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橿原市~明日香村探訪③(07.03.22)⑧飛鳥・弥勒石・・・

■飛鳥・弥勒石
●飛鳥 (飛鳥橋付近周遊路より真神原をみる)
舎人娘子(とねりのいらつめ)が雪の歌一首
巻8-1636 
大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに
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高さ2.5メートル(地上部約2メートル)の立石。真神原の西を流れる飛鳥川の東(右)岸にある。 俗に、「みろくさん」、「弥勒地蔵」と呼ばれ、現在も土地の人たちに信仰され、祭祀されいているが、石そのものは仏顔面もほとんどなく、わずかに口の形だけが認められ、仏体もただ大きな稜面のある石柱状のものだけで仏手も仏足もない。
●岡・川原  (飛鳥橋付近周遊路より、岡・川原
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<歴史的背景>
大字飛鳥から飛鳥川を渡って大字川原に至る飛鳥川の右岸に、俗に「弥勒石」または「弥勒の石仏」という花崗岩の石仏がある。石仏そのものは仏顔面もほとんどなく、また仏躰もただ大きな稜面のある石柱状のものだけであって仏手や仏足もない。したがって、いつの時代のものであるのか、あるいは何のためにこの位置に安置されているのか詳らかでないが、その位置の歴史的背景からみても飛鳥朝のものとも考えられる。現在下部が埋まっているが、見える範囲の高さは約2メートルである。
●弥勒石
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<堰(石柱)について>
飛鳥には、11世紀に七個の堰があったとされている。木葉堰や豊浦堰あったが、その木葉堰の施設の一部であった石柱が、のちに加工されて出来たものであろうと言われる。
-明日香HPー
●弥勒石側、明日香川
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★※私がお参りした時も、地元のおばあさん2人が熱心に拝んでおられました。一人の人は8・90歳位か般若心経を唱え、私もビックリするほどの大きな声で一節を唱えられました・・・。そして付き添いのおばあさんに「今弥勒さんが話し掛けてくれた」・・・と話していました。素朴な信仰が生きているなぁ!!と少し感激しました!! 
私が付近にいる間にも、次から次へと近所の人がお参りに来ておられました。
by barakan1 | 2007-03-30 20:43 | 旅日記

橿原市~明日香村探訪③(07.03.22)⑦引計皇子神社(近飛鳥八釣宮跡)②・・・

■八釣万葉歌
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●八釣村落を(東→西)を望む


柿本朝臣人麻呂が新田部皇子(にひたべのみこ)に献れる歌一首、また短歌


巻3-0261 
やすみしし 我が大王 高光る 日の皇子
敷き座(ま)す 大殿の上(へ)に 久方の 天伝(あまづた)ひ来る
雪じもの 往き通ひつつ いや重(しき)座(いま)せ

反し歌一首
巻3-0262
八釣山木立も見えず降りまがふ雪に騒ける朝(あした)楽しも 

●西→八釣山、高家を見る        ●東→近飛鳥八釣宮跡を見る
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舎人皇子
巻9~1706
ぬば玉の夜霧ぞ立てる衣手の高屋の上にたなびくまでに

●近飛鳥八釣宮跡横を流れる八釣川
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巻12-2860
八釣川(やつりかは)水底絶えず行く水のつぎてぞ恋ふるこの年ごろを
by barakan1 | 2007-03-29 15:51 | 旅日記

橿原市~明日香村探訪③(07.03.22)⑦引計皇子神社(近飛鳥八釣宮跡)①・・・

■近飛鳥八釣宮跡(引計皇子神社)
●八釣村落(西→東)八釣山、高家方面を見る(左八釣山、右神社社叢)
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飛鳥坐神社の北側、八釣川のそばの道を東に、2キロ余上ると多武峰の中腹の高家(たいえ)にいたる。道は大字八釣、顕宗天皇「近飛鳥八釣宮跡」を過ぎて、八釣山の南裾を登ってゆく。-万葉の旅・大和ーより
八釣は「日本書紀」の顕宗元年に「公卿百寮を近飛鳥八釣宮に召して、天応の位につく」と見える地である。
また、八釣山は明日香村八釣の東北に見える山とされる。
●引計皇子神社(近飛鳥八釣宮跡)
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第23代 顕宗(けんぞう/けんそう)天皇
異称: 弘計天皇(をけのすめらみこと:日本書紀)。哀祀命(おけのみこと:古事記)。来目稚子(くめのわくご)
父:  市辺押磐皇子(履中天皇の子)
母:  蟻臣(ありのおみ)の娘、夷媛(はえひめ)
皇后: 石木王(いわきのおおきみ)の娘、難波王(なにわのきみ)
皇妃: 難波小野王(なにわのおののみこ)
宮:  近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや:奈良県明日香村八釣)
陵墓: 傍丘磐杯丘南陵(かたおかのいわつきのおかのもなみのみささぎ)
●神社境内
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◆ー日本神話の御殿・古事記ーより
★顕宗天皇
第23代顕宗天皇は兄の意祁【オケ】命から皇位を譲られて即位した。その父の市辺忍歯【イチノベノオシハ】王は第21代雄略天皇によって狩場で殺害されており、天皇がその父の遺骸を探し求めると、置目老媼【オキメノオミナ】がその場所を正確に覚えていた。そこで天皇は父の御陵を作り、幼かった自分たちに危害を与えた者たちに処分を下した。そして父の仇である雄略天皇の霊】に報復しようとしたが、意祁【オケ】命の説得により、その御陵の土を少し掘っただけで後世への示しとした。
●拝殿
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★置目老媼
この天皇が、その父王の市辺【イチノベ】王の御骨を探した時、淡海国にいる賤しい老媼が参上して、「王子の御骨を埋めた所を、私はよく知っています。また、その御歯によってわかるでしょう」と申し上げた。御歯は三枝のような押歯であった。
そこで人を集めて土を掘り、その御骨を求めると、その御骨を見つけたので、その蚊屋野【かやの】の東の山に御陵を作って葬り、韓袋【カラフクロ】の子らにその御陵を守らせた。そうした後に、その御骨を持って戻った。
●本殿
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そして帰り上って、その老媼を呼び、その見失わずその地を覚えていたことを誉めて、名を贈って置目老媼【オキメノオミナ】と名付け、更に宮中に召し入れて丁重に接した。そして、その老媼の住む家を宮の傍に作り、毎日のように必ず呼んだ。そのため、釣鐘を御殿の戸に吊るし、その老媼を呼ぼうと思った時は、必ずその釣鐘【つりがね】を引き鳴らした。
そして御歌を作った。その詠【よ】んだ歌は――。
【111】
浅芽原小谷を過ぎて百伝ふ鐸響【ぬてゆら】くも置目来らしも 
そうこうして置目老媼が、「私はひどく老いてしまいました。故郷に退きたいと思います」と申し上げた。そこで申し出の通りに退いた時、天皇が見送って詠【よ】んだ歌は――。
【112】
置目もや淡海の置目明日よりはみ山隠りて見えずかもあらむ 
by barakan1 | 2007-03-29 15:20 | 旅日記

橿原市~明日香村探訪③(07.03.22)⑥奥山久米寺跡・・・

■奥山久米寺(おくやまくめでら)跡  明日香村奥山
●雷丘より、奥山の集落をみる
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明日香村奥山の集落の中に浄土宗「奥山久米寺」があります。
●寺への道、入口
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創建や縁起については不明ですが、本尊は「阿弥陀如来立像」で、本堂の前庭に塔跡が残っており、その心礎の上に鎌倉時代の「十三重石塔」が建っていますが、
●十三重石塔
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奈良国立文化財研究所の発掘調査により7世紀前半(飛鳥時代)の瓦が出土し、心礎・礎石の位置は後世に動かされているけど、伽藍配置は塔・金堂が一列に並ぶ四天王寺式の大寺院の跡と推定され、
●本堂
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大官大寺の前身で「高市大寺」や、「百済寺」の跡、また、久米寺の「奥ノ院」とする説もあります。 ー奈良観光より抜粋ー

■発掘中「竹田遺跡」~
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■大原の里(一面、菜の花が満開でした)
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by barakan1 | 2007-03-28 23:02 | 旅日記

橿原市~明日香村探訪③(07.03.22)探訪地図・・・

■歴史街道ー1daytripー地図より
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by barakan1 | 2007-03-27 18:04 | 旅日記

橿原市~明日香村探訪③(07.03.22)⑤雷丘・甘樫丘と明日香川・・・

■雷丘・甘樫丘と明日香川
●雷橋からの雷丘・甘樫丘と明日香川    右写真(奥に耳成山が見える)
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●歌碑(左雷丘、右甘樫丘)
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大伴家持
巻8-1448
我がやどに蒔きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む
●雷丘側より甘樫坐神社・豊浦寺方向をみる(真中杜から右あたり)
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●同場所より、甘樫橋(明日香村)方向をみる
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元明天皇
巻1-0078
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ
●雷丘(甘樫橋方向から)をみる。(ここで明日香川は左右に大きく蛇行します)
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【明日香川を詠う】
巻2-197
明日香川しがらみ渡し塞(せ)かませば流るる水ものどにかあらまし 
山部赤人
巻3-324
みむろの 神南備山(かむなびやま)に 五百枝(いほえ)さし しじに生(お)ひたる つがの木の いや継(つ)ぎ継(つ)ぎに 玉葛(たまかづら)絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ明日香の 古き都は 山高み川とほししろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧(ゆふぎり)に かはづはさわく 見るごとに 音のみし泣かゆ 古(いにしへ)思え
巻3-325 反歌  
明日香川かわよど去(さ)らず立つ霧の思ひい過ぐべき恋にあらなくに
上古麻呂(かみのふるまろ)
巻3-356
今日もかも明日香の川の夕去らずかはづ鳴く瀬の清(さや)けかるらむ
●東南方向からの雷丘(真中は削り取られて民家が建っています)
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柿本人麻呂  
巻3-235
大君は神にしませば天雲の雷の上に慮(いほ)りせるかも
by barakan1 | 2007-03-27 17:56 | 旅日記

橿原市~明日香村探訪③(07.03.22)④大野丘北塔跡(和田廃寺)・・・

■大野丘北塔跡(和田廃寺)  橿原市和田町
●馬立伊勢部田中神社より、明日香を見る
(右端の、黄色のまる印が大野丘北塔跡の土壇です)
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a0016431_2023526.jpg●和田池堤のサクラです。(真中奥小山、雷丘です)

日本書紀よると敏達天皇の14年(585)、蘇我馬子が大野丘の北に塔を建てたが、物部守屋がこれを焼き、仏像も捨てるという事件が起こっています。その大野丘北塔と想定されるのが、この土壇だと言われてきました。
・・・が、最近になって和田廃寺を葛木寺に当てる説が有力となってきた。和田廃寺には大野塚と呼ばれる土壇が残っている。1974・75年に行われた発掘調査によって、6世紀まで遡る寺ではないことがわかり、葛木寺説が浮上した
※葛城寺:『聖徳太子伝暦』推古天皇29年(621)条には、聖徳太子が造った四天王寺や法隆寺などの9寺院の名を列挙する。なかに葛城寺の名が見られるとともに、この寺を蘇我葛木臣に給うと記される。

●北塔跡土壇(正面奥、畝傍山。 右奥、馬立伊勢部田中神社)
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※この土壇は、11条西1坊にあり。南北14m、東西905m、高さ1.7m。
by barakan1 | 2007-03-26 20:42 | 旅日記

橿原市~明日香村探訪③(07.03.22)③馬立伊勢部田中神社・・・

■馬立伊勢部田中神社(またていせべたなか) 奈良県橿原市和田町1400
●神社社叢(南→北)  (右側に耳成山が見える)
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祭神
天兒屋根命、豐受姫命、譽田別命
(日本神社総覧では式内社御歳神社に比定されている)
●神社正面(西→東)
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当社、創立の詳細は分からないが、三代実録に神位の奉授のこととある。 「清和天皇貞観九年正月二十五日大和国正六位上、馬立 伊勢部田中神從五位下」とある。
されど延喜の領幣に漏れたるを見れば、当時社運暫く 不振の状況におちいったことが察せられる。
●拝殿
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又、位置は現今大字和田にあれども社名は馬立伊勢部田中神社と称している。 昔から和田方の所伝によれば、当社もと字古宮の地に鎮座していたが慶長 年間飛鳥川洪水の為に流されて現今の地に遷座したとのこと
然るに古宮の地は、古代豊浦小墾田宮の故地にして名称の起りも 故地の名に因んだのであろうから、元より当社とは関係はなかったであろう。
その地古宮付近に豊浦寺時代の礎石の存せるを当社華表の 址なりと言うのも是亦附会したものと言わざるを得ない。
●拝殿横より明日香を見る
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社殿の構造は三間社流造りにて、中央は八幡宮、左豊受姫社、右は 春日社を奉祀せり。
●本殿
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a0016431_14235013.jpg●鳥居より西を見る(中央に畝傍山が見える)

後世時代の流れに従って春日社並びに八幡社と配祀し、後、八幡宮が 却って本社の地住を占め八幡宮と称するに至った。
徳川中世に至っても尚八幡宮と称し、(石灯籠)明治四十一年十月二日 にも村社八幡神社として指定された。
その後国史見在社の古名に復すべく出願し、大正八年十一月に前指 定を取り消して馬立伊勢部田中神社として指定された。 ー境内掲示板ーより
 拝殿は中央土間で、柱間七間と二面の横長。本殿は三間社流造で、七尺弱方の石壇の上に鎮座。
●正面鳥居前より西方向を見る(左森、厩坂寺跡。右に畝傍山が見える)
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by barakan1 | 2007-03-25 14:40 | 旅日記

橿原市~明日香村探訪③(07.03.22)②厩坂寺跡・厩坂宮跡・・・

■厩坂寺跡(山階寺→厩坂寺→興福寺) 所在地;橿原市石川町
●東→北
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興福寺は藤原氏の氏寺で、始祖藤原鎌足が大化改新の成就を祈願し、その志を遂げたので丈六(約5m)の釈迦三尊を造ったが、安置する堂宇の建立を見ないうちに没したため、鎌足の遺志をついだ夫人の鏡女王(かがみのひめみこ)が山城国山科に創建した山階(やましな)寺にはじまる。
その後、天武天皇により大和の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に都が移されると(天武元年672)、寺も高市の厩坂(うまやさか)に移され厩坂寺と呼ばれた。
さらに和銅3年(710)の平城遷都とともに、鎌足の子の不比等(ふひと)によって平城の地に再度移され、名も興福寺と改められた。
●南→北
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厩坂宮跡
豊浦宮は蘇我稲目の邸宅を寺にした向原寺跡に建てられた宮で、推古天皇の宮殿(592年)。603年に推古天皇は小墾田宮に宮殿を移した。 その後舒明天皇になると、630年に飛鳥岡本宮を宮殿とし、636年焼失のため田中宮を再建。640年厩坂宮へ移る。 643年百済宮を完成させる。(飛鳥変遷の中の宮跡の一つです)
●跡地(説明版も目印もなにもなく、ただの荒地に見えます)
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★大和国高市郡厩坂にあったと伝わりますが、正確な位置は不明とされます。
  この敷地は有力候補地です。
★※橿原神宮駅をおり、真っ直ぐに東に向かうと、丈六の交差点を渡って3・40m行くと北側(左手)に栗の木がが疎らに生えた土壇のような場所があります。そこが厩坂寺・宮跡です。普通に歩くと見逃してしまう遺跡でしょう。
by barakan1 | 2007-03-24 16:04 | 旅日記

橿原市~明日香村探訪③(07.03.22)①コース概要・・・

a0016431_15332513.jpg●厩坂の土手に咲く、タンポポ
後方厩坂寺跡

■橿原市~明日香村探訪③コース概要
自宅発9時半~橿原神宮駅(自転車レンタル)~厩坂寺跡・厩坂宮跡~馬立伊勢部田中神社~大野丘北塔跡(和田廃寺)~雷・甘樫丘~奥山久米寺跡~引計皇子神社~弥勒石~川原寺裏山遺跡~板葺神社~川原寺・橘寺~天武・持統天皇陵~許世都比古命神社~見瀬丸山古墳~橿原神宮駅~アベノ・自宅着18時着。
※本日は自転車での探訪でしたが、坂が多く少々バテました!!
by barakan1 | 2007-03-24 15:39 | 旅日記