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葛城市・尺土~新庄探訪(06.07.31)①コース概要・・・

■葛城市・尺土~新庄を探訪す。コース概要。
a0016431_19581498.jpg●二塚古墳近くのハス田

アベノ橋8時50分発~尺土駅~尺土・春日神社~八川・市柿神社~調田坐一事尼古神社~柿本神社~飯豊天皇埴口丘陵~葛城御県神社~慶雲寺~住吉神社~浄願寺~二塚古墳~置恩寺~博西(はかにし)神社~屋敷山古墳~近鉄新庄駅~アベノ橋駅17時半着。29600歩。よく歩きました。汗でジュクジュクです。(諸鍬神社と角刺神社は回れませんでした。)
by barakan1 | 2006-07-31 20:01 | 旅日記

飛鳥・稲渕の棚田探訪(06.07.26)③島庄遺跡・・・おまけ(終)

■島庄遺跡 
この遺跡は、数時期の遺構があります。7世紀前半の遺構に、石積護岸をもった内方一辺の長さ42M、深さ2M、堤の長さ幅10M、池底に玉石を張った方形の池が検出され、この池の周囲からは、石組暗渠、苑池跡、掘立柱建物などの遺構が確認されています。
●島庄遺跡案内板
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【日本書紀 推古34年(626)夏5月の条に】
夏五月の戊子(つちのえね)の朔丁未(ついたちひのとのひつじのひ)(20日)に、大臣(おほおみ)薨(みう)せぬ。仍(よ)りて桃原墓(ももはらのはか)に葬(はぶ)る。
大臣は稲目宿禰(いなめのすくね)の子なり。性(ひととなり)、武略(たけきたばかり)有(あ)りて、亦(また)辧才(わきわきしこと)有り。
以(も)て三寶(さむぼう)を恭(つつし)み敬(ゐやま)ひて、飛鳥河(あすかがは)の傍(ほとり)に家(いへゐ)せり。
乃(すなは)ち庭(には)の中(うち)に小(いささか)なる池(いけ)を開(は)れり。仍りて小なる嶋(しま)を池の中に興(つ)く。故(かれ)、時(とき)の人、嶋大臣(しまのおほおみ)と日(い)ふ。
●勾の池跡 (田圃の奥側になります) (今は埋め戻され、稲が青々と育っています) 
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とあり、嶋宮はこの蘇我馬子の邸宅跡に造られた、その後離宮になり、さらに東宮(皇太子)である、草壁皇子の宮になったと考えられています。
万葉集巻2の中に、草壁皇子の死去の際、柿本人痲呂やその舎人が悲しんで詠んだ歌の中に、
「皇子の尊の宮(草壁皇子)の舎人等が慟傷(かなし)みてよめる歌二十三首」
巻2-170
島の宮勾の池の放鳥人目に恋ひて池に潜(かづ)かず
巻2-172
島の宮勾(まがり)の池の放鳥(はなちとり)荒びな行きそ君座(ま)さずとも
巻2-184
東(ひむかし)の滝(たぎ)の御門(みかど)に侍(さもら)へど昨日も今日も召すことも無し

などとあることから、この宮には上、下に池があり池の水辺は湾曲した勾の池であり、また池の中には小さな島があり、水鳥が放たれていたことが窺われます。  
ー案内板よりー抜粋

※この石舞台周辺は飛鳥でも一番人気のある場所の一つですが、さすがに今日はパラパラとしか人はいません。この暑さに恐れをなしたのでしょうか!?
それにしても、千数百年の昔に、蘇我馬子や中大兄皇子、大海人の皇子、草壁皇子等・・・・・数多くの超有名人がこの辺りを闊歩していたのか!と想像などすると、何度来てもまた新たな興味が湧いてきます。日本のふるさと、いにしえのこころと言われる所以でしょう。
by barakan1 | 2006-07-29 11:09 | 旅日記

飛鳥・稲渕の棚田探訪(06.07.26)③稲渕の棚田・・・

■稲渕の棚田
●朝風峠側より棚田を見る(西)
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※対面の山が南渕山です
弓削皇子に献れる歌一首
巻9-1709 
御食(みけ)向ふ南淵山(みなふちやま)の巌(いはほ)には降りしはだれか消え残りたる
右、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出ヅ。
今は真夏ですので、はだれもありませんが、その代わり真夏の、目眩がする程の、ガンガンの太陽の熱気を浴びる事が出来ました。
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●蓮田と棚田
蓮には少し時期が遅く、訪れた時間が真昼間と言うこともあり、残り少ない花はシッカリ閉じていました。見るならやはり、早朝ですよね!!
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●朝風峠(道路)より写す
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●南渕橋より15号線を石舞台方面へ歩く
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●石舞台方面へ
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●南渕山を背にして
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■06.01.29・冬の稲渕の棚田
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※まったく景色が違いますねえ!本命の秋はどの様になるのでしょうか!!
by barakan1 | 2006-07-28 16:17 | 旅日記

飛鳥・稲渕の棚田探訪(06.07.26)②稲渕宮殿跡・・・

■稲渕宮殿跡
萌えるような緑に覆われた石舞台を横切り、明日香川に架かる玉藻橋を渡って、飛鳥稲渕宮跡にでる。
●玉藻橋を渡って、飛鳥稲渕宮跡への道(沢山のトンボがいました)
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●稲渕宮殿跡
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稲渕宮殿跡は、1977年の発掘調査で4棟のコの字型の建物跡と、それに囲まれた石敷きの広場が確認されています。前後(南北)に並ぶ2棟の主殿を中心にして、東西に棟を揃えた2棟の脇殿を配置しています。正殿は4面に庇を持っており、推定規模で正面24.6m奥行き10.2mになります。中庭には大型の敷石を敷きつめるなど、一般の施設ではない様相を示しています。
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飛鳥河辺行宮跡であろうと推定されていますが、確定されているわけではありません。
●稲渕宮殿跡(北→南、西→東、東→西)
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日本書紀の孝徳天皇 白雉4年の条には、
大化改新の後、難波長柄豊碕宮に遷都した孝徳天皇に対して、皇太子中大兄皇子が「倭の京」に移りたいと奏上したが許されず、皇祖母尊(皇極天皇)や皇后(間人皇女)、そして、皇弟(大海人皇子)らと共に、倭飛鳥河辺行宮に入った。公卿大夫や百官の人々も太子に従って倭に移った。(要するに、孝徳天皇が長柄豊碕宮に独り、置いてけぼりをくったと言うあの事件です)とあります。
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行宮は仮の宮であって、皇極天皇が斉明天皇として、飛鳥板蓋宮で重祚するまでの1年余の間存在したものと思われます。 ー飛鳥三昧ーより
●稲渕宮殿跡前の明日香川
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巻7-1366
明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ

巻11-2701
明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも

石橋(いわはし/いしばし)は、川を渡るために浅瀬に石を並べたものです。石並(いしなみ)ともいいます。
by barakan1 | 2006-07-27 14:23 | 旅日記

飛鳥・稲渕の棚田探訪(06.07.26)①コース概要・・・

■コース概要
アベノ9時半発~石舞台~祝戸(玉藻橋の明日香川)~飛鳥稲渕宮~稲渕棚田~島の庄遺跡~飛鳥駅~アベノ17時半着。13500歩。
●06.07.26.の石舞台(西から東を見る)
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●06.07.26.の(東から西に見る)
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異常なる大雨の後の、10日振りの晴天。家に籠りっぱなしで、スッカリ身体が鈍ってしまった。遠出もシンドイので、行きなれた明日香へ行くことにする。

●玉藻橋下の明日香川
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バスを石舞台駅で下り、萌えるような緑に覆われた石舞台を横切り、明日香川に架かる玉藻橋を渡って、飛鳥稲渕宮跡にでる。
巻7-1380
明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなく
巻13-3266 
春されば 花咲き撓(をを)り 秋づけば 丹の秀(ほ)に黄葉(もみ)つ
味酒(うまさけ)を 神奈備山の 帯にせる 明日香の川の
速き瀬に 生ふる玉藻の 打ち靡き 心は寄りて
朝露の 消(け)なば消ぬべく 恋ふらくも しるくも逢へる
隠(こも)り妻か
反し歌
巻13-3267
明日香川瀬々の玉藻の打ち靡き心は妹に寄りにけるかも
by barakan1 | 2006-07-26 22:20 | 旅日記

紀の国(貴志川沿線)探訪②(06.07.12)⑬足守神社(あしがみじんじゃ) ・・・終

■足守神社(あしがみじんじゃ)   和歌山市東木枕 
●神社遠景
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祭神
足守大明神 紀伊名所図絵には 宇麻志阿志訶備比古遅神
●拝殿
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由緒 (頂いた由緒書きから )
覚鑁上人が山東の地に到った時、古木鬱蒼寂静幽遂にして自然の霊域たるを相見たものの、田畑の割には灌漑用水が少なく、水田の水が枯れて、農民が苦しいでいたのを見て取った。 貴志と山東の間の渓谷に大池を造る事となった。 郷土の人を叱咤激励しつつ、自らも労役に服した。大池の完成を見て、郷人覚鑁上人の高徳を慕った。上人去るに当たり、桜の木で上人苦行の像を刻み胎した。 木枕(こまくら)の語源と言う。
●拝殿・左足守観音寺本堂
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                             ●覚鑁堂
a0016431_1292676.jpg大池の工事中に、足を痛めて工を怠る者、日増しに増えてきたので、都の愛宕山足千現大明神を統治に勧請され、石室に奉安して足守大明神と称した。 足痛の者祈念すれば、病者平癒せざるはなかったと言う。その後、社殿を建立して観音寺と号した。以上由緒書きから
※紀伊続風土記には観音寺は浄土宗西山派西応寺の末社で、鎮守に足神社、足守神と言うとある。
●本殿
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紀伊名所図絵には、足守明神祠とある。
土人は伊太祁曽神社に流鏑馬を献上すべく来る人馬の足を損ぜざるを祈請する事から足の健やかさを守る神としているが、足守のアシは宇麻志阿志訶備比古遅神で、 古事記にある、国若く、浮かべる脂の如くして水母なす標へる時に、葦牙のごと萌え騰る物に因りて成りませる神として出る神としている。
●本殿
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神仏習合の姿のまま存在している。小祠の前には藁草履が奉納されており、横には松葉杖などが納められている。 足の病の治った人々が絵馬と言えるのか、金属製の草履をひとそろい奉納している。ー神南備にようこそーより
●拝殿に奉納されている金属製草鞋の額
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御無想灸施療祭(足守神社大祭)
毎年7月第一日曜日がお祭り。祈祷はもちろん、覚鑁上人がお告げによりはじめた、「灸すえ」(灸治療)が行われる。 
※先日偶然、テレビでこの神社とこのお祭りのことを放映していました。お年寄りが沢山本堂で、お灸を受けている映像でしたが、地元では結構有名なお祭りみたいですね!それにしても、細い道の奥の、丘陵の上にあるので、車で最後まで行けるか心配しました。(普通車では無理です!)
by barakan1 | 2006-07-22 12:20 | 旅日記

紀の国(貴志川沿線)探訪②(06.07.12)⑪伊太祁曽神社・天の岩戸~⑫亥森神社・・・

■伊太祁曽神社 天 の 岩 戸 
横穴式の石室古墳で、奈良時代の初期(8世紀初)のものといわれ、神社の鎮座の年代とほぼ合致します。紀ノ川の南側に「風土記の丘」といわれる古墳群が存在し、氏子区域の平尾にも集落跡が発掘されており、この地が早くから開けていたことがわかります。
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中世には「伊太祁曽」を「日抱きそ」、神社の御祭神を手力男神として、この穴を天の岩戸と称したことがあったようです。HPより

■亥森神社(伊太祁曽神社)旧社跡
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典型的な鎮守の杜 
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五十猛命、大屋津比賣命、都麻津比賣命
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※伊太祁曽神社の宮司さんに親切に地図まで頂き、場所を教えていただきました。丁度神社と天の岩戸を挟んだ反対側、1キロ位でしょうか・・。今は田圃の真中にあります。丘陵と丘陵に挟まれた緩やかな傾斜地に位置します。遷座は、やはり水害等があったためでしょうか!?今は小さな祠があり、往時の痕跡は残っていません!!
by barakan1 | 2006-07-19 12:11 | 旅日記

紀の国(貴志川沿線)探訪②(06.07.12)⑬吉礼・都麻津姫神社 (つまつひめ)・・・ 

■(吉礼)都麻津姫神社 (つまつひめ) 和歌山市吉礼911
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a0016431_11284227.jpg●正面鳥居

祭神
都麻津姫命 
配 五十猛命、大屋都姫命
別殿 吉礼津姫命




●本殿・拝殿
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a0016431_11304560.jpg由緒:麻津姫命を奉じる人々と吉礼津姫命を奉じる人々がこの吉礼の地に住み、お互いに張り合っていたとの事である。そこで都麻津姫命を祀る神社に吉礼津姫命を合祀し、東西吉礼の融和をはかったとされている。
吉礼津姫命の名は記紀には見えない。名草戸畔と同じようなシャーマンとしてのこの地の女王であったかも知れない。

●本殿  (大屋都姫命       都麻津姫命       五十猛命)
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都麻津姫命は五十猛命の妹神とされ、大屋都姫命と共に素盞嗚尊の子神とされる木の神である。 「妻造り」「妻入り」と言う日本の木造建築の古い様式があるが、この都麻津姫の名前にちなんでか、建築・木の加工の神としての信仰があつい。 抓津比売とも書くが、抓とは屋を造る料として木取った材の意である。
●都麻津姫命
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●五十猛命
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●大屋都姫命
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また「妻」ゆえ安産の神様としてもお参りされている。吉礼(きれ)宮とも呼ばれている。
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■吉礼津姫神社
平地の日前国懸神宮と伊太祁曽神社との間の地であり、伊太祁曽三神である五十猛命、大屋都姫命、都麻津姫命の三神が秋月の地を離れ、吉礼を通り、その奧の山東の地に遷座したのであるが、元々紀の国の豪族紀氏はこれらの神々を祖神としていた節があり、この吉礼の地に祖神として三神を祀る巫女を置いたのであろう。 それが吉礼津姫命であったと推定している。更に伊太祁曽三神分遷の時、吉礼津姫命とは別に都麻津姫命をこの吉礼の地に祀ったと見る。
ー神南備にようこそーより

※夏祭りの準備のため?本殿前に幕が張られ、よく見えなかったのが残念。伊太祁曽神社を一回り小さくしたような感じである。
by barakan1 | 2006-07-17 11:56 | 旅日記

紀の国(貴志川沿線)探訪②(06.07.12)⑩中言神社・住吉神社 (神前・こうさき)・・・ 

■中言神社・住吉神社(神前・こうさき) 和歌山市神前
●天霧山より、中言神社・住吉神社方面を見る
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●中言神社・住吉神社より、天霧山・名草山方面を見る
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祭神
中言神社 中言神(名草郡の中言神社の祭神は名草彦命、名草姫命名)
住吉神社 底筒之男命 中筒之男命 表筒之男命(推測)
恵比寿神社 恵比寿神
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●中言神社・住吉神社参道入り口、鳥居
由緒
神前の人々が祀る神社。 地名の神前(こうざき)は日前宮宮山の岬の意とされる。 『紀伊続風土記』には中言明神社として記載されており、古社であろうが、由緒など不明。

●社殿全景 向かって右より、中言神社・住吉神社・恵比寿神社
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中言神社は名草山東側(吉原)の同名社が江戸時代には相当大きい神社であったようで、立地から見ても所謂本社かと思われる。
●社殿全景 向かって右より、中言神社・住吉神社・恵比寿神社
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名草郡の巫女的な女神を祀る神社と理解できる。 名草姫と云う名を持つ神であるが、神武紀で誅されたと記述されている名草戸畔(なぐさとべ)も、巫女的な女王であったようで、名草姫と称してもいいだろう。
●中言神社
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●住吉神社
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豪族の紀氏が他の國へ赴任する際に、祖神として勧請しており、紀の國の祖母神のように思われていた。 かっては多く鎮座していたしていた中言神社は、現在は合祀されており、ずいぶんと少なくなっている。当社も神社庁非加盟の社で、地元で話を聞いて初めてその存在が分かった神社である。ー神南備にようこそーより
●恵比寿神社
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当山福飯ヶ峰の頂きに、旧神前、西、森の三ヶ村で祭られていた恵比須神社があった。いつしが転坐し、忘れ去られいたものを、当社造営時に平成9年2月1日、大阪西宮の恵比須様の分霊をいただき、ここに鎮座して頂いたものである。
※社殿、境内は最近整備されたのであろう。まだ柱や梁はまだ白さが残り、新いためか壮重さには欠けるが、よく手入れされている。境内からの見晴らしがよく、竈山神社・名草山方面が良く見える。
by barakan1 | 2006-07-16 17:48 | 旅日記

紀の国(貴志川沿線)探訪②(06.07.12)⑧彦伍瀬命の陵墓⑨田福寺・・・

■神武天皇長兄彦伍瀬命の陵墓
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説明は第一回探訪(竈山神社を参照)





●陵墓より天霧山(薬師山)を見る 
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■真言宗別格本山 田福寺(高倉天皇勅願寺)
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a0016431_1034448.jpg●田福寺への道
※天霧山頂にある静火神社を訪ねたのだが、ある案内に田福寺の西にあり、とあったので西側の山の中を這いずり回ったのであるが、見つけられなかった。人に訪ねようにも付近に人の気配はなく、止む無く見つけられないまま撤退したが・・、帰宅後地図を確認したら、田福寺の東側になっていた。もう少し冷静になって探していれば発見できたものを・・・、残念なことをした。次回探訪時の課題とする。
by barakan1 | 2006-07-15 10:06 | 旅日記