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海南市(柿本・一言・浜ノ宮神社)探訪(07.12.19)⑦名草ノ浜・・・終章

名草ノ浜
名草ノ浜より和歌の浦を見る
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卷7-1219 
若の浦に白波立ちて沖つ風寒き夕へは大和し思ほゆ
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毛見埼を見る(建物はマリーナシティー)
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名草ノ浜海岸道路(西)より名草山を見る
卷7-1213 
名草山(なぐさやま)言にしありけり吾(あ)が恋ふる千重の一重も慰めなくに
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※今回の探訪は回った範囲は小さいものでしたが歴史は深く、由緒あるところを回れました。特に黒牛潟(中言神社)へはぜひ訪ねてみたいところだったので満足しました。次回は紀三井寺を中心に回ってみたいと思います。
by barakan1 | 2007-12-28 11:58 | 旅日記

海南市(柿本・一言・浜ノ宮神社)探訪(07.12.19)⑥濱宮(はまのみや)・・・ 

濱宮(はまのみや)  和歌山市毛見1303 
正面鳥居               西側参道鳥居
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祭神
天照皇大神、天懸大神、国懸大神
摂社
豊鋤入媛神社、中言神社、高皇神社、天満宮、恵比須神社、毛見金比羅宮
正面鳥居               鳥居正面に丸石が祀られている
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由緒
日前国懸神社の遷宮前の場所とされている。 神武東征時、天道根命は神鏡と日矛の神宝を奉じて、加太(加太春日神社)、木本(木本八幡宮)、琴の浦の岩上へと遷ったと伝わる。 漂着神の寄りつく海辺の伝承であり、海人の斎祀った神の姿を思わせる。
拝殿群
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一方、崇神天皇五十一年、豊鍬入姫命が天照皇大神の御霊代を奉じて名草浜宮に遷した際、同時に琴の浦から天懸大神、国懸大神も遷し、宮殿を並べたと伝えられている。
天照皇大神(拝殿と本殿)
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本居宣長
紀の国のいせにうつりし跡ふりてなくさの浜にのこる神がき
崇神五十四年、天照皇大神が吉備名方浜宮に遷座、その後、天懸大神、国懸大神は垂仁天皇十六年、名草萬代宮(現在の日前宮)に遷ったと伝わる。
天懸大神、国懸大神(拝殿と本殿)
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この時、名草萬代宮に鎮座していた伊太祁曽神社は山東へ遷座したとされる。
豊鋤入媛神社
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浜宮は「元伊勢の大神」とたたえられた。 また「アシ神様」とも呼ばれ、敬われてきた。
名草で「アシ神様」とされる神社は千種神社、足守神社がある。 千種神社は名草戸畔の足を祀ったと伝わり、歴史の底で何らかのつながりを感じさせる二社ではある。
境内社    毛見金比羅宮、恵比須神社、天満宮、高皇神社、中言神社
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海岸に近い山裾にひっそりと鎮座している。 鳥居をくぐると正面に丸石が祀られている。丸石は江戸時代にもあったのかも知れない。これは南紀に残る習俗であり、海人系の神社を思わせる。 ー神南備にようこそーより抜粋
■■奈久佐浜宮と毛見埼
豊鍬入姫命に託された天照大神の御霊代は、倭(やまと)の笠縫(かさぬいの)邑(むら)から巡幸の途に着き、最初に但波(丹波)の吉佐宮(よさのみや)に遷幸され、四年間斎き祀られる。そしてこの地から再び倭の国の伊豆(いつ)加志(かし)本宮(のもとのみや)に遷られる。倭で八年間祀られ、次に、木(紀伊)の国の奈久(なく)佐浜宮(さはまのみや)に遷られ、三年の間、奉祀された。「紀伊国」は、単に「木国」だったが、奈良時代に国名は雅字二文字を用いるという勅令で改められたそうである。
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和歌浦湾に沿って名草の浜があり、南端には毛見崎がある。その毛見崎の北岸に濱宮神社がある。此処は日前・國懸神宮があった元宮の地とされる。紀ノ川の河口部にあって、干潟などで海岸線の変動もあったろうが、奈久佐浜宮の比定地としてはこの場所が最も有力地と思える。  ーにっぽん文明研究所・神道つれづれー抜粋
by barakan1 | 2007-12-25 17:40 | 旅日記

海南市(柿本・一言・浜ノ宮神社)探訪(07.12.19)⑤黒江の町・・・

黒江の町
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黒江の町は、その昔黒牛潟と呼ばれていた景勝地で、現在の黒江の町は大半が海でした。その後土砂の堆積や、地震などで地盤が隆起して陸地化としてきましたが、地崎山があるために汀が斜めに形成されて、自然にできていた水路(現在の川端通り)と平行する幾筋かの通りと、海岸線に平行する小路とで、縦横に区画されていました。しかし、この縦横の通りが直交することがなく、平行四辺形の区画になったのです。そのために、四角い家を建てると三角形の空き地ができるようになったというものです。ー掲示板よりー
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※黒江の的は漆塗りが有名だそうです。確かに漆塗りに関係する店舗が沢山残っています。まだ少し、懐かしい風情を残す町並みです。
by barakan1 | 2007-12-23 15:50 | 旅日記

海南市(柿本・一言・浜ノ宮神社)探訪(07.12.19)④中言神社・(黒江潟)2・・・

黒江潟の由来
中言神社
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万葉のむかしより歌枕として『万葉集』に詠まれている黒牛潟とは当社の境内周辺で、
淨国寺境内より東(中言神社)方向を望む(住宅のあるあたりは総て入江でした)
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紀伊続風土記に「この地はいにしえは海の入り江にて、その干潟の中に牛に似たる黒き石あり。 満潮には隠れ、干潮には顕われる。よりて黒牛潟と呼ぶ。黒江は黒牛江の略語なり」 と記されている様に、
神社正面より南を見る           神社右横より南西方向を見る
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神社左横より南を見る
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その昔、潮が引くと黒い大きな牛の形をした石が見えたので 黒牛潟と呼ばれた。黒江(黒牛の石の入り江)という名はこの黒牛潟に由来する。
名水「黒牛の水」               万葉歌碑
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巻9-1672
黒牛潟潮干(しほひ)の浦を紅の玉藻(たまも)裾引(すそび)き行くは誰が妻 
巻7-1218
黒牛の海紅(くれなゐ)にほふももしきの大宮(おほみや)人(ひと)しあさりすらしも  
名草ノ浜(神社あたりの入江もこんな感じだったのでしょうか)
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※いにしえより人の往来が多く栄えた所でもあり、また最近では海南の臨海工業地帯としての開発・埋め立てもあって、マッタク昔の面影はありません(昔の面影を知っているわけではありませんが・・・)。空の上からでも見ればバッチリとイメージ出来るかも知れませんね。(来年には熊野古道を歩く予定です)    
by barakan1 | 2007-12-22 12:33 | 旅日記

海南市(柿本・一言・浜ノ宮神社)探訪(07.12.19)③中言(なかこと)神社1・・・

中言(なかごと)神社   海南市黒江933
神社への道
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祭神
名草彦命、名草姫命、八王子命
境内全景
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由緒
名草彦命、名草姫命は上代のこの地域の王であったが、磐余彦や紀氏に攻め込まれて滅び去った。
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両命は和歌山市吉原に祀られているが、後に、この神々を勧請したものである。先に八王子命が祀られていたされているが、名草姫命にちなんで中言神社と称した。
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中言とは、神と人との間を取り持つ意味で、名草姫命はまさにシャーマンであった。実際の統治は名草彦命が行っていたのであろう。古代の統治方式として、魏志倭人伝の卑弥呼と男弟の説明にも出ている。
拝殿
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この地域は名草戸畔が敗死した所でもあったのだろう。また住民から敬われていたのか、姫にちなんだ神社が多い。
本殿
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黒江は、牛に似た黒い大きい石が浜にあり、黒牛潟と呼ばれていた名残である。この神社も黒牛潟中言大明神とも呼ばれていた。 ー神南備にようこそーより抜粋
名草ノ浜よりの風景
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境内に万葉歌碑あり
巻9-1798
いにしへに妹と我が見しぬばたまの黒牛潟(くろうしがた)を見れば寂(さぶ)しも  
※いにしえには神社鳥居のすぐ下まで海岸線が来ていたのだろう。少し高台に登り遠景をみるとその様子がよく分かる。いま家屋がギッシリと山と山との間を埋めているがそこは皆、後世の埋め立て地である。そうして昔日の風景を想像すると確かに!素晴らしい景色であったろう・・。
by barakan1 | 2007-12-21 13:35 | 旅日記

海南市(柿本・一言・浜ノ宮神社)探訪(07.12.19)②伊勢部・柿本神社 ・・・

伊勢部柿本神社   和歌山県海南市日方1338 
西側参道入口より             海南駅裏より
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祭神
天照大神、素盞嗚尊、熊野久須毘命、市杵嶋姫命
摂社 蛭子神社、山王神社、稲荷神社 ほか
神社正面(西側ガード下より)
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由緒
『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』によると、
鳥居・境内
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崇神(すうじん)天皇の御代五十四年に、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が、天照大神の神霊をおまつりしようとして、理想郷を求めて諸国を巡行された際、吉備国名方浜宮(きびのくになかたのはまのみや)に四年間神輿を止めておまつりになったのが起こりだとしている。
参道石段と拝殿
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●本殿
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徳川時代の学者、伴信友や『紀伊続風土記』によると、吉備国名方浜宮こそ、現在の海南市名高の※井引の森(国鉄海南駅の東方)であるといわれている。
蛭子神社
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しかるにそこは海浜で、高潮や津波の恐れがあったので、現在の社地にお遷しし、往時の社殿は壮麗を極めたと伝えられているが、天正十三年、豊臣秀吉の紀州征伐の際消失した。
木々を透して西(日方の町)をみる     摂社群     
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巻7-1396
紫の名高の浦のなのりその磯に靡(なび)かむ時待つ我れを
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その後慶長九年に再興され、以来当町の氏神として、町の発展と氏子の繁栄にその御神徳が顕著である。
※井引の森へは寄れませんでした、次の機会にします。
ー神南備にようこそーより抜粋
名草ノ浜(奥は和歌の浦)
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巻7-1392
紫の名高の浦の真砂(まなご)地(つち)袖のみ触れて寝ずかなりなむ  
巻11-2730
紀伊(き)の海の名高の浦に寄する波音高(おとだか)きかも逢はぬ子ゆゑに 
※万葉集に数多く読まれた、黒牛潟や名高も今は全くと云っていいほどその面影はありません。海南臨海工業地帯のため黒江湾(黒牛潟)が全域にわたって埋め立てられたからです。一寸寂しい気がします。熊野古道の藤白坂からは海南・和歌の浦あたりが一望のもとに見えるらいいが・・・。
by barakan1 | 2007-12-20 18:57 | 旅日記

海南市(柿本・一言・浜ノ宮神社)探訪(07.12.19)①コース概要・・・

海南市探訪(柿本・一言・浜ノ宮神社)
計画通り、海南市の神社を回る。名草山へは次回以降に登る積りです。
今年の探訪はこれで終了です。
海南駅前万葉歌碑
a0016431_2055077.jpg10時45分天王寺発~海南駅12時~柿本神社~黒江・中言神社~淨国寺~川端通りを経て、浜の宮神社~サンブリッジ~浜の宮ビーチ・名草ノ浜~布引バス停~和歌山駅15時半~天王寺17時着。歩数15000歩。

万葉歌碑
卷11-2780 
紫の名高の浦の靡(なび)き藻の心は妹に寄りにしものを
by barakan1 | 2007-12-19 21:00 | 旅日記

倉橋山・談山神社探訪(07.12.06)⑧不動延命の滝&破(われ)不動尊・・・終

不動延命の滝&破(われ)不動尊
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バス停「不動ノ滝」は、県道37号桜井吉野線のバス停「下居」から南へ2.5キロほど上がった所で、寺川にそそぐ支流に落差約8mの「不動延命の滝」があり、旧道の角に「破不動尊」と云う大石が横たわり、側面に北向きの不動明王が彫られて祀られています。
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大石は中央から刀で切ったように両断され割れています。1608年(慶長13年)4月談山が鳴動した時に破裂して割れたと伝えられております。
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なお、多武峯の最高所である御破裂山(おはれつやま、標高607m)には、藤原鎌足の遺骨を改葬した円墳があり、国家異変の際には山が鳴動し、談山神社の本殿(旧寺の聖霊院)の鎌足像が破裂するそうです。 ー奈良観光ーより抜粋

倉橋山昔話
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隼別皇子 (はやぶさわけのみこ )と女鳥王(めどりのみこ)の話
仁徳天皇四十年、天皇に命ぜられ雌鳥皇女(記では女鳥王)の媒(なかだち)として使者に立ったが、自ら皇女を娶り、天皇の恨みをかった。また皇子の舎人の歌に謀反の徴があったため、天皇は皇子を除くことを決意。皇子は雌鳥皇女をつれて伊勢神宮へ向かうが、伊勢の蒋代野(こもしろの。所在不詳)で天皇の遣った追手に殺された。
倉橋山山中
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※速総別王、女鳥王(めどりのみこ)、共に逃げさりて、倉梯山にのぼりましき。ここに速総別王歌ひたまはく
(古事記)
梯立(はしたて)の 倉梯(くらはし)山を 嶮(さが)しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも
梯立(はしたて)の 倉梯(くらはし)山を 嶮(さが)しけど 妹と登れば 嶮(さが)しくもあらず
ー千人万首ーより抜粋
米古謡歌碑が破(われ)不動尊横にあります。
by barakan1 | 2007-12-14 12:52 | 旅日記

倉橋山・談山神社探訪(07.12.06)⑦天一神社・・・

天一神社  奈良県桜井市大字鹿路94番
天一神社遠景
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鹿路(ロクロ)は、奈良県桜井市の最南端あの談山神社口から県道37号線を南下する事約5分ほど、やがて真新しい新鹿路トンネルと右側に上ってゆく、旧37号線。
天一神社大杉
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この新しいトンネルをくぐらないで右手の旧道を山の上の方に上り、宮垣内の看板に沿って坂道を上っていくと鹿路集落があって天一神社がある。
社殿・境内
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神社正面
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何の案内板もないため、祭神、由緒等は不明であるが歴史を感じさせる佇まいである。たぶん本殿内に大杉が植わっていたので、あの大杉が御神体と思うが・・・。それにしても立派な大杉が7・8本も固まって生えており、長年にわたって村民が大切に守ってきたことが想像される。
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この鹿路(ロクロ)=※猟地(ありじ)は古く万葉集にも歌われる程歴史のある場所でもある。
※所在地の候補としては、榛原、橿原市、桜井市の各候補地がある。
本殿                      御神木
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巻12-3089 
遠つ人猟道(かりぢ)の池に住む鳥の立ちても居ても君をしそ思(も)ふ
天一神社大杉の幹
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by barakan1 | 2007-12-12 13:08 | 旅日記

倉橋山・談山神社探訪(07.12.06)⑥談山神社・・・

談山神社案内図
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談山神社
談山神社は大化改新の中心人物の藤原鎌足を祀る神社です。
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◆内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原の卿(まへつきみ)の、鏡女王を娉(つまど)ひたまふ時、鏡女王の内大臣に贈りたまへる歌一首
巻2-0093 
玉くしげ帰るを安み明けてゆかば君が名はあれど吾(あ)が名し惜しも
◆内大臣藤原の卿の、鏡女王に報贈(こたへ)たまへる歌一首
巻2-0094 
玉くしげ三室(みむろ)の山のさな葛(かづら)さ寝ずは遂に有りかてましも
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舒明、皇極二代の天皇の世に、国の政治を欲しいままにしていた蘇我蝦夷、入鹿の親子を討伐し、政治を改革しようとした中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が西暦645年の5月に藤の咲き乱れる多武峰に登って「大化の改新」の談合を行ったことから、後にこの山を談い山、談所ヶ森と呼びまた神社の社号の起こりとなりました。
談山神社の「屋形橋」
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寺川に沿って県道37号桜井吉野線「多武峯街道」を上がると、バスが通るコンクリートの大橋の横に、人のみが通れる「屋形橋」が架かっています。
屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、朱塗りの欄干の上の黒い擬宝珠には寛政三年(1791年)の刻銘がありますが、昔から談山神社の参道に架かっていた「屋形橋」は、付け替えられ再建されました。昔はここから歩いて「東大門」を通り参拝しました。ー奈良観光ーより抜粋
談山神社の「東大門(とうだいもん)」  (万葉歌碑あり)
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◆長皇子の猟路野(かりぢぬ)に遊猟(みかり)したまへる時、柿本朝臣人麻呂がよめる
巻3-0240 
ひさかたの天行く月を綱(つな)に刺し我が大王は蓋(きぬかさ)にせり

談山神社の東入口「一の橋(屋形橋)」の直ぐ上にある、両袖付きの高麗門が談山神社の「東大門」で、本瓦葺き、左右に木柵が付けられています。中央は、板扉で、南側の袖はくぐり戸になっています。脇塀の垂木(たるき)の墨書から、享和三年(1803年)建立と認められ、社寺の表門に、城郭風の門を用いた例として数少ない遺構の1つです。、ー奈良観光ーより抜粋
※女人禁制石碑と西大門
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談山神社の国重文「十三重塔婆」
談山神社の本社社殿、「楼門」の前から西へ石段を下りると、神廟(しんびょう、神の御霊屋)とも呼ぶ国重文「木造十三重塔」が建っています。藤原鎌足の長子定慧(じょうえ)が唐から帰国して摂津(大阪府茨木市)の阿威山(あいやま)に葬られていた父の遺骨を多武峯に移葬し、678年(白鳳7年)唐の清涼山宝池院の塔婆を模して建てた墓塔です。
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1532年(享禄5年)に再建され、各層は方3間、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、初重の屋根を特に大きくして、二重以上は軸部を非常に短く造り、頂上に青銅の相輪をのせ、木造十三重塔として現存世界唯一の貴重な建造物の遺構で、元々当社は、妙薬寺(多武峰寺)と云い、明治2年神仏分離令の時、神社になり、十三重塔の西は、970年(天禄元年)摂政右大臣の藤原伊尹(これただ)の立願によって創建された旧寺の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)で、室町後期に再建された国重文「権殿(ごんでん)」が建ち、更に西側に国重文の末社「比叡神社本殿」が建っています。ー奈良観光ーより抜粋
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※今年その檜皮葺(ひわだぶき)が葺き替えられたと新聞に載っていましたので再訪することにしました。
by barakan1 | 2007-12-11 14:30 | 旅日記