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明日香・甘樫丘周辺探訪(07.08.24)⑤甘樫丘よりの眺望(小景)・・・

■眺望小景
大来皇女の哀傷(かなし)みてよみませる御歌二首
巻2-0165 
うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む
●畝傍山・二上山           ●耳成山
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反し歌
巻3-0325 
明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
●明日香川               ●飛鳥座神社
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●飛鳥寺                 ●伝板葺宮跡
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★★神岳(かみをか)に登りて
山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
巻3-0324 
三諸(みもろ)の 神名備山(かむなびやま)に
五百枝(いほえ)さし 繁(しじ)に生ひたる 栂(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに
玉葛(たまかづら) 絶ゆることなく ありつつも 止まず通はむ
明日香の 旧き都は 山高み 川透白(とほしろ)し
春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清けし
朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に かはづは騒ぐ
見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ 古思へば


●飛鳥寺・飛鳥坐神社・高屋・倉橋山
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舎人皇子の御歌一首
巻9-1706 
ぬば玉の夜霧は立ちぬ衣手の高屋の上に棚引くまてに
by barakan1 | 2007-08-31 13:03 | 旅日記

明日香・甘樫丘周辺探訪(07.08.24)④甘樫丘(よりの眺望・・・

■甘樫丘より大和三山・飛鳥古京を眺望
暑い日で、薮蚊に追いかけられながら登りました。
●西→北→東 二上山・葛城山・金剛山、手前に畝傍山・和田池
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●畝傍山~右奥藤原京
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●耳成山、左手前明日香川
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★★甘樫丘北側(雷丘側)より登ると途中に犬養毅揮毫の万葉歌碑があります。
明日香の宮より藤原の宮に遷り居(ま)しし後、
志貴皇子のよみませる御歌
巻1-0051 
釆女の袖吹き反す明日香風都を遠みいたづらに吹く
●天の香具山、手前田圃中に大官大寺址
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●飛鳥古京全景(左飛鳥寺・飛鳥坐神社~右板葺宮址・石舞台方向)
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●中央田圃(真神が原)~板葺宮址・石舞台方向
舎人娘子(とねりのをとめ)の歌
巻8-1636 
大口の真神(まがみ)の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなく
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by barakan1 | 2007-08-30 14:31 | 旅日記

明日香・甘樫丘周辺探訪(07.08.24)③甘樫坐(あまかしにいます)神社~西光寺・・・

■甘樫坐(あまかしにいます)神社  奈良県高市郡明日香村豊浦字寺内
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祭神
八十禍津日神、大禍津日神、神直日神、大直日神
または大禍津日神、神直日神、大直日神、伊邪諾神、豊玉比売命
江戸時代からは推古天皇を祭神としている。
●境内・立石
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向原寺(豊浦寺跡)の横を通って直ぐ裏の道に廻ると、「甘樫坐(あまかしにいます)神社」です。我が国初の女帝第33代推古天皇らを祀っています。境内に高さ2.9mの「立石(りっせき)」があり、その前で4月に豊浦、雷大字の氏子により、嘘、偽りを正す「盟神探湯(くがたち)神事」が行われます。「日本書紀」によると、415年(第19代允恭天皇4年)氏姓制度の混乱を正すために、甘橿の神の前に諸氏が会して、煮え湯の入った釜に手を入れ、その中の小石を探らせて、「正しき者にはヤケドなし、偽りし者はヤケドあり」と云って、正邪真偽を決める古代の神明裁判「盟神探湯」が、当神社で行われました。
●本殿
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ー奈良観光より抜粋ー

■豊浦宮址石碑~西光寺(豊浦寺金堂跡)
●正面甘樫丘  地蔵堂の道を右に行く・・・
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豊浦の村中を南に少し入ると、推古天皇豊浦宮址の石碑と礎石がある。その前の地蔵堂のある道を南に行くと直ぐ右手小丘の上に西光寺(豊浦寺金堂跡)がある。
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●西光寺(豊浦寺金堂跡)
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※ここいらの土地には一尺、一寸に歴史が詰まっています。それも日本の黎明期の歴史が!!・・・・
by barakan1 | 2007-08-29 11:12 | 旅日記

明日香・甘樫丘周辺探訪(07.08.24)②剣池~豊浦宮址・・・

■剣池(つるぎいけ、石川池)
橿原神宮駅を下り、東に10分ほど行くと、剣池に出ます。「古事記」に第8代孝元(こうげん)天皇の御陵は、剣の池の岡の上にある。と記され、池の南東から孝元天皇の「剣池嶋上陵」へ行くことが出来ます。
★★紀皇女(きのひめみこ)の御歌一首
巻3-0390 
輕の池の浦廻(うらみ)廻(もとほ)る鴨すらも玉藻の上に独り寝なくに
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巻13-3289 
み佩(は)かしを 剣(つるぎ)の池の 蓮葉(はちば)に 溜(た)まれる水の 
ゆくへなみ 我がする時に 逢(あ)ふべしと 逢ひたる君を 
な寐(い)ねそと 母聞こせども 我が心 清隅(きよすみ)の池の 
池の底 我れは忘れじ 直(ただ)に逢ふまでに

第15代応神(おうじん)天皇の時、軽(かる)池、鹿垣(かのかき)池、廐坂(うまやさか)池と共に「剣池」も造られました。なお、「剣池」とは、現在の「石川池」です。「日本書紀」に635年(第34代舒明天皇7年)7月瑞蓮が剣池に生長した。一茎に二つの花がある。と書かれています。ー奈良観光より抜粋ー

■向原寺(推古天皇豊浦宮跡・豊浦寺跡)
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「甘樫丘」の北側にある、浄土真宗、太子山「向原寺(こうげんじ、県史跡・豊浦寺跡)」があります。552年(欽明天皇13年)蘇我稲目が百済の聖明王から贈られた金銅の釈迦佛を賜り、小墾田(おはりだ)の家に安置し、次に向原(むくはら)の家を寺にしたのが始りで、後に物部尾輿によって焼かれ、593年推古天皇がここ豊浦で即位、603年小墾田宮へ移る迄の宮で、その跡地を蘇我馬子が譲り受け、尼寺の「豊浦寺」を創建、634年(舒明天皇6年)塔婆を建立し、大官、飛鳥、川原、坂田と共に飛鳥五大寺の1つで、江戸時代に「向原寺」に継承されました。
★★故郷の豊浦寺(とよらのてら)の尼が私房(いへ)に宴する歌三首
右の一首は、丹比真人國人。
巻8-1557 
明日香川ゆき廻(た)む岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ
右の二首は、沙弥尼等(さみにども)。
巻8-1558 
鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
巻8-1559 
秋萩は盛り過ぐるをいたづらに挿頭(かざし)に挿さず帰りなむとや

■日本初の仏像を投げ込んだ「難波池」
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「向原寺」の一角、直ぐ南に小さな「難波(なんば)池」があります。池の中に小さな社が建てられ、日本書紀によると、552年(第29代欽明天皇13年)10月13日我が国へ初渡来の釈迦仏を蘇我稲目が賜り、我が国初の寺「豊浦寺」へ祀られましたが、後に疫病が蔓延し、災害は仏教崇拝によると云う理由で、廃仏派の物部尾興(もののべのおこし)によって、仏像が「難波の堀江」へ投げ込まれ、その後、602年(第33代女帝推古天皇10年)4月信濃国(長野)麻績の里人、本田善光と子の善佐によって拾われ、現在は信濃の「善光寺」の本尊として祀られています。ー奈良観光より抜粋ー

●●甘樫丘より、西北を見る(畝傍・剣池・豊浦寺址・明日香川)
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by barakan1 | 2007-08-28 13:11 | 旅日記

明日香・甘樫丘周辺探訪(07.08.24)①コース概要・・・

a0016431_1158106.jpg●西念寺境内の地蔵さん(地蔵さんも、暑そうでした!!)

■明日香・甘樫丘周辺探訪
9時半アベノ発~橿原神宮前~剣池~豊浦宮址~甘樫座神社~甘樫丘~菖蒲池古墳~岡寺駅~アベノ着4時着。(17500歩)
※暑いし、ネタもないし、そんな時のお助け探訪先、明日香探訪です。
今年で4~5回目ではないでしょうか!!
※あまりの暑さに、甘樫丘で30分、岡寺駅前の喫茶店で45分の休憩をしました。それでヤット人心地つきました。真夏の探訪は??ですね・・・
by barakan1 | 2007-08-28 12:02 | 旅日記

敏馬(みぬめ)・処女塚(おとめつか)探訪(07.08.08)⑩敏馬(みぬめ)神社 ・・・終

■敏馬(みぬめ)神社   神戸市灘区岩屋中町4-1-8
●43号線から見る(左敏馬の浦     右敏馬神社)
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祭神
素盞烏命 配 天照皇大神、熊野坐神
元宮 水神社 弥都波能売神 この神社の元の祭神 閼伽井の水と云う井戸もある。三犬女清水と言う。これもミヌメ。
●敏馬神社正面
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御由緒
当社の旧記は、慶長年間(一六〇〇年頃)兵火にかかり焼失して伝わらないが、諸文 献によって考察することができる。奈良時代の摂津風土記(七一三年)に「美奴売と は神の名で、神功皇后が新羅へご出発の時、神前まつばら(豊中)で神集いをされた 処、能勢の美奴売山(大阪府豊能郡三草山)の神様がこられ、わが山にある杉の木を きり船を造りて新羅へ行かれるなら、幸いする所ありと数えられた。その通りなされ ると、大成功をおさめた。お還りの時、この地で船が動かなくなったので、占い問う と神の御心なりと。故に美奴売の神様をこの地に祀り、船も献上した」とある。これ 当社の縁起にして、神功皇后摂政元年(二〇一年)の御創建となる。また平安時代の 延喜式(九二七年)の神名式に生田・長田神社と並びMI売神社が記載されている。延 喜式に記載される神社を式内社といい、最も古い由緒を誇る格式のある神社である。
以上    ー『平成祭りデータ』の敏馬神社の由緒から-
●参道前境内
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●手水社・三犬女清水
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『敏馬の泊・浦のうつりかわり』 敏馬神社の境内掲示
大和時代(八世紀)この高台は海に突きだした岬で東側は港に適した入り江であった。当時敏馬の泊一帯の地名は「津の国津守郷」。港の管理者が居住していたことが分かる。 大和の人が九州韓国へ行く時大阪から船出し敏馬の泊で一泊、大和が遠望できる最後の港、逆に帰る時はなつかしい大和が見える最初の港。また朝鮮人が来朝すると生田社でかもした酒を敏馬でらまう(延喜式)とあり機内に入るためにけがれを祓う港でもあった。 以上の様に大和の人に特別の感情をもつ地であっので万葉集には大和以外の地では稀に見る多くの浦が詠まれた。境内には柿本人麿と田辺福麿の歌碑がある。
●拝殿・境内
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江戸時代、神社前は西国街道の浜街道として往来繁しくまた氏子地に酒造・廻船業が栄えその財力を頼り多くの文人が訪れ当地にも文学(特に俳諧)がおこった。当社に俳諧奉納絵馬二扁が現存する。
●境内から南(古の敏馬の浦)を見る  (左現在・右昭和4年)
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明治以降は海水浴場として賑わい多くの茶屋料亭芝居小屋が神社周辺にあったが昭和の初め海岸の埋め立て、二十年の戦災で往時の姿をなくした。
鎮守の森だけが往時を偲ぶ唯一のよすがである。
ー神南備にようこそー
●境内前から南(古の敏馬の浦)を見る
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奈良時代になると港は「敏馬の浦」から西の「大輪田の泊」(神戸)へ移ったので、その後は、白砂青松の美しい海岸は都の歌人達の賞でる所となり「みぬめ」と「見る眼」を掛詞にした歌が多く詠まれました。いまでは、この神社の社叢にしかその面影はありません。 
●拝殿・狛犬
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★★敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時、
山部宿禰赤人がよめる歌一首、また短歌
巻6-0946 
御食(みけ)向ふ 淡路の島に 直(ただ)向ふ 敏馬の浦の
沖辺には 深海松(ふかみる)摘み 浦廻には 名告藻(なのりそ)苅り
深海松の 見まく欲しけど 名告藻の 己が名惜しみ
間使も 遣らずて吾(あれ)は 生けるともなし

反し歌一首
巻6-0947 
須磨の海人の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ
●拝殿・本殿
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敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時よめる歌一首、また短歌
田邊福麻呂
巻6-1065 
八千桙(やちほこ)の 神の御代より 百船(ももふね)の 泊つる泊まりと
八島国 百船人(ももふなひと)の 定めてし 敏馬の浦は
朝風に 浦波騒き 夕波に 玉藻は来寄る
白沙(しらまなご) 清き浜辺は 往き還り 見れども飽かず
うべしこそ 見る人毎に 語り継ぎ 偲(しぬ)ひけらしき
百代経て 偲はえゆかむ 清き白浜

反し歌
巻6-1066 
真澄鏡(まそかがみ)敏馬の浦は百船の過ぎて行くべき浜ならなくに
●后の宮、 水神社・奥の宮
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太宰帥大伴の卿歌   
巻3-0449 
妹と来(こ)し敏馬の崎を帰るさに独りし見れば涙ぐましも
巻3-0450 
行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも
     右ノ二首ハ、敏馬埼ヲ過ル日ニ作メル歌。

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柿本朝臣人麻呂が覊旅(たび)の歌
巻3-0250 
玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎ夏草の野島の崎に舟近づきぬ



若宮年魚麻呂
巻3-0389 
島伝ひ敏馬(みぬめ)の崎を榜ぎ廻(た)めば大和恋(こほ)しく鶴多(さは)に鳴く
by barakan1 | 2007-08-20 08:54 | 旅日記

敏馬(みぬめ)・処女塚(おとめつか)探訪(07.08.08)⑨西求女塚古墳・・・

●灘区・岩屋交差点より西求女塚古墳あたりを見る
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■西求女塚古墳    神戸市灘区都通3丁目
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地元が提案した西求女塚古墳公園構想(味泥・祭の下町計画2号より)
●西側登り口と後方墳部の廻廊部
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西求女塚古墳は四角い方墳が二つ繋がった形の前方後方墳です。
大きさは全長97メートル。竪穴式石室から中国製の剣・刀・槍などが出土し、4世紀ごろの神戸地方の有力豪族を葬った墓だと言われています。
●前方部より後方墳部を見る
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前方部に奈良の(一説には卑弥呼の墓ともいわれる)箸墓古墳と同じ形式を持つことから、この地方最古の古墳であろうとも。実際に卑弥呼の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡も出土しています。  ー能楽の渕ーより
●後円墳部                    ●前方部
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※今回の発掘調査以前は「前方後円墳」と考えられていた。

★★大伴宿禰家持
処女(をとめ)墓の歌に追ひて和(なぞら)ふる一首(ひとうた)、また短歌
巻19-4211 
いにしへに ありけるわざの くすはしき 事と言ひ継ぐ
血沼(ちぬ)壮子(をとこ) 菟原(うなひ)壮子の うつせみの 名を争ふと
玉きはる 命も捨てて 相共に 妻問ひしける
処女らが 聞けば悲しさ 春花の にほえ栄えて
秋の葉の にほひに照れる 惜身(あたらみ)の 盛りをすらに
大夫(ますらを)の 語(こと)労(いとほ)しみ 父母に 申し別れて
家離(さか)り 海辺に出で立ち 朝宵に 満ち来る潮の
八重波に 靡く玉藻の 節(ふし)の間も 惜しき命を
露霜の 過ぎましにけれ 奥つ城(き)を ここと定めて
後の世の 聞き継ぐ人も いや遠に 偲ひにせよと
黄楊(つげ)小櫛(をぐし) しか刺しけらし 生ひて靡けり


●西求女塚古墳(北→南、前方部を見る)
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反し歌
巻19-19-4212 
処女らが後の表(しるし)と黄楊小櫛生ひ代り生ひて靡きけらしも
●西求女塚古墳(北→南、後方墳部を見る)
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※ここも、43号線の側で岩屋交差点の近く、市街地のど真ん中です。昔日はここらあたりまで海岸線が来ていたそうですが・・・。いまはもう、想像すら出来ません。
by barakan1 | 2007-08-17 13:21 | 旅日記

敏馬(みぬめ)・処女塚(おとめつか)探訪(07.08.08)⑧船寺神社・・・

●西求女塚古墳~敏馬神社付近地図(ウオーク万葉より)
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■船寺神社  神戸市灘区船寺通2-1-25
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祭神: 八幡大神・天照大神・春日大神
神功皇后が三韓よりの帰途に暴風波浪となり、この地に船を繋いで風波のおさまりを待ったと伝えられております。仁和4年(888)石清水八幡宮より、御分霊を迎えて、朝日の昇る東に向いて、社殿を建て、もろもろの、厄除けを祈願したそうです。
●拝殿
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永保2年(1082)八幡太郎義家が八幡宮を造営し、この頃から「東向八幡宮」と称されるようになり、寛文8年(1668)4代将軍徳川家綱公が、拝殿を寄進したそうであるが、昭和20年、戦災にて焼失、昭和41年鉄筋コンクリート造りの社殿が再建された。
by barakan1 | 2007-08-16 11:54 | 旅日記

敏馬(みぬめ)・処女塚(おとめつか)探訪(07.08.08)⑦処女塚(おとめづか)古墳・・・

■処女塚(おとめづか)古墳   神戸市東灘区御影塚町2丁目
●処女塚全景(西→東北)を見る
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4世紀前半に築かれたと思われる全長70mの前方後方墳で、昭和60年(1985)に遺跡公園として整備された。慶長の大地震による地滑りや崩れた石室の跡などが確認された。平成5年(1993)には三角縁神獣鏡が7面出土し話題になった。
●処女塚西側入口を見る
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万葉集に詠まれ、「大和物語」、謡曲や、森鴎外の「生田川」の舞台ともなった「処女塚伝説」はこの塚が舞台となっている。(③菟原処女(うなひをとめ)の伝説を参照)
●処女塚上より前方部(北→南)
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●処女塚上より後方墳部(南→北)
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★★田邊福麻呂
葦屋処女(あしやをとめ)が墓を過ぐる時よめる歌一首、また短歌
巻9-1801 
古の ますら丁子(をのこ)の 相競(きほ)ひ 妻問しけむ
葦屋の 菟原娘子(うなひをとめ)の 奥城(おくつき)を 吾(あ)が立ち見れば
永き世の 語りにしつつ 後人の 偲ひにせむと
玉ほこの 道の辺近く 岩構へ 造れる塚(はか)を
天雲の そくへの限り この道を 行く人ごとに
行き寄りて い立ち嘆かひ 里人(さどひと)は 哭(ね)にも泣きつつ
語り継ぎ 偲ひ継ぎ来し 娘子らが 奥城所
吾(あれ)さへに 見れば悲しも 古思へば


●万葉歌碑・処女塚上より東明八幡神社(右側の杜)
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反し歌
巻9-1802 
古の信太壮士(しぬだをとこ)の妻問ひし菟原処女の奥城ぞこれ
●前方部・後方墳部
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巻9-1803 
語り継ぐからにもここだ恋(こほ)しきを直目に見けむ古壮士(いにしへをとこ)
●処女塚(北→南)を見る
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※この環境の中ではよく残っている方だと言えるだろうが・・・。それにしてもかなり形状は変わっているのだろう。知識が無かったら単なる小山と勘違いするだろうな!
by barakan1 | 2007-08-15 12:04 | 旅日記

敏馬(みぬめ)・処女塚(おとめつか)探訪(07.08.08)⑥東明八幡神社・・・

■東明八幡神社  神戸市東灘区御影塚町2丁目
●石屋川橋より南(海側)・北(山側)を見る
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●神社正面鳥居・手水 (震災で倒れたのでしょうか、キンピカの鳥居でした)
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祭神:應神天皇
-由緒-
神功皇后が朝鮮半島へ船出の際、武内宿彌大臣(三代の天皇に仕えた人物)が、その健勝を祈ってこの地に松を植え、その松は枝葉も繁り大木となりました。 後年宿彌はこの地を訪れ、應神天皇の御偉徳を称えて松の傍に祠を建て、 神霊を勧請して、正八幡宮と称し、遠目の郷(東明)の鎮守としました。
●拝殿
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昔、この辺りを東明村と呼んだ。
東明の地名由来は、武内宿彌が魚崎で軍船を造るのをこの付近から「遠目」に
見ながら指図したからとか、 荘(徳井荘)の中心から遠くに見えるので「遠目」と言っていたのが訛ったからとも、 また、処女塚の処女(オトメ)が訛ったとする説、 氏神八幡神社の灯明田にちなむなどなどの諸説ある。
-神戸文書館より引用-
●拝殿・本殿
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その後、貞観の代に九州の宇佐八幡宮の御神霊を石清水へお遷しの砌(みぎり)、風輦が当社で休息されたと伝えられています。
古来より厄除け、息災、願望成就の神様として信仰されています。
-説明板より-
●式内松」
今から約1700年以上も昔、式内宿彌がお植えになった松は江戸時代には、
幹が5mもある巨木となり式内松と呼ばれ摂津の名所となりました。 しかし、明治の代となって松は枯れてしまい、現在はその一部を保存し祀っています。
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-大中臣爲村-
立ち寄りていざ言問わんこの里の社の松に古き昔を  
●境内末社(浅香稲荷大明神・高良宮・???)
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by barakan1 | 2007-08-14 12:48 | 旅日記