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飛鳥(祝戸・稲淵・坂田)を探訪(06.01.29)②マラ石~都塚古墳~くつな石~坂田寺跡・・・終

■マラ石 明日香村大字 祝戸
明日香村にある謎の石像物の一つ。
男性器を模したもので本来は真すぐに立っていたともいわれている。地元では、飛鳥川をはさんだ対岸の丘陵を「フグリ山」と呼び「マラ石」と一対のものと考える説もある。子孫繁栄や農耕信仰に関係した遺物と考えることもできよう。案内板より
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■都塚古墳  高市郡明日香村坂田
●都塚古墳より西を見る
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古墳の形:方墳  年代:6世紀末
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石舞台から稲渕に歩いていく途中、細川谷にある一辺28mの方墳で、このころの古墳としてはめずらしく石舞台同様、風水思想をとり入れず開口部が南を向いていません。
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主体部は長さ12.2mで南西に開口しています。横穴式石室で玄室の長さは5.3m、幅2.5mあり両袖式に幅2mの羨道をつけてあります。玄室には凝灰岩の刳抜式家形石棺が置かれていました。遺物は玄室内で刀子、鉄ぞく、小札、須恵器片が、羨道からは留金具、須恵器が出土したそうです。ーいにしへの倭よりー

■くつな石  くつな=蛇(旧名 くちなわ)    明日香村阪田
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明日香を代表する石舞台から南を向くと、古代史にうたわれている南淵山が、さながら石舞台の屏風のように連なっている。その麓に阪田という集落がある。この阪田の奥に、「くつな石」という、村人が「神の宿る石」として崇めている石がある。

●くつな石への道から西方を見る
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a0016431_15415637.jpgこの石の由来については、その昔、ある山に巨大な石があったそうな。これに目をつけた石屋がこの石を切り出そうとして、鑿(ノミ)で"コーン"と一打・・・・。すると、不思議に石の割れ目から赤い血が流れ出し、傷ついた白い蛇が現れた。それを見た石屋はびっくり仰天。「これは大変。」と驚き恐れ、鑿(ノミ)や道具も捨てて逃げ帰ったそうな。しかし、その夜から高熱にうなされ、とうとう亡くなってしもうたそうな。このことを聞いた村人達は、これは「くつな(蛇)」の祟りと恐れ、それ以来、神の宿る石として祀っている。地元では昔から七月二十一日を「弁天さんの夏祭」といって、お神酒をはじめ、種々の品々を神前に供え、般若心経を唱えてお祀りをした、今は簡素化されて七月二十一日の祝日をあてて、老人会が主催してお祭りしている。
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また「くつな石」は、雨乞いの神としても知られている。昔はよくここで雨乞いの祈祷がおこなわれ、霊験あらたかだったそうだ。地元では、この地を弁天さんと称し、くつな石を弁天さんの愛称で呼んでいるが、「くつな石」と「弁天さん」の関係は定かではない。
ーあすか昔ものがたり 飛鳥京観光協会より

■坂田寺跡   高市郡明日香村阪田
阪田にあり丘陵北面の傾斜地に位置し、持統天皇の時には、大官大寺、飛鳥寺、川原寺、豊浦寺とともに飛鳥五大寺の一つであった。現在は、医王山薬田院金剛寺(浄土宗知恩院末)があり、後をひきついでいるといわれているが、そこには古い寺跡もなく古瓦の出土もなくおそらく現在の位置とは異なっていると考えられる。
●医王山薬田院金剛寺
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a0016431_166360.jpg日本書紀によると、継体天皇十六年(五二二年)来朝した司馬達等が坂田原に草堂を結び仏像を安置礼拝した場所に、その子多須奈が用命天皇二年(五八七年)天皇の病気平癒を祈願して自ら出家し丈六仏像を造顕し寺を建てたとあり、推古天皇十四年(六〇六年)には、その子鞍作鳥が堂の戸をこわすことなく飛鳥大仏を金堂内に納めた功などによって賜った水田を持って金剛寺を造ったとあるが、造営の位置等は明らかでない。豊浦寺とならび代表的な尼寺として隆盛を誇っていたようで、奈良時代天平勝宝元年(七四九年)には、信勝尼が東大寺に大仏の東脇侍観音菩薩像を寄進している。
弓削皇子に献れる歌一首
巻9-1709 
御食(みけ)向ふ南淵山(みなふちやま)の巌(いはほ)には降りしはだれか消え残りたる
     右、柿本朝臣人麻呂ノ歌集ニ出ヅ。
●坂田寺跡
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しかし、寺勢はその後次第に衰え、堂宇も荒廃し礎石は多く持ち去られ、現在では唯わずかに字名を残すのみとなっている。ー明日香村観光ガイドー
by barakan1 | 2006-01-31 16:13 | 旅日記

飛鳥(祝戸・稲淵・坂田)を探訪(06.01.29)①コース概要と祝戸~稲淵へ

■快晴、大変温かい日になった。
昨日は飛鳥祝戸・稲淵・坂田を探訪する。
コース、祝戸展望台は飛鳥盆地というか真神ヶ原から畝傍・天の香具山まで見渡せ絶景であった。後は稲淵の棚田の冬の風景を堪能した(すこし淋しかったが・・・)あと、マラ石から都塚古墳~くつな石~坂田寺跡を経て石舞台からバスにて橿原神宮前駅へ。
久しぶりで疲れました。
石舞台までバスで行き、祝戸展望台を目指す。
●明日香川(稲淵川)の玉藻橋あたり
a0016431_12481012.jpg巻7-1380
明日香川瀬々(せぜ)に玉(たま)藻(も)は生(お)ひたれどしがらみあれば靡(なび)きあはなくに

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●祝戸東展望台
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●祝戸西展望台(飛鳥盆地?)真神が原を見る
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「真神が原」
万葉集には柿本人麻呂の高市皇子への挽歌として、
巻2-0199 
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き
明日香の真神の原に   久かたの 天(あま)つ御門(みかど)を
畏くも ・・・・
・・・・
・・・・
舎人娘子の雪の歌
巻8-1636
大口の真神の原にふる雪はいたくなふりそ家もあらなくに
相聞歌
巻13-3268
大口の真神の原ゆ思ひつつ還りにし人家に到りきや
その反歌巻13-3269
還りにし人を思ふとぬばたまのその夜は吾も寝(い)も寝かねてき

■稲淵 (冬の棚田)
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■稲淵付近の明日香川(稲淵川)
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明日香川 七(なな)瀬(せ)の淀(よど)に 住む鳥も 心あれこそ 波立てざらめ 

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by barakan1 | 2006-01-30 13:26 | 旅日記

京都府相楽郡木津町~加茂町あたり探訪(06.01.12)⑥海住山寺・・・終

■海住山寺 京都府相楽郡加茂町例弊海住山20 
●海住山中腹より、恭仁京を見る
万葉集 巻6-1051 
三香(みか)の原布當(ふたぎ)の野辺を清みこそ大宮所定めけらしも
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多くの歌にも詠まれた瓶原(みかのはら)を一望におさめる北側の海住山の中腹に海住山寺(かいじゅうせんじ)が建つ。創建は恭仁京遷都の5年前の天平7年(735)で、大仏造立を発願、その工事の無事を願う聖武天皇の勅を受けて良弁上人が一宇を建て、十一面観音像を安置したのが起こりで、創建当時の寺名は観音寺。
●総門
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保延3年(1137)火災で焼失して廃絶状態になっていたが、約70年後の承元2年(1208)笠置寺にいた貞慶上人が廃寺跡に草庵を結んで寺を復興、補陀落山(ふだらくさん)海住山寺と称した。境内から眺める瓶原やそのかなたの山並みを海になぞらえ、海上に浮かぶ浄土の補陀落山のように見立てて海住山寺の寺名がつけられたようだ。
●山門
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貞慶上人の遺志を継いだ覚真上人が伽藍(がらん)整備に尽力し、現在の国宝・五重塔を建保2年(1214)貞慶上人一周忌の供養に建立した。
●本堂
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境内で目を引くこの五重塔は心柱が初層で止められている建築形式で知られ、初層に裳階(もこし)を付けた形は、ほかに法隆寺五重塔に見られるだけで珍しい。また初層の屋根が大きく各層がしだいに小さくなっている安定感のある姿をした塔である。
●五重塔
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その後、寺は大いに栄え塔頭58坊を数えたが、豊臣秀吉の検地で寺領を失い、現在の本堂を中心に整備され今日に至っている。山門をくぐったところに開ける広い境内は、往時の塔頭跡をしのばせている。
●文殊堂(重文・鎌倉時代
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本尊・十一面観音像(国・重文)は平安時代の作で、厄除け観音として知られる。広い境内には本堂や五重塔、文殊堂(国・重文・鎌倉時代)、奥の院、開山堂、鐘楼などの伽藍が整っており、境内からの眺望はすばらしく秋の紅葉など四季を通じて豊かな自然が満喫できる。
●狛犬
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※本堂前にある、狛犬。普通見かける狛犬と違って、面白い形をしている。耳が大きくて、大きく口を開き、歯が上下引っ付いている形だ!ユニークな狛犬の一つだろう!!・・・
ー歴史街道よりー
by barakan1 | 2006-01-21 15:50 | 旅日記

京都府相楽郡木津町~加茂町あたり探訪(06.01.12)⑤恭仁京址・山城国分寺址・・・

■恭仁京遠望  (海j住山寺への道より)
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恭仁京は聖武天皇が営まれた京である。聖武帝の治世は、天平文化が華やかに開花した一方で、宮廷をめぐる貴族間の権力闘争が展開されたり、天然痘が流行するなど、政治的にも社会的にも不安が増していた。天平12年藤原広嗣の乱が起こると、帝は平城京を出て、東国へ行幸された。そしてそのまま伊勢・美濃・近江を回られ、恭仁京にたどり着くと、ここに都を造られる。
●大野土手より恭仁京方向を見る
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大伴宿禰家持
巻6-1037
今造る 久迩の都は 山河のさやけき見れば うべ知らすらし
大伴宿禰家持が安倍女郎に贈れる歌一首
巻8- 1631
今造 る久迩の都に 秋の夜の長きに 独り寝(ぬ)るが 苦しさ
●大野土手より左京及び布当(ふたぎ)の原を見る
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巻6-1051
三香(みか)の原布当(ふたぎ)の野辺を清みこそ大宮所さだめけらしも
●恭仁大橋より恭仁京方向を見る
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右馬頭境部宿禰老麿(さかひべのすくねおゆまろ)がよめる。
天平十二年(ととせまりみとせといふとし)の二月(きさらぎ)、三香原(みかのはら)の新都(にひみやこ)を讃むる歌一首、また短歌(みじかうた)
巻17-3907 
山背(やましろ)の 久迩(くに)の都は 春されば 花咲き撓(をを)り
秋されば 黄葉(もみちば)にほひ 帯ばせる 泉の川の
上つ瀬に 打橋渡し 淀瀬には 浮橋渡し
あり通ひ 仕へまつらむ 万代までに

●恭仁大橋より鹿背山方向を見る
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反し歌
巻17-3908 
楯並(たたな)めて泉の川の水脈(みを)絶えず仕へまつらむ大宮所

■しかしその造営途中で、帝は近江紫香楽宮に移られた。結局、恭仁京は僅か3年余りで廃都となり、帝都の彷徨ははさらに灘波宮へと続くのであるが・・・。その荒れたる様を悲しみ、詠まれた万葉歌の一つが次の歌である。
●恭仁大橋より東方向を見る
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巻6-1058 
狛山に鳴く霍公鳥(ほととぎす)泉川渡りを遠みここに通はず
春日(はるのころ)、三香原(みかのはら)の都の荒墟(あれたる)を悲傷(かな)しみよめる歌一首、また短歌
●山城国分寺址
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田辺福麻呂
巻6-1059 
三香の原 久邇の都は 山高み 川の瀬清み
在りよしと 人は言へども 住みよしと 吾(あれ)は思へど
古りにし 里にしあれば 国見れど 人も通はず
里見れば 家も荒れたり 愛(は)しけやし かくありけるか
三諸(みもろ)つく 鹿背山の際に 咲く花の 色めづらしく
百鳥の 声なつかしき ありが欲し 住みよき里の 荒るらく惜しも

●塔礎石
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反し歌二首
巻6-1060 
三香の原久邇の都は荒れにけり大宮人のうつろひぬれば
●恭仁京址
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巻6-1061
咲く花の色は変らず百敷の大宮人ぞたちかはりける
●礎石
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 ※恭仁京造営から廃都に到る歌は万葉集には沢山詠まれている。万葉集の編者とも言われている、大伴家持も出仕しており、人生で一番の絶頂期ではなかったか?それが橘諸兄の失脚とともに家持も出世コースをはずれ、出雲に左遷される・・・。いつの世も宮仕えは大変だ!
by barakan1 | 2006-01-19 12:50 | 旅日記

京都府相楽郡木津町~加茂町あたり探訪(06.01.12)④鹿背山~勝手神社・・・

■鹿背山
●県道47号(天理加茂木津線)御霊神社の東寄りから鹿背山を見る
左端を木津川(泉川)が流れています。
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古今和歌集
題知らず 巻9-408
都出(い)でて今日みかの原いづみがは川風さむし衣かせ山
●法花寺野(ほっけじの)あたりより恭仁京方面「東)を見る。右奥に鹿背山
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藤原兼輔
新古今和歌集996
みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらん
●加茂町大野あたりより鹿背山(西方向)を見る。(左麓のなだらかなあたり)
右端を木津川(泉川)が流れています。
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■勝手神社(かってじんじゃ)京都府相楽郡加茂町大野小字大野1
御祭神:
本社 天忍穗根命(あめのおしほねのみこと)
天大日靈女貴命(あめのおおひるめむちのみこと)
多久幡千千姫命(たくあhたちちひめのみこと)
末社 春日神社 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
市杵島神社 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
八柱神社 五男三女神
海神社 大綿津見神(おおわたつみのかみ)
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由緒等:
勝手神社由緒
当社は往古より寛永年間まで鹿背山明神と称せり。即ち文武天皇の御宇、大宝年間の創立と云う。 然れども、古記録等、木津川洪水のため流失して伝わらず。明治六年七月、村社社格に定められる。
●本殿        左・春日神社        ●勝手神社
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春日神社由緒
往古は当村壱町久保と称する藪の近くに鎮座ありしに、木津川水害を憂いて今の地に移すと伝わる。 然れども古書類は洪水のため流失して伝わらず、よって詳らかなるは能はず。山城誌は云う。 本郡延喜式内岡田国神社は即ち当社なりと。但し、他に確証を得ず。 神詣(かみもうで)より抜粋
●末社 (左から海・八柱・市杵嶋神社)
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末社の祠の横に鎮座する狛犬が面白い。まず、焼き物(瓦で出来ている)ことそれから、各々の表情が大変面白い。
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※こんな狛犬も初めて見るか?(どこかで見たような気もするが・・・)
by barakan1 | 2006-01-18 12:11 | 旅日記

京都府相楽郡木津町~加茂町あたり探訪(06.01.12)③和泉式部の墓~安福寺~御霊神社・・・

■和泉式部の墓  京都府相楽郡木津町殿城
生没年は不明。おおむね10世紀末に生まれ、11世紀初めに、60歳前後で没したものと思われる。彼女は、はじめ和泉守橘道貞(たちばなみちさだ)の妻となる。そのため、和泉式部と呼ばれる。子供が、やはり歌人として有名な小式部内待(こしきぶないじ)である。その後、道貞とも別れ、冷泉天皇の泉子、為尊親王(ためたかしんのう)・敦道親王(あつみちしんのう)と恋愛する。この時の恋愛経験を告発的に物語ったものが「和泉式部日記」である。
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両親王と死別した後、藤原保昌(やすまさ)の妻となる。晩年は、歌作がなく、全く判っていない。式部20歳前後から、50歳頃までの歌数千首を集めたものが「和泉式部集」である。墓は、高さ約1.3メートルの五輪塔で、中世に建立されたものであろう。伝承によれば、式部は木津の生まれであり、宮仕えの後、再び、木津に戻り、余生を過ごしたといわれているが、この伝承を裏付ける資料がなく、残念である。
●和泉式部の墓
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いづみがは 水のみわたの 松のうへに 山かげ涼し 秋のはつかぜ (家集)
和泉式部の墓と称するものは全国各地にあり、なかでも京都市中京区誠心院のものが著名であるが、いずれもきめてを欠いている。 昭和61年3月 木津町教育委員会・・・
恋する歌人の歌一首
題しらず (後拾遺755)
黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき
【通釈】思い乱れ、髪を乱したまま床にうちふす。その時まっ先に恋しく思い浮ぶのは、(昨夜この床で)わが黒髮をかきやったあの人のこと。(千人万首)より

■安福寺 京都府相楽郡木津町宮ノ裏
平清盛の5男、平重衡は、治承4年(1180年)12月28日、源氏に味方する東大寺・興福寺を焼き討ちしました。
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その後、一ノ谷の戦いで敗れた重衡は、虜囚となって、鎌倉の源頼朝のもとへと送られましたが・・・南都の衆徒の強い引き渡し要求に、頼朝も折れ、元暦2年(1185年)6月23日、木津の地まで送られてきました。
●平重衡の墓(石塔)
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南都の衆徒は、木津川の河原で、念仏を唱える重衡の首をはね、奈良の般若寺に晒しました。

■御霊神社   京都府相楽郡木津町木津宮の裏285
祭神 :藤原廣嗣、伊予親王、早良親王 (平成データ)
天之穂日命、天津彦根命、活津彦根命 (寺院神社大事典)
●神社正面鳥居
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由緒
社伝によれば、貞観十八年(876)の創建と言う。 木津ニュータウン開発にあたって、岡田国神社、田中神社、当社三社は移転を余儀なくされ、昭和五十八年に社殿を造営したようだ。
●拝殿
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●本殿
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奇しくもこの三社を回る祭礼がある。毎年10月20,21日に青年達がふとん太鼓を打ち、町をまわる行事がある。木津祭とよばれ、九台のふとん太鼓が各町内から出される。20日は御霊神社での祭典、二十一日の御前は田中神社、午後は岡田国神社に参詣する。(神南備にようこそ)より
by barakan1 | 2006-01-17 15:55 | 旅日記

京都府相楽郡木津町~加茂町あたり探訪(06.01.12)②相楽(さがなか)神社~藤原百川の墓・・・

■相楽(さがなか)神社 式内社 相楽郡木津町大字相楽小字清水
祭神 足仲彦命(仲哀天皇)
   誉田別命(応神天皇)
   気長足姫命(神功皇后)
●正面鳥居
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説  明:境内案内板を転載します。
相楽神社は、北ノ庄区・大里区・曽根山区(旧相楽村)の産土神とし古くから祀られてきた社です。近世までは単に八幡宮と呼ばれていましたが、明治に至って、平安時代の法典『延喜式』に記された『相楽神社』に定められ、現在の名となりました。
●鳥居                       ●手水舎
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●表門                       ●拝殿 
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相楽神社本殿 三間社流造 檜皮葺 室町時代初期身舎正面の蛙股の藤唐草・透彫の欄間、妻飾の組物など見るべきものが多くあり重要文化財に指定されています。末社若宮神社本殿 一間社春日造 檜皮葺 室町時代後期各所に古様なつくりが残されており、府登録有形文化財になっています。
●拝殿
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●拝殿に吊り下げられている、珍しい木製の釣灯篭
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相楽の御田と正月行事相楽神社に伝わる年頭の宮座の行事で、月々の降水量を占う『豆焼』(一月十四日)、早稲・中稲・晩稲の作柄を占う粥占と稲作の過程を模して豊作を祈る御田(十月五日)、竹串に多くの餅を差して花に見立てたものを奉納する餅花(二月一日)、年間降水量を占う水試(旧暦一月十五日)などがあります。
●本殿
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これらの正月行事には中世的な宮座祭祀のあり方がよく残されており、府指定無形文化財に指定されています。多くの貴重な文化財がある当社は、周囲の環境を変えることなく将来に伝えているため、境内一帯が京都府文化財環境保全地区になっています。」

※木津はもと泉の里といい、木津川は山背川或いは泉川と呼んだ。東大寺大仏殿造営の際、上・下流から運搬した材木をここで陸揚げしたので木津との名がが生まれたらしい。泉川の「泉」は木津町の古名によるのもだろうという。
(そういえば御霊神社の裏にその船着場の跡らしい古跡があるらしい、確認せず)
万葉集
石川朝臣廣成が歌一首 
巻4-0696 
家人(いへびと)に恋過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば
物に寄せて思ひを陳(の)ぶ
巻11-2471
山背の泉の小菅(こすげ)なみなみに妹が心を吾(あ)が思(おも)はなくに


■藤原百川の墓
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新しく作られた玉垣の中に、桜の木に囲まれた2つの塚があり、百川夫婦の墓と伝えられてます。百川は、「日本後記」によると相楽郡内に墓を賜ったとあり、「延喜式」には、夫人も同所に葬られたとありますが、2つの墓のどちらが百川の墓であるかは定かではありません。
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藤原氏は大化の改新の立役者、鎌足に続き、不比等が勢力を張りますが、不比等の4子が相次いで亡くなってからは衰えていました。百川は、奈良時代末期に弓削道鏡を失脚させ、桓武天皇の立太子に力を尽くし、藤原氏の勢力を復活させました。
by barakan1 | 2006-01-16 15:19 | 旅日記

京都府相楽郡木津町~加茂町あたり探訪(06.01.12)①コース概要・・・

■コース概要
明日より、また寒波とのことで、その間を縫い探訪す。今回はもう少し163号線の先へ足を伸ばし、木津~加茂方面まで行くことにする。
自宅~163号線を東上~相楽神社~藤原百川の墓~和泉式部の墓~安福寺(平重衝墓)~御霊神社~鹿背山遠望~勝手神社~恭仁橋~恭仁京跡(国分寺跡)~海住山寺~163号線西に下り24号線奈良~①~⑧号線経由で帰阪。(車使用・走行距離11Km)
●泉川(木津川)に憩うシラサギ 泉大橋手前の堤防より写す
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by barakan1 | 2006-01-16 14:53 | 旅日記

奈良西部長弓寺・添御県座神社・登弥(禰)神社(06.01.09)探訪③登禰神社(とみじんじゃ)・・・終章 

■登禰神社(とみじんじゃ) 奈良市石木町
赤膚町から南へ行くと、石木町で、富雄川に沿って下流(南)へ向うと、旧道に面して「登弥神社」が鎮座しています。
●鳥居参道
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皇紀4年2月23日神武天皇がこの地に皇祖を祀ったのが始めで、後に登美連が祖先・天孫饒速日命の住居地(白庭山)に命夫婦を奉祀して当社を創建し、祭神は東本殿に高皇産霊神と誉田別命、西本殿に神皇産霊神、登美饒速日命、天児屋命を祀り、
●境内・拝殿
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●本殿
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毎年2月1日早朝「筒粥(つつかゆ)祭」が行われ、竹筒で小豆粥を炊いて、小豆の分量で豊凶を判断し、その結果を奈良市の石木町、大和田(おおわだ)町、大和郡山市城(じょう)町の農家に報告しています。ー奈良観光より抜粋ー
by barakan1 | 2006-01-15 14:29 | 旅日記

奈良西部長弓寺・添御県座神社・登弥(禰)神社(06.01.09)探訪②添御縣坐神社・根聖院・・・

■添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ) (奈良市三碓・みつがらす)
祭神
建速須佐之男命
武乳速之命
櫛稻田姫之命
●添御縣坐神社遠景(西より東を見る)
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由緒
延喜式内社である。御神体とする御正躰の鏡の裏に、中央の間は八王子、向かって右の間には牛頭天王、左端の間には婆利采女と刻銘がある。 牛頭天王と婆利采女はそれぞれ速須佐之男命、櫛稲田姫之命の仏教的な呼び名であるが、中央の間の御正躰に八王子と刻銘のあることは、修験道との関連をも推察させるようであるが、明らかでない。
●鳥居・参道
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添御県坐神社については、延喜式神名に、添御県坐神社 大新嘗月次 と記され、また延喜式祈年祭に御県尓坐皇神等乃前尓白久、高市。葛木。十市。志貴。山辺。曽布登、御名者白弖。此六御県尓生出甘菜辛菜乎持参来弖。皇御孫命能長御膳能遠御膳登聞食故。皇御孫命能宇豆乃弊帛乎称辞竟奉久登宣。と見えている。
●境内(舞殿・拝殿・本殿)
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御県は倭王朝が古く設定した王領で、上記の祈年祭の祝詞に見えるように、大和の六御県からは、甘菜辛菜を貢納しており、御県の地の民等がまつった神を、御県神としてあがめるようになったと云う由緒正しい古社である。
●拝殿
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この地は鳥見と添上の境界に当たる。物部氏や長髄彦の本拠地とされる磐船街道沿いの北部と南部を分断する要所になる。 倭王権が直轄の御縣を設けたのもうなずける。 
●本殿
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a0016431_22595314.jpg上鳥見の鎮守が長弓寺内の伊弉諾神社、下鳥見の鎮守が登弥神社で、当神社は中鳥見の鎮守であり、かっては牛頭天王社であった。
(大和の神々 神奈備にようこそ)より抜粋

●参道の奥、境内への階段の手前に、石仏?石像があります。制作年代は比較的新しいようですが、そのスタイルが大変珍しいです。私は今回が初めて見ますが、中国か韓国か?の文官のような姿をしているのです。特に由緒らしきものは書かれていませんでしたが・・。どうしてこんな形(姿)をしているのか出来れば知りたいですね~。

■根聖院(こんしょういん)
「添御県坐神社」の西隣が、北和霊場第三十三番、真言律宗鳥見山「根聖院」です。なお、この辺りは、奈良市三碓(みつがらす)と呼ばれていますが、それは、院の庭にある3つの窪みをもつ石が、碓(うす)だったからで、これが此の地を「三碓」と呼ぶ由来です。
●本堂
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●地名・三碓(みつがらす)由来の石
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なお、この地は聖徳太子の命を受けて、607年(推古天皇15年)と翌年の2回、隋に使いした小野妹子の子孫が領した地でもあり、また、生駒市高山の黒添(くろんど)池に源を発する富雄川が南へ流れて大和川に注ぐまでの約20キロにおよぶ流域を古くは「鳥見(とみ)の郷(ごう)」と呼び、富雄川をまた「富の小川」と呼んで、祝い歌でよく詠われました。
●門前より生駒山をみる
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by barakan1 | 2006-01-14 23:30 | 旅日記