<   2008年 05月 ( 28 )   > この月の画像一覧

播磨灘(明石~魚住~中八木)探訪(08.05.17)⑫江井が島~屏風浦海岸・・・

江井が島あたり
a0016431_1528578.jpg
●江井港より海水浴場方向を見る
a0016431_1527649.jpg
●「江井島の由来」より
a0016431_15282217.jpg
むかし、江井島一帯は「嶋」とよばれていました。この「嶋」に港を作った行基というお坊さんが、海上安全の祈祷をシテイル時、港の中にたたみ枚ほどもあるおおきなエイが入って来ました。村人たちは気味悪がってエイを追い払おうとしましたが、一向に去ろうとしません。行基がエイに酒を飲ませてやると、エイは満足そうに沖へ帰ってゆきました。このことがあってから、たれいうとなく、エイが向かってくる嶋ーーーエイ向島と呼ばれるようになったおいうことです。
また、江井島いったいはむかしから、「西灘の寺水と呼ばれる良い水の出るところとして知られています。そこで「ええ水が出る井戸のある嶋」がつまって「江井島」になったともいわれています。
●屏風が浦海岸
a0016431_1534829.jpg
●明石大門 (屏風が浦海岸から見た)
a0016431_15351483.jpg

by barakan1 | 2008-05-31 15:49 | 旅日記

播磨灘(明石~魚住~中八木)探訪(08.05.17)⑪名寸隅の船瀬・・・

名寸隅の船瀬
●魚住より江井が島方向を見る(うっすら見える対岸は淡路島)
a0016431_1232387.jpg
●???祠
a0016431_1254810.jpg
魚住の住吉神社より東へ、江井ガ島方向へサイクリングロードを少し歩くと左側、防波堤に寄り添うように、祠があります。何の表示もないので名称等は不明です。
●赤根橋(袂明石江井島酒館)より魚住・二見方向を見る
a0016431_1273281.jpg
●赤根橋より播磨灘を見る。(河口左側江井島漁港です)
笠朝臣金村
卷6-0937 
往き還り見とも飽かめや名寸隅の船瀬の浜に頻(しき)る白波
a0016431_1292116.jpg
●江井ヶ島港 (播磨国魚住泊)
a0016431_12141846.jpg
※明石から加古川河口付近にかけては海蝕崖や砂浜続き(現在はコンクリートの護岸とサイクリング道、砂浜)で適当な船掛りがなかったから、聖武天皇の頃に僧行基によってこの地に船の泊所が作られたという。船瀬は人工的に作られた便宜的な船泊まりである。「播磨国魚住泊」「明石郡魚住船瀬」とあるのがこの泊所である。この址は現在の大久保町江井が島の地と言われる。名寸隅の船瀬はこの「魚住船瀬」のことと言われる。
●住吉神社(江井ヶ島)  明石市大久保町江井ヶ島
a0016431_12193879.jpg
祭神
底筒男命、中筒男命、上筒男命、気長足姫命を祀る。
創立年月は不詳だが、明治7年2月村社となる。昭和8年10月本殿並びに本殿覆を改築した。ここの祭りは、東島の住吉神社、西江井の住吉神社、東江井の大歳神社の3社全てを3台の屋台が巡行するのが特徴。
by barakan1 | 2008-05-30 12:32 | 旅日記

播磨灘(明石~魚住~中八木)探訪(08.05.17)⑩住吉神社(魚住)・・・2

■住吉神社 明石市魚住町中尾1031
●神社前、名寸隅の船瀬
a0016431_1241895.jpg
播磨国印南野(いなみぬ)に幸(いでま)せる時、
笠朝臣金村がよめる
卷6-0937 
往き還り見とも飽かめや名寸隅(なきすみ)の船瀬の浜に頻(しき)る白波
祭神
底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命
●境内           能舞台                     楼門
a0016431_1251651.jpg
『住吉大社神代記』によれば、「吾が居住はむと欲りする処は、播磨の国に渡り住はむ」と、お告げを出された。
●境内           拝殿                      能舞台 
a0016431_1261956.jpg

そこで大藤を切って海に浮かべ神意を伺ふと「この藤の枝の流れ着く処に、我を鎮祀れ」とご託宣なされた。藤は当地方魚次浜に流れ着いた。
●拝殿
a0016431_1211727.jpg

a0016431_12133083.jpg
雄略天皇の八年(464)、此の地に勧請してお祀りしたのが当社。
●本殿
a0016431_12134747.jpg
※住吉大神が紀の国の藤代の峰から当地に遷ったことを、高野山の東の山中で金属を採取していた船木氏が当地に移ってきたと、『古代の鉄と神』のなかで、真弓常忠氏は解釈されている。
ー神南備にようこそーより抜粋
※やっと、それらしい神社に出会いました。楼門や本殿は歴史を感じさせる建物でした。本殿を囲む瑞垣というか塀は新しくなっていました。 が、楼門は結構高さがあるにも関わらず、震災の影響はうけなかったのでしょう? 修理の痕も見られず、悠然と立っていました。堅固な塀は壊れ、柔軟な楼門は被害をうけなかったのでしょう?いずれにせよ歴史的な建物が残りよかったですね!!
by barakan1 | 2008-05-28 12:29 | 旅日記

播磨灘(明石~魚住~中八木)探訪(08.05.17)⑨住吉神社(魚住)・・・1

■魚住・住吉神社      明石市魚住町中尾1031
●正面鳥居(左お旅所鳥居)
a0016431_1124348.jpg
祭神
底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命
●神門                         ●手水舎
a0016431_11244748.jpg
由緒
神功皇后の新羅国親征の折り、播磨灘にて暴風に遭い、当地に避難し、神籬をたてて、住吉大神に平穏を祈願した、波風たちまちにしておさまり、軍はつつがなきを得たと伝えられている。
●楼門
a0016431_11254832.jpg
又その時に皇后の着衣を松の枝に掛けて干したのが、風にたなびいて、錦のように美しく見えた。当地を「錦ケ浦」と名付けたと言われている。
凱旋後、神功皇后により摂津の国住吉の地に住吉大神は鎮祭された。
●楼門の内武者と狛犬
a0016431_11263341.jpg
※※初めて住吉大神が祀られた地ということで、「住吉神社の発祥の地」を称している。

a0016431_1130882.jpg●お旅所
お姿 
海岸に面して立地、いかにも海の神らしい。 松林がつづく住吉公園の一画に堂々と鎮座している。 本殿真後ろに藤の巨木が植えられており、大藤の流れついた由緒を紹介している。「藤」は金属採取の象徴の字で、鉱山師の名に「藤」がつくのが多いと、『青銅の神の足跡』で谷川健一氏が述べている。
●境内社   ????          神明・稲荷・高良社          八幡社
a0016431_113252.jpg
●ご神木(訪ねた時は花は散った後でした。本来ならば右のように咲いています)
a0016431_11325672.jpg
ー神南備にようこそーより 
by barakan1 | 2008-05-27 11:43 | 旅日記

播磨灘(明石~魚住~中八木)探訪(08.05.17)⑧名寸隅の船瀬・・・

■名寸隅の船瀬(魚住・住吉神社前)  明石市魚住町中尾1031
●魚住・住吉神社、南(海)側より眺める
a0016431_17164373.jpg
古代より、難波と九州(大宰府)を結ぶ海の大道は瀬戸内海であり、頻繁に利用された。
●鳥居横より、二見方向を見る(左側、印南の海)
a0016431_1718043.jpg
柿本朝臣人麻呂が筑紫国に下れる時、海路(うみつぢ)にてよめる歌
卷3-0303 
名ぐはしき印南(いなみ)の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
a0016431_17293268.jpg
現代と違い、その行程は5日も10日も掛かる命がけの旅であり、おおくの泊まりがあった。
●鳥居より正面、名寸隅の船瀬を眺める
播磨国印南野(いなみぬ)に幸(いでま)せる時、笠朝臣金村がよめる歌一首、また短歌
卷6-0935 
名寸隅(なきすみ)の 船瀬(ふなせ)ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に
朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ
海未通女(あまをとめ) ありとは聞けど 見に行かむ 由のなければ
大夫(ますらを)の 心は無しに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて
徘徊(たもとほ)り 吾(あれ)はそ恋ふる 船楫(ふねかぢ)を無み

反し
卷6-0937 
往き還り見とも飽かめや名寸隅の船瀬の浜に頻(しき)る白波
a0016431_1719212.jpg
ゆえに多くの歌が、その往き来した人々によって読まれている。
●神社より、明石大門方向を眺める(中央奥、淡路島)
a0016431_1722318.jpg
今回はその内の東播磨の歌です。
by barakan1 | 2008-05-25 17:36 | 旅日記

播磨灘(明石~魚住~中八木)探訪(08.05.17)⑦亀の水・・・

亀の水
a0016431_1746331.jpg
柿ノ本神社・月照寺の西参道の入り口にある亀の水は、人丸山から涌き出る霊泉が亀の口から流れ出ています。
a0016431_17463392.jpg
播磨三名水のひとつで、かつて「長寿の水」とも言われていました。
手水鉢は常陸国の役人飯塚宣政が1719年(享保4年)に寄進したものです。
by barakan1 | 2008-05-24 17:49 | 旅日記

播磨灘(明石~魚住~中八木)探訪(08.05.17)⑥柿本神社・・・

柿本神社 兵庫県明石市人丸町1-26 
神社付近図及び境内図
a0016431_1555690.jpg

●柿本神社鳥居(南口)と参道
a0016431_1616326.jpg
参道の階段脇にある小さな公園の入り口歌碑
柿本人麻呂
卷11-2802
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長き永夜を一人かも寝む

●神社正面
a0016431_1583184.jpg
祭神: 柿本人麻呂
由緒:
887年(仁和3年)、月照寺(その当時の位置は、現在の明石城内)の僧・覚証が、柿本人麻呂の霊がこの地に留まっているのを感得したとして、月照寺の裏に柿本人麻呂を祀る祠を建てた。これが柿本神社の起源とされる。
●神社拝殿遠景・狛犬
a0016431_1511982.jpg
1617年(元和3年)小笠原忠真が明石城を築く際に、現在地に移転させた。
●拝殿
a0016431_15114442.jpg
1723年(享保8年)には、正一位の神階と「柿本大明神」の神号を宣下された。以後、皇室、歴代明石藩主の崇敬が篤かったといわれ、後桜町天皇と仁孝天皇の宸翰が伝えられている。
●境内社  天神社・三宝荒神社            五社稲荷神社
a0016431_15133637.jpg
境内の柿本大夫祠堂碑の前歌碑
巻3-0235
皇(おほきみ)は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかつち)の上(へ)に廬(いほ)りせるかも
巻3-0255
天ざかる夷(ひな)の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ

●亀の碑            ●人麻呂歌碑           ●八房梅
a0016431_15141317.jpg
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
●柿本神社 盲杖桜  

a0016431_15334676.jpg
むかし柿本神社に、筑紫からある盲人が参篭して、目が明くやうに祈った。そして七日目の満願の日に歌を詠んだ。




ほのぼのとまこと明しの神ならばひと目は見せよ人麻呂の塚
 すると一瞬だけ目が開いたが、すぐに閉ぢた。「ひと目は」の文句が悪かったのだと思ひ、再び七日間籠って歌を詠みなほした。
ほのぼのとまこと明しの神ならばわれにも見せよ人麻呂の塚
 今度は間違ひなくはっきりと目が開いたので、もはや不要となった杖を、社前に突き刺して帰って行った。杖は桜の枝で作られてゐた。やがてその杖から根が生へ、芽が吹いて、花が咲いた。「盲杖桜」といふ。  (神話の森 >歌語り風土記 )ーより

※★柿本神社は各地にある。うち人麿の終焉地と伝えられるところが石見(島根県益田市)と奈良県に2箇所ある。天理市櫟本の柿本寺址の歌塚(写真左)と葛城市柿本の柿本神社と影現寺(ようげんじ)である。
※阪神淡路大震災で被災し、建て替えられたのであろうか?神社入り口、手水舎等は真新しくまた境内に樹木も少なく陽が燦燦と降りこむような感じで、想像していた重々しさ、厳かな雰囲気は感じられなかった。こうして回ってみると、いかに震災の被害が大きかったかが身をもって感じられました。
by barakan1 | 2008-05-23 16:02 | 旅日記

播磨灘(明石~魚住~中八木)探訪(08.05.17)⑤月照寺・・・

曹洞宗人麻呂山月照寺(柿本神社の西隣)
●人麻呂山と月照寺西側参道
a0016431_1558295.jpg
弘法大師空海が弘仁2年(811年)明石城本丸跡に湖南山揚柳寺を建立したのがはじまり。887年、大和の国の柿本寺から観音菩薩を勧請し、柿本人麻呂の祠を建てたとのことである。
●山門と正面より本堂を見る
a0016431_1605458.jpg
1617年、明石城築城のためにこの地に移りました。桃山風の重厚な山門(市文化財)は1618年、小笠原忠政が徳川秀忠から伏見城薬医門を拜領したものを、明石城の切手門としていたが、明治になって1873年に月照寺に移したものである。
●神社正面より、     天文台・芭蕉歌碑・子午線標示柱
a0016431_165398.jpg
松尾芭蕉
蛸壺やはかなき夢を夏の月
そのほか、安産守護千体地蔵尊(止利仏師の作)、八つ房の梅(柿本神社にもあります)などがあります。
●人丸山より明石大門(おほと)を眺む
・明石海峡大橋                     ・天文台
a0016431_1694412.jpg
山門前歌碑
卷3-0254
柿本人麻呂
燭火(ともしび)の明石大門(おほと)に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず
※前面の建物群が無く、海峡を見渡せたらさぞ絶景であったろう!!足下より青い海原が続き、眼前に迫る淡路島、夕日に輝く明石大門・・・・。空想は容易に古に飛翔します・・・・
by barakan1 | 2008-05-22 16:18 | 旅日記

播磨灘(明石~魚住~中八木)探訪(08.05.17)④明石神社~妙見社・・・

明石神社」(あかしじんじゃ)    兵庫県明石市上ノ丸1-20-7
●上の丸弥生公園(奥(明石神社)
a0016431_2234983.jpg
祭神は豊受大神、金山彦大神、徳川家康、
明石藩主松平直明(家康の曾孫、結城秀康の孫)、松平直常(直明の子)。
●現在の神社境内と社殿(建て替え中)
a0016431_2243856.jpg
明石城主の松平忠常が先祖を祀るために明石城内に建立した。明治初期に城内は御料地とされ、神社は現在地に移設した。
明石城築城以来、時を知らせた太鼓はこの神社にあり、市指定文化財である。
ー歴史ブログ、史跡・神社仏閣ー写真より
●現在の神社(本殿)
a0016431_2215423.jpg
※※米明石神社再建へ 震災で半壊、14年目の区切り(神戸新聞)
阪神・淡路大震災で被災し、半壊指定を受けた明石神社(明石市上ノ丸一)が再建されることになった。最大の問題だった費用は、敷地の一部売却で工面。すでに昨年末から取り壊し工事は始まっており、周辺住民との話し合いや市の遺跡調査が終われば、鉄筋コンクリート造りで建て直す。育英高校教諭の井上滋通宮司(52)は「震災復興の一つの区切りになる。きれいになったら多くの人に見に来てほしい」と話している。(川口洋光)
●2007末の神社の写真(かなり傷んでいるが、木々も多く、いい雰囲気がある)
a0016431_22174027.jpg
(震災で同神社の社殿(昇殿、拝殿、本殿)と能舞台が半壊の被害を受けた。また、敷地内にあった、山王神社、白龍神社の両社殿、社務所、アパート、一戸建て住宅三棟などは全壊した。)

妙見社  兵庫県明石市上ノ丸1-17
a0016431_229466.jpg
<由緒・現地看板より>
當山の妙見尊は、その昔、武将「島左近」が常時崇拝された尊像で、後年、明石藩に仕え、本松寺の檀徒となった島家の末裔により當山に奉納された霊験誠にあらたかな尊像です。
a0016431_2210024.jpg
當山では、本松寺の守護神として、ご本尊(本堂)の乾(西北)に安置し、毎朝、天下泰平・国土安穏と檀信徒並びに参拝者の所願成就を祈願しております。
by barakan1 | 2008-05-21 22:19 | 旅日記

播磨灘(明石~魚住~中八木)探訪(08.05.17)③明石城・・・2

■ 明石城  坤(ひつじ)櫓と巽(たつみ)櫓
a0016431_13422165.jpg
明石城の築城にあたっては、和坂(かにがさか)・人丸山・塩屋の候補地がありましたが、小笠原忠政と本田忠政が人丸山を選び、二代将軍徳川秀忠がこれを決定しました。
●巽(たつみ)櫓
a0016431_13441397.jpg

a0016431_13443013.jpg

a0016431_13444712.jpg
ここには、柿本人麻呂の祠がありましたが、大蔵谷(現人丸山)に替地を与えて移転させました。地形を巧みに利用して、西から本丸・二ノ丸・三ノ丸と一列に曲輪を並べた連郭式の平山城が築かれました。築城当時は、本丸の南の帯曲輪と薬研堀はつくられていなかったようですが、徐々に整備され約30年後の絵図ではほぼ完成していたことがうかがえます。
●坤(ひつじ)櫓
a0016431_1345219.jpg

a0016431_13453779.jpg

a0016431_13482618.jpg
本丸は天守台のみで天守閣は築かれませんでしたが、四隅の三重の櫓(やぐら)は威容を誇りました。本丸に残る重要文化財の二つの櫓のうち東の巽(たつみ)櫓は船上城から、西の坤(ひつじさる)櫓は伏見城から移されたと伝えられています。城の中心部は現在も残っている桜堀・薬研堀・千石堀・中堀・剛ノ池などで守られていました。
by barakan1 | 2008-05-20 13:49 | 旅日記