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美作・備前国社寺探訪(08.04.20)⑤天石門別(あめのいわとわけ)神社-2・・・

天石門別神社
●参道の御楯神社
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●拝殿
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●御正殿跡と磐座遺跡
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本殿横の道から、下へ降りる階段がを下ると、
元の社殿跡と磐座遺跡がある。
滝宮ダム建設に伴って水没のおそれから、
地上げし、現在の場所へ社殿を遷座させたもの。

a0016431_13293358.jpg●琴弾き瀧

川沿いの小道を奥へ進むと、「琴弾き瀧」という
雄滝・雌滝の二段の滝がある。

社殿後方の「琴弾き瀧」と「磐座遺跡」が現在も当社の象徴。
現在でも「滝宮」と呼ばれている。

社殿後方下にある磐座遺跡は、
吉備津彦尊が自ら当地に天手力男神を祀った祭祀跡とされるが、
「猟師塚」とも呼ばれ、天石門別神を当地へ案内した猟師の塚であるとも。


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※姿かたちの大変美しい滝です。桜は散っていましたが、盛りに来ればもっと、素晴らしい風景を見れたでしょうね。
by barakan1 | 2008-04-30 13:35 | 旅日記

美作・備前国社寺探訪(08.04.20)⑤天石門別(あめのいわとわけ)神社-1・・・

■天石門別(あめのいわとわけ)神社 (式内社)  岡山県美作市滝宮89  
●配置図                 ●一の鳥居
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祭神
天手力男神(天石門別神)
●参道(奥、二の鳥居)   参道の右奥、御楯神社(みえずらい)
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由緒
祭神 當神社祭神ハ天手力男神ニ坐シ神代ノ昔天岩戸ヲ開キ奉リ後永ク皇孫ヲ輔ケテ大功アリシ神ナリ今畏クモ伊勢大神宮御正殿内右ノ御神座ニ御相殿ノ神トシテ厚ク奉齋セラレ給フ
鎮座ノ由来 當神社ハ人皇第十代崇神天皇十年四道将軍大吉備津彦尊ノ鎮座シ給ヘル古社ニシテ御鎮座以来二千余年ノ歳月ヲ経タリ
●二の鳥居                      ●手水舎
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社伝ニ曰ク尊賊徒平定ノ勅命ヲ奉ジテ山陽道地方ニ赴キ給フヤ播磨國氷上ノ里ニ於イテ道ノ口ノ祭儀ヲ行ヒ前途ノ平安ヲ祈リ給ヘリ時ニ神教アリ即チ尊之ヨリ征行シ給ハム吉備國ハ山路峻嶮賊勢甚ダ熾烈ナリ依ツテ吾嚮導シテ赴カシメ奉ラム吾ハ吉備國雄神河(吉井川ノ古名)ノ川上落滾ツ早滝ノ下方ニ坐ス天手力男神ナリト尊甚ク喜ビ給ヒ神教ノママニ軍ヲ進メ短時日ニシテ大イニ皇威ヲ伸張シ給ヘリ復命ノ後尊ハ此ノ地ニ至リマシ自ラ祭主トシテ神恩奉謝ト戦勝祝賀ノ盛儀ヲ齋行シ永ク大神ヲ鎮祀シ給ヒ之當神社ノ創始ニシテ今本殿背後ノ石塚ハ即チコノ祭場ノ遺跡タリ
●手水舎より境内拝殿を見る
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皇室ノ御尊崇 古来皇室ノ御尊崇一方ナラズ第五十六代清和天皇ノ貞観五年五月神階從五位上ニ進メラレ給ヒシコト正史ニ明文ナリ之今ヲ距ル一千百余年前ノコトナリキ降ツテ第六十代醍醐天皇延喜七年延喜式ノ制定ニ當リテハ全国神社中ヨリ撰バレシ二八六一社中ニ列セラレ春秋二季ノ大祭ハ國費ヲ以ツテ齋祀シ美作三ノ宮トシテ境内ノ広域九丁四面東西南北各正中ニ鳥居ヲ建立シテ聖俗ヲ明示セラルルト共ニ神田十町歩ヲ賜ヒテ祭粢ノ料ニ充テ給ヘリ現ニ氏子横川ニ鳥居田及ビ作東町猿ケ谷ニ神入口(カンニュウグチ)ナル地名ノ存スルハイヅレモコノ鳥居ノ古趾ニシテ町内真神ニ神田(カウダ)ト称スル邑里ノ在ルハコノ時附与セラレシ神田ノ一部此処ニ在リシコトノ証左タリ近キ頃マデ此ノ地ニ滝ノ宮一ノ鳥居趾トテ小芝生アリ古来氏子区域ヲ十町ト謂ヘル由来ヲ亦ココニ存スルト云フ
●拝殿
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武将并ニ領主ト神社 武威興隆ノ世ニ在リテテモ武将ノ崇敬頗ル厚ク鎌倉期當地ノ地頭渋谷氏或ハ社殿ヲ改メ奉リ或ハ神田神具祭器等ヲ献納セルコト古書ニ明カナリ然レドモ天正十八年備前長船紀伊守貞行當地ヲ所行スルヤ未曾有ノ暴行ヲ以ツテ神田ヲ始メ社有資産ノスベテヲ没収ス茲ニ於イテ社勢俄ニ衰頽往昔ヨリ伝承セル四月春季大祭ノ矢夫佐女神事七月晦日ノ田実祭九月九日ヨリ十日間ニ渉ル秋季大祭(コノ間ニ福本賀茂大明神即チ現福本神社●●大御神幸●アリ)等盛大ヲ極メシ諸祭儀ヲ再ビ行フニ由ナク減失セルハ寔ニ遺憾ノ極ナリトス慶長八年森忠政津山城ニ入ルヤ厚ク當社ヲ敬仰シ年々社領五十石ヲ奠●ソノ裔伯耆守長俊元禄四年本殿改築ノ工ヲ起シ仝十年二月竣工ス之現在ノ本殿ナリ
a0016431_1310418.jpg●本殿
民衆ノ信仰 氏子ヲ始メ大衆亦深ク信仰シ殊ニ夏季旱天ニ至レバ●ズ参拝シテ雨ヲ祈ルヲ例トス又大神ノ伊勢神宮ニ共祭セラルル由縁ニ依リ参宮セント志ス者ハ遠近ヲ問ハズ先ズ當神前ニ額ヅキテ道中ノ安全ヲ祈リテ後出発シ帰途ニハ絵馬ヲ求メテ之ヲ社前ニ献ジ以ツテ報賽ノ誠ヲ至セリ現ニ絵馬殿ニ掲グルモノノ中大ナルハ概ネ参宮ノ礼参ニ係ルモノニシテ當神社ノ交通安全祈願祭ノ基ナリトス
明治十三年県社ト指定セラレ以ツテ終戦ニ及ブ
昭和四十三年九月附近ニ県営ダム建設ノ議アリ之ガ完成ノ暁社殿ノ水没スベキ憂ヘ仝五十一年一月起工巨費ヲ投ジテ御模様替大工事ヲ敢行シ参道ヲ延長シテソノ参入口ニ鳥居并ニ社標碑ヲ建立シ以ツテ昿古ノ大業ヲ竣功セリ
維持昭和五十五年六月吉辰
●本殿左横の末社殿                          ●本殿右横の八幡神社
大歳神社・宇受売神社、稲荷神社、早滝神社、総神社
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天石門別神社
英田町 文化財保護委員会
●は消えかかっており、読めなかった文字  -境内案内板より-
ー玄松子の記憶ーより
by barakan1 | 2008-04-30 13:21 | 旅日記

美作・備前国社寺探訪(08.04.20)④横川のムクノキ・・・

■横川のムクノキ   岡山県英田町滝宮
天石門別神社への途中で、遭遇しました。立派なムクノキで、根元に荒神社の祠がありました。
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横川のムクノキは、推定樹齢1000年、東西34メートル、南北30メートルにもわたって枝をのばし、悠々と立つ、国内最大級の巨木です。神木としてあがめれられていたため、切り倒されることなく、村のシンボルとして大切にされてきました。岡山県の天然記念物に指定されています。
by barakan1 | 2008-04-29 21:09 | 旅日記

美作・備前国社寺探訪(08.04.20)③金古神社(カナコジンジャ)・・・

金古神社(カナコジンジャ)  津山市国分寺486 (国分寺の隣に鎮座)
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祭神:
譽田別尊
大己貴神
大山祇神
金山彦神
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由緒:
嘉吉元年(1441)美作国主山名忠政が鶴山城を築いたときに、鶴山桐の段にあった八幡宮を国分寺村亀ケ岡に遷し、亀岡八幡宮と称し山名氏の祈願所とした。その後慶長9年1604)森忠政が入封し、城を改築した際に本神社を修覆している。元禄2年(1689)家老長尾隼人勝明に命じて社殿を再建したのが現在の御本殿である。
●本殿
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明治3年12月、産土五霊神社を境内に祀った。明治4年に金古神社と改称、同6年村社に列した。同21年五霊神社を合祀、相殿に祀った。同22年山神社を合祀。大正10年神饌幣帛料供進神社に指定せられた。
by barakan1 | 2008-04-28 21:53 | 旅日記

美作・備前国社寺探訪(08.04.20)②美作国分寺跡・・・

美作国分寺跡   岡山県津山市国分寺
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美作国は備前国から分かれた上国であるが、国分寺の寺料は四万束と大国並みに多かった。
●国分寺跡を西から見る
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昭和52年(1977)から54年(1979)にかけて、津山市教育委員会が実施した発掘調査により、二町四方の寺域に南門、中門、金堂、講堂を南北に置き、中門と金堂を回廊で結び、その外に塔を配した、典型的な国分寺式伽藍配置を持つ大寺院の遺構が検出された。
●国分寺跡を東から見る
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さらに平成12年(2000)に塔跡の再調査が行われ、基壇の規模が一辺18メートルという巨大な塔であったことが確認された。平成16年(2004)には寺域全体が国指定遺跡に指定された。しかし、現状はほとんどが田畑で民有地であり、史跡公園化は進んでいない。
●国分寺礎石
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美作の国は、713(和銅6)年に備前の北部6郡を裂いて分国された新しい国で、その国府は津山市総社に置かれました。美作国分寺の特徴である都との緊密な関係は、そういった事情を反映しているのかもしれません。 奈良時代中ごろに建立された美作国分寺は、出土瓦の変遷などからみて、その後変遷を重ねながら、平安時代末には衰退していったようです。 
●国分寺伽藍配置
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美作国分寺と対になり、建立された美作国分尼寺は、西方約500mのところに存在しましたが、調査の結果もその詳しいことはまだ分かっていません。
津山弥生の里文化センター「美作国分寺跡調査概要」より
現国分寺
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寺号:竜寿山国分寺、宗派:天台宗。聖武天皇の時(8世紀はじめ頃)の創建で度々火災に会い、再建を繰り返している。
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現在の本堂は、文政6年(1823年)津山藩主、松平康孝(後の斉孝【なりたか】、文政7年に改名)が建立したもの。
★(*^_^*)★写真クリック、大きくなります。
by barakan1 | 2008-04-26 16:21 | 旅日記

美作・備前国社寺探訪(08.04.20)①コース概要・・・

a0016431_15572994.jpg●天石門別神社・琴弾の滝


美作・備前国社寺探訪(08.04.20)
津山8時半発~美作国分寺跡~天石門別神社~長福寺~鴨神社~布勢神社~石上布都魂神社~高オカミ神社~津山着16時。
やはり地図がないとスムーズに走れませんね!何とか感で走りました。
by barakan1 | 2008-04-26 16:05 | 旅日記

母の故郷(美作市・日指)を訪ねる(08.04.19)

母の故郷「美作市・日指(ひさし)」を訪ねる (08.04.19)
津山(妻の実家)へ帰省する途中に私の母の、そして祖母の故郷、英田郡作東町(現美作市)日指(ひさし)があります。思い立ち、久しぶりに墓参りに立ち寄りました(5年?10年振り?)。
本家の方が日頃手入れをしてくださっているのでしょう、綺麗に掃除がされ、以前は墓を覆い尽くしていた雑木も綺麗に切られ片側は完全にオープンになり遠く山々を見渡せる展望台のようになっていました。
●祖母の家があったところ(真中の畑の右隅)
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また、来るたびに立ち寄れなかった、30数年ぶりに幼馴染を尋ねました。生憎、幼馴染は畑に行って留守でしたが、そのお母さんが居られ、そう!!50年ぶりに話をしました。面影もなかったですが、帰り際に「達者でな!また来てください!といって笑った顔に初めて少し昔の面影を見ることができました。帰り際には採りたてワラビとウドをいただきました。本当に懐かしく、楽しい墓参りとなりました。
次回には是非、幼馴染に会いたいものです。
日指
日指は山上の高地で、朝から夕方まで日差しが申し分ないところから、この地名ができたと言われています。この集落は、平安末期がら鎌倉初期にかけて開創されてた古刹長城寺とともに開けました。
長城寺は戦国時代と江戸中期に再三火災にあい、ほとんどが焼失して、今はその後建てられた本堂、庫裏、鐘楼などを残すのみで、昭和十年頃までは、正月の会式には「日指の毘沙門まいり}といって近郷から数千の人出で賑わったものです。ー看板よりー
※長城寺 真言宗御室派 美作市(旧英田郡作東町)日指319
日指毘沙門天の由来
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当山本尊毘沙門天は、本朝最初の出現にして今を距る千四百年の昔、聖徳太子十六歳の御時、守屋大連御誅罰の際、用明二年(586)3月3日生身の毘沙門天憤怒の姿にて出現し給い、禅定の弓・千恵の矢忽ち守屋の胸を貫き遂に逆臣を滅し給う。
奈良朝の高僧行基菩薩日指山に登らるや山中振動し、如意珠の岡の頂に、方八尺の櫃を感得し給う。
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「南無大慈大悲福田多門天王宇賀宮天目一箇尊」と銘あり。
堂塔営構の対眼を起こし、この櫃の四周を道場の基礎として善美を尽くして、本堂を造立し、自ら天王の尊像を一木一像・一刀三礼して彫刻し、御丈五尺三寸で左手に宝塔・右手に宝剣を持って十万の敵をひしぐ憤怒の形相で足下に天の邪鬼を踏み全身黒肉色で頗る入心の妙を極め霊容峻厳にして威四辺を払う。
●毘沙門堂
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豊臣秀吉朝鮮征伐の時、戦勝祈願霊験有りて感激のあまり尊前に百間の馬場を礎奉納される。
●豊臣秀吉奉納の馬場
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堂塔伽藍具備し、壮麗を極めしも数度の兵火によりて灰儘に帰したが、多数信徒の帰依篤く法灯維持す。
例年正月3日は福徳瑞喜の霊験を授かろうと参詣者多数あり今日に至る。
古歌
日指山尊き福の神様や金を授づくる毘沙門天
主原弘栄
日指山旭かがやく霧の上幸福授ける毘沙門天
ー作東町観光協会ーより
※子供のころ母から、金無垢の毘沙門様(仏様?)の話を聞いたことがあります。昔日指の長城寺には金無垢の毘沙門サマがあったそうですが、坊主が生臭で戦後(?)のドサクサに何処かへ売り払ってトンずらしたそうです。そんなことがあってから、毘沙門サマへのお参りも廃れてしまったのだと…云っていたように思います。
by barakan1 | 2008-04-25 20:52 | 旅日記

山の辺の道(石上神宮~長岳寺)探訪(08.04.12)⑨長岳寺(根上がり松・肘切り門)・・・終

■長岳寺の「根上がりの松」       天理市柳本町508.  
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残念ながら樹齢約300年と云われた松は、害虫に樹液を吸い取られ枯れて終い昭和58年春に切り倒されましたが、元は「天狗松」と呼ばれた長岳寺の貴重な松だったので、寺では幹のてっぺんの穴からドラム缶1本分の薬剤を注入したけど助からず今は根だけが残っています。それも、松は戦国時代に立派な石垣の在る土塁の上に植えられていましたが、後に石垣を外したので根が露出した姿になりました
●釜口山「長岳寺の肘切り門」
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弘法大師空海さん開基で、釜口(かまノくち)大師の名で親しまれている長岳寺の総門「肘切り門」です。1349年(貞和5年)建立の四脚門で、昭和49年解体修理をされていますが、昔は、梁(はり)の付き出した部分の肘(ひじ)に刀傷が在りました。何でも注文の刀に僧兵からケチを付けられた刀鍛冶が、ムッとして、それならと門の肘木を切り落とし刀の切れ味を証明したので今も「肘切り門」と云われています。門を入ると大きなツツジの生け垣の参道が続きます。(長岳寺は訪ねませんでした) 
ー奈良観光ーより抜粋
今回の探訪はここまでとします。そのうち続きを探訪します。
by barakan1 | 2008-04-24 11:12 | 旅日記

山の辺の道(石上神宮~長岳寺)探訪(08.04.12)⑧灯籠山古墳~衾道(ふすまぢ)あたり・・・

灯籠山古墳                                   ■中山大塚古墳
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●ここの墓地も大和古墳群の1つ「燈籠山古墳」で、東を高くした山側に後円部を置き、全長110mの主軸を東西に取った前方後円墳です。
●中山大塚古墳、前方後円墳(全長約132m、後円部直径73m、高さ10mで、アーチ型天井の竪穴式石室をもっています)。
大和稚宮(おおやまとわかみや)神社  奈良県天理市中山町
「中山大塚古墳」の前方部を少し削った所に「大和(おおやまと)神社」の境外末社、御旅所「大和稚宮(おおやまとわかみや)神社」が在ります。
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毎年4月1日大和神社の「ちゃんちゃん祭」で、午後2時頃、JR桜井線の長柄駅の近くに在る「大和神社」を出発した渡御の長い行列が、金盥(かなだらい)の様な銅鑼を叩いて「ちゃんちゃん」と鳴らし、また神輿を担ぎ、神主は白馬に乗り、更に氏子が同道し、遠路2キロのここ「中山郷大塚山(中山大塚古墳)」の「御旅所」まで来て、御供物を奉納され、「扇舞」「龍の口」と云う田楽舞を舞われて後、また一服して、渡御は再び長い行列を組んで「大和神社」まで帰って行きます。
●歯定(しじょう)神社  (大和神社境外末社)
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祭神:大己貴神、少名彦名神を祀る。  ー奈良観光ーより抜粋
■衾道(ふすまぢ)あたり?
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●左奥・衾田陵                              右奥・龍王山
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柿本人麻呂
巻2-0212
衾道(ふすまぢ)を引手(ひきて)の山に妹を置きて山道(やまぢ)を行けば生けりともなし●左後方杜(中山大塚古墳)南→北
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by barakan1 | 2008-04-23 16:03 | 旅日記

山の辺の道(石上神宮~長岳寺)探訪(08.04.12)⑦竹之内環濠集落~衾田稜・・・

●夜都伎神社あたりの村落。
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■竹之内環濠集落と
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「竹之内環濠集落」です。集落の入口の所まで行くと写真の様な環濠が今も残っており、数ある大和の環濠集落のうちでも、最高度の位置に有り、
萱生(かよう)環濠集落
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そこから更に南へ約1キロほど行った所にも「萱生(かよう)環濠集落」が残っていますけど、中世の大和の集落では、外敵の侵入を防ぐために、集落の周りに濠を巡らし、外への出入り口には橋を架けて、自衛していました。
■波多子塚古墳
この辺り天理市萱生(かよ)町一帯は、奈良盆地でも有数の古墳密集地帯で、大和(おおやまと)古墳群を成し、「萱生の千塚」と呼ばれ、「山の辺の道」沿いの西側に段々畑の「波多子塚(はたごつか)古墳」があります。
柿本人麻呂
卷7-1269
巻向の山辺響(とよ)みて行く水の水沫(みなわ)のごとし世の人我れは
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全長約144mで前方部が開かない古い形態の大型前方後円墳で、埴輪の原形である特殊器台型埴輪の破片が先に見つかっていますが、平成10年の発掘調査では、後円部の北側に濠の跡が見つかって、葺石(ふきいし)と多量の埴輪も発見され、3世紀後半築造で、古墳時代初期の古墳と推定されています。
五社神社     天理市中山町434
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祭神;
武甕槌命たけみかづちのみこと、
経津主命ふつぬしのみこと、天児屋根命あめのこやねのみこと、
比咩大神ひめのおおかみ
(五社神社と呼ばれますが、春日の四柱です)
元は「五社の森」と呼ばれる広い樹叢の中に鎮座していました 。明治時代に中山の歯定神社と合祀し、社地は開墾されて畑地となります。戦後に一部を社地に復し、現在の社殿が造営されたそうです。
ー奈良の都わすれblogーより
西殿塚古墳(衾田稜)
a0016431_1791829.jpg「五社神社」から「山の辺の道」を南へ行くと、直ぐ「中山廃寺」ですが、また「山の辺の道」を外れ、山の方(東)へ向うと、こんもりとした森が第26代継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかひめみこ、第29代欽明天皇の母)の「衾田(ふすまだ)稜」です。

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大和(おおやまと)古墳群の中では最大、全長234mの前方後円墳です。前方部が撥形(ばちがた)に開き、古墳周囲の発掘調査で、葺石が出土し、埴輪成立以前の特殊器台(複雑な文様をもつ壺をのせる円筒形の土器)や特殊円筒型埴輪が出土して、6世紀前半の皇后陵でなく、3世紀後半、古墳時代初期の巨大古墳で、「邪馬台国」の女王・卑弥呼に続く台代(とよ)の墓ではないかと云われています。ー奈良観光ーより抜粋
by barakan1 | 2008-04-22 17:18 | 旅日記