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菟道(うじ)の古墳・古社寺探訪(05.12.28)②莵道稚郎子の墓

■莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓 (近鉄宇治駅北方畑の中)
莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)は応神天皇と宇治木幡の豪族の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)との間に生まれました。幼い頃から学問に秀で、応神天皇に望まれ一度皇太子になったのですが、兄の仁徳天皇と皇位を譲り合って自ら命を絶った悲劇の皇子です。
●莵道稚郎子の墓・宇治川堤防上より       ●近鉄電車中より
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紫式部は、この皇子を源氏物語の八の宮のモデルにしたのではないかといわれています。 日本書紀によると莵道稚郎子は「莵道の山の上」に葬られたとあり、江戸時代には宇治川東岸の朝日山山頂の経塚が莵道稚郎子の墓とされていました。
●墓制札                         ●拝所付近
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莵道稚郎子の墓の所在地はいろいろな説がありその場所が特定さ れませんでしたが、明治23年(1890年)当時の宮内省によって「浮舟の杜」とよばれていた場所が買い取られ、「莵道稚郎子の墓」(宇治墓)とされました。 ー(宇治十帖古跡巡り)よりー
●莵道稚郎子の墓
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ちはや人 宇治の渡に 渡り瀬に 立てる 梓弓檀(あづさゆみまゆみ) い伐らむと 心は思(も)へど い取らむと 心は思へど 本方(もとべ)は 君を思ひ出 末方(すゑべ)は 妹(いも)を思ひ出 苛(いらな)けく そこに思ひ出 愛(かな)しけく ここに思ひ出 い伐らずそ来る 梓弓檀(古事記)
【通釈】宇治川の渡りに、川を渡る浅瀬に、立っている、梓の木と檀の木。それで弓を作るために、木を伐ろうと、心には思うけれど、一方には君を思い出し、他方には妻を思い出し、痛々しく、あれにつけては思い出し、可哀想にと、これにつけては思い出し、結局伐らずに来てしまったよ、梓弓・檀の木を。
【由来】大雀命は父応神天皇の命に従い、末弟の宇治稚郎子に天下を譲ろうとしたが、大山守命(長子)は弟の即位を認めず、宇治稚郎子を殺そうと謀った。宇治稚郎子は大雀命から兄の計画を聞き知り、逆に計略を以て大山守命を宇治川に葬った。船とともに沈んだ大山守命の屍を引き上げたときに宇治稚郎子が詠んだのが、上の歌であるという。
ー千人万首ーより
※莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)のお墓は立ち入り禁止になっています。(知らなかった為、宇治川の堤防の上の道から畑を横切り、生垣を乗り越えて中へ入り写真を撮りました。)
by barakan1 | 2005-12-31 12:46 | 旅日記

菟道(うじ)の古墳・古社寺探訪(05.12.28)①コース概要・・・


■菟道(うじ)探訪 コース概要
宇治は5年ぶり位か?それにしても一日中曇りで、メチャ寒かった。
コースは天王子8時半~宇治10時着~菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓~彼方神社~橋寺放生院~宇治神社~宇治上神社~興聖寺~塔の島・十三重石塔~平等院~橋姫神社~県神社~宇治駅14時半~天王寺14時半着。
●宇治橋より朝霧橋方向をみる(右奥平等院)
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万葉集
山背にてよめる
巻7-1135 
宇治川は淀瀬無からし網代人(あじろひと)舟呼ばふ声をちこち聞こゆ
巻7-1136 
宇治川に生ふる菅藻を川速み採らず来にけり苞(つと)にせましを
※20数年前ハエ釣りに凝っていた時分のある年は春夏秋冬毎週通い、年間50数回という、記録もあるが・・・。その時分と較べても宇治(川)は近代化され過ぎた。以前はまだ所々瀬なり、淀みがあったが、今は全く石の塊になって綺麗なことは綺麗だが・・、冷たくなってしまったなぁ。もう少し、情の感じる川端であってもいいのでは?と思うがいかかでしょ?
by barakan1 | 2005-12-30 18:43 | 旅日記

楽浪の志賀・大津京の古墳・古社寺探訪(05.12.16)⑨桐畑古墳群~滋賀里・八幡神社・・・終章

■桐畑古墳(きりはたこふん)
●桐畑よりの琵琶湖展望
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古墳時代後期に築造された桐畑古墳は、丘陵斜面にある6基からなる古墳群ですが、周辺の古墳群の中で比較的規模の大きなもので、直径約20メートル、石室の全長11メートルを測ります。この古墳は、石室内の状況をみることが出来る数少ない古墳です。内部にお不動さんが祀られています。
●桐畑古墳(崇福寺門内)
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●桐畑古墳
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■滋賀里・八幡神社
創建年代)白鳳九年?
(祭神)応神天皇     所在地 滋賀里1-17
由緒:古代の京都への幹線道であった志賀越の道沿いにある。創建年代は不明だが、天武天皇の白鳳九年とも言われている。当社の沿革については文献資料が中世から近世にかけてのたびたびの争乱などによりことごとく焼失したため、ほとんどわかっていない。江戸時代の「近江輿地志略」には正八幡社と記され、周辺の村の産土神で、かつては大社であったが争乱などにより失われ現在のような規模になったということが伝わっている。
●八幡神社鳥居・参道
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●舞殿・本殿
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※由緒にもあるよううに、場所柄から行ってかなり歴史のある神社だと思われます。ここの秋祭りは有名だそうです。(竹で作った大きな鉾のお渡りに特徴がある滋賀八幡神社の秋祭。鉾は3つの町でそれぞれ作られる。約6mの長い青竹の先端近くに、松に日の丸の絵柄の扇3本を開いて、円形に組み合わせて付け、その中心部に塩と米を入れた晒の袋をつるす。また、扇を囲むように竹ひごで丸い模様がかたどられる。祭当日の午後1時頃、当家に担がれた3本の鉾が集まり太鼓の音を合図にゆっくりと参道を本殿へと進む。鉾は拝殿の手前で真直ぐに立てられ、宮司によるお祓いののち本殿に向かって左手に据えられる。その後神輿渡御が行われる)。
近くの、有名な辛崎には寄れませんでした。次回にしたいと思います。
by barakan1 | 2005-12-25 17:11 | 旅日記

楽浪の志賀・大津京の古墳・古社寺探訪(05.12.16)⑧崇福寺・金仙の滝・・・

■崇福寺跡(すうふくじあと)
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崇福寺への道
百穴古墳群の西奥、静かな丘陵地に営まれた天智天皇ゆかりの寺院。平安時代の書物『扶桑略記』によると、天智天皇勅願により、大津宮の乾(北西)之方角に建立されたとあります。




●崇福寺地図、金堂・講堂跡への道
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昭和3年と昭和22年に大津京探求の手がかりとすべく、発掘調査が実施され、その結果この寺院跡が崇福寺と確定されました。
●金堂・講堂跡(西より)
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●金堂・講堂跡南西より
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●金堂・講堂跡東より
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発掘調査では、塔跡から濃緑色の瑠璃(るり)製小壷や無文銀銭などがおさめられた舎利容器が出土しています(国宝)。また、金堂跡、塔跡、講堂跡などの建物が発見されました。
●小金堂・塔跡                         ●西より見る
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●東より見る
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a0016431_2016175.jpg●阿弥陀堂跡
天智天皇ゆかりのこの寺院は、大津宮滅亡後も持統天皇、文武天皇、聖武天皇をはじめとした歴代天皇から重んじられ、隆盛をきわめました。



●西より
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●東より
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◆但馬皇女の恋
但馬皇女は天武天皇皇女で、母は藤原鎌足の娘の氷上娘(ひがみのいらつめ)である。但馬皇女は高市皇子と暮らしていたが異母兄の穂積皇子が恋しくてしかたがなかった。やがてそのことが、人に噂される所となり、そのことにより、穂積皇子に勅して志賀の山寺に遣わされることとなった。今風にいえば、仲を引き裂かれて、遠方に追いやられた(謹慎の身)ということである。その前後の歌が後掲する歌である。(但馬皇女、武市皇子、穂積皇子達は異母兄弟である。今から考えると凄い関係であるが・・・当時は異母兄弟同士の結婚は普通にあったようである)。前回の探訪(05.12.07)で詠まれた歌はこの関連で詠まれたものである。
但馬皇女(たぢまのひめみこ)の、高市皇子の宮に在(いま)せる時、
穂積皇子を思(しぬ)ひてよみませる御歌一首
巻2-0114 
秋の田の穂向きの寄れる片依りに君に寄りなな言痛(こちた)かりとも
穂積皇子に勅(のりこ)ちて、近江の志賀の山寺に遣はさるる時、
但馬皇女のよみませる御歌一首
巻2-0115 
遺(おく)れ居て恋ひつつあらずは追ひ及(し)かむ道の隈廻(くまみ)に標(しめ)結へ我が兄(せ)
但馬皇女の、高市皇子の宮に在せる時、
穂積皇子に竊(しぬ)び接(あ)ひたまひし事既形(あらは)れて後によみませる御歌一首
巻2-0116 
人言(ひとごと)を繁み言痛み生ける世に未だ渡らぬ朝川渡る

■金仙の滝
崇福寺跡は天智天皇が大津遷都の翌668年に建立したものです。これには伝説があります。天智天皇の夢に現れた僧が「西北に霊窟があるので探し出すように」と告げるので、驚いて目を覚ましてその方角を見ると、一筋の青白い光が天空に向かって伸びており、翌朝、使いの者が現場を訪ねてみると、一人の老人がお経を唱えており、その出来事を話すと「ここがその霊窟だ」と云い残して姿を消した、というものです。
●金仙の滝
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今は、跡地に残る小さな「金仙の滝」が天智天皇と崇福寺の伝説を語っています。
※今回のハイライト、崇福寺にとうとう来ました。穂積皇子と但馬皇女の万葉歌で有名な志賀の山寺です。寺は山の尾根を切り開いて建てられており、礎石がまだシッカリと残っていました。
但馬皇女ばかりでなく、穂積皇子も大変淋しい思いであったでしょう!!
by barakan1 | 2005-12-24 20:49 | 旅日記

楽浪の志賀・大津京の古墳・古社寺探訪(05.12.16)⑦滋賀里の石仏~志賀の大仏(おぼとけ)・・・

■滋賀里の石仏
百穴古墳群の直ぐ先、集落のはずれの林道との分岐に竹林に囲まれた一段高い広場がある。そこに鎮座する阿弥陀坐像です。石灯籠を従え、椎の実がたの彫り窪みに坐像が浮かび上がらせてあります。表情などはもはやしのべないですが、丁寧に祭られていました。。
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■志賀の大仏(おぼとけ)
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高さ約3.5m、幅2.7mの花崗岩に、彫ってある高さ3.1mの阿弥陀如来座像、志賀の大仏。鎌倉時代から南北朝時代ころの制作と考えられています。
●地元の人達が建てたお堂
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●おぼとけ
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a0016431_16412874.jpg◆崇福寺(志賀の山寺)への道
この石仏の横を通る道は、崇福寺址(志賀の山寺)から山中町を経て京都の北白川に抜ける旧山中越(志賀の山越え)で、大津側の入口に位置するこの場所と、山中町の西教寺門脇、京都の北白川に石仏があり、いづれも山中越を利用した旅人が道中の安全を祈願したものだといわれています。

穂積皇子に勅(のりこ)ちて、
近江の志賀の山寺に遣はさるる時、但馬皇女のよみませる御歌一首
巻2-0115 

遺(おく)れ居て恋ひつつあらずは追ひ及(し)かむ
                道の隈廻(くまみ)に標(しめ)結へ我が兄(せ)
※万葉の昔、穂積皇子はこの道を志賀の山寺へと、トボトボと歩まれたのでしょうか!!
by barakan1 | 2005-12-23 17:05 | 旅日記

楽浪の志賀・大津京の古墳・古社寺探訪(05.12.16)⑥百穴古墳群・・・

a0016431_18505737.jpg●志賀越えの道

■百穴古墳群(ひゃっけつこふんぐん)
際川の谷口部の北側、南北150メートル、東西250メートルの範囲に広がる古墳群で、現在60数基が確認されていますが、埋没したものなどを加えると100基以上になると推定されます。いずれも横穴式石室を内部主体とした小円墳で、直径は10メートル前後。石室の構造や出土品から、朝鮮からの渡来人が葬られたと考えられます。

●入口からの風景(大石がゴロゴロしています)
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●横穴式石室群の一部
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※現在は一部が竹薮となっているが、木々が繁り薄暗く、ヒンヤリとして、チョット背中がゾクッとしました。考えてみれば、昔の墓場の中をウロチョロと歩き回っているんですものね!!
by barakan1 | 2005-12-22 19:00 | 旅日記

楽浪の志賀・大津京の古墳・古社寺探訪(05.12.16)⑤南滋賀町廃寺跡~榿木原遺跡~・福王子神社・・

■南滋賀町廃寺跡國(みなみしがちょうはいじあと)
大津宮を探る一環として戦前に二度の発掘調査が行われ、ここが白鳳期創建の壮大な寺院跡だということがわかりました。この調査では、東塔、西塔、金堂、講堂、食堂などの主要伽藍が検出され、また、南・東・西の回廊が見つかったことから、中門の位置も推定され、三面僧房の形をとる飛烏川原寺とよく似た伽藍配置の寺院であることがわかりました。東塔・西塔・金堂は、基底部に割石を並べ、その上に瓦を積み上げた美しい瓦積基壇の上に建っていました。出土瓦などから、この寺院跡は平安時代末期まで存続したようです。
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この寺院跡からは通称サソリ文瓦と呼ばれる特殊な蓮華文方形軒瓦や平安時代の瓦が多く出土しています。

■榿木原遺跡(はんのきはらいせき)
南滋賀町廃寺跡の西方に隣接する瓦窯跡。調査の結果、大津宮時代に操業された登窯5基、奈良から平安時代の平窯5基、瓦製作工房と考えられる建物、瓦の原料の粘土溜などが見つかり、寺院に付属する瓦工房の詳細が明らかになりました。登窯1基は移設され常時見ることができます。
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■福王子神社(古墳群)
紀貫之を祭神とする福王子神社境内にある15基からなる古墳群ですが、気が付きませんでした。残っているのは、どれも破壊が著しいく天井石が1枚かろうじて残っている石室を見ると規模の割に背の高い石室のようです。
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by barakan1 | 2005-12-21 15:07 | 旅日記

楽浪の志賀・大津京の古墳・古社寺探訪(05.12.16)④近江神宮・・・

■近江神宮(大津宮址に鎮座する)
●参道正面(一の鳥居)              ●参道(二の鳥居)
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近江神宮前駅北方の森にあります。祭神は天智天皇(626-671)。皇紀2600年を記念して、昭和15年(1940)に大津京にゆかりの深いこの地に創建されました。近江造と呼ばれる新しい様式で、山腹に本殿・祝司殿・中門・内拝殿があります。
●楼門(真新しい朱色が眩しい)
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●外拝殿
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●内拝殿(外拝殿より見る)
拝殿の陰になり本殿は見えません。(屋根の一部が少し見えるだけです)
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都を飛鳥より、ここ大津宮に移した時、飛鳥よりの引越しの途中に、詠われた歌があります。
額田王の近江国に下りたまへる時よみたまへる歌
巻1-0017 
味酒(うまさけ) 三輪の山 青丹(あをに)よし 奈良の山の
山の際(ま)ゆ い隠るまて 道の隈(くま) い積もるまてに
つばらかに 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)かむ山を
心なく 雲の 隠さふべしや
反し歌
巻1-0018 
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠さふべしや
     右ノ二首ノ歌、山上憶良大夫ガ類聚歌林ニ曰ク、近江国
     ニ都ヲ遷ス時、三輪山ヲ御覧シテ御歌ヨミマセリ。
     日本書紀ニ曰ク、六年丙寅春三月辛酉朔己卯、近江ニ都
     ヲ遷ス。
※唱和5年の創建というからまだ60数年しか経ってていませんが、なかなかに風格のある神宮です。湖と山の取り合わせがマッチして明るさの中にも、厳かな雰囲気があります。
by barakan1 | 2005-12-19 22:45 | 旅日記

楽浪の志賀・大津京の古墳・古社寺探訪(05.12.16)③近江大津宮・・・

■近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこおりいせき)
近江神宮駅から西へ少し行った所から大津宮遺跡は点在しています。早く荒廃したうえ、交通の要衝で、その上に人家がたち並んだため都の位置すら分らなくなっていたそうです。
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近江の荒れたる都を過(ゆ)く時、柿本朝臣人麿がよめる歌
巻1-0029 
玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原の ひしりの御代よ
生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いや継ぎ嗣ぎに
天の下 知ろしめししを そらみつ 大和を置きて
青丹よし 奈良山越えて いかさまに 思ほしけめか
天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあらねど 石走(いはばし)る 淡海(あふみ)の国の
楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知ろしめしけむ
天皇(すめろぎ)の 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども
大殿は ここと言へども 霞立つ 春日か霧(き)れる
夏草か 繁くなりぬる ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲しも
●大津宮錦織遺跡第1地点
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天智天皇が飛鳥から遷都した大津宮跡とされています。この辺りには早くから人々が住んでいたことがうかがえ、縄文時代の遺物をはじめ、弥生時代から古墳時代初期の方形周溝墓、古墳時代中期から後期の竪穴住居や溝などが検出されています。大津宮に関する遺構としては、昭和58年、巨大な柱を埋め込むための柱穴をもつ建物跡、柵、門、回廊、宮内を仕切る大垣、倉庫群、石敷溝が見つかっています。また、宮の中心となる内裏正殿の建物も検出されています。大津宮の中枢部とされる部分が明らかになったことで、長い間謎だった幻の大津宮の位置がやっと明らかになりました。
反し歌
巻1-0030 
楽浪の志賀の辛崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人(ひと)の船待ちかねつ
巻1-0031 
楽浪の志賀の大曲(おほわだ)淀むとも昔の人にまたも逢はめやも
●大津宮錦織遺跡第8・2地点
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高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が近江の堵(みやこ)の旧(あ)れたるを感傷しみよめる歌
●大津宮錦織遺跡第9・7地点
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巻1-0032 
古の人に我あれや楽浪の古き都を見れば悲しき
巻1-0033 
楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも
※写真でも分る通り、古都のイメージは全くありません。住宅で埋まっていますので発掘もままならないでしょうめ・・・。一部分でも発掘でき、その場所を特定できたのは幸いだったと言えるでしょう。それにしても、住みなれた飛鳥を離れどうして、遠い遠い近江の大津に京をうつしたのでしょうか!?
by barakan1 | 2005-12-18 14:27 | 旅日記

天智天皇陵&楽浪の志賀・大津京の古墳・古社寺探訪(05.12.16)②天智天皇陵 「挽歌」・・・

■天智天皇(陵)
第38代天皇 在位(668-671)。父は舒明天皇、母は皇極(斉明)天皇。名は葛城(カツラギ)・中大兄。諡名(贈り名)は天命開別天皇(アメミコトヒラカスワケノスメラミコト)。
藤原鎌足と共に大化改新において蘇我入鹿を暗殺した。政変後即位した孝徳天皇、斉明天皇のそれぞれ皇太子となり、国政に関わった。660年、母斉明天皇の死に伴い、称制(「制を称す」の意で、天皇に代わって臨時に国政を決済する事)し、668年、正式に即位し、都を大和国飛鳥(奈良県)の地から、近江国大津(滋賀県)に遷し、近江令の制定等をした。改革推進に当たり反対派の古人大兄皇子・有馬皇子らを殺害する。 弟の大海人皇子(天武天皇)を政権から除外し子の大友皇子 を太政大臣とするが、大海人皇子は吉野に隠棲し難を逃れ、 天智死後大友皇子を排除する(壬申の乱)
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天皇の聖躬不豫(おほみやまひ)せす時、大后(おほきさき)の奉れる御歌一首
巻2-0147 
天の原振り放け見れば大王(おほきみ)の御寿(みいのち)は長く天足(あまた)らしたり
    一書ニ曰ク、近江天皇ノ聖体不豫ニシテ、御病
    急(ニハカ)ナル時、大后ノ奉献レル御歌一首ナリト。
●御陵入口日時計、制札
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天皇の崩御(かむあがりま)せる時、〔倭〕大后のよみませる御歌二首
巻2-0148 
青旗の木旗(こはた)の上を通ふとは目には見ゆれど直(ただ)に逢はぬかも
巻2-0149 
人はよし思ひ止(や)むとも玉蘰(たまかづら)影に見えつつ忘らえぬかも
●御陵参道
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天皇の崩(かむあがりま)せる時、婦人(をみな)がよめる歌一首 姓氏ハ詳ラカナラズ
巻2-0150 
うつせみし 神に勝(た)へねば 離(さか)り居て 朝嘆く君
放(はな)れ居て 吾(あ)が恋ふる君 玉ならば 手に巻き持ちて
衣ならば 脱く時もなく 吾(あ)が恋ひむ 君そ昨夜(きそ)の夜(よ) 
夢(いめ)に見えつる
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天皇の大殯(おほあらき)の時の歌四首
額田王
巻2-0151 
かからむと予(かね)て知りせば大御船泊てし泊に標(しめ)結はましを 
舎人吉年
巻2-0152 
やすみしし我ご大王の大御船待ちか恋ふらむ志賀の辛崎 
●天智天皇陵
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大后の御歌一首
巻2-0153 
鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海を
沖放(さ)けて 榜ぎ来る船 辺(へ)付きて 榜ぎ来る船
沖つ櫂 いたくな撥(は)ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ
若草の 夫(つま)の命(みこと)の 思ふ鳥立つ
石川夫人(いしかはのおほとじ)が歌一首
巻2-0154 
楽浪(ささなみ)の大山守は誰が為か山に標結ふ君も在(ま)さなくに

a0016431_140502.jpg山科の御陵(みささぎ)より退散(あが)れる時、額田王のよみたまへる歌一首
巻2-0155 
やすみしし 我ご大王の 畏きや 御陵(みはか)仕ふる
山科の 鏡の山に 夜(よる)はも 夜(よ)のことごと
昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや
ももしきの 大宮人は 去(ゆ)き別れなむ

※山科は京都の住宅街として、今は住宅がビッシリ建て込んでいます。御陵も遠望は出来ず、まじかで見るだけです。その為か、奈良あたりの御陵と感じが違います。奈良の方は昔から連綿と続いているのだなぁという実感がありますが・・・。ここではそんな感じはありませんでした。
結構昔から開けた場所だったからでしょうが!!(中へ入ってしまえば、そうでもありませんが・・・)
by barakan1 | 2005-12-17 14:27 | 旅日記