-4516
新年之始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家余其騰
あらたしきとしのはじめのはつはるのきようふるゆきのいやしげよごと
右一首守大伴宿弥家持作之
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その右横に佐々木信綱の歌碑があります。
ふる雪のいやしけ吉事(よごと)ここにしてうたいあげけむことほぎの歌

在原行平歌碑
斉衡2年(855)正月、従4位上在原行平は因幡守に任じられて、因幡国府に赴任し、2年ほどを過ごす。
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後に中納言行平の名で百人一首に採られて名高い次の歌は、古今集に載せられている。ちなみに在原業平は、実の弟に当たる。
古今集ー365
立ち別れ稲葉の山の峰に生ふる待つとし聞かばいま帰りこむ
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by barakan1 | 2008-09-25 21:26 | 旅日記

因幡国(河原~鳥取市)探訪(08.09.07)⑥因幡国庁跡・・・

因幡国庁跡
●真ん中少し左国庁跡、真中森のあたり家持歌碑
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※国府は古代日本の各国毎に置かれた政治の中心都市。
大化改新(645)により、中央集権の政治体制確立を目指した大和朝廷は、それまでの国造(くにのみやつこ)などの地方豪族による地方統治から、中央官吏による直轄統治を推進した。地方統治の単位である国毎に国府を定め、中央から国司を派遣して、徴税、軍事、治安維持等に当たらせたのである。
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天皇中心の律令国家は、こうして次第に体制を整えていく。壬申の乱(672)を経て、天武・持統朝に強力に展開され、大宝元年(701)大宝律令の成立によって完成した。
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■◆万葉集の最後の歌は、因幡守大伴家持の次の歌で締められている。
三年春正月一日、因幡国の庁にして、国郡の司等に饗を賜ふ宴の歌一首
卷20-4516
新(あらた)しき年の始めの初春のけふ降る雪のいや重(し)け吉言(よごと)
時に天平宝字三年(759)正月、大伴家持四二才の新年であった
●正殿より南門方を見る          ●正殿東より西を見る(奥面影山)
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●国庁跡より国分寺跡を見る
a0016431_18315713.jpg大伴家持が藤原仲麻呂に疎まれ、右中弁から因幡守に左遷されたのは、天平宝字二年(758)六月のことであった。
家持は左大臣だった橘諸兄(たちばなのもろえ)と近く、諸兄の失脚と死去によって家持の立場は急速に悪くなり、諸兄の子奈良麻呂の乱が制圧されると、中央政界での発言力はほとんど無くなってしまう。(所謂反主流派となり、因幡に左遷されてしまうのだ)
●国庁配置図(左:南南門、右正殿跡)
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ー国府物語ーより
家持の歌も、次第に哀愁を帯びてきて彼の寂しい境遇が思われるのである。
巻19-4290
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも
巻19-4291
我が屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕べかも
巻19-4292
うらうらに照れる春日(はるび)にひばりあがり心悲しも独りし思へば
●南門東側より北方向を見る(後方右・稲葉山)
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その鬱鬱とした日々の中で詠うことが家持の唯一の慰めであった、そのころの歌には憂悶傷心の詩情が篭って、少し悲しいが好きな歌である。
by barakan1 | 2008-09-24 18:51 | 旅日記

因幡国(河原~鳥取市)探訪(08.09.07)⑤因幡万葉歴史館・・・

因幡万葉歴史館
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往古、万葉歌人大伴家持が「万葉集」最期を飾る歌を因幡国庁で詠み、そして在原行平が「古今和歌集」に稲葉山を詠んだ地、鳥取市江府町。
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そこのは因幡国庁がおかれ、万葉・王朝文化が華開いた因幡古代文化がありました。
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また「麒麟獅子舞」・「因幡の傘踊り」など、江戸時代に始まると伝えられる因幡地方独特の民俗芸能も知られています。そんな因幡の古代の歴史や文化、民俗芸能が一堂に会した館が因幡万葉歴史館です。
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ーパンフレットーより抜粋及びコピー
江府町を稲葉万葉歴史館展望台より眺める。
●西を見る
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●北を見る
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在原行平は斉衡二年(855)正月、因幡守に任ぜられ、赴任した。
古今集ー365
立ちわかれいなばの山の峰におふるまつとしきかば今かへりこむ
●東を見る
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●南を見る
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by barakan1 | 2008-09-22 15:53 | 旅日記

因幡国(河原~鳥取市)探訪(08.09.07)④因幡国分寺跡・・・

国府町あたり観光地図  
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最勝山・国分寺    鳥取市国府町
●勘違い土壇より東を見る(国分寺と右今木山)
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国庁跡を目指して国府正連寺線を東に走っていると、右側の畑中に土壇のような一段高い場所を発見。てっきり国庁跡と思いこみ写真をバチバチ撮った後土壇に近ずくと、それは植樹のための盛り土であった。がっくりきたが、気を取り直して畑中の道を東に尚進むと、こんもりとした森があり、そこが国分寺跡であった。
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古代国分寺跡は残っていないということで、現国分寺を尋ねた。国分寺へ入る道は狭い。寺の周囲、古代国分寺のあったところは建物と畑で、整備する余地はみられなかった。古代の礎石だけが現国分寺に集められていた。
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古代の寺域は出来るところは発掘したが、ごく一部にしか過ぎない。そのためか、国の史跡に指定されていない。でも、ここにあったことは歴然と判っている。 
ー古代国分寺跡を訪ねてー
古代国分寺の礎石
天平13年、聖武天皇の勅願により創建された因幡国分寺は、今の国分寺部落がその寺跡である。 当時2丁4方の寺域には5重の塔をはじめ7堂伽藍が軒を連ね、常住する寺僧20人が朝に夕に梵鐘を鳴らして 鎮護国家を祈念したという。
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以後国分寺は、奈良、平安、鎌倉の各時代を通して因幡、寺院の中心であったが幕府政治の台頭により国庁の 機能衰徴と共に頽廃するに至った。加うるに天正元年に山中鹿之助が甑山に布陣した際、国府町内にあった他の 神社仏閣とともに焼き払われ全く姿を消してしまった。 因幡国分寺では残った塔の礎石外数個を最勝山国分寺境内に保存し壮麗であった建物の昔時を偲んでいる。
●展望台より国分寺~面影山を望む 
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by barakan1 | 2008-09-21 13:45 | 旅日記

因幡国(河原~鳥取市)探訪(08.09.07)③賣沼神社(めぬま)八上比売物語2・・・

黒木神社付近より、千代川越しに売沼神社・曳田村落を見る
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大国主神と八上比売神(後)
米子市街の東を流れる日野川を遡っていくと溝口町がある。その隣町が西伯町です。県道180号線沿いに、〔倭〕がある。ここが昔の大国村です。一方、鳥取市の千代川を15Kmほど遡りますと、支流の曳田川があります。この辺りに住んでいたのが、八上比売神です。
大国主神の兄弟である八十神と大国主神がどうして、100Kmほども離れたところの八上比売神を知っていたのか分かりませんが、彼女と結婚したいと旅に出ます。大山がどんと坐っていますから、日野川を下り海岸にでて、海岸に沿って千代川を目指したでしょう。
現在の気高町の岬を通りかかったときに、丸裸にされた素兎を見つけ、大国主神は兎に指示を与えます。
その後、鳥取市から千代川を遡っり、河原町にはいると、「布袋」「袋河原」と言う地名があります。古に、大国主命が曳田の八上姫にかよわれた時、重い袋をここに置かれたというので「袋河原」、その袋は布の袋であったろうということで「布袋」と名づけられたのではないでしょうか。さらに、恋文を書いたところが「倭文」(しとり)(鳥取市)。現在の「円通寺」(鳥取市)という地名は、2人が縁を通じた「縁通路」に由来するとか。
支流・曳田川に入りますと、曳田という集落があります。ここに、売沼神社(メヌマ)があります。ここの由緒には、「「延喜式神名帳」に「八上郡賣沼神社」とある神社でありまして、中世より「西日天王」といっておりましたが、元禄年間よりもとの賣沼神社という名にかはりました。御祭神は「八上姫神」でありまして御祭日は十月一日を大祭としております
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「古事記」の伝えるところによると、出雲国の大国主神は八上姫神をオキサキになさろうとしてこの因幡国にお出になりました。途中で白兎の難をお救いになりまして、この白兎神の仲介で八上姫神と首尾よく御結婚になりました。この神話伝説は漂着した外地の舟人たちが千代川をさかのぼって、まずこの曳田郷をひらいたことに間違はありません。対岸山麓の前方後円墳を神跡とするのも決して単なることとは云えないようであります」とあります。
大国主神と八上比売神は結婚し、御井神(別名木俣の神)を生みますが、八上比売神社と河ひとつ隔てた対岸にある黒木神社には御井神が大国主命と共に祀られていますから、八上比売神と御井神は、ここで過ごしたのでしょう。
ー楽しい人生(なんでも挑戦)-より抜粋   曳田地図
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※※せっかくいい公園を整備されたのですから、あとは石碑のメンテナンスが上手になされていれば尚美しい物語も生きてくるのではないでしょうか!チョット、残念でした。
by barakan1 | 2008-09-19 14:45 | 旅日記