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斑鳩の里(西域)探訪(06.03.25)①②伊弉冊命神社~大塚古墳・・・

2年振りの斑鳩の里です。今日は法隆寺はオマケにして、西部地域を探訪しました。
□伊弉冊命神社への道から西域(吉田寺・白山神社・三室山・・・生駒山)を見る。
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■伊弉冊命(いざなぎのみこと)神社
●神社遠景(西~東)             ●参道入口燈篭
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五百井(いおいど)の集落の西北に所在し、祭神は伊弉冊命です。安永6(1777)年銘の奉献の石灯の銘文にも見られるように白山大権現とも称し、また、
●境内全景
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●拝殿
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●本殿
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a0016431_18354168.jpg明治7(1874)年の大和国郷村社取調帳には白山神社と記されていました。本殿は一間社春日造の桧皮葺で朱塗に極彩色を施しています。この本殿は昭和29年、国の重要文化財に指定されました。昭和45(1954)年に実施された本堂の解体修理により、天正8(1580)年の墨書が見つかったことから桃山時代の建立であることがわかりました。

■大塚古墳
「伊弉冊命神社」の直ぐ北、畑の中にこんもりと、「斑鳩大塚古墳」があります。現在は、墳丘の南側の麓に大きなお地蔵さんが立ち、墳丘の頂上に殉國碑が建立されていますが、
●伊弉冊命神社側から見る       ●東~西を見る
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昭和54墳丘の整備時に古墳であることが確認され、墳丘の半分は破壊されていますが、元は高さ4m、直径35mの円墳だった様で、墳丘地下に全長約7.5m、幅1.5mの粘土槨(ねんどかく)があり、内部から幅60cmの割竹型木棺、銘のある二神二獣銅鏡、甲冑類、鉄製刀剣、筒型銅器、石釧、管玉等が出土し、墳丘上に葺石、埴輪があり、築造年代は、出土遺物から4世紀末~5世紀前半と推定され、古墳時代中期で、斑鳩では最古の古墳です。
by barakan1 | 2006-03-30 18:47 | 旅日記

斑鳩の里(西域)探訪(06.03.25)①コース概要・・・

a0016431_18122165.jpg●神岳(かみおか)神社 モモのハナ

絶好の日和になりました。出掛けるかどうか?躊躇しましたが・・・、斑鳩の里(西域)探訪をしました。
コース概略。
天王寺12時~法隆寺~伊射奈伎命神社~大塚古墳~吉田寺~白山神社~三室山~龍田城址~龍田神社~藤ノ木古墳~法隆寺(少しだけ)~法隆寺駅~天王寺駅17時半着。27700歩でした。
(昨日、大阪もサクラの開化宣言が出ました。これからの探訪は楽しくなります!!)
by barakan1 | 2006-03-30 18:17 | 旅日記

生駒山系北麓交野市(百済寺~獅子窟寺)探訪(06.03.20)⑥八丈岩~私市駅へ・・・終

■八丈岩~私市駅へ
●八丈岩                       ●岩より大坂方向を見る
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●八丈岩を西側より見る
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獅子窟寺を後に八丈岩へ向う。今日の予定はここまでで、八丈岩の脇の道を私市のほうに下ったが・・・。この道がまた、大変な道で、大きな岩がゴロゴロという感じで、獅子窟寺より大きな岩が折り重なってあり、また八丈岩の何倍もありそうな岩もあり、素晴らしい磐座群を構成していた。
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多分それぞれに名前は付けられているのだと思うが・・よく分からない。観光地図をあてに下ったが、途中で思っていた道をそれており、土生川に沿い下って、私市山手三丁目に出たようだ。ハイキングコースではなさそうだった。
●途中の大岩の連続            ●ロープを伝って下りました
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そんなキツイ道を年の頃は70は優に超えているようなおじいさんが一人で登って来るではないか!!思わず「どちらまでですか?」と聞いてしまった。その人は悠々と「いやぁ、いい日和ですなぁ、チョット、獅子窟寺まで!!」と気楽にいわれたので、一瞬だいじょうぶかな!?と考えてしまった。でも、大丈夫ですかとは聞けないので「よく登られるのですか?」と聞いたら、「いやぁ、チョクチョク登っとります」との返事。なんだ!私より詳しく、ベテランではないか!!それにしてもこんな急峻な山道を登るなんて!!
超元気なおじいさんだなぁ!!と思わず尊敬してしまいました。
●一般のハイキングコースではない道   ●京阪私市駅
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月の輪の滝付近に出る計画であったので、ひどく北西にずれてしまった。磁石を出してみたが、狂っていて(安物はアカンなぁ)方角が少し狂ったようだ。
◆コースちずです
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by barakan1 | 2006-03-28 15:11 | 旅日記

生駒山系北麓交野市(百済寺~獅子窟寺)探訪(06.03.20)⑤獅子窟寺と磐座・・・

■普見山獅子窟寺
●獅子窟寺
a0016431_12255131.jpg開基は役小角(えんのおづぬ)と伝えられ、本尊薬師如来座像は 弘仁期(平安時代、西暦900年頃)のものとされ国宝である。この尊像は行基菩薩が一刀三礼のもとに三年と三ヶ月を費やして刻まれた像で、授乳の霊験が著しいと伝えられている。榧の木(かやのき)の一本刻りで高さ92cm、相貌の眉、切目、口唇に漂う特徴と衣文の鋭い翻波様式は平安の初期の代表作である。
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奈良時代、聖武天皇(45代)の勅願を受けた僧行基が堂塔を建て、金剛般若窟と 云った。 のちに、平安時代空海もこの山で修法されたという。
●地蔵堂           ●天福岩この岩を抱えて願いを唱えると叶うといわれる
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※私も、シッカリ、お願いしてきました。
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●自然石に刻まれた梵字碑

この碑は、胎蔵界大日如来の真言「アビラウンケン」を蓮華座の上に表わしたもので、この梵字は、宇宙を現しているそうです。そして、私達は大日如来の力で生きさせてもらっていて、その大日如来の真言が「アビラウンケン」というそうです



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●獅子窟寺の山は全山花崗岩質の山である。梵字の碑の大岩を上にあがると、東から西側に突き出した巨石はまさしく男の石である。つけ根から先まで四メートル五十センチもある。
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●この下から西側に降りると、金剛般若窟(こんごうはんにゃくつ)・獅子窟(ししくつ)である。 獅子の口に似たとして獅子窟(ししくつと言われ、現在の寺号が出来たと伝えられている。
この岩にこもって、弘法大師が修行された。
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●獅子窟寺~八丈岩への道
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by barakan1 | 2006-03-27 13:03 | 旅日記

生駒山系北麓交野市(百済寺~獅子窟寺)探訪(06.03.20)⑤獅子窟寺への道(仁王門・王の墓)・・・

■獅子窟寺への道
●参道口の地蔵尊         ●参道                ●展望台より
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●獅子窟寺仁王門跡
寺の約150M手前、少し開けた所に仁王門跡の石組みがある
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●弘法大師の水
誰が言うともなしに、この谷(男石と女石)から出る水を弘法大師の水と言われてきた
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●王の墓(百重ヶ原陵)
亀山上皇はこの獅子窟寺の薬師仏に病気平癒を祈られ、全快した喜びに 荒廃した寺を立派に再建された。嘉元3年(1305年)上皇崩御の時、その徳をしのんで 王の墓が建てられた。
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その迫を、左へ山道を下り、六体地蔵の前を抜けると、突き出した所に、亀山上皇と皇后の供養塔・王の墓が重厚なたたずまいを見せている。
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by barakan1 | 2006-03-27 12:12 | 旅日記

生駒山系北麓交野市(百済寺~獅子窟寺)探訪(06.03.20)④天田神社・・・

■天田神社
祭神 本社
表筒命(うわつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)、
底筒男命(そこつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
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a0016431_1312944.jpg●河内森駅
由緒:天田神社は私市、森の氏神社で住吉四神を祀る。
古代この地方は土地が良く肥えて、作物が豊かな野であったので、甘野といわれ、川は甘野川、田は甘田であった。この甘田に田の神を祀って建てた甘田宮が当天田神社の起源と言われている。

●天田神社鳥居                 ●拝殿
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交野地方は、肩野物部氏(かたのもののべし)の所領でその先祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)が天の磐船に乗って河内の哮が峰(たけるがみね)に天降ったと「先代旧事紀(せんだいくじき)」に記され、長く交野の祭神なっていた。その肩野物部氏が西暦577年敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫(とよみけかしやひめ)(後に推古天皇)にこの地を献じて、ここが私部(きさべ)、私市部(きさいちべ)となったのである。「きさい」は皇后、「べ」はその部民のことである。
●本殿
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その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。
かたの広報・交野市史・天田神社由緒参照 【交野の名所案内】より抜粋
●拝殿両脇に飾られていた武者人形
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地には古代より百済系の人々が多く住んでいたので、その人たちが故国の風俗、習慣、思想を伝え、そのことが交野ヶ原に七夕伝説が根付く素地になったと想像される。
平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。
●「伊勢物語82段」
交野ヶ原の天の川を訪れた渚院の惟喬親王(文徳天皇の皇子)は「交野を狩りて天の川のほとりに至る題して歌読みて杯はさせ」と言われたのに対し、
在原業平
狩り暮らし棚機津女(たなばたつめ)に宿からむ天の河原に我は来にけり
と歌い、これに対し惟喬親王は返歌ができずに困っているところを、義父の
紀有常
ひととせにひとたび来ます君待てば宿かす人もあらじとぞ思う
と歌い助け舟を出したという有名な話は、その当時ここ交野ヶ原で天の川と七夕伝説が定着していたことを思わせます。
※確か昨年天の川に行った時も、在原業平の墓があり、このような伝説があり、この歌を載せたと思いますが・・・、どうも天の川伝説はこちらのほうが本物のようですね!・・・
by barakan1 | 2006-03-26 13:28 | 旅日記

生駒山系北麓交野市(百済寺~獅子窟寺)探訪(06.03.20)③百済寺跡・・・

■百済寺跡
●南廻廊(左生垣)を西から東に眺める
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●手前中門、東塔、金堂跡と見える
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百済寺跡は、百済王神社の東横にあり、天野川を見下ろす標高30mの台地の上に位置している。創建当時は眼下の天野川はもちろん、遙か彼方の淀川の先まで見通せた景勝地だったに違いない。その台地に、160メートル四方の広大な寺域を占める寺院が建立された。百済が滅亡した時(663)の最期の国王・義慈王(ぎじおう)の直系で、日本に亡命して百済王氏という姓を賜った渡来系氏族の氏寺とされてる。
●百済寺伽藍配置図
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義慈王から数えて4代目の百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が中宮の地を賜ったと見られる時期に建立されたものと考えられている。
●東塔跡
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(天平21年(749)、陸奥守だった百済王敬福は、任地の陸奥国(今の茨城県)から産出した黄金900両を大仏の鍍金のために献上し、聖武天皇をいたく喜ばせた。聖武天皇は、敬福の位階を渡来氏族としては最高の従三位に進ませ、河内守に任じた。
●金堂跡
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●講堂跡
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●食堂跡
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これを機に、難波に居住していた百済王氏の一族が河内国交野郡中宮(なかみや)、すなわち現在の地に移住してきた)
●南廻廊跡                 ●東廻廊跡
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●東院跡                   ●東門跡
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一般には、奈良時代中頃から建てはじめ、七堂伽藍が完成したのは平安時代の初期と考えられている。
●百済王氏
a0016431_1265169.jpg中宮(なかみや)を本拠とする百済王氏は、奈良時代末期から平安時代にかけて繁栄を続けた。特に、百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫である高野新笠(たかののにいがさ)を母とする桓武天皇は、敬福の娘や孫にあたる百済王氏の女性を四人も妃にしている。またしばしば交野に行幸し、山野で狩りを楽んだという。天皇家と百済王家との深い結びつきが分かろうというものである。百済王氏一族は嵯峨天皇、仁明天皇とも婚姻関係を結び、平安時代中期まで中級貴族として存続した。ー橿原日記ーより抜粋
百済寺は、平安時代後期に焼失し、鎌倉時代に一度復興したが、再び焼失した。その後、再建されず廃寺となったが、礎石だけはそのまま残っていた。金堂、講堂などを中心に東塔と西塔を配する伽藍様式は、一見したところ薬師寺伽藍配置に似ている。だが、薬師寺の場合は中門から延びる回廊は講堂に取り付いているが、百済寺では金堂に取り付いている点が異なる。そのため、新羅の感恩寺との類似が指摘されている。
a0016431_1285488.jpg昭和40年(1965)、再び発掘調査が行われた。その結果、食堂跡や東院跡、東門跡が発見され、また回廊が金堂に取り付いていることも確認された。そして、境内跡地には基壇と礎石が復元された。
(現在西塔発掘調査・完了、2月18日見学会、1200名参加)
by barakan1 | 2006-03-24 12:17 | 旅日記

生駒山系北麓交野市(百済寺~獅子窟寺)探訪(06.03.20)②百済王神社・・・

a0016431_14404988.jpg●百済王神社参道(京阪宮之阪駅より、東へ10分くらい歩くと百済王神社へ出ます)

獅子窟寺へ行く予定ですがそれだけでは時間が余り過ぎるので、他に見るところがないか探してみると、少し前に、テレビで放送されていた百済寺がありました。丁度コースになりますので寄ってみる事にしました。
■百済王神社    大阪府枚方市中宮西之町1-68
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祭 神
 百済王(くだらおう)
 進雄命(すさのおのみこと)<須佐之男命(牛頭天王)>      
境内社
 八幡神社
 浮島神社
稲荷神社
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百済国王、義慈王の王子・禅広(ぜんこう)は、天智天皇二年(663)、新羅・唐連合軍によって祖国が滅亡した際、日本に亡命してきた。やがて朝廷に仕えることとなり、百済王氏という姓を賜り、難波の地に居住した。
●拝殿
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陸奥守として赴任していた禅広の曾孫にあたる百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)は、聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で産出した金を献上し、天平21年(749)その功により、従三位河内守に任ぜられた。敬福は中宮の地を賜り、氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を造営し、一族ともどもこの地に住みついたと考えられている。
                             ●本殿
a0016431_14591871.jpgやがて百済王氏一族は、皇室や高級貴族と姻戚関係をもち、朝廷内での地位を高めていった。特に百済国王部武寧王の子孫、高野新笠を母とする桓武天皇はは交野ヶ原の地をしばしば訪れ、百済王氏と親交を深めた。その後、度重なる火災により壮大な伽藍は灰燼に帰し衰退した。やがて奈良興福寺の支配を受け、再興が図られた。
●参集殿                    ●旧拝殿(春日大社より移築)
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今ある本殿は、奈良春日大社の本社本殿を移築した「春日移し」である。なお、拝殿にかかる「百済国王 牛頭天王」の木版額は、当社が百済王氏の祖霊を祀る神社であることを明らかにする。
とある。ー枚方市教育委員会資料ー
●境内配置図
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※百済寺は鎌倉時代に焼失し廃寺となった。しかし、百済王神社は百済王氏の没落にもかかわらず中宮一円の氏神として地域住民の崇敬を集めて、現在まで存続してきた。現在の本殿は、江戸時代の文政10年(1828)、奈良春日神社の作り替えのとき、旧社の一棟を譲り受けて移設してきたものである。石の鳥居や、石灯籠、狛犬なども江戸時代中期以降のものだとされている。
by barakan1 | 2006-03-23 15:19 | 旅日記

生駒山系北麓交野市(百済寺~獅子窟寺)探訪(06.03.20)①コース概略

a0016431_16215332.jpg●獅子窟寺の磐座の一つ
■生駒山系北麓交野市(百済寺~獅子窟寺)を1月5日の磐船神社に続いて、回ってきました。百済寺の遺構の立派なのには驚きました。いまも、西塔の発掘調査をやっていました。少し話を聞くと親切に現場事務所まで行って、詳しい報告書を持ってきてくださいました。(ありがとうございます)。先日一般公開があり、1200名ほど見学にこられたそうです。遺跡発掘の見学会はどこも大人気ですね)。
獅子窟寺への道で、王の墓の手前に大師の水がありますが、久しぶりに、ココでゾクゾクときました。ビンビンと身体が震え、つま先のほうから、頭の先の方へ波打つように上がってゆき、頭のテッペンから抜けてゆきました。
獅子窟寺のの磐座は思っていたより、規模もスケールもデカかった。八丈岩より私市のほうに下ったがこの道がまた、大変な道で、大きな岩がゴロゴロという感じで、獅子窟寺より大きな岩が折り重なってあり、素晴らしい磐座を構成していた。多分名前は付けられているのだと思うが・・。大坂にこんなに近いところで、こんな大岩がゴロゴロしているところがあったとは、驚きの一言です。(磐船神社の側であり、この当り生駒北麓は大岩が多いところなのだろう!?)
●コース概略
天王寺8時半~京阪(宮之阪駅)9時半着~百済王神社・百済寺~王の墓・大師の水~獅子窟寺~八丈岩~岩ゴロゴロの道~私市駅~天王寺・自宅着15時半。18100歩でした。
by barakan1 | 2006-03-22 16:29 | 旅日記

古市・太子町の古墳古寺社探訪(06.03.15)⑤八丁地蔵・役行者錫丈水~飛鳥戸神社~観音塚古墳・・・終

■月讀橋(つきよみばし歌碑)
飛鳥川が駒ヶ谷の集落に入り、竹内街道と交差するところにかかる橋。橋のたもとに、文政の大神宮や金比羅大権現の灯篭が立っている。杜本神社の宮寺「金剛輪寺」を再建した学僧、覚峰の立てた歌碑が少し上流の民家の下に立つ。
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飛鳥川歌碑
あすか河もみじ葉ながる葛城の山の秋風吹きぞしぬらし  (人磨)"
この歌は新古今集の巻5、秋歌下に、題しらず柿本人磨として掲載されている。
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この歌の元歌は、万葉集の巻10、秋雑歌の中の
明日香川もみじ葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらむ
●竹之内街道より二上山方面を望む(八丁地蔵付近)
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■八丁地蔵・役行者錫丈水
月読橋哉なお竹之内街道を東に二上山(東)方向に行くと、右手に大きな地蔵(八丁地蔵)や石柱「役行者錫丈水」があり、石柱の側面に「右、金剛山、津ぼ井、通法寺、上ノ太子」と刻んである。八丁地蔵は、壷井八幡宮を経て水分へ向かう道との辻である。この道は古市道とも呼ばれ、水分で金剛山に連絡する。
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■飛鳥戸神社 (あすかべじんじゃ)  羽曳野市飛鳥
●飛鳥村落
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祭神
百済の昆伎王(こんきおう)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
●飛鳥戸神社鳥居・境内
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竹内街道から飛鳥の集落に抜ける丘陵上にある神社です。古代の渡来系氏族「飛鳥戸造あすかべのみやつこ」が建立したと伝えられています。この神社は、平安時代の初めに(925年)まとめられた『延喜式えんぎしき』の中にのっている神社(式内社)で、その中でも特に格式の高い名神大社の称号をもった由緒ある古社です。祭神は「百済の昆伎王」で飛鳥戸造の祖先にあたります。当初は「昆伎王神社」と称していたようだ。
●拝殿
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●本殿
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神社の周辺は、「飛鳥千塚」と呼ばれる群集墳があり、飛鳥戸一族の墓地であると考えられています。発掘調査で出土した副葬品などから、当時の飛鳥戸氏の地位、文化の高さを知ることができます。また大宝律令が施行された後には、安宿郡あすかべぐんという地名が付けられており、飛鳥部氏と深い地域であったことがわかります。
●神社裏から西を映したものです。
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●飛鳥戸神社から観音塚古墳への道(飛鳥千塚付近)
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ー羽曳野市:歴史文化課:市内遺跡の紹介ー

■観音塚古墳
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飛鳥戸一族はこの地方の文化の向上に貢献した渡来人で、飛鳥戸神社の周辺には一族のものと見られる多くの墳墓があり、飛鳥千塚と呼ばれている。
●古墳のある山(丘)
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●石棺内部
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中でも族長の墓と推測される観音塚古墳(国指定史跡)は、7世紀終末期の古墳で、切石の石室と横口式家形石棺を有する貴重な遺跡である。
●古墳から見た太子町方向(南)を見る
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※駒ケ岳あたりはぶどーの栽培が盛んです。古墳から見る光景もブドー温室のビニールハウスが山を覆うばかりです。このために、多くの古墳が破壊され、消えてゆきました。飛鳥千塚も100余りしか残っていないとか!!やむをえない面はありますが、出来るだけ残すようにしたいものですね!!
by barakan1 | 2006-03-20 18:46 | 旅日記