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奈良市(菩提山町~田原)探訪(07.02.16)⑦春日宮(かすがのみや)天皇陵・・・終

■春日宮(かすがのみや)天皇陵  田原西陵  奈良県矢田原町
●陵を西側より望む
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●正面より
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春日宮天皇とは、天智天皇の第七皇子の志貴皇子(?~716/万葉集ではその前年)のことですが、実際に即位した訳ではなく、その死後に息子である白壁王(しらかべのおおきみ 709~780)が光仁天皇として即位したために、その名前が諡(おくりな)されました。また、田原天皇とも称されます。
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壬申の乱後は、政治から意図的に遠ざかったので歴史上では重要性をあまり認められない人のようですが、万葉集に残された歌(志貴皇子の歌は、万葉集の中に全部で6首見えます)が、実際に時代を生きた人としての姿を浮かび上がらせてくれています。
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★★志貴皇子
巻1-0051
釆女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたずらに吹く
巻1-0064
葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ
巻3-267
むささびは木末求むとあしひきの山の猟夫(さつを)にあいにけるかも 
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巻4-0513
大原のこのいち柴のいつしかと我が思ふ妹に今夜逢へるかも
巻8-1418
石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも
巻8-1466
神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無(けなし)の岡にいつか来鳴かむ
皇子の邸宅があった辺りと言われる白亳寺の方から県道・奈良名張線の上り坂を延々のぼってきてようやく平地になってしばらくのところにこの御陵があります。
ー巨大古墳 見てある記ー抜粋
●付近地図
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※志貴皇子の御陵は訪ねたかったところです。万葉集がら受ける皇子のイメージのように御陵は、少し寂しい、うらぶれたような印象を受けました。
by barakan1 | 2007-02-24 21:01 | 旅日記

奈良市(菩提山町~田原)探訪(07.02.16)⑥光仁天皇陵・・・

■光仁天皇陵 (田原東陵)   奈良市日笠町
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宝亀元(770)年、称徳天皇は後継者を指名せずに没した。そのため藤原百川(式家)・永手(北家)は、天智天皇の孫にあたる白壁王(父は天智皇子の子施基皇子)を擁立して光仁天皇とした。称徳天皇の死によって、壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は絶え、天智系が復活する。
当初、吉備真備(きびのまきび:右大臣)は、長屋王の子で臣籍に降下していた文屋浄三(78歳)を推し、浄三が高齢を理由に辞退すると、次いでその弟の大市(67歳)を推挙する。藤原北家の頭である藤原永手は、吉備真備に対抗する手段が尽きたと判断するや、その推挙文書の名前部分だけを奏上の直前に「白壁王」(62歳)にすり替えるという挙に出て、強引に白壁王を次期天皇にしてしまった。
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帝は62歳で皇位を継承し、既に井上内親王との間に他戸(おさべ)親王があり、彼が皇太子に立てられた。藤原良継・百川兄弟の真の目的は、白壁王の子の山部王(桓武天皇)の擁立にあったが、白壁王即位に際して天武系からの反発が強かったため井上内親王の立后と他戸皇子の立太子を受け入れた。吉備真備は引退し、道鏡の即位を防いだ功労者である和気清麻呂が復帰し、清麻呂はやがて後に桓武天皇の時代に平安京の建築に尽力することになる。
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藤原北家の総領藤原永手は、天皇即位の翌年の宝亀2年(771)に急死し、政務の実権を握ったのは式家の藤原良継だった。彼は北家の擁立になる他戸王の即位を嫌い、井上皇后に無実の罪を押しつけ廃后し、他戸王も廃太子にする。
井上内親王(桓武天皇には義母)は、30代を過ぎて光仁天皇に嫁ぐのだが、れまでは伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)の姫であった。嫁いでからも加持祈祷をかかさなかった為、宝亀3(772)年、それが天皇呪詛の祈祷であるとの疑いを掛けられ、我が子他戸王とともに処刑された。新皇太子には、翌年山部親王が就いた。
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山部親王は、父は他戸王と同じく光仁天皇であるが、渡来人系の母「高野新笠」から生まれた。高野新笠が渡来系氏族であったことから当初、山部親王の立太子には反対も多かったが、藤原百川らの強力な後押しもあって皇太子となる。高野新笠は、渡来氏族の和(やまと)氏の出身で「和新笠」という名だったが、この立太子に際して「高野」の姓を与えられる。
天応元年(781)、病を得た光仁天皇は皇太子に譲位し、同年12月23日崩御した。山部親王は即座に、45歳で「桓武天皇」として即位した。藤原良継(716~777)の娘、乙牟漏が桓武天皇皇后となる。これにより、約100年続いた天武系統が途絶え、皇統は完全に天智系に戻った。光仁天皇は翌年広岡山陵に葬られ、延暦5(786)年、田原陵に改葬された。
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※※今日この事件は、山部親王(桓武天皇)を推す藤原良継や藤原百川らの謀略と言うことになっているが、やがて桓武天皇は、相次ぐ異変や天変地異を見て、この二人の「怨霊」のせいと信じ、終生これに怯えて暮らすことになる。
ー邪馬台国大研究・ホームページー
★※陵の前の田圃は大々的に区画整理が行われ、ブルが走り回っていました。効率は上がるでしょうが、昔の風情はなくなってしまうでしょうね!?
隠忍自重して過ごした天皇に相応しく田原の山間に隠れるようにヒッソリとありました。
by barakan1 | 2007-02-23 16:38 | 旅日記

奈良市(菩提山町~田原)探訪(07.02.16)⑤太安萬侶墓・・・

■太安万侶(~723) (奈良市此瀬町の茶畑)
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「古事記」序文によれば、古来から伝わる「帝紀」や「本辞」の乱れや誤りを憂慮した天武天皇が、当時28歳の舎人稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じ「帝皇日継」「先代旧辞」等を誦習させ、新たに国史書を作ろうとしたが完成しなかった。
●墓下の茶畑より田原の村を見る
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元明天皇の御世に、太安万侶に勅詔がくだり、稗田阿礼が誦した「勅語の旧辞」を安万侶が筆録し、完成したものを和銅5年(712)正月28日に上進した、となっている。 
ー邪馬台国大研究ーより
●太安萬侶墓 
奈良市の東山山中の田原の里に所在する奈良時代の火葬墓である。昭和54年1月、茶畑で発見されたもので、出土した銅製墓誌により安万侶の墓であることが明らかになった。
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墓誌には、
「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
 年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳」
の四十一文字が刻まれ、居住地、位階と勲等死亡年月日、埋葬年月日を記してある。
●墓上の茶畑より田原の村を見る
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●此瀬町の天神社(墓の近く、由緒不明)
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★※何故、安万侶がこの地に葬られたのでしょうか?この地に所領でもあったのでしょうかね!?多神社の摂社で小杜神社が太安万侶を祭っていたように記憶していますが・・・・・。
by barakan1 | 2007-02-22 18:21 | 旅日記

奈良市(菩提山町~田原)探訪(07.02.16)④崇道天皇八嶋陵 ・・・

■崇道天皇八嶋陵    奈良市八島町320番地(字今里)
●池越しに天皇陵を見る
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藤原種継暗殺事件に連座して無実の罪で淡路島に配流される途中、船の中で憤死したと伝わる早良親王(さわらのみこ)の陵。淡路に埋葬されていましたが、延暦19年(800)7月に淡路国から大和国添上郡八島に戻ってきました。
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早良親王は光仁天皇の皇子、また平安京造営や平氏の祖として有名な桓武天皇の同母弟。歴代天皇の中には崇道天皇の名前はありません。 桓武天皇が800(延暦19)年7月、怨霊鎮魂のため「崇道(すどう)天皇」という諡号を与えたとのことです。
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□藤原種継暗殺事件で、京都から淡路島に流された早良親王は、その死の間際に・・・。 石を9個投げ、それらの石が落ちたところに、葬って欲しいと願われたそうです。それらの石のウチ、8個の石が落ちたところが、ここ八島町だったとのこと。
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(陵前の道路の真ん中に古墳の石室の一部といわれる巨石が横たわっていますが、取り除くと祟りがあると伝わっているのでそのままにされています)
★※崇道天皇は、光仁天皇の第3皇子、 早良(さわら)親王のことです。。但し、天皇というのは、死後に諡号された名前ですので、天皇系譜には掲載されていません。
by barakan1 | 2007-02-21 18:51 | 旅日記

奈良市(菩提山町~田原)探訪(07.02.16)③弘仁寺・・・

■弘仁寺   奈良市虚空蔵町46
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高野山真言宗虚空蔵山「弘仁寺(こうにんじ)」は高樋(たかひ)の虚空蔵さんと呼ばれています。
●本堂
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810年(大同5年)空海が虚空蔵山(標高200mの高樋山)に明星が落ちるのを見て、虚空蔵寺を建立、重文「木造明星菩薩立像」を彫って安置したのが始りで、
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814年(弘仁5年)嵯峨天皇が夜毎に光る奇瑞の霊山を夢に見て勅願し、小野篁が創建して、年号を取って「弘仁寺」とされ、本尊「虚空蔵菩薩像」は伊勢の浅熊、福島の柳津と共に日本三大虚空蔵尊で、昔は多くの堂宇が在ったが、1572年(元亀3年)松永久秀の兵火で殆ど焼失して、1696年(元禄9年)本堂が再建されました
●境内横の鎮守社(?)
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※13歳になった子供に知恵を授けてもらう十三参りで有名です。
by barakan1 | 2007-02-20 12:44 | 旅日記

奈良市(菩提山町~田原)探訪(07.02.16)②正暦寺--2・・・

■正暦寺への道沿いにある
●ハナキレ地蔵
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●泣き笑い地蔵
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※泣き笑い地蔵あたりから、かつての寺院後(?)の石垣が見えはじめかなりの距離続く。その中にはまるで城郭のように見えるものもある。かつての寺院に隆盛振りが偲ばれる、夢の跡である。
by barakan1 | 2007-02-19 18:56 | 旅日記

奈良市(菩提山町~田原)探訪(07.02.16)②正暦寺--1・・・ 

■正暦寺   奈良市菩提山町157 
●福寿院客殿(前は菩提仙川)
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正暦寺(菩提山真言宗)は菩提山龍華寿院と号し、菩提山真言宗の大本山である。寺の言い伝えによると、992年(正歴3)一条天皇の勅願により九条兼家の子、兼俊僧正が創建し、往時には堂塔、伽藍が86坊も建ち並び、偉容を誇っていたといわれている。
●福寿院客殿
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菩提山という山号は、春日山を取り巻く奈良の東山一帯を釈迦修行の聖地と見立て、鹿野園・誓多林・大慈山・忍辱山・菩提山と名付けて配された五大山の一つに由来するものである。
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●本堂への石段
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1180年(治承4)に、平重平衡による南都焼き討ちで焼失したが、1216年(建保6)に興福寺別当の信円僧正が法相宗の学問所として再興され、以後代々興福寺の別院となった。
●本堂全景
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江戸時代は300石の朱印地を与えられていたが、明治初年の廃仏毀釈で荒廃した。多くの伽藍・堂塔のうち、現在は福寿院と本堂・鐘楼残すのみとなった。多くの石垣は往時の盛況の跡である。
●錦の里”と呼ばれるほど、紅葉が美しいことでも知られています。
写真で薄茶色に鬱っているのは皆カエデで秋にはさぞ、紅葉が美しい事でしょう。
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本堂横に万葉歌碑があります。
★★ 大津皇子
巻8-1512
經(たて)もなく緯(ぬき)も定めず未通女(をとめ)らが織れる黄葉(も み ち)に霜な降(ふ)りそね
★※紅葉の時期に是非訪ねたいと思います。
※※正暦寺は清酒発祥の地だそうです。かの有名な織田信長が明智光秀に命じて、徳川家康を饗応したときに振舞った酒がここで造られた酒であり、信長は大変気に入ったそうである。
by barakan1 | 2007-02-19 18:44 | 旅日記

奈良市(菩提山町~田原)探訪(07.02.16)①コース概要・・・

a0016431_1457847.jpg●太安万侶墓の寒椿。
(前方は此瀬町の村落です)

■奈良市・菩提山町~田原探訪コース概要
自宅8時半発~菩提山町・正暦寺~弘仁寺~崇道天皇陵~太安万侶墓~光仁天皇陵~春日宮天皇陵~奈良市2号線経由自宅着16時半。走行距離120Kmでした。
円照寺に寄れなかったのが残念です。次の機会には是非訪ねたいものです。
by barakan1 | 2007-02-18 15:10 | 旅日記

明日香探訪(07.02.06)⑥稲渕の勧請縄(男綱)~飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社・・・終

■稲渕(いなぶち)の勧請縄(男綱)
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「飛鳥川」に沿って県道15号線を南へ行くと、「勧請(かんじょう)橋」の上流に稲渕の勧請縄(男綱)が「飛鳥川」を跨いで掛け渡されています。なお、毎年正月11日行われる綱掛神事は、明日香村稲渕と栢森(かやノもり)両大字に伝わる神事で「カンジョ掛神事」とも呼ばれて、子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などが県道と飛鳥川を通って侵入するのを押し止め、地区の住民を守護するための神事と云われていますが、同じ神事でも両大字では、その形式が異なり、稲渕大字の神事の特徴は、全体を神式で行い、川の上に陽物を形どった「男綱」を掛けて、「神所橋」上に祭壇を設け、神職が御祓いをします。ー奈良観光より抜粋ー
飛鳥川上坐宇須多岐比賣命神社 (あすかのかわかみにますうすたきひめのみこと)
高市郡明日香村大字稲淵字宮山698
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祭神
宇須多伎比売命,神功皇后,応神天皇
●参道石段
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由緒 出雲国造神賀詞は、大穴持命が国土を天孫に譲って出雲の杵築へ去るに当たって、自らの和魂と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とすべき事を誓うが、 その中に「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて」とあり、皇極女帝が雨乞いをした飛鳥川上の神奈備の神はここであり、加夜奈留美命の本源であっても不思議はない。
●拝殿
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●拝殿後方の南淵山を御神体としていた。古い神社形態で大三輪神社等と同じである。
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天武5年にも南淵山の木の伐採を禁じ、飛鳥川の水源を守ろうとしている。
ー神南備にようこそーより
※拝殿の両横に境内社、仁徳天皇社(祭神 仁徳天皇)と武内社(祭神 武内宿禰)がある。   
by barakan1 | 2007-02-17 17:45 | 旅日記

明日香探訪(07.02.06)⑤明日香村・上(かむら)~稲渕へ・・・

■ 明日香村・上(かむら)~稲渕へ
●神社上の橋より飛鳥方面を望む(V字谷左、南渕山)
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●上・細川付近の冬野川(細川)

柿本人痲呂
舎人皇子に献れる歌二首

巻9-1704 
ふさ手折(たを)り多武(たむ)の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒ける




●明日香村・細川あたろの村落(手前磐は古墳?)右奥、多武峰
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●飛鳥稲淵宮殿跡ー国史跡ー
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その宮殿は七世紀後半頃に造営されたもので、中大兄皇子が難波から飛鳥に戻って一時期営んだ河辺行宮跡ではないかともみられていますが確証はないそうです。
●飛鳥川(07.02.06)
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柿本人痲呂
巻7-1366 
明日香川七瀬(ななせ)の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ  
(明日香川の多くの瀬のよどみにすむ鳥だって、心をもっているからこそ、波を立てないのだろうに。)
●冬の稲渕の棚田
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★※稲渕の棚田は冬ばかりで、春夏の写真がありません。今年は是非春夏の写真を撮りたいと思います。
by barakan1 | 2007-02-15 15:18 | 旅日記