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古山陰道(精華町~京田辺市)探訪(06.05.20)⑪酒屋神社(さけやじんじゃ)・・・

■酒屋神社(さけやじんじゃ)  式内社   京田辺興戸宮前100
●参道
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●鳥居・拝殿
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御祭神
本社    津速魂神(つはやむすびのかみ)
配祀    応神天皇(おうじんてんのう)
末社    七社
事比羅神社    大物主神(おおものぬしのかみ)
厳島神社    市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
火産霊神社    火産霊命(ほむすびのみこと)
            奥津彦神(おきつひこのかみ)
            奥津姫神(おきつひめのかみ)
三神社    天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
            応神天皇(おうじんてんのう)
            武甕槌神(たけみかづちのかみ)
壷神社      埴山比売神(はにやまひめのみこと)
伊邪那美神社   伊邪那美命(いざなみのみこと)
合殿    豊受姫神社豊受姫命(とようけひめのみこと)
綿津姫神社    綿津姫命(わたつひめのみこと)
合殿    佐田彦名神社佐田彦名命(さたひこなのみこと)
菅原神社    菅原道真(すがわらのみちざね)
若宮社    ご祭神不明
a0016431_1022377.jpg●管木(つつき)の原  
神社鎮座地:興戸(こうど)
古事記によると、応神天皇の時代、「酒人(さこうど)と呼ばれる酒造りの技術を持つ人々が百済から訪れた。」とあり、やがて湧き水に恵まれたこの地に住み始め、人々は、代々この地で酒造りを行ってきたといわれています。やがて「さこうど」は「こうど」と呼ばれるようになりいつしか、里の呼び名になったといいます。
巻13-3236
そらみつ 大和の国 青丹よし 奈良山越えて
山背(やましろ)の 綴喜(つつき)の原 ちはやぶる 宇治の渡(わたり)
滝(たぎ)の屋の 阿後尼(あごね)の原を 千年に 欠くることなく
万代に あり通はむと 山科の 石田(いはた)の森の
皇神(すめかみ)に 幣(ぬさ)取り向けて 吾(あれ)は越え行く 逢坂山を

●本殿
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由緒等、 創建年代は明らかではないが式内社で、『日本三代実録』の貞観元年(859) 正月に従五位下に叙せられた諸神に「酒殿神」とみえる。
●拝殿・本殿
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現在の本殿は明治九年(1876)の再建で、一間社流造、正面に千鳥破風、 向拝の前面に軒唐破風を加えている。祭神は津速魂神と応神天皇である。神社が建てられたいわれにも酒にまつわる伝説が残されています。
●本殿
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社伝によれば、神功皇后が朝鮮に出兵する時に、酒の壷を3つ、山に置いて神様を祀り、日本に無事帰れたことを感謝してこの地にお社を建てたのがはじまりといわれています。また、河内国の酒造りを業とする中臣酒屋連の一族が来往して、酒造りを伝え、祖神を祭ったものともいう。江津区にある佐牙神社とともに酒造りに縁のある神社である。
(大阪松原市三宅の屯倉神社境内に酒屋神社が合祀されています)
ー京田辺市教育委員会案内板よりー抜粋
※又、付近には、「たがえずの池」や「鉾立の杉」等神功皇后にまつわる伝説が多くあります。
by barakan1 | 2006-05-31 10:43 | 旅日記

古山陰道(精華町~京田辺市)探訪(06.05.20)⑩筒城宮(つつきのみや)跡・・・

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■筒城宮(つつきのみや)跡

筒城宮(つつきのみや)跡は同志社大学の正門を入って直ぐ、右側に小山のような岡があります。そこに宮跡の碑が立っています。正確な場所は現在ではわからないそうです。

●筒城宮(つつきのみや)跡
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第二十六代継体天皇が越前より迎えられまず樟葉宮で即位(507)し、次に都を置いたのが筒城宮(つつきのみや)である。弟国宮(おとくにのみや)(長岡京付近)に移るまで7年間宮が置かれた所である。字名に「都谷」(=宮跡)と残っていることから、ここに筒城宮があったと考えられているが、詳しい場所は不明である。
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(現在は同志社大学のキャンパス設置のため、大々的に造成されかつての丘陵の姿は一変している)。そして即位からニ十年後に大和に入って、磐余(いわれ)玉穂に宮を置いた。
 ◆筒城宮といえば、仁徳天皇后妃 
磐之媛命【いわのひめ】の話がありますね!
【由来】磐之媛が紀国に行幸している間、仁徳天皇は八田若郎女と昼夜遊び戯れていた。難波まで戻ったとき、この話を聞き知った磐之媛は大いに恨み怒り、堀江を遡って山代へ向かった。そして、さらに奈良山の手前まで行って詠んだのが、次の歌である。
つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし 奈良を過ぎ 小楯(をだて) 倭(やまと)を過ぎ 我が見が欲(ほ)し国は 葛城高宮 吾家(わぎへ)のあたり(古事記)
【通釈】山代川を、難波の宮を遠ざかって溯ってゆけば、私が見たいと願う国は、どんどん近づいて来る。そこは、奈良を過ぎ、倭も過ぎた先、葛城の高宮、私が生れた家のあたりなのだ。 ー千人万首よりー
そのまま難波の宮には帰らず、山城の筒城岡に入り、ここで没したという。
by barakan1 | 2006-05-30 16:07 | 旅日記

古山陰道(精華町~京田辺市)探訪(06.05.20)⑨大御堂観音寺・地祇神社(ちぎじんじゃ)・・・

■大御堂観音寺   京田辺市普賢寺下大門 13
●観音寺全景
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京田辺にある古刹。義淵僧正が天武天皇の勅願により創建。良弁憎正が伽藍を再建し、お水取りを始められた実忠和尚を第一世とする本尊十一面観音菩薩は天平16年(744)に安置されたといわれている。
●参道
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●大御堂
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●国宝 十一面観音像

その後も藤原氏の庇護をうけて栄えたが、戦乱の度に衰微し、現在は国宝の十一面観音を安置する大御堂を残すのみ。この観音像はお顔が優しく、天平彫刻の華麗な様式を伝えている。




■地祇神社(ちぎじんじゃ) 式内社 (観音寺境内にあり)
●大御堂横の地祇神社鳥居
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御祭神
本社  息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)
配祀  大山祇神(おおやまつみのかみ)
      大国主神(おおくにぬしのかみ)
●本殿
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a0016431_19133123.jpg●末社(左・天満宮 右・祈雨神社)
末社  天満宮 菅原道真(すがわらのみちざね)祈雨神社 彌都波能売命(みずはのめのみこと)
由緒等  創建等の由緒不明 
明治の初め頃は地主神社と呼ばれていた。正徳元年(1711)の「山州名跡志」には大御堂(現在の観音寺)の鎮守として、権現大明神と地主権現の二社がみえる。ー案内板よりー
※廃仏棄釈にも耐え、昔の在り様のまま、残っている。あまり勢力のある神社、寺でなかったからのこったのであろうか?(この裏山に廃寺跡がるそうですまた、本堂の裏山にはこふんもあるそうです)
by barakan1 | 2006-05-29 19:29 | 旅日記

古山陰道(精華町~京田辺市)探訪(06.05.20)⑧寿宝寺・山本駅跡碑・・・

◆薬師山古墳より山背古道を見る(薬師山古墳より)
実際、山背古道を歩いている時は、全く歌のように厳しいとは思わなかったが、こうして、遠くから全体を見通すとなかなか厳しい道だなぁと思われる。
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◆寿宝寺裏より(飯岡・山背古道古道)をみる
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巻13-3314 
つぎねふ 山背道(やましろぢ)を 人夫(づま)の 馬より行くに
己夫(おのづま)の 徒歩(かち)より行けば 見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ
そこ思(も)ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と吾(あ)が持てる 
まそみ鏡に 蜻蛉領巾(あきづひれ) 負ひ並め持ちて 馬買へ我が背

■開運山寿宝寺  京都府京田辺市三山木塔ノ島廿番地
開運山寿宝寺は,高野山真言宗の寺院であり人皇第四十二代文武天皇慶雲元年(704)の創建で,昔は「山本の大寺」と称し 七堂伽藍が備って和泉川(現在の木津川)ぞいの平野に梵鐘の響きを伝える大きな寺であった。
●山本駅碑                 ●山門
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しかし東方を流れる和泉川の度々 の大洪水により建造物を流失したので,それより西方に「一佛寺」を建てた。その後,正長元年(1428)八月二日の大洪水で 「佐牙・若松両社」廃壊,「一佛寺」も流水したが,永亨三年(1431)石戸村の西山を開発し,現在の「佐牙神社」境内にあ った法楽寺(三山木の廃寺)に観音堂を建立し一佛寺の残仏(十一面千手観音立像など)を安置した。
●本堂
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a0016431_1015893.jpg寿宝寺は,かつてあった一 佛寺の北西およそ四百メ―トルの現在地に亨保十七年(1732)四月十七日創建され現在に至っている。なお,
観音堂に安置さ れていた十一面千手観音立像は,明治初年の神仏分離令により寿宝寺へ移された。ー京田辺市観光協会ー
十一面千手千眼観音立像は
葛井寺(大阪)、唐招提寺(奈良)の千手観音とともに三大名作とされている。



a0016431_1064012.jpg●山本駅(やまもとのうまや)跡碑
付近に山陰道の宿所として山本駅(やまもとのうまや)が置かれたため、「山本の大寺」として信仰をあつめた。『續日本紀』巻第五の元明天皇和銅四年(七一一)条に「四年春正月丁未始置都驛 綴喜郡山本驛(以下略)」とあり,その「山本驛」に関係あると見られる道中・荒馬・垣内の地名 が残っている』
(寿宝寺は馬駅跡に建てられています)
巻14-3439 
鈴が音(ね)の早馬馬駅(はゆまうまや)の堤井の水を賜へな妹が直手(ただて)よ
※むかしむかし、この馬駅(うまや)でも、
キッと、このような情景が繰りひろげられたのでしょうね!?
by barakan1 | 2006-05-28 10:27 | 旅日記

古山陰道(精華町~京田辺市)探訪(06.05.20)⑦飯岡(いのおか)古墳群・・・

■飯岡(いのおか)古墳群
●飯岡を西南方向より見る
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a0016431_849218.jpg●飯岡概略図
この丘陵一帯は、飯岡古墳群といい継体天皇に関係する人達の墳などがある。飯岡古墳群の頂上には、薬師山古墳があり石仏が祀られていて、この高台からの眺めは京田辺市を初め、井手・山城町一帯を一望に見渡すことが出来る。
ゴロゴロ山、
薬師山、
弥陀山、
飯岡車塚、
トツカ、等々の古墳があります

●薬師山古墳より東(井手町方向を見る
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●薬師山古墳より南(木津、奈良)方向を見る
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■■薬師山古墳
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■■飯岡車塚古墳
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■■蓮華寺跡(礎石すら見当たりません)
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■■穴山梅雪墓(車塚の反対側墓地内にあります)
天正10(1582)年に、織田信長が明智光秀に殺された本能寺の変が起こったとき、泉州堺(大阪府堺市)に滞在していた徳川家康は、京都を避けて急いで居城の三河(愛知県)の岡崎城に帰るため、堺から飯盛山、牧方市尊延寺を経て京田辺市に入り、普賢寺、興戸、草内のコースで木津川を渡り、宇治田原から朝宮、加太、白子、大浜に出て帰城する。1日遅れて家康の武将の穴山梅雪は、同じコースをたどり帰城しようとしたが、河内の土民に追い詰められて木津川を渡る前に主従12名と共に自刃したと古文書は伝えるが、殺害されたとの説もある。
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梅雪は以前甲斐(山梨県)武田家の武将で、母は武田信玄の姉の南松院、妻は武田信玄の三女、見性院妙顕である。この見性院は、梅雪の死後2代将軍徳川秀忠の三男幸松丸(後の保科正之)を養育した。家康の人生最大の事件であり、多くの作家が小説にしているため、年間ここを訪れる人たちが多い。(看板資料より)
※これだけの古墳が集中しているのですから、もう少し時間をかけて見て廻りたかったのですが、何時もの通りの急ぎ旅で通過してしまいました。ここはもう一度訪ねたいとおもいます。
by barakan1 | 2006-05-27 09:17 | 旅日記

古山陰道(精華町~京田辺市)探訪(06.05.20)⑥咋岡神社(くひおかじんじゃ) ・・・

■咋岡神社(くひおかじんじゃ)   式内社  京田辺市飯岡東原62
●飯岡(いのおか)(旧咋山)より咋岡神社~井手方面を見る
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御祭神
本社宇賀乃御魂神(うかのみたまのかみ)
配祀菅原道真(すがわらのみちざね)
末社大神宮天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
八幡宮応神天皇(おうじんてんのう)
●神社正面鳥居
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由緒等:
一説に本社は、元当字の北境宮ヶ森に鎮座ありて、当所と外二部落の総社なりしが、 永享年間の洪水のため被害ありしを以て、各三部落に分離したるに際し、当社はその宮元たるに、 尊像・稲倉魂神を奉迎し、現今の地に勧請奉祀せしものなりと。
 ー神詣でーより       ※ここでも、例の額が揚っています。
●拝殿
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京田辺市飯岡の延喜式内咋岡神社は、酒殿の神を祀り、興戸の延喜式内酒屋神社は、酒を製造した場所とされ、三山木の山崎神社には、延徳二年(一四九〇)の「曾保利弟 曾々保利 蹟 (以下略)」の古文書がある。ー山城綴喜郡誌よりー
●本殿
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ーかぐや姫の里を考える会ーHPより

a0016431_834992.jpg●泉河の辺にてよめる歌一首
巻9-1708 
春草を馬咋山(うまくひやま)ゆ越え来(く)なる雁が使は宿(やどり)過ぐなり

by barakan1 | 2006-05-26 08:48 | 旅日記

古山陰道(精華町~京田辺市)探訪(06.05.20)⑤佐牙神社・・・

■佐牙神社   式内社   京田辺市宮津佐牙垣内164
●一の鳥居・二の鳥居
近鉄宮津を越え、北に行くと22号線沿いに一の鳥居が見えます。
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祭神
佐牙彌豆男神、佐牙彌豆女神
●境内全景
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●拝殿
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※拝殿に懸けられた注連縄が面白い。御幣の間に、矢を突き刺しています。(天王神社でもみましたか・・・)ここいらのしきたりでしょうか?特別の意味があるのでしょうか?興味を引きました!!
佐牙神社の由来 由緒
社伝には敏達天皇の2年(西暦573年)始めてこれを祭られる。
造酒司(さけつくりのつかさ)の奉弊があったとつたえられる。また東朱智社とも言うたらしい。当社は昔山本村(遠藤川の北側府道より少し東)にあったのが、垣武天皇延暦13年(西暦794年)現在の地に創建されたと伝えれ、平城天皇大同元年(806年)神領寄進あり延喜の制には小社に列せられ、字山本はこれを氏神として今なお旧地を御旅所として祭日には神輿の渡御がる。
●拝殿・本殿
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※拝殿に掲げられている額が変わっています。枡と杵(?)を張り付けてあるのです。この神社の神様はお酒造りに関係があるのでしょうか?
追:佐牙神社には、酒造用水を守護する男女二神の佐牙弥豆男と佐牙弥豆女の酒殿神がみられ、唐国から酒を造る曽保利と曽々保利という二人が渡来したと記されている。「佐牙(さが)」は「サケ」「酒」である。
ーかぐや姫の里を考える会ーHPより
●本殿
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この附近は往古佐牙野と呼ばれ、筒城野の東、南は裾野川(今煤谷川と言う)、北は朱智川辺までの名称と思われる。また佐牙垣内(さがかいと)のなが江津に残っていおり、社名と地名が同一であったことが知られる。古事記の開化天皇の段に山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ)の名が出ている。この荏名津は旧名江の津(今の江津)であろうと推定されている。
ー平成祭礼データーより抜粋
●神宮寺・日恵寺跡(拝殿への途中)
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●三木山廃寺後(神社、南に隣接)
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※例祭の古式神饌「百味」が有名だそうです。
by barakan1 | 2006-05-24 12:06 | 旅日記

古山陰道(精華町~京田辺市)探訪(06.05.20)④春日神社~白山神社・・・

■春日神社   旧村社  相楽郡精華町菱田宮川原58-2
●神社正面・鳥居                ●拝殿
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御祭神
本社
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
比賣神(ひめのかみ)
末社
多賀神社伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
西宮神社事代主命(ことしろぬしのみこと)
祈雨神社弥都波賣命(みづはのめのみこと)
龍田神社志那都彦命(しなつひこのみこと)
●拝殿・本殿
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由緒等: 大同2年(807)平安時代前期、奈良春日神社(現春日大社)の分社(当時は小さな祠程度の社と推定される)として建立し、氏神としたと伝えられています。現在の本殿は、吉野時代から室町時代への過渡的建てもの(推定580年余り)で、方一間、入母屋造り、檜皮葺、まえに少し幅を狭くした向拝殿をとりつけ、妻飾りは狐格子となり、流れ造り、春日造りとは少し違った外観で、身舎正面には上に板かえる股、下に蓑束を入れて変化を求めている。また祭祀の内特筆すべきものは1月10日の弓初式で境内で恵方に向い作られた標的に神矢を放ち、今年の豊凶を占う神事で、標的の紙は細くちぎり、祷俵をもって社参りした農家に授与される。ー平成祭データよりー抜粋

■白山神社  旧村社   京田辺市宮津白山41
駅方向から西の方向へ真っ直ぐに行くと、丁度山と平野の境(山際)に鎮座しています
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御祭神
本社事代主命(ことしろぬしのみこと)
配祀大国主命(おおくにぬしのみこと)
末社
歳徳神社櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
祈雨神社高おかみの神(たかおかのかみ)
●神社前景
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由緒等:社伝によると、継体天皇が筒城宮にいた頃、現在の西宮神社(西宮のえべっさん)から勧請されたという。
●本殿
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そのためかっては夷社、蛭子社といった。現在、本殿(祭神事代主命)は末社(祭神大国主命)とともに覆屋の中にある。本殿(国指定重要文化財)は一間社流造、厚板葺で向拝蟇股や木鼻などに室町時代の建築様式が見られる。
●左:末社(大国主命)              ●右:本社(事代主命)             
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a0016431_11284143.jpg●末社祈雨神社(高おかみの神)
市内最古の神社建築で有る。石段耳石に永禄二年(1559)の銘があり、建築年代の参考になる。
ー京田辺市教育委員会案内板よりー抜粋
by barakan1 | 2006-05-23 11:38 | 旅日記

古山陰道(精華町~京田辺市)探訪(06.05.20)③祝園(ほうその)神社・・・

■祝園(ほうその)神社 相楽郡精華町大字祝園小字柞ノ森一番地
●木津川堤上より、柞(ははそ)の森を見る 
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a0016431_121497.jpg●祝園神社拝殿
御祭神
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
健御雷命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
風土記には羽振苑社とし、大歳神、伊怒比女神、曾富理神とあり、この祭神のほうが古そうだ。

●神社横木津川堤上より、川を見る(対岸に涌出宮がある)
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祝園(ほうその)神社由緒: ふるさと案内人の会ーより抜粋
記紀によると崇神天皇[ミマキイリヒコ]10年、孝元天皇の皇子で、葛城から生駒山麓、山城地方を根拠地とする武埴安彦(タケハニヤスヒコ)は妻の吾田媛(アタヒメ)と兵を挙げました。吾田媛の軍は大坂で吉備津彦の軍に破れました。一方、武埴安彦は山代川を隔てて、大彦命と和珥(ワニ)氏の先祖、彦国葺(ヒコクニブク)の官軍と戦いを挑みました。よってこの川を挑み川(泉河)と呼ぶようになりました。山代川も泉河も木津川(写真)の旧称です。
●神社正面・鳥居
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●境内全景
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武埴安彦が斬殺された祝園(ほうその)一帯では多くの者が命を失ったため,この地を「はふりその」と呼ぶようになりました(祝園の語源)。また、記紀の記述では武埴安彦は弓で射られて死んだことになっていますが、別の伝承では木津川のほとりで斬殺され、首は対岸まで飛んでいったとされています。
●拝殿・本殿
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戦乱の後も彼の霊が天災、疫病となって人びとを悩ませたので、首の飛んで来たところに湧出宮が、胴体が遺されたところに祝園神社が建てられ、武埴安彦をはじめ、戦いで散った者たちの霊をおさめ、農作物の豊作を祈念しました。二つの「いごもりまつり」の濫觴です。
●本殿
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※社地は「柞ノ森(ははそのもり)」と呼ばれる。古くはハフソノ(羽振苑)と呼ばれた。「ハフル」の意は死体を投げ捨てる場所と説明されている。

柞(ははそ)の森を詠む (相楽郡精華町祝園(ほうその)の祝園神社の森をいう)
源俊頼
はぐくみし梢さびしくなりぬなり柞の森の散りゆく見れば
by barakan1 | 2006-05-22 12:18 | 旅日記

古山陰道(精華町~京田辺市)探訪(06.05.20)②天王神社・・・

■天王神社 旧村社   京都府相楽郡精華町菅井西山
山田川から22号線を北に走ると暫くすると、左側に道路に沿って鎮座している。
●神社正面                  ●変わった注連縄
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御祭神: 本殿
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
阿智之岐高彦根命(あちのきたかひこねのみこと)
●鳥居・参道拝殿
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●本殿
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末社
熊野神社伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
天満宮    菅原道真(すがわらのみちざね)
蛭子神社事代主命(ことしろぬしのみこと)
金毘羅神社大物主命(おおものぬしのみこと)
大国神社大国主命(おおくにぬしのみこと)
天照皇太神宮天照大神(あまてらすおおかみ)
祇園神社建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
由緒:不明
●境内にある菅井(清井)
もともと稲荷山からの湧き水が豊富で(清清井)が訛ったとも、菅原道真が京へ上るとき、愛飲した水だから菅井とも・・・と言われている。
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by barakan1 | 2006-05-21 12:36 | 旅日記